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土佐物部氏①プロローグーー物部川下流右岸の南国市物部
 アイドルグループ「ももいろクローバーZ」の高城れにさん(29歳)が日本ハムの宇佐見真吾捕手(29歳)と結婚することを11月6日、発表した。宇佐見選手は球界屈指のモノノフ(ももクロのファン)で、ファンがトップアイドルと結婚する“推し婚”として注目されている。
 「モノノフ」について、次の3つの意味が『実用日本語表現辞典』に記されていた。
(1)「武士」の読みの一種。武道を修めた戦士を指す語。
(2)「物部」の読みの一種。ニギハヤヒミコトを祖神とし、飛鳥時代前後に栄えた豪族。
(3)カタカナ表記で「モノノフ」と表記する場合は、女性アイドルグループ「ももいろクローバーZ」のファンならびにライブの観客を指すことが多い。
 ここでは(3)ではなく、(2)の「物部」、とりわけ高知県の土佐物部氏についてスポットを当ててみたい。まずは『日本姓氏語源事典』から引用しておこう。

【物部】

岡山県、京都府、福岡県。モノノベは稀少。職業。物を司る部民から。推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。高知県南国市物部は平安時代に記録のある地名。

 平安時代に記録のある地名「南国市物部」というのは『和名類聚抄』の香美郡物部郷のことであろうか。物部川下流右岸、現在の高知龍馬空港の近辺と考えられている。ここは弥生時代最大級の集落であった田村遺跡に隣接する場所でもある。また、紀貫之の『土左日記』に登場する「おおみなと(大湊)」については諸説あるが、最新の説(
朝倉慶景氏「土左日記にみる『おおみなと』について」『土佐史談275号』土佐史談会、2020年11月)では物部川河口右岸、高知龍馬空港の南辺付近に比定している。古代における海上交通の拠点であったことが分かる。
 『日本書紀』などにも登場する古代氏族の物部氏が、古い時代に物部川下流に移り住み、土佐物部氏を形成していったのだろうか。これまで古代史を探求しつつも、古代氏族に関してはあまり触れてこなかった。「君子危うきに近寄らず」ではないが、根拠不明瞭なことを空想だけで論ずることには、多少なりとも抵抗があったからだ。
 けれども土佐物部氏に関しては、少なからず根拠とするところがありそうで、可能な限り踏み込んで調べてみることにしたい。

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【2022/11/09 12:14 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
『奈良新聞』に「九州王朝説」の紹介記事
 邪馬台国畿内説のお膝下ともいうべき奈良県の『奈良新聞』が九州王朝説を紹介するようになってきた。日本では放送法第4条に「意見が対立している問題については、出来るだけ多くの角度から論点をあきらかにすること」と明記されている。新聞については特に法の定めはないが、日本新聞協会が定めた新聞倫理綱領に「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」との記述がある。
 古田武彦氏が発表した九州王朝説は、これまで学会ではほとんど無視されてきたきた側面が強く、メディア等でも取り上げられることは少なかった。その風向きが変わりつつあるようだ。
奈良新聞 令和4年(2022年)8月4日(木)に「『古代史の争点』出版記念講演会NARA 2022」を掲載


奈良新聞 令和4年9月22日(木)に「壬申の乱と隠された九州 — 英雄に祭り上げられた天武 正木裕」を掲載
<2022年8月23日(火)、古代大和史研究会での正木氏講演動画>
PDF形式で奈良新聞の記事を掲載(大きさはA3)


 「壬申の乱と隠された九州~英雄に祭り上げられた天武 大阪府立大学講師の正木裕氏が講演」と題する奈良新聞(2022年9月22日)の記事中に紹介された九州王朝説を以下に引用しておく。

◇倭国(九州王朝)の始まりから滅亡までの略史

九州王朝なる言葉の説明も正木氏の言葉を引用し要約・解説しておく。

【①倭人の登場】

 紀元前11~10世紀倭人が周王朝へ朝鮮の箕子を仲介とし朝貢。鬯草を献じ「昧(舞)」を奉納した。
 ―『論衡』に「周の時、天下太平にして、倭人来たりて鬯草を献ず。玄菟楽浪。武帝の時、置く。皆朝鮮・穢貊・句麗の蕃夷。殷の道衰え、子去りて前 絆にく 其の民に歌うるに礼 とある。つまり、紀元前10世紀頃箕子が朝鮮候となり、儀礼や水田耕作・織物技術を教えた。
 ―『礼記』に「昧(マイ)(舞) 東夷の樂なり。…夷蠻の樂を(周公の) 大廟に納む」とある。
 ―『後書』に「(倭奴国の)人自ら大夫と称す」とある。「大夫」は夏、殷、周の官制で、周代で断絶しているのに、後漢の時代になっても、未だに使っている律義さに驚いて記録されている。 

【②九州王朝の始まり】

 紀元前2~3世紀頃朝鮮海峡を拠点とする青銅の武器を携えた勢力が、北部九州の稲作地帯に侵攻し、従来の統治者出雲(大国)から支配権を奪う。国譲りと天孫降臨として記された。
 ―「吉武高木遺跡群(福岡市西区)」から、我が国で最も早く(BC2世紀ごろ)「三種の 神器(鏡・玉・剣)」が出する。
 ―『古事記』邇邇芸命の降臨地「筑紫の日向の高千穂の久土流多気」に見える「日向」地名は高祖連山の古武高木と怡土平野三雲・井原を結ぶ街道にある。(日向山・日向川など)
 ―邇邇芸命の降臨の言葉「此の地は、韓国に向ひ真来通り、笠沙の御前にして、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、甚だ古き地」は半島との窓口怡土平野に相応しい。
 ―高祖連山に「くしふるやま」もある。「黒田家文書」日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。民家の後に、あるを、くしふる山と云。

【③怡土王都時代】

 紀元前後300年間怡土を拠点に統治した。
―『古事記』には「日子穂穂手見命は、高千穂宮に伍石捌拾歳坐す。御陵は、即ち其の高千穂山の西に在り」とある。
 ―「580年間統治」とは「1年を2歳と計算する2倍年暦」で、実質は約300年。「彦火火出見」の名は「襲名」で歴代の王の称号。
 ―「高祖連山」の西の怡土平野には「三雲・平原・井原」などの王墓の遺跡が300年間続き「三種の神器」遺物が出土し、このことを裏付ける。


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【2022/10/16 21:06 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
『竜とそばかすの姫』ーークジラに乗ったベルと崩れ地名
 主人公すずが仮想空間「U」の世界で、ベルの姿となってクジラに乗って現れた。9月23日秋分の日、延期されていた『竜とそばかすの姫』がついにテレビ放映されることとなった。細田守監督のこの作品が高知県を舞台としていることは広く知られるようになってきたのではないか。『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に13のスポットが掲載されているが、それ以外の隠れスポットもある。
 まずは鯨坂(くじらざか)八幡宮。「おらんくの池にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」とよさこい節に歌われるように、ベルがクジラに乗って登場するシーンは主人公すずが立っている場所が高知県であることを象徴しているかのようだ。実は作品の舞台となる仁淀川流域の佐川町には鯨坂(くじらざか)八幡宮が鎮座している。

▲2021年の佐川町での上映会
 「鯨」の語源は和語の「くじく」「くずれる」「ぐじぐじ」等の意味で、えぐられた崩壊地や湿地のことを表すとされる。例えば、熊本県天草市鯨道は「くずれみち」が訛ったもの。茨城県石岡市鯨岡、福島県いわき市鯨岡なども内陸の崩壊地に関係する地名と考えられている。
 高知県においても『和名類聚抄』に幡多郡鯨野郷が記録されている。これを「いさの」と読んで伊佐地名の残る土佐清水市に比定するのが従来説であった。これに対して「くじらの」と読み、四万十川流域の崩壊地名と考えて四万十市(旧中村市)付近に比定する新説も出されている。
 鯨坂八幡宮の場合はどうだろうか。高岡郡佐川町庄田、古来深尾領佐川郷総鎮守。『八幡荘伝承記』によれば、高北開拓の元祖別府経基が承平二年(932年)、別府の本領安芸郡鯨坂八幡を勧請したという。ところが、この神社名に対応する「鯨坂」という地名が見つからない。
 多くの場合、内陸部の「鯨」地名については、崩れやすい土地や崩壊地に関連する地名と考えてよさそうだが、海岸部に見られる「鯨」地名もそうなのだろうか。長崎県五島市の鯨埼、北海道厚岸町鯨浜、新潟県佐渡市稲鯨、柏崎市鯨波等がある。海のクジラに由来する地名ということはないだろうか。
 鯨漁が始まったのは江戸時代からとされているが、古くから日本人は海岸に打ち上げられたクジラを生活の糧としてその恵みをいただいてきた。そして残った骨を鯨塚に納めて供養したという鯨信仰のようなものも存在する。鯨塚から鯨坂。言葉自体は似ているとも言えるが、この変化は単なる想像に過ぎない。しっかりと検証する必要があるだろう。
 その他の隠れスポットとして、同じ佐川町永野に鈴神社がある。主人公の名前はここからとったのだろうか。一方、いの町には「ベル薬局」なるものも存在するとか。鈴神社の祭神は素戔鳴尊。映画『竜とそばかすの姫』において、Uの世界で暴れまわる竜の存在を連想させる。当地域の産土神。古来中鈴権現と称し当村の総鎮守であった。明治二年鈴神社と改称し、同五年村社に列す。
 さらには歌姫ベルをプロデュースするすずの親友、毒舌眼鏡娘のヒロちゃん(別役弘香)にまつわる別役神社も存在している。まだまだ隠れたスポットがたくさんありそうだ。
 高知県といえば四万十川が有名であるが、細田守監督の『竜とそばかすの姫』では「鏡川」と「仁淀川」が要所要所で描かれる。「川を舞台にしたかったので、美しい仁淀川や鏡川のある高知を選んだ」――高知県がなぜ作品の舞台モデルとして選ばれたかは、この2つの川にインスピレーションを受けたことが理由の一つと語られている。

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【2022/09/23 21:39 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
「大化の改新の詔」には大宝令による潤色があった
 古代における最大の事件といえば、やはり「大化の改新」(645年)であろうか。小・中学生でもだいたい覚えている重要事項の一つである。覚え方はいろいろあるが、次のようなものはいかがだろうか。4項目を一文に盛り込んでみた。

  大化の改新は虫殺しで なかなか そがし
  645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏

 大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。

 大化改新

 充実した国家体制を整えた唐が7世紀半ばに高句麗への侵攻を始めると、国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では、蘇我入鹿が厩戸王 (聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中太兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。そして皇極天皇の譲位を受けて、王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた。
 646(大化2)年正月には、「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策方針が示されたという。全国的な人民田地の調査、統一的税制の施行がめざされ、地方行政組織の「評」が各地に設置されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波宮が営まれた。王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大する中で、中央集化が進められた。こうした孝徳天皇時代の諸改革は、大化の改新といわれる。
 問題は「改新の詔」其の二に登場する「郡」制度が7世紀末でもまだなく、「評」だったことが木簡で明らかになったことだ。坂本太郎と井上光貞との間で行われた、いわゆる「郡評論争」である。それゆえ「大化の改新」、特に「改新の詔」は虚構という説が一時期有力となっていた。
 教科書でも「『日本書紀』が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる」としながらも、「藤原宮木簡などの7世紀代の木簡や金石文に各地の「評」の記載がみられる。また、地方豪族たちの申請により「評」(郡)を設けた経緯が、『常陸国風土記』などに記されている」との注記をしている。
 『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。
 21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。

 


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【2022/09/18 08:03 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
橘姓を名乗った土佐津野氏――津野豊前守橘正忠
 中世土佐の名族津野氏は、家譜によれば913年(延喜十三年)土佐に入国、津野荘を開拓したとするが、地元では元仁元年(1224年)入国説を採用しているようだ。家系図の代数から、10世紀までさかのぼるには無理があるとの考え方が強いためだろう。津野氏は本姓藤原氏、鎌倉期には在地領主として台頭、この荘名を姓としていたことが1333年(元弘3年)には確認できる(潮崎稜威主文書)。
 つまり、土佐津野氏の場合は本姓を藤原とし、地名の津野荘からとって姓(名字)を津野とした。このように武家の姓は中世の地名を由来とする場合が多い。このことは古代氏族のルーツを研究する際に、現在における姓の分布を根拠とすることの危うさを示している。現在使われている姓は中世以降を起源とするものが多く、本姓と名字が一致しているならともかく、そのようなケースは比較的少ないとされている。
 さて、土佐津野氏の場合、本姓は藤原と考えられている。ところがその家系の中で橘姓を名乗った人物がいる。津野豊前守正忠だ。彼は慶長五年(1600年)11月18日死去し、墓地は土佐市高岡の清滝寺(四国八十八箇所第35番札所)の近くにあり、清滝津野氏の始祖と言われ、さらに津野勝興の子息と伝えられている。

 『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(朝倉慶景著、令和2年)に、津野豊前守について、次のような研究が述べられている。
 彼は津野豊前守橘正忠を称し、「橘」は本姓となるが、これは源・平・藤・橘から選んだものと推察される。だが父は一条系母は長宗我部系の人。そのため藤か秦となろうが、それらを排除した形であり、また正忠の名前についても、この時期は父の一字である勝または興を用いるのが通常であった。それにも拘わらず正忠を称しているのは、二十八歳で死去した津野親忠への養子縁組が出来ていたとみるべきであろう。そのことは豊前守の名乗を、長宗我部氏が認めていたことからも言えよう。すなわち「守」は古くに一国の支配者を意味するため、この時期家系または技能集団の「長」がよく用いていた。従って津野親忠の後を受け継いだ人とみてよかろう。
 本来は藤原を本姓とするはずの津野氏が、なぜ橘を名乗ったのであろうか。もしかしたら、橘を本姓としていた可能性はないだろうか。津野吉郎氏の『清滝津野氏の由来』(昭和48年)によると、関ケ原の戦い(1600年)後、津野親忠が長宗我部盛親によって殺害されたため、本姓を秘め橘正忠と称したものと説明されている。
 同様のケースとして、源氏の流れを汲むとされる吉良氏が荒倉神社(高知市春野町)の棟札に、「源」でなく「大檀那平親貞」「平朝臣吉良千熊丸」などと「平」姓で記録されている。これらを単なる誤りとしてよいのか……。
 これだけでも興味深い研究対象であるが、古代氏族等について研究する場合、このような姓の変遷をたどり、本姓を正しく確認することが不可欠となってくるだろう。


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【2022/09/03 09:09 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
侏儒国の縄文―弥生時代の不連続問題と文字使用
 『古田史学論集第12集 古代に真実を求めて』(古田史学の会編、2009年)に古田武彦氏の研究論文「生涯最後の実験」が掲載されている。その中に研究実験上の先例として、高知県の土佐清水での実験「報告書」(土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書1995年土佐清水市教育委員会発行)のことが、次のように要約されている。
 第一、土佐清水市の足摺岬周辺には広汎な巨石遺構が存在する。三列石(鏡岩)、亀形巨石、男根型巨石、暦石型巨石、ストーン・サークル状巨石等である。
 第二、いずれも人工的、人為的形状をもち、到底大自然の中の自然分布とは認められぬ様態をもつ。
 第三、この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している。
 第四、従って右の巨石遺構は縄文時代における「構築物」と見なさざるをえない。
 第五、この地帯(足摺岬)は黒潮が北上し、この地帯の断崖(臼碆〈ウスバエ〉)に衝突する。日本列島と黒潮 唯一の“衝突の場”となっている。
 第六、もし黒潮に乗じた舟、あるいは筏がそのままこの断崖に衝突すれば、ただちに“こっぱみじん”となろう。
 第七、ところがその数十メートルないし数百メートル前に、「断崖の接近」を予知できれば、容易に黒潮の流れから“脱出”可能である。(黒潮の幅はそれほど広くはない。)
唐人駄馬
 第八、この点、断崖の並びないし奥に立地している「三列石」(鏡石)は、太陽や月の光を反射して、この「断崖の存在」を“知らせる”という用途をもっているのではないか。これがわたしの「研究上の仮説」で あった。
 第九、この仮説の当否を実証すべき実験、それがこのさいの研究実験の目的であった。現地(土佐清水市)の方々の手厚い支援やリコー(株)の研究所(研究開発本部・坂木泰三氏)やソニー(本社)等多くの方々の助力をえて実行された。
 この実験は足摺岬付近を『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定する古田説の妥当性を確認するような試みでもあった。調査されたのは、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心とする一帯で、「巨石遺構は縄文時代における『構築物』と見なさざるをえない」という見解を得ている。
 余談になるが、平均重量2.5トンというピラミッドの石をどのように運んだかについて、近年、「最古のパピルス」の発見により新たな理解が深まり、クフ王のピラミッドの建設期間が26、27年程度であったという説が出された。唐人駄馬遺跡の巨石は一辺4~7m程度もあり、ピラミッドの石に比べて数十倍の重さになるものもある。
 古田氏は「三列石」(鏡石)は太陽や月の光を反射して、危険な断崖の存在を知らせる縄文灯台としての役割を持つということを「研究上の仮説」としている。これは縄文人の大航海術を前提としたものであり、その役に立った可能性は否定できない。大分県姫島産の黒曜石が足摺岬付近に持ち込まれた際には、適当な目印になったであろう。しかし、より身近な視点に立てば、地元の縄文人が日々、海で漁をする場合に帰り道を示すランドマークとしての役目が大きかったのではないかと考える。
 それよりも検討しなければならないことは、「この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している」という第三に述べられている報告だ。縄文―弥生の不連続問題である。『魏志倭人伝』は弥生時代の倭国の様子を記述した文献であるから、そこに登場する「侏儒国」も弥生時代の国と考えるべきだろう。ところが、二倍年暦で1年(現代の暦では半年)かかって「裸国・黒歯国」に行けるとの内容は、縄文灯台を起点とする航海の経験則に基づく足摺岬付近の縄文人によるものとの印象を受ける。
 さて、先の研究実験は次のように実施され、その結果も報告された。
(A)一九九三年十一月三日、高知大学普喜満生助教授、YHP谷本茂氏、昭和薬科大教授古田が、CCDカメラ及び8ミリビデオ(望遠拡大装置つき)による岩石面の見え方測定を行った。海上及び陸上 (二ヶ所)からの測定である。
(B)銀紙(レフ)と唐人石断片(磨いたもの)との光度比較実験はリコー研究開発本部金子豊氏によって行われた。
(C)研究実験は予想を上回る成果をえた。
 その一 唐人駄場の北側に“集合する”唐人石は海上から(太陽や月の光を受けて輝いて見えていたことが確認された。
 その二 当初予想していた太陽光と同じく、或いはそれ以上に月光の反射が鮮やかである。この点予想以上であった(ただし、海上実験は昼間のみ)。
 その三 唐人石以外でも灘地区(大岩)に関しても同類の輝度観測を行った。
 その四 佐田山第二峰(Bサイト)列石群を軽気球より直上から撮影し、その「ストーン・サークル」状の実形を撮影した(群馬県・青高館の軽気球による)。
 以上の研究実験により、これら「足摺岬周辺の巨石遺構」が従来説のように“自然的分布"によるものでなく、「人為的分布」の性格をもっていることが証明されたのである。すなわち、「縄文文明の中の、注目すべき一大遺跡」だったのである。
 足摺岬付近の縄文人は弥生時代になってどこへ行ったのだろうか。弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。その一つが古津賀遺跡群(四万十市)である。ここは高知県最古(紀元約1世紀)の弥生時代の硯(すずり)が発見された場所だ。近くには古津賀古墳もある。近年の考古学的成果により、弥生時代における文字使用の可能性が議論されるようになってきた。高知県でも3つの遺跡から弥生時代の硯(方形板石硯)6点が発見されている。

 ある面、『魏志倭人伝』における「侏儒国」や「裸国・黒歯国」についての表現は、単に伝聞に基づくものであれば、かなり疑わしいと思える内容である。しかし、文書として記述された報告が邪馬壹国に届けられていたとしたら、魏の使者が信じ、記録するに値するのではないか。卑弥呼が外交文書に文字を使用したのであれば、国内文書に文字使用があっても不思議ではない。
 侏儒国はその中心を足摺岬付近から四万十川流域に移しながらも、縄文から弥生時代へと経験・知識・文化などを継承してきた国だったのではないだろうか。そうでなかったとすれば「裸国・黒歯国」についての記録が、中国の正史に記録されることはなかったかもしれない。


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【2022/08/14 22:26 】 | 侏儒国の歴史 | 有り難いご意見(0)
日高村オムライス街道と映画『竜とそばかすの姫』と竜の正体
 高岡郡日高村といえば「日高見国」を連想する人もいるだろう。日高見国とは古代日本において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語とされる。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
 しかしながら、地名研究においては対象とする地名がいつ始まったかということを確認する必要がある。結論から言うと、日高村という村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する。したがって日高村と「日高見国」を結びつけることは不可能であり、地名が似ているだけでは地名由来の根拠とならないことは理解できるだろう。他にも、越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が愛媛県今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命と結びつける説もあるようだが、高知県高岡郡の日高村は古代に遡れない地名であるから、これも成立しないことになる。
 1954年(昭和29年)、日下村・能津村および加茂村の一部(大字岩目地・九頭)が合併して日高村が発足。能津村といえば、映画『竜とそばかすの姫』で思い出の小学校として登場した能津小学校のある場所だ。映画では「謎の竜」の正体探し(アンベイル)が一つのテーマとなっているのだが、実は日高村に竜をかたどった国宝の大刀が隠されている。それが小村(おむら)神社の御正体(御神体)であり、竜の模様(双竜銜玉)の環頭を持つ金銅荘環頭大刀拵・大刀身(古墳時代・7世紀前半)だ。

 『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に掲載されている13のスポットには入っていないが、隠れスポット①として小村神社を推したい。棟札の記録によると、小村神社は勝照二年(586年)の創建。『土佐幽考』(安養寺禾麿著)では、『新撰姓氏録』に見える高岳首・日下部と高岡郡日下庄とを関連づけ、その共通の祖神として国常立命を祀り大刀を御神体としたとする。
 御神体の大刀については『刀剣乱舞』のキャラクター候補にもなったようだが、年に一度11月15日の秋の大祭の時に一般公開されるのみで、制作会社からの申し出は丁重にお断りされたようである。ただし、高知県立歴史民俗資料館の特別展「驚異と怪異―世界の幻獣と霊獣たち」では本物が展示されていた。
 それでは、どこに行けば竜に会えるのか。日高村オムライス街道にある「村の駅ひだか」――観光情報発信コーナーでは、観光案内所を併設するとともに、国宝の「金銅荘環頭大刀」のレプリカを展示公開している。直接目にして、環頭の模様に隠された竜を見つけ出してほしい。
 国道33号線沿いには日高村特産のシュガートマトを使用したオムライスの店が建ち並ぶ。なぜオムライス街道と呼ばれるようになったのかというと、名前の由来はオムライス……だけではなくて「小村神社」にかけた命名なのだという。映画のタイトル『竜とそばかすの姫』をもじった竜田そば天かす入り」みたいなメニュー開発にも期待する。
 日高村の中心は旧日下(くさか)村であり、漫画家のくさか里樹さんや江戸時代の義賊・日下茂平(茂兵衛)は地元出身の有名人である。間違っても声優の日髙のり子さんとは直接関係なさそうだ。

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【2022/08/10 13:53 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
科野(長野)の鼠はいかならん――九州王朝の八面大王か、不寝見か
 清少納言の『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」において、「香炉峰の雪」に関する有名なくだりがある。一条天皇の正室である中宮定子は才色兼備の人で、あるとき「香炉峰の雪いかならむ(どんなであろう)」と仰せになった。お仕えしていた清少納言は、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、定子はお笑いになった――という話だ。白楽天の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き/香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」の詩句を知った上で、中宮様の謎かけに即興で応対した。今風に言えば、とっさの神対応に周囲は「いいね」の評価をしたという。
 清少納言は平安中期の女流作家で、この一件は10世紀末頃であるから、あまり参考にならないかもしれないが、当時の日本の知識層は当然ながら中国文学から学んでおり、その影響を受けていることが分かる。8世紀、『日本書紀』の編者についても似たようなことが言えるのではないだろうかというのが、今回のメインテーマである。
 始まりは9年前。『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を橘高修氏が『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表した。さらに論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」(『東京古田会ニュース』189号)においては、信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介した。

 『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見される。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事がある。
 『日本書紀』岩波版の注は、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、……群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。つまり、『日本書紀』の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説しているわけだが、これだけでは「鼠=九州王朝」とすることはできない。
 橘高氏は『日本書紀』中に表記された「鼠」記述については「九州王朝を揶揄した表現ではないか」とし、「鼠」とは「八面大王」のことか、とも指摘している。これに対し、吉村八洲男氏は一志茂樹博士の説を紹介しながら、「鼠」は「ネズミ(不寝見)」であるとし「寝ることなしに、煙火を監視した、軍事組織(システム)」の存在を想定した。いずれにしても新王朝が旧王朝を悪しざまに言うことは、歴史上繰り返されてきたことで、ある面そこに『日本書紀』編纂上のイデオロギーが表れているとも言える。
 ここでもう一度原点に立ち返ってみよう。『日本書紀』の編者が参考にしたのは、主に中国の文献であり、中国古典において「鼠」が何を象徴していたかを知ることができれば、その影響を受けたであろう『日本書紀』の「鼠」が指し示すものがより明確になるかもしれない。

 碩鼠(魏風)

 碩鼠碩鼠  碩鼠(せきそ) 碩鼠
 無食我黍  我が黍(きび)を食う無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫(つか)へしに
 莫我肯顧  我を肯(あ)へて顧(かえりみ)みる莫(な)し
 逝將去女  逝(ゆ)きて將(まさ)に女を去りて
 適彼樂土  彼(か)の楽土に適(ゆ)かん
 樂土樂土  楽土 楽土
 爰得我所  爰(ここ)に我が所を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我麥  我が麦を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫へしに
 莫我肯德  我を肯へて德する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂國  彼の楽国に適かん
 樂國樂國  楽国 楽国
 爰得我直  爰に我が直を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我苗  我が苗を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫えしに
 莫我肯勞  我を肯へて労(ろう)する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂郊  彼の楽郊に適かん
 樂郊樂郊  楽郊 楽郊
 誰之永號  誰か之(もつ)て永号(さけ)ばんや
 ここに引用した『詩経』「魏風」の碩鼠は”重税に苦しむ人民の詩”として有名だ。「碩鼠すなわち”大きなねずみ”は、為政者を表している」といった説明が後漢時代の学者・鄭玄によって出されている。ここで風刺されている「為政者」は、トップの権力者のことでもあり、その権力を支える支配機構を指すとも言える。大和朝廷以前(700年以前)に倭国を支配した九州王朝という旧権力の存在に対して、中国古典の表現に倣って「鼠」を当てたと解釈するのはどうであろうか。

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【2022/08/07 19:17 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
能津小学校からミライエーー日高村「本村」は古代の中心集落
 「仁淀ブルー」の異名で知られる“奇跡の清流”仁淀川。その西岸(右岸)をドライブしていると、何やら見たことのある光景が飛び込んできた。もしかして能津(のうづ)小学校だろうか? まだ見ぬ映画『竜とそばかすの姫』では、廃校を使った集落活動センターのモデルとなった小学校である。
 実際は17名ほどの生徒がおり、現在も開校している。能津第一小学校、能津第二小学校、鴨地小学校の3校が、校舎設備の老朽化と過疎化による児童数減の問題により、昭和50年度に統合されて日高村立能津小学校(高知県高岡郡日高村本村8)となった。

 たまたま子ども連れのお母さん方が遊びに来られていて、お話を聞くこともできた。親切なことに、山中さんという女性から「もう少し先に行ったところで『竜とそばかすの姫』の内輪がもらえますよ」と、2021年4月にオープンした日高村能津集落活動センター「ミライエ」(日高村本村226-1 屋形船仁淀川敷地内)を紹介していただいた。

 さっそくミライエキッチンに行くと『竜とそばかすの姫』とコラボした高知アイスの「ゆずシャーベット」と「天日塩ジェラート」とテイクアウト。内輪やステッカーなどもいただくことができた。ちょうど、映画『竜とそばかすの姫』公開1周年を記念して、Instagramでハッシュタグ「#舞台のモデル高知巡り」をつけて映画のモデル地を投稿するキャンペーンを実施しているところだという。
 期間が2022年7月8日(金)~11月30日(水)になっているところを見ると、本来は7月8日の金曜ロードショー『竜とそばかすの姫』テレビ放映がその幕開けとなるはずだった。それが9月23日に延期されたことは、高知県の地域おこしにとっては大打撃となったはずである。ささやかながら、弊ブログがその応援PRの一端を担えたらと紹介させていただいた。
 仁淀川流域には映画『竜とそばかすの姫』の舞台となったモデル地が他にもたくさん存在する。ぜひ聖地巡礼を楽しみつつ、土佐の歴史にも想いを馳せてほしい。

 やっと本題に入る。日高村立能津小学校およびミライエの所在地はいずれも高知県高岡郡日高村本村となっている。地名に「村」が二重に入って重複しているじゃないかと変に思われるかもしれない。「本村」とは古代における中心集落につけられる地名とされる。
 一例を挙げれば、熊本県の天草諸島、天草下島に存在していた本村(ほんむら)。1889年、町村制の施行に伴い、本村、新休村、下河内村が合併し成立。1954年、本村が本渡町、櫨宇土村、志柿村、下浦村、楠浦村、亀場村、佐伊津村と合併して本渡市が発足。その後、天草市となった現在まで、ほぼ一貫して天草地方の中心地であり続けている。
 中世においては「中村(なかむら)」地名がこれにとって変わる。高知県では四万十市の前身である中村市が良い例である。中村とは、「多くが中心となる村、もしくは分村に対する本村を意味する地名。そのため全国各地に中村地名がみられる。姓氏・地名研究家の丹羽基二によると中村地名は大字、小字までの集計でも日本全国で200件を超え、日本で一番多い地名となるという」と地名辞典に説明されている。
 さて、中山間地域で緑豊かな日高村本村の場合は、古代における中心集落であったとは、現在の姿からはとても想像しにくい。しかし、周囲を調べてみるとその片鱗が見えてくる。
 まず小学校名にもなっている「能津」。現在は地名として残っていないが、元々は「能津村」という独立した村で、旧日下村と合併後に日高村となった。 旧能津村の名越屋・宮ノ谷・鴨地・長畑・本村・大花・柱谷の7つの集落を合わせて、現在も愛着を込めて「能津地区」と呼んでいるようだ。「津」とは渡し場、船着き場を表す地名であり、仁淀川における河川交通の要所であったことがうかがえる。
 能津地区は日高村の北側、仁淀川の南側に位置する地区で、戦国時代には仁淀川の自然を利用した要害の地形を活かし、能津(細川)左兵衛の居城である能津城が築かれていた。そこから南下する道がどこにつながっているかとドライブを続けたところ、かつて火野正平さんも自転車で通ったことのある、小村神社の横の道に出てきた。これまでにも何度か言及したが、小村神社は高知県でも唯一、九州年号「勝照二年(586年)」と書かれた棟札が存在する伝統ある神社である。やはり、日高村「本村」は古代における中心集落であったようだ。
 ちなみに高岡郡日高村は、高知市の西方約16㎞の県のほぼ中央部に位置し、南は土佐市に、東と北は仁淀川を隔てて、いの町及び越知町に、西は佐川町にそれぞれ隣接している。村域は東西約8㎞、南北約9㎞、総面積は44.88平方㎞。

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【2022/07/28 09:23 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
7月は毎日が夏祭り――なぜ八幡宮は多いのか
 『はるの暦』(春野地区町内会連合会)の7月の予定を見て、「あきさみよー」「ありえん」と、朝ドラ『ちむどんどん』風の驚きを覚えた。なんと毎日が夏祭りではないか。今日7月17日は、「弘岡上八幡宮夏祭り」「秋山春日神社夏季大祭」「諸木八幡宮夏祭り」と3社で行われている。むしろ祭りのない日が珍しい。強いて言うなら土曜日が少ない? これって、まさかユダヤ教の安息日に仕事をしてはいけないという伝統の影響なのではと、ふと頭をよぎった。

▲2022年7月の『はるの暦』

 いまだコロナ禍にあって、夜店などの出店はほとんど見られないものの、神事を欠かさず行っているとしたら、さぞかし宮司さんも大忙しだろう。近年は10社以上を兼任される方も多いと聞く。
 さて、『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると、中世における高知県内の「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」と言及している。
 八幡社がこのように多いことについて、宮地直一氏の『八幡宮の研究』では、次のような理由を列挙している。
一 宇佐・男山・鶴岡等の社領に各別宮を設けしこと。なかんずく男山最も広く散布せし結果、その別宮の数最も多かりき。
ニ 源氏の分布に従ひ、各地に八幡を設けしこと。
三 八幡宮の時めきし結果、あらぬ社をも八幡宮と変更せしこと。
四 豊後の諸八幡宮が大友氏に対して執りし政策の如く、一時の権宜より出でしこと。
五 応神寺の血脈の神は、八幡と号するに至りしこと。
六 寺の鎮守は、その祭神を問はず、八幡と号せしこと。
七 武神となりし結果、武家が各地にこれを奉じ、又その居城の鎮守となしたこと。
 『はるの暦』にあった「弘岡上八幡宮夏祭り」を見ておこうと思い立って、さてどちらの八幡宮だろうと考えた。吉良城近くの小山に祀られている八幡宮かと思って、竹林の小道を登っていくと、道は整備されていたものの、そこには誰もいなかった。もしかして前に紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈(かまど)神社⑨――春野町弘岡上の八幡宮境内社”なのではないかと思い、再度足を運ぶことにした。それほど近くに、複数の八幡宮が鎮座しているのである。
 夕方5時頃に着いてみると、すでに八幡宮夏祭りは終了して、片付けが行われているところだった。帰ろうとする人に「ここには鳥居が3つ並んでいますね」と話しかけると、「氏神様(八幡宮)と竈神社とお伊勢様(神明宮)です」と教えてくださった。竈神社を中心に西側に八幡宮、東側に神明宮という配置については先にも触れたが、どうも大和朝廷が定めた「二所宗廟」に由来するのではないかと思えてきた。
 宇佐神宮と聖武天皇との関わりはもっと古く、725年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、法蓮という雑密僧が境内に弥勒禅院を建立し、738年には聖武天皇の援助を受け豪華な金堂・講堂が建てられました。仏教と習合した八幡神は八幡大菩薩と呼ばれるようになります。
 その宇佐神宮を、京都の裏鬼門の守護として西南の男山に勧請したのも、大安寺の僧行教という空海の弟子です。やがて、王城守護鎮護の神、王権・水運の神として朝廷から崇敬されるようになり、伊勢神宮と並び「二所宗廟」と称されました。応神天皇由来の武の神であることから、源頼義により源氏の氏神とされ、武士の世になると鎌倉から全国に拡がりました。今約8万ある神社のうち、最多は稲荷社で2番が八幡社です。(『サンデー世界日報』より)
 つまり、平安時代に朝廷が八幡宮と伊勢神宮に「二所宗廟」という位置づけを与えた。その二社が地方の神社にも勧請されたというわけだ。九州王朝時代においては、八幡宮の前身として、高良大社ないしは竈門神社が国家の宗廟としての役割を担っていたのではないかと推測している。まず竈神社ありきで、そこに「二所宗廟」としての八幡宮と神明宮が勧請された……。旧郷社でもある高知市春野町弘岡上の八幡宮の祭祀形態がこの仮説を後押ししているかのようだ。



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【2022/07/17 23:11 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
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