忍者ブログ
  • 2024.02
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2024.04
あじさい街道が古代官道跡の可能性は?
 高知市春野町西分の旧春野町庁舎跡などで 2023 年 6 月 4 日(日)、「第 35 回はるのあじさいまつり」が開かれた。水路沿いに植えられた約2万本のアジサイを見るために多くの人が集まった。6月中旬頃まで楽しめる予定だ。
  まつりのメインとなる「あじさいウォーク」では「あじさい街道」と呼ばれる水路沿いの道を歩く。ふと、この道が古代官道のルートと関係していないだろうかとの考えが浮かんだ。奈良時代以前の古代官道は道幅が広すぎる。コストパフォーマンスが悪くて維持費がかかりすぎた。平安時代以降には道幅も狭められ、道が削られて畑に変わったところもある。
 「あじさい街道」は道に沿って水路があり、遊歩道があって、あじさいが植えられている。車道+水路+遊歩道。古代官道の道幅を復元するには十分な感じがする。

 一方、『長宗我部地検帳』によると春野町には「大道」地名が連なっている。それを復元して地図上にマッピングした図が『春野町史』に掲載されている。正確な位置が判断しずらいところもあるが、比較してみると「あじさい街道」よりは南を通っていたようだ。おそらく横川末吉氏の研究の成果であろう。


 ただし、『長宗我部地検帳』の「大道」がそのまま古代官道と重なるとは限らない。あくまでも長宗我部時代の幹線道路を示すものであり、古代までさかのぼることができるかどうかは別の論証が必要なのだ。
 718年以前においては伊予―土佐をつなぐ古代官道が存在したと推測されているが、それがどこを通っていたかについての発掘による手がかりなどは、この方面に関しては見つかっていない。ただし、郡家や古代寺院、一宮・二宮・三宮などの位置関係が推測のヒントになる。そして春野町に残された「大道」地名のライン。これは春野町西分の大寺廃寺と土佐市高岡町の野田廃寺をほぼ一直線に結ぶルート上に並んでいる。この2つの古代寺院跡から出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、7世紀頃の創建とされる。
 県下で最古級とされる2つの白鳳寺院を古代官道が結んでいた可能性は少なからずありそうだ。「あじさいウォーク」では折り返し地点となる仁淀川の近くはかつて渡し場があった場所でもある。仁淀川を渡って南西に数百メートル行けば野田廃寺跡。さらに詳しく調べてみる必要がありそうだ。

拍手[0回]

PR
【2023/06/08 23:43 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
牧野富太郎が天狗と出会った金峰神社(高岡郡佐川町甲)
 連続テレビ小説『らんまん』で、主人公・槙野万太郎が幼少期の頃、裏山の神社の境内で天狗の坂本龍馬と会う。ドラマで描かれているのは、慶応3年(西暦1867年)3月の土佐・佐川だ。この頃、史実では下関に滞在していたとされ、第3回では迎えに来た別の侍が「何やりゆうがですか、下関におることになっちゅうがですき」と龍馬を諫めるシーンも盛り込まれている。

 「龍馬は作り話ですけんど、天狗のほうは本当に居りました」と、牧野富太郎の生家を案内する地元の観光ガイドは語っていた。生家の近くにある龍淵山・青源寺十三世「愚仲(ぐちゅう)和尚」のことのようだ。明治初頭の苛酷な廃仏毀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。裏山で遊ぶ富太郎らに、目玉をくらわせたこともあり、幼い頃の牧野博士に影響を与えた人物とされる。

 その舞台となった肝心の裏山の神社とは? 生家の脇から登る階段があった。久しぶりの山登りで境内に上がるまでに完全に息が切れてしまった。身体の弱かった富太郎を鍛えてくれた場所でもあったようだ。

 高岡郡佐川町甲の金峰神社(伊奘冉命、外三神)の境内には「文化十三年丙子(1816年)」の年号が刻まれた灯籠も残されている。江戸時代は「午王宮」「産土神社」などと呼ばれていたらしい。「私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土神社のある山に登ってよく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている」と『牧野富太郎自叙伝』にも記されている。
 
 
 

拍手[2回]

【2023/05/08 12:28 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
「番匠」地名は古代にさかのぼれるか
 『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(2020年12月)に続いて『中世土佐国 長宗我部氏に関する論文集』を著した朝倉慶景氏が、『土佐史談282号』(土佐史談会、2023年3月)で「番匠」について書いている。「長宗我部地検帳にみる職種の人(20)ーー番匠・屋番匠ーー」と題する論考である。この「長宗我部地検帳にみる職種の人」シリーズも、本にまとめて出版してほしいとの要望が多数寄せられているという。

 さて、長野県に多数の番匠地名が見られることから、古代の番匠制度に由来する地名であるとする説(「科野・『神科条里』① ―『条里』と『番匠』編―」)を吉村八洲男氏が発表している。この番匠地名は上田市周辺で60程度、江戸期の検地帳に見られるものだという。
 これに対し、高知県ではおなじみの『長宗我部地検帳』は戦国末期(16世紀末)であるから、少し古い時代になる。その中には職業名としての「番匠」が数多く見られる。適当に開いただけで、わりとすぐに「番匠〇〇」という形で、主に名請人の場所に記載されている。後ろに人名が続くことから、多くは無姓者に冠した職業名であると考えられる。姓の可能性がないわけではないが、「舟番匠」といった例もあり、また「番匠 岡野源四良給」(幡多郡山田郷平田村地検帳)と有姓者にも冠されている事例を見ても、職業名とすることに、ほぼ異論はない。
 「番匠には有姓・無姓を問わなかったようで、その番匠とはどのような職種の人だろうか。それは番の工匠の意味で、『番』とは一週間または十日間で交替して、領主に奉公する中世の人間を本位とした集団を意味しており、その中の手工業者を指し、さらに主として建築職人とみてよかろう。即ち番匠は中世の建築工で、現在の建築大工に相当する」と朝倉慶景氏はまとめている。
 では、近世(江戸期)の検地帳に「番匠免」「番匠田」などと書かれている地名は何を表すのだろうか。中世における「番匠」の使用例を見ている研究者から見れば、中世の職業「番匠」に関連した給地または居住地域などが地名化したものと考えるのが自然である。このような観点を退けて、古代の番匠制度に結びつけるには、かなり高いハードルがあるように感じる。
 ただし、「番匠」という語は古代から使用されており、中世における「番匠」とは多少違った意味での古代の番匠制度が存在していたようである。古代における「番匠」とは「王朝時代に諸国から京都に交代勤務した木工の称」と説明されている。愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』に、次の記事があることを正木裕氏が指摘している。
 「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二(六四八)戊申」
 この記録を信頼するなら、その始まりは7世紀半ばということになる。しかし、古代における「番匠」の使用例は少ない。阿部周一氏が「『古記』と『番匠』と『難波宮』」(『古田史学会報No.143』)で古代番匠制度に相当する記述があることを指摘している。ただし、大和朝廷内では「番匠」という表現は使用されなかったかのようにも映る。
 はたして、長野県における「番匠免」「番匠田」などの地名は、古代あるいは中世、どちらの「番匠」に由来するものだろうか。隣りの岐阜県不破郡表佐村に「苅屋免」「番匠免」「大領免」などの地名がある。「免」は免田で、免税の田のことを表す。古代の郡司職に関連すると思われる「大領免」があることから、もしかしたら「番匠免」も古代由来かも、という連想は考えられなくもない。研究を深めていったら面白そうだが、いずれにしても、しっかりとした根拠に基づく論証が求められそうだ。


拍手[1回]

【2023/04/23 04:28 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(1)
吾川郡「いの大黒さま」椙本神社の春の大祭
 いの町といえば映画『竜とそばかすの姫』の舞台にもなったJR伊野駅。そこから徒歩15分ほど行った仁淀川の近くに、歴史ある椙本神社が鎮座する。2023年2月12日(日)は、「いの大黒さま」と親しまれる椙本神社の春の大祭が行われていた。
 しばらく引きこもりがちであったが、久しぶりに出かけてみると、道沿いに屋台が立ち並んでいる。「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、何か神様から呼ばれたような感覚だった。
 毎年2月に行われる椙本神社の春の大祭は土佐三大祭りにも数えられている。笹の枝に絵馬や小さな俵をくくりつけた福笹が名物で、朝から地元の人たちが去年の福笹を手に次々と訪れ、奉納しては新しい福笹を買い求める。
 参拝者は古くから伝えられている福俵を手に、福をいただきその年の幸せを祈願する。7段飾りの雛人形を背景に福を呼び込む神楽「大国主の舞」は、すでに奉納された後であったが、夕方訪れたときには獅子舞を観ることができた。

 
 テレビニュースでも祭の様子が報道されていたようで、「福銭はもらってきた?」と聞かれたが、持ち帰ったのは屋台で買った大判焼き。抹茶、チーズベーコンなどの変わり種の餡入り。
 「福銭」というのは、神楽「大国主の舞」で稲穂や小づちを担いだ2体の神が五穀豊穣や一家の円満を願って舞い踊った後に配布するもの。訪れた人たちが向こう一年幸せに暮らせるようにと、祈願した小銭が入った袋のことらしい。
 小銭は逃してしまったが大判ゲットで良しとすべきか。


拍手[1回]

【2023/02/12 22:29 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
初日の出を長良川で見ながら初詣ーー大垣市墨俣町の白髭神社
 遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 長良川の堤防から初日の出を見ながら、白髭(しらひげ)神社(岐阜県大垣市墨俣町)で2023年元旦の初詣。岐阜県長良川沿いには複数の白髭神社が鎮座しているようです。案内板には次のように説明してあります。

白髭神社

(祭神) 猿田彦命

 もとは白髭大明神と言い、社家今村氏が代々務めていたという。寛文七年(一六六七年)と天和二年(一六八二年)の文書に大明神とあって、明治七年(一八七四年)に白髭社として届け、 明治一二年(一八七九年)に村社となった。続いて明治一三年 (一八八〇)には白髭神社として神社明細帳に記された。 白髭神社は舟運の無事を祈って建てられた神社であって、長良川沿いには多い。

▲大垣市墨俣町・白髭神社

 ここは美濃国安八郡式内社の荒方神社(荒方明神)の論社の一つです。元々の位置は現在の犀川河川敷であり、本巣郡と安八郡の境に存在したといいます。墨俣城の北に位置し、境内は一夜城址公園の一部となっています。元日のこの日、公園内で羽根突きをしている姿が見られました。
 東隣りにある境内社は豊国神社。これは墨俣城の模擬天守閣(大垣市墨俣歴史資料館)が築かれた際、大阪城公園の豊國神社から分祀したそうです。なお、大阪の豊國神社の祭神は豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長ですが、豊国神社に分祀された祭神は豊臣秀吉のみとのこと。
 初日の出に集まった人々に、地元の方が2023年の干支である兎のストラップを配っていました。新年早々、福を分けていただき、有難い一年のスタートとなりました。



拍手[1回]

【2023/01/18 18:50 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
土佐物部氏⑤――末久儀運著『物部氏の伝承と土佐物部氏』
 前回紹介した徳島県との県境の町、香美市物部町(旧物部村)は平家伝承が残る地域であり、延喜式内社・小松神社もあることから、古代にさかのぼる歴史を持っていることは確かだ。折しも11月23日は小松神社のお祭りで、小松姓の方もしくは小松と縁のある方達が毎年集まり、先祖を祀る行事を行っている。
 高知県の小松姓を名乗る者、ほとんどが平家の落人の子孫と言われたりするが、藤原氏や橘氏とする異説もある。物部川源流域に住む人々のルーツについては、家系図や伝承以上の確かな根拠についてはよく知らない。
 土佐物部氏についても、これまでは平家伝承の類と同様に根拠不明瞭なものと思い込んでいて、足を踏み込めずにいた。その先入観を打ち砕いたのが『物部氏の伝承と土佐物部氏』(末久儀運著、1998年)という本であった。土佐史談会の在庫処分の際、安く売り出されていたのだが、私が買いに行った時はすでに売り切れ。この本の価値を熟知しておられる方が多かったと見える。

 さて、物部川の東に香宗川が流れている。この川をさかのぼる香美郡の広域にかつて大忍庄が存在していた。この中世荘園に関わる土佐物部氏について『物部氏の伝承と土佐物部氏』は、物部清藤氏・物部末延氏をはじめとして、その他に末久・末清・正延・国弘・国末・正弘・延清・延吉(信吉)・国吉・国包・包吉・包石・常石等がある、としている。その根拠として『安芸文書』や『土佐国蠧簡集(とかんしゅう)』等の史料を用いており、そこには「物部〇〇」と署名した書状が残されているのだ。
 彼らはそれぞれの土地における名主として、地名を名字として名乗った。例えば清藤名の名主職に清藤物部守助が任命された永和弐年(1376)の下知状などが紹介されている。「この他にも物部氏ではないかと考えられる名主達があるが、これらには残された文書等がないので言及しえなかった」と末久儀運氏は慎重を期している。
 先に列挙した氏族は住み着いた土地の名を名字としながら、現代にも血脈をつなげつつ、過去にさかのぼれば古代の土佐物部氏に端を発していると考えてよさそうだ。よって、現代の高知県において物部姓は約10人と少数であっても、実際には土佐物部氏の後孫はかなりの数、存在しているという事実が明らかとなったのである。
 「本姓と名字は異なっている場合が多い」――このシンプルな命題は、古代氏族を研究する上で忘れてはならない重要なポイントとなりそうだ。




拍手[3回]

【2022/11/26 00:10 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
土佐物部氏④ーー香美郡物部村(現・香美市物部町)地名問題
 高知県の地名に通じておられる方なら、かつての香美郡物部村(ものべそん)、および現在の香美市物部町はどうなのかと疑問を持たれるかもしれない。もちろん古代物部氏と関係がないのかという点についてである。
 物部川上流域の徳島県との県境にある集落で、地名だけからイメージすると、何か関係がありそうに思える。しかし、これまでも言ってきたように、その地名がいつ成立したかという点の確認がまず第一に必要である。
 念のため調べてみると、1956年(昭和31年)に香美郡槙山村、上韮生村が合併し、物部村が発足。『物べ村志(物部村史)』(松本実編、昭和38年)によると、清流物部川になぞらえて村名を「物部」と定めたとある。2006年(平成18年)に香北町・土佐山田町と合併して香美市となり、現在の香美市物部町に至っている。
 残念ながら昭和に始まった地名であり、古代どころか、中世・近世にもさかのぼれない。だからと言って、古代の土佐物部氏と全く無縁かというと、そうも言い切れない。この地域が物部氏の伝承を伝える場所であり、それにちなんだ命名であったからこそ、住民の合意も得られたのだろう。
 少し整理しておこう。①8・9世紀に有力な土佐物部氏の存在が確認される。②『和名類聚抄』に香美郡物部郷(物部川下流付近か)が記録されている。③鏡川が物部川と呼ばれるようになる。④物部川になぞらえ物部村(物部川上流)が誕生。
 現在「鏡川」といえば、映画『竜とそばかすの姫』でもよく映し出される高知市内を流れる川を指すが、古くは物部川のことを「鏡川」と言っていた。それが土佐物部氏が開拓し、生活の場としたことによるものだろうか。いつしか物部川の名が定着していったようである。

 けれども土佐物部氏により関係の深い川と言えば、むしろ香宗川ではなかろうか。『香我美の地名考 新版』(山本幸男著、平成11年)を見ると、東川地区の山川の地名に関して、「山川氏の遠祖は、古来武士集団の象徴的存在であった物部氏だと言われています。近くにある石舟神社はこの物部氏の先祖神とされています。……現在の、清藤・末延・正延・別役姓など、みんな物部氏の末裔だといわれています。……香宗川の源流と言える、別役部落から正延・末清・末延・山川へまさに『やまかわ』の地名にふさわしく……」とある。
 『土佐言葉 香南の歴史 遠近掘り起こし帳』(野村土佐夫著、2021年)などにも、土佐物部氏の末裔について同様のことが書かれている。ある面、地元ではよく知られていることのようだが、どこまで信頼できるのだろうか。これらが何を根拠としているのかなど、さらに突き詰めて調べてみたい。

拍手[3回]

【2022/11/23 16:49 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
土佐物部氏③ーー現代の物部さんは古代氏族につながるのか?
 現代日本における姓の分布を検索できる『名字由来net』という便利なサイトがある。それによると、高知県には物部氏がたったの10人程度。前回論じたように、8・9世紀には香美郡の中心的地位にあって、繫栄していたことが『続日本紀』や『日本後紀』からも伺える古代の土佐物部氏であったが、今や衰亡し、その後孫はわずかしか残っていないということなのだろうか。
 また、全国の物部氏について調べると、都道府県別ランキングは次のとおりである。

物部さんの多い地域 TOP5

  都道府県 人数
1位 岡山県 およそ360人
2位 京都府 およそ300人
3位 福岡県 およそ200人
4位 東京都 およそ130人
5位 大阪府 およそ120人
 これは古代氏族である物部氏の出身地や拠点とした地域を反映したものだろうか。また、現在物部姓を名乗っておられらる方々は古代物部氏の後孫と見なしてよいものだろうか?
 『ヤフー!知恵袋』で丁度、同じような質問があった。「今いる物部という名字は、古代の物部氏の子孫と考えていいのですか」。ベストアンサーは「だめです。 古代の物部氏の『物部』は『氏』又は『姓(せい)』、今の物部さんの『物部』は名字です」とのこと。「もともと名字は同姓の中でより細かく区別するために生まれたものなので、姓と同じ名字を名乗ったら意味がないから」とも説明されていた。
 このことは先だってより、日野智貴氏が警鐘を鳴らしていたテーマである。「近代初期の本姓と古代の氏族」と題する研究発表に触れて、その意味するところがよく分かってきた。日野氏の動機とするところは、次の2点である。
 ①古田学派における氏族研究がその必要性を理解されながらも進んでいなかったという事実。
 ②古田学派内部において本姓と名字を混同する論文が見られたこと。
 誤った研究方法によっては、正しい結論に至ることはできない。日野氏は明治初期の『職員録』に記載されている本姓と名字を対比したところ、本姓と名字が一致しているケースは1%に満たないというデータを紹介している。さらに研究を深めていく必要はあるが、通常「本姓と名字は異なる場合が普通で、一致している方が例外的である」との傾向性は示されたと言えるだろう。

 すなわち、現在の物部さんを調べても、古代氏族の物部氏の後孫であるという可能性は極めて低いというわけだ。その多くは古代の物部氏にあやかってつけたか、もしくは居住した地名を名字として名乗ったとするのが一般的なのだ。実際に「物部」という地名は全国にいくつも存在しているし、高知県においても物部川下流に、かつての物部郷に由来する物部地区がある。
 そうなると一見、土佐物部氏につながるルートが断たれてしまったかに見える。しかしながら、幸いにも高知県には中世において本姓「物部」を名乗った人々の記録が残っていた。物部を本姓とした一族はどのような名字を名乗り、現在に至っているのだろうか。次回はそのような視点で中世の史料を紐解いてみたい。



拍手[2回]

【2022/11/18 00:08 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
土佐物部氏②――『続日本紀』『日本後紀』に見える8・9世紀の記録
 土佐の物部氏が歴史の上に登場するのは、奈良遷都――「なんと(710年)見事な平城京」――から4年後の元明天皇の和銅七年(714)5月のことである。
癸丑、土佐国の人、物部毛虫咩、一に三子を産みて、穀四十斛并乳母を賜る。(『続日本紀』)
 三つ子を産んだ物部毛虫咩(もののべのけむしめ)の多産を寿(ことほ)ぐ記事である。「土佐国の人」とあるので、その時点で、土着して長い歴史を持っていた土佐物部氏と考えられる。おそらく古墳時代にはすでに土佐国に拠点を構えていたのではないか。
 その居住地としては物部川流域、現在の香美郡であろうと考えられる。香美郡の初出記事に、郡領として物部鏡連が登場する。物部鏡連は、香美郡の物部郷に置かれた物部の伴造だったと考えられ、『日本後紀』延暦二十四年(805)5月条には香美郡少領の物部鏡連家主の名前が見える。なお、香美郡には物部文連もおり、『日本後紀』弘仁元年(810)正月には家主の妻として物部文連全敷女の名前が見える。

 承平年間(931~938年)に編纂された『和名類聚抄』によると、土佐国香美郡8郷の1つに物部郷という地名が見える。伊勢本・東急本の訓は「毛乃倍」。『土佐幽考』は「物部河〈鏡川下流〉の西にあり」とし、『地名辞書』は「今三島村是なり、岩村郷の南にして、即ち物部川の西岸なり」とする。物部川下流右岸の地に物部集落があるので、この物部を中心とした旧三島村一帯が郷域であろう。現在の地図でいえば、高知龍馬空港の北側辺りになる。物部川そのものが遺称地でもあり、土佐国内で物部氏関連地名として明確なのはここだけになる。
 この8・9世紀頃における土佐物部氏の存在は史料的に見てもほぼ疑いえないものであろう。問題はいつごろ、何のために土佐にやってきて、その後どうなっていったかという点である。


拍手[2回]

【2022/11/12 23:07 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
土佐物部氏①プロローグーー物部川下流右岸の南国市物部
 アイドルグループ「ももいろクローバーZ」の高城れにさん(29歳)が日本ハムの宇佐見真吾捕手(29歳)と結婚することを11月6日、発表した。宇佐見選手は球界屈指のモノノフ(ももクロのファン)で、ファンがトップアイドルと結婚する“推し婚”として注目されている。
 「モノノフ」について、次の3つの意味が『実用日本語表現辞典』に記されていた。
(1)「武士」の読みの一種。武道を修めた戦士を指す語。
(2)「物部」の読みの一種。ニギハヤヒミコトを祖神とし、飛鳥時代前後に栄えた豪族。
(3)カタカナ表記で「モノノフ」と表記する場合は、女性アイドルグループ「ももいろクローバーZ」のファンならびにライブの観客を指すことが多い。
 ここでは(3)ではなく、(2)の「物部」、とりわけ高知県の土佐物部氏についてスポットを当ててみたい。まずは『日本姓氏語源事典』から引用しておこう。

【物部】

岡山県、京都府、福岡県。モノノベは稀少。職業。物を司る部民から。推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。高知県南国市物部は平安時代に記録のある地名。

 平安時代に記録のある地名「南国市物部」というのは『和名類聚抄』の香美郡物部郷のことであろうか。物部川下流右岸、現在の高知龍馬空港の近辺と考えられている。ここは弥生時代最大級の集落であった田村遺跡に隣接する場所でもある。また、紀貫之の『土左日記』に登場する「おおみなと(大湊)」については諸説あるが、最新の説(
朝倉慶景氏「土左日記にみる『おおみなと』について」『土佐史談275号』土佐史談会、2020年11月)では物部川河口右岸、高知龍馬空港の南辺付近に比定している。古代における海上交通の拠点であったことが分かる。
 『日本書紀』などにも登場する古代氏族の物部氏が、古い時代に物部川下流に移り住み、土佐物部氏を形成していったのだろうか。これまで古代史を探求しつつも、古代氏族に関してはあまり触れてこなかった。「君子危うきに近寄らず」ではないが、根拠不明瞭なことを空想だけで論ずることには、多少なりとも抵抗があったからだ。
 けれども土佐物部氏に関しては、少なからず根拠とするところがありそうで、可能な限り踏み込んで調べてみることにしたい。

拍手[3回]

【2022/11/09 12:14 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>