アイドルグループ「ももいろクローバーZ」の高城れにさん(29歳)が日本ハムの宇佐見真吾捕手(29歳)と結婚することを11月6日、発表した。宇佐見選手は球界屈指のモノノフ(ももクロのファン)で、ファンがトップアイドルと結婚する“推し婚”として注目されている。
「モノノフ」について、次の3つの意味が『実用日本語表現辞典』に記されていた。 ここでは(3)ではなく、(2)の「物部」、とりわけ高知県の土佐物部氏についてスポットを当ててみたい。まずは『日本姓氏語源事典』から引用しておこう。
岡山県、京都府、福岡県。モノノベは稀少。職業。物を司る部民から。推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。高知県南国市物部は平安時代に記録のある地名。 平安時代に記録のある地名「南国市物部」というのは『和名類聚抄』の香美郡物部郷のことであろうか。物部川下流右岸、現在の高知龍馬空港の近辺と考えられている。ここは弥生時代最大級の集落であった田村遺跡に隣接する場所でもある。また、紀貫之の『土左日記』に登場する「おおみなと(大湊)」については諸説あるが、最新の説(朝倉慶景氏「土左日記にみる『おおみなと』について」『土佐史談275号』土佐史談会、2020年11月)では物部川河口右岸、高知龍馬空港の南辺付近に比定している。古代における海上交通の拠点であったことが分かる。 『日本書紀』などにも登場する古代氏族の物部氏が、古い時代に物部川下流に移り住み、土佐物部氏を形成していったのだろうか。これまで古代史を探求しつつも、古代氏族に関してはあまり触れてこなかった。「君子危うきに近寄らず」ではないが、根拠不明瞭なことを空想だけで論ずることには、多少なりとも抵抗があったからだ。 けれども土佐物部氏に関しては、少なからず根拠とするところがありそうで、可能な限り踏み込んで調べてみることにしたい。 PR |
邪馬台国畿内説のお膝下ともいうべき奈良県の『奈良新聞』が九州王朝説を紹介するようになってきた。日本では放送法第4条に「意見が対立している問題については、出来るだけ多くの角度から論点をあきらかにすること」と明記されている。新聞については特に法の定めはないが、日本新聞協会が定めた新聞倫理綱領に「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」との記述がある。
古田武彦氏が発表した九州王朝説は、これまで学会ではほとんど無視されてきたきた側面が強く、メディア等でも取り上げられることは少なかった。その風向きが変わりつつあるようだ。 奈良新聞 令和4年(2022年)8月4日(木)に「『古代史の争点』出版記念講演会NARA 2022」を掲載
PDF形式で奈良新聞の記事を掲載(大きさはA3)
「壬申の乱と隠された九州~英雄に祭り上げられた天武 大阪府立大学講師の正木裕氏が講演」と題する奈良新聞(2022年9月22日)の記事中に紹介された九州王朝説を以下に引用しておく。
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主人公すずが仮想空間「U」の世界で、ベルの姿となってクジラに乗って現れた。9月23日秋分の日、延期されていた『竜とそばかすの姫』がついにテレビ放映されることとなった。細田守監督のこの作品が高知県を舞台としていることは広く知られるようになってきたのではないか。『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に13のスポットが掲載されているが、それ以外の隠れスポットもある。 まずは鯨坂(くじらざか)八幡宮。「おらんくの池にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」とよさこい節に歌われるように、ベルがクジラに乗って登場するシーンは主人公すずが立っている場所が高知県であることを象徴しているかのようだ。実は作品の舞台となる仁淀川流域の佐川町には鯨坂(くじらざか)八幡宮が鎮座している。
「鯨」の語源は和語の「くじく」「くずれる」「ぐじぐじ」等の意味で、えぐられた崩壊地や湿地のことを表すとされる。例えば、熊本県天草市鯨道は「くずれみち」が訛ったもの。茨城県石岡市鯨岡、福島県いわき市鯨岡なども内陸の崩壊地に関係する地名と考えられている。 高知県においても『和名類聚抄』に幡多郡鯨野郷が記録されている。これを「いさの」と読んで伊佐地名の残る土佐清水市に比定するのが従来説であった。これに対して「くじらの」と読み、四万十川流域の崩壊地名と考えて四万十市(旧中村市)付近に比定する新説も出されている。 鯨坂八幡宮の場合はどうだろうか。高岡郡佐川町庄田、古来深尾領佐川郷総鎮守。『八幡荘伝承記』によれば、高北開拓の元祖別府経基が承平二年(932年)、別府の本領安芸郡鯨坂八幡を勧請したという。ところが、この神社名に対応する「鯨坂」という地名が見つからない。 多くの場合、内陸部の「鯨」地名については、崩れやすい土地や崩壊地に関連する地名と考えてよさそうだが、海岸部に見られる「鯨」地名もそうなのだろうか。長崎県五島市の鯨埼、北海道厚岸町鯨浜、新潟県佐渡市稲鯨、柏崎市鯨波等がある。海のクジラに由来する地名ということはないだろうか。 鯨漁が始まったのは江戸時代からとされているが、古くから日本人は海岸に打ち上げられたクジラを生活の糧としてその恵みをいただいてきた。そして残った骨を鯨塚に納めて供養したという鯨信仰のようなものも存在する。鯨塚から鯨坂。言葉自体は似ているとも言えるが、この変化は単なる想像に過ぎない。しっかりと検証する必要があるだろう。 その他の隠れスポットとして、同じ佐川町永野に鈴神社がある。主人公の名前はここからとったのだろうか。一方、いの町には「ベル薬局」なるものも存在するとか。鈴神社の祭神は素戔鳴尊。映画『竜とそばかすの姫』において、Uの世界で暴れまわる竜の存在を連想させる。当地域の産土神。古来中鈴権現と称し当村の総鎮守であった。明治二年鈴神社と改称し、同五年村社に列す。 さらには歌姫ベルをプロデュースするすずの親友、毒舌眼鏡娘のヒロちゃん(別役弘香)にまつわる別役神社も存在している。まだまだ隠れたスポットがたくさんありそうだ。 高知県といえば四万十川が有名であるが、細田守監督の『竜とそばかすの姫』では「鏡川」と「仁淀川」が要所要所で描かれる。「川を舞台にしたかったので、美しい仁淀川や鏡川のある高知を選んだ」――高知県がなぜ作品の舞台モデルとして選ばれたかは、この2つの川にインスピレーションを受けたことが理由の一つと語られている。 |
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古代における最大の事件といえば、やはり「大化の改新」(645年)であろうか。小・中学生でもだいたい覚えている重要事項の一つである。覚え方はいろいろあるが、次のようなものはいかがだろうか。4項目を一文に盛り込んでみた。
大化の改新は虫殺しで なかなか いそがしい 645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏 大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。
問題は「改新の詔」其の二に登場する「郡」制度が7世紀末でもまだなく、「評」だったことが木簡で明らかになったことだ。坂本太郎と井上光貞との間で行われた、いわゆる「郡評論争」である。それゆえ「大化の改新」、特に「改新の詔」は虚構という説が一時期有力となっていた。 教科書でも「『日本書紀』が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる」としながらも、「藤原宮木簡などの7世紀代の木簡や金石文に各地の「評」の記載がみられる。また、地方豪族たちの申請により「評」(郡)を設けた経緯が、『常陸国風土記』などに記されている」との注記をしている。 『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。 21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。 |
中世土佐の名族津野氏は、家譜によれば913年(延喜十三年)土佐に入国、津野荘を開拓したとするが、地元では元仁元年(1224年)入国説を採用しているようだ。家系図の代数から、10世紀までさかのぼるには無理があるとの考え方が強いためだろう。津野氏は本姓藤原氏、鎌倉期には在地領主として台頭、この荘名を姓としていたことが1333年(元弘3年)には確認できる(潮崎稜威主文書)。 つまり、土佐津野氏の場合は本姓を藤原とし、地名の津野荘からとって姓(名字)を津野とした。このように武家の姓は中世の地名を由来とする場合が多い。このことは古代氏族のルーツを研究する際に、現在における姓の分布を根拠とすることの危うさを示している。現在使われている姓は中世以降を起源とするものが多く、本姓と名字が一致しているならともかく、そのようなケースは比較的少ないとされている。 さて、土佐津野氏の場合、本姓は藤原と考えられている。ところがその家系の中で橘姓を名乗った人物がいる。津野豊前守正忠だ。彼は慶長五年(1600年)11月18日死去し、墓地は土佐市高岡の清滝寺(四国八十八箇所第35番札所)の近くにあり、清滝津野氏の始祖と言われ、さらに津野勝興の子息と伝えられている。 『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(朝倉慶景著、令和2年)に、津野豊前守について、次のような研究が述べられている。 彼は津野豊前守橘正忠を称し、「橘」は本姓となるが、これは源・平・藤・橘から選んだものと推察される。だが父は一条系母は長宗我部系の人。そのため藤か秦となろうが、それらを排除した形であり、また正忠の名前についても、この時期は父の一字である勝または興を用いるのが通常であった。それにも拘わらず正忠を称しているのは、二十八歳で死去した津野親忠への養子縁組が出来ていたとみるべきであろう。そのことは豊前守の名乗を、長宗我部氏が認めていたことからも言えよう。すなわち「守」は古くに一国の支配者を意味するため、この時期家系または技能集団の「長」がよく用いていた。従って津野親忠の後を受け継いだ人とみてよかろう。本来は藤原を本姓とするはずの津野氏が、なぜ橘を名乗ったのであろうか。もしかしたら、橘を本姓としていた可能性はないだろうか。津野吉郎氏の『清滝津野氏の由来』(昭和48年)によると、関ケ原の戦い(1600年)後、津野親忠が長宗我部盛親によって殺害されたため、本姓を秘め橘正忠と称したものと説明されている。 同様のケースとして、源氏の流れを汲むとされる吉良氏が荒倉神社(高知市春野町)の棟札に、「源」でなく「大檀那平親貞」「平朝臣吉良千熊丸」などと「平」姓で記録されている。これらを単なる誤りとしてよいのか……。 これだけでも興味深い研究対象であるが、古代氏族等について研究する場合、このような姓の変遷をたどり、本姓を正しく確認することが不可欠となってくるだろう。 |
『古田史学論集第12集 古代に真実を求めて』(古田史学の会編、2009年)に古田武彦氏の研究論文「生涯最後の実験」が掲載されている。その中に研究実験上の先例として、高知県の土佐清水での実験「報告書」(土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書―』1995年、土佐清水市教育委員会発行)のことが、次のように要約されている。
この実験は足摺岬付近を『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定する古田説の妥当性を確認するような試みでもあった。調査されたのは、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心とする一帯で、「巨石遺構は縄文時代における『構築物』と見なさざるをえない」という見解を得ている。 余談になるが、平均重量2.5トンというピラミッドの石をどのように運んだかについて、近年、「最古のパピルス」の発見により新たな理解が深まり、クフ王のピラミッドの建設期間が26、27年程度であったという説が出された。唐人駄馬遺跡の巨石は一辺4~7m程度もあり、ピラミッドの石に比べて数十倍の重さになるものもある。 古田氏は「三列石」(鏡石)は太陽や月の光を反射して、危険な断崖の存在を知らせる縄文灯台としての役割を持つということを「研究上の仮説」としている。これは縄文人の大航海術を前提としたものであり、その役に立った可能性は否定できない。大分県姫島産の黒曜石が足摺岬付近に持ち込まれた際には、適当な目印になったであろう。しかし、より身近な視点に立てば、地元の縄文人が日々、海で漁をする場合に帰り道を示すランドマークとしての役目が大きかったのではないかと考える。 それよりも検討しなければならないことは、「この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している」という第三に述べられている報告だ。縄文―弥生の不連続問題である。『魏志倭人伝』は弥生時代の倭国の様子を記述した文献であるから、そこに登場する「侏儒国」も弥生時代の国と考えるべきだろう。ところが、二倍年暦で1年(現代の暦では半年)かかって「裸国・黒歯国」に行けるとの内容は、縄文灯台を起点とする航海の経験則に基づく足摺岬付近の縄文人によるものとの印象を受ける。 さて、先の研究実験は次のように実施され、その結果も報告された。
足摺岬付近の縄文人は弥生時代になってどこへ行ったのだろうか。弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。その一つが古津賀遺跡群(四万十市)である。ここは高知県最古(紀元約1世紀)の弥生時代の硯(すずり)が発見された場所だ。近くには古津賀古墳もある。近年の考古学的成果により、弥生時代における文字使用の可能性が議論されるようになってきた。高知県でも3つの遺跡から弥生時代の硯(方形板石硯)6点が発見されている。 ある面、『魏志倭人伝』における「侏儒国」や「裸国・黒歯国」についての表現は、単に伝聞に基づくものであれば、かなり疑わしいと思える内容である。しかし、文書として記述された報告が邪馬壹国に届けられていたとしたら、魏の使者が信じ、記録するに値するのではないか。卑弥呼が外交文書に文字を使用したのであれば、国内文書に文字使用があっても不思議ではない。 侏儒国はその中心を足摺岬付近から四万十川流域に移しながらも、縄文から弥生時代へと経験・知識・文化などを継承してきた国だったのではないだろうか。そうでなかったとすれば「裸国・黒歯国」についての記録が、中国の正史に記録されることはなかったかもしれない。 |
高岡郡日高村といえば「日高見国」を連想する人もいるだろう。日高見国とは古代日本において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語とされる。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
しかしながら、地名研究においては対象とする地名がいつ始まったかということを確認する必要がある。結論から言うと、日高村という村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する。したがって日高村と「日高見国」を結びつけることは不可能であり、地名が似ているだけでは地名由来の根拠とならないことは理解できるだろう。他にも、越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が愛媛県今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命と結びつける説もあるようだが、高知県高岡郡の日高村は古代に遡れない地名であるから、これも成立しないことになる。 1954年(昭和29年)、日下村・能津村および加茂村の一部(大字岩目地・九頭)が合併して日高村が発足。能津村といえば、映画『竜とそばかすの姫』で思い出の小学校として登場した能津小学校のある場所だ。映画では「謎の竜」の正体探し(アンベイル)が一つのテーマとなっているのだが、実は日高村に竜をかたどった国宝の大刀が隠されている。それが小村(おむら)神社の御正体(御神体)であり、竜の模様(双竜銜玉)の環頭を持つ金銅荘環頭大刀拵・大刀身(古墳時代・7世紀前半)だ。 『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に掲載されている13のスポットには入っていないが、隠れスポット①として小村神社を推したい。棟札の記録によると、小村神社は勝照二年(586年)の創建。『土佐幽考』(安養寺禾麿著)では、『新撰姓氏録』に見える高岳首・日下部と高岡郡日下庄とを関連づけ、その共通の祖神として国常立命を祀り大刀を御神体としたとする。 御神体の大刀については『刀剣乱舞』のキャラクター候補にもなったようだが、年に一度11月15日の秋の大祭の時に一般公開されるのみで、制作会社からの申し出は丁重にお断りされたようである。ただし、高知県立歴史民俗資料館の特別展「驚異と怪異―世界の幻獣と霊獣たち」では本物が展示されていた。 それでは、どこに行けば竜に会えるのか。日高村オムライス街道にある「村の駅ひだか」――観光情報発信コーナーでは、観光案内所を併設するとともに、国宝の「金銅荘環頭大刀」のレプリカを展示公開している。直接目にして、環頭の模様に隠された竜を見つけ出してほしい。 国道33号線沿いには日高村特産のシュガートマトを使用したオムライスの店が建ち並ぶ。なぜオムライス街道と呼ばれるようになったのかというと、名前の由来はオムライス……だけではなくて「小村神社」にかけた命名なのだという。映画のタイトル『竜とそばかすの姫』をもじった「竜田そば天かす入り」みたいなメニュー開発にも期待する。 日高村の中心は旧日下(くさか)村であり、漫画家のくさか里樹さんや江戸時代の義賊・日下茂平(茂兵衛)は地元出身の有名人である。間違っても声優の日髙のり子さんとは直接関係なさそうだ。 |
清少納言の『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」において、「香炉峰の雪」に関する有名なくだりがある。一条天皇の正室である中宮定子は才色兼備の人で、あるとき「香炉峰の雪いかならむ(どんなであろう)」と仰せになった。お仕えしていた清少納言は、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、定子はお笑いになった――という話だ。白楽天の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き/香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」の詩句を知った上で、中宮様の謎かけに即興で応対した。今風に言えば、とっさの神対応に周囲は「いいね」の評価をしたという。 清少納言は平安中期の女流作家で、この一件は10世紀末頃であるから、あまり参考にならないかもしれないが、当時の日本の知識層は当然ながら中国文学から学んでおり、その影響を受けていることが分かる。8世紀、『日本書紀』の編者についても似たようなことが言えるのではないだろうかというのが、今回のメインテーマである。 始まりは9年前。『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を橘高修氏が『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表した。さらに論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」(『東京古田会ニュース』189号)においては、信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介した。 『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見される。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事がある。 『日本書紀』岩波版の注は、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、……群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。つまり、『日本書紀』の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説しているわけだが、これだけでは「鼠=九州王朝」とすることはできない。 橘高氏は『日本書紀』中に表記された「鼠」記述については「九州王朝を揶揄した表現ではないか」とし、「鼠」とは「八面大王」のことか、とも指摘している。これに対し、吉村八洲男氏は一志茂樹博士の説を紹介しながら、「鼠」は「ネズミ(不寝見)」であるとし「寝ることなしに、煙火を監視した、軍事組織(システム)」の存在を想定した。いずれにしても新王朝が旧王朝を悪しざまに言うことは、歴史上繰り返されてきたことで、ある面そこに『日本書紀』編纂上のイデオロギーが表れているとも言える。 ここでもう一度原点に立ち返ってみよう。『日本書紀』の編者が参考にしたのは、主に中国の文献であり、中国古典において「鼠」が何を象徴していたかを知ることができれば、その影響を受けたであろう『日本書紀』の「鼠」が指し示すものがより明確になるかもしれない。 碩鼠(魏風) 碩鼠碩鼠 碩鼠(せきそ) 碩鼠 無食我黍 我が黍(きび)を食う無かれ 三歳貫女 三歳 女(なんじ)に貫(つか)へしに 莫我肯顧 我を肯(あ)へて顧(かえりみ)みる莫(な)し 逝將去女 逝(ゆ)きて將(まさ)に女を去りて 適彼樂土 彼(か)の楽土に適(ゆ)かん 樂土樂土 楽土 楽土 爰得我所 爰(ここ)に我が所を得ん 碩鼠碩鼠 碩鼠 碩鼠 無食我麥 我が麦を食ふ無かれ 三歳貫女 三歳 女(なんじ)に貫へしに 莫我肯德 我を肯へて德する莫し 逝將去女 逝きて將に女を去りて 適彼樂國 彼の楽国に適かん 樂國樂國 楽国 楽国 爰得我直 爰に我が直を得ん 碩鼠碩鼠 碩鼠 碩鼠 無食我苗 我が苗を食ふ無かれ 三歳貫女 三歳 女(なんじ)に貫えしに 莫我肯勞 我を肯へて労(ろう)する莫し 逝將去女 逝きて將に女を去りて 適彼樂郊 彼の楽郊に適かん 樂郊樂郊 楽郊 楽郊 誰之永號 誰か之(もつ)て永号(さけ)ばんや ここに引用した『詩経』「魏風」の碩鼠は”重税に苦しむ人民の詩”として有名だ。「碩鼠すなわち”大きなねずみ”は、為政者を表している」といった説明が後漢時代の学者・鄭玄によって出されている。ここで風刺されている「為政者」は、トップの権力者のことでもあり、その権力を支える支配機構を指すとも言える。大和朝廷以前(700年以前)に倭国を支配した九州王朝という旧権力の存在に対して、中国古典の表現に倣って「鼠」を当てたと解釈するのはどうであろうか。 |
『はるの暦』(春野地区町内会連合会)の7月の予定を見て、「あきさみよー」「ありえん」と、朝ドラ『ちむどんどん』風の驚きを覚えた。なんと毎日が夏祭りではないか。今日7月17日は、「弘岡上八幡宮夏祭り」「秋山春日神社夏季大祭」「諸木八幡宮夏祭り」と3社で行われている。むしろ祭りのない日が珍しい。強いて言うなら土曜日が少ない? これって、まさかユダヤ教の安息日に仕事をしてはいけないという伝統の影響なのではと、ふと頭をよぎった。
いまだコロナ禍にあって、夜店などの出店はほとんど見られないものの、神事を欠かさず行っているとしたら、さぞかし宮司さんも大忙しだろう。近年は10社以上を兼任される方も多いと聞く。 さて、『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると、中世における高知県内の「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」と言及している。 八幡社がこのように多いことについて、宮地直一氏の『八幡宮の研究』では、次のような理由を列挙している。
『はるの暦』にあった「弘岡上八幡宮夏祭り」を見ておこうと思い立って、さてどちらの八幡宮だろうと考えた。吉良城近くの小山に祀られている八幡宮かと思って、竹林の小道を登っていくと、道は整備されていたものの、そこには誰もいなかった。もしかして前に紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈(かまど)神社⑨――春野町弘岡上の八幡宮境内社”なのではないかと思い、再度足を運ぶことにした。それほど近くに、複数の八幡宮が鎮座しているのである。 夕方5時頃に着いてみると、すでに八幡宮夏祭りは終了して、片付けが行われているところだった。帰ろうとする人に「ここには鳥居が3つ並んでいますね」と話しかけると、「氏神様(八幡宮)と竈神社とお伊勢様(神明宮)です」と教えてくださった。竈神社を中心に西側に八幡宮、東側に神明宮という配置については先にも触れたが、どうも大和朝廷が定めた「二所宗廟」に由来するのではないかと思えてきた。 つまり、平安時代に朝廷が八幡宮と伊勢神宮に「二所宗廟」という位置づけを与えた。その二社が地方の神社にも勧請されたというわけだ。九州王朝時代においては、八幡宮の前身として、高良大社ないしは竈門神社が国家の宗廟としての役割を担っていたのではないかと推測している。まず竈神社ありきで、そこに「二所宗廟」としての八幡宮と神明宮が勧請された……。旧郷社でもある高知市春野町弘岡上の八幡宮の祭祀形態がこの仮説を後押ししているかのようだ。 |
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