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熟田津の歌を土佐弁で解釈すると
    額田王には有名な「にぎたつ」の歌がある。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出でな
                                           (万葉集 巻1・8)

   「~な」「〜なや」は土佐弁で禁止の表現である。ある人が「準備運動せんずつ、骨折りな」と言ったら、「何てひどいことを言うの」と誤解されたという。「準備運動もしないで骨を折りなさんな」という親切心からの声かけであったが、県外の人には反対の意味に聞こえた。
    さて、熟田津の歌は通説では「潮も満ちてきた。さあ今、漕ぎ出そう」といったニュアンスで訳される。しかし、土佐弁では「漕ぎ出でな」は「漕ぎ出すな」という意味になる。
    唐・新羅の軍勢にはかなわないので、もう潮時だから白村江の戦いに行くのはやめなさいと天智天皇を制止しているように聞こえるのは気のせいだろうか?
    このように、土佐弁の中には古語的表現が残っているように見受けられる。「〜にかあらん」という推量表現も普通に使われている。「熟田津」の歌も本来は上記のような意味だったのかもしれない。

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【2018/04/19 10:04 】 | おもしろ授業 | 有り難いご意見(0)
土佐国の国分尼寺は比江廃寺跡にあらず
    土佐国の国分尼寺があった場所として、国府の北東にある比江廃寺跡が有力と考えられてきた。その根拠は「アマシカウチ」というホノギ(小字)にあった。いかにも尼寺が内を表しているように思われる。

    しかし、それ以外の根拠はなく地名のみによった説であった。それがつい最近、朝倉慶景氏によって新説が打ち出され、新たに有力な比定地が見つかった。『土佐史談』に発表される予定なので、詳細は控えておく。筑後の国分尼寺が久留米市国分町西村であるのと同様に、土佐国の場合も「西村」地名であるとだけ紹介しておく。
    では比江廃寺跡の「アマシカウチ」とは何なのか?    開皇20年(600年)、倭国の王は阿毎(あま)多利思北弧を名乗り日出ずる所の天子として、隋に使いを送った。倭国の王族、阿毎氏に関係の深い寺院が比江廃寺であったとしたら……。
  「ひえ」地名は太宰府にも見え、残された礎石が太宰府政庁跡の物と似ているとの指摘、小字「タイリ(内裏)」「アマシ(阿毎氏)カウチ」など、すべて説明がつくようになる。

   「Keep your feet on the ground!(地に足つけて考えよ)」とお叱りを受けそうである。以下に隋書』を引用しておく。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」(隋書』「東夷傳俀國傳」)

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

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【2018/04/18 11:17 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
「倭国(九州)年号」と「評」から見た九州王朝の勢力範囲
    3月に発売された『古代に真実を求めて  古田史学論集第21集』の中に服部静尚氏の「『倭国(九州)年号』と『評』から見た九州王朝の勢力範囲」とする論稿が掲載されていた。

    それによると高知県は九州年号がゼロになっている。ということは九州王朝の勢力圏ではなかったということか?
    そんなはずはない。魏志倭人伝の時代から侏儒国(高知県西部付近か?)は邪馬壹国と関係の深い倭種として記録されている。そこで「九州年号(倭国年号)見つけた」シリーズーー①月山神社の「白鳳」②菅原道真の刀剣に刻まれた「朱鳥」で高知県における九州年号の存在を発表した。しかし「白鳳」「朱鳥」は正史にも見え、明らかな九州年号とは言い難いとのこと。実は本が出版される前に、もう1つの重要な九州年号の存在を実証することができた。それに関しては、また改めて言及したい。
    一方、評については「1」となっているが、こちらは「□岡評」木簡の欠字が「長」と読めそうだという推定によるもの。長岡郡は土佐国の国府が置かれた場所であり、国衙付近に「内裏」地名があることからも、評督がいた可能性は高い。

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【2018/04/17 13:03 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
「大宝天皇」は政権交代の礎を築いた天智天皇をさしていた!


 秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 
          苫(とま)をあらみ 
  わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ

     天智天皇(1番『後撰集』秋中・302


天智天皇(てんじてんのう。626~671)
 舒明(じょめい)天皇の皇子で即位前の名前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。藤原鎌足とともに蘇我氏を撃ち、大化改新をなしとげ、天皇に即位しました。その後、飛鳥から近江に都を移しています。
 天智天皇は平安時代には、歴代天皇の祖として非常に尊敬されていました。この歌は元々、万葉集の詠み人知らずの歌でしたが、そういうイメージから、口伝で伝えられるうちに、天智天皇作とされるようになったようです。

『ちょっと差がつく百人一首講座』から引用させてもらいました。
天智天皇が歴代天皇の祖として非常に尊敬されていた
ということは、百人一首の第一番に「秋の田の~」の歌が採用されていることからもうかがえる。
古田史学の会でも正木裕氏の主張する近江朝の問題が話題になっているが、政権交代の礎を築いた立役者は何と言っても天智天皇かもしれない。天智天皇の不改常典が大宝律令の元になっているとすると、貴い宝「大宝」とは、まさに天智天皇のことをさしていたのではないだろうか?
何を根拠にと思われる人もいるだろう。九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代における大宝年間の祭神置き換え問題。全国的に大宝天皇になった所がいくつか存在する。「コウラ」という場所に建つ八坂神社がかつては大宝天皇であった。また、高知県吾川郡いの町中ノ川の大森神社も明治維新前は大宝天皇と呼ばれていた。そして祭神は天智天皇であったというのだ。

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【2018/04/15 01:45 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
九州年号見つけた②ーー菅原道真の刀剣に刻まれた「朱鳥」

   延喜3年(903年)2月25日、太宰府で薨(こう)ぜられた菅原道真公の遺品、袍(ほう)、剣(つるぎ)及び観音像を、土佐国に左降させられていた息子・菅原高視朝臣に伝えるため、侍臣・松本(渡会)春彦が携えてはるばると土佐にやって来た。老齢と難路に苦しんで健康を害し、ようやくたどりついた長岡郡大津村船戸の霊松山雲門寺で病を発し、延喜5年(905年)12月9日同地にて歿した。白太夫(しらだゆう)の俗称で世に広く知られる春彦は大津の岩崎山にその墓と祠堂(しどう)がある
   さて、その時伝えられたとされる剣について、『皆山集①』潮江村の天満宮(現在の潮江天満宮、高知市天神町19-20)の項に次のような記述がある。

「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)

「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀   土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥
平身作り中直刀少々のたれ有   匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)

『皆山集』の著者・松野尾章行は謹んで拝見した。菅原道真の遺品である宝刀の銘「朱鳥二年(687年)」という九州年号を。


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【2018/04/13 09:52 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
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