吾峠呼世晴氏による漫画『鬼滅の刃』が映画化され、テレビアニメ版では「無限列車編」「遊郭編」までが放映された。大正時代の日本を舞台に鬼に家族を殺された少年・竈門炭治郎(かまどたんじろう)と鬼にされてしまった妹・禰豆子(ねずこ)の兄妹が、家族を殺した鬼を倒すため旅に出る冒険物語は絶大な人気を巻き起こした。 主人公の苗字である「竈門(かまど)」と名のつく神社が聖地化され、ファンが多く訪れるなど社会現象となった。全国的にも関連するスポットに注目が集まっており、長野県の竈神社(長野県大町市大町4718)もその一つとしてクローズアップされた。近隣の白馬村には『ねずこの森』という遊歩道があったり、鬼無里村には鬼女伝説があったり。長野県には「ねずみ」関連地名が多く存在することが指摘されている。一説には動物の鼠ではなく、古代官道上に設置された軍事組織「不寝見(ねずみ)」――寝ずの見張りに由来する地名とも考えられている。 さて、今回紹介する高知県の竈土神社(高知市長浜1870)は高知競馬場の南、新川川の北岸に鎮座している。高知県の場合は「竈門」でなく「竈戸」が標準的な表記であり、次いで「竈」が多い。「土」を使う「竈土」の表記は珍しいが、実はブログで紹介するのは2例目である。 以前紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈土(かまど)神社③――横浜新町”は高知競馬場の北側にあって、まさに高知競馬場を南北に挟んで、2つの竈土神社が子午線(子の方角と午の方角を結ぶ南北線)上に鎮座していることになる。なぜ「土」がついているのかは想像でしかないが、大土御祖神を祭神としていることから「土」の字を用いたのではないだろうか。 勝負ごとに「土」がつくのは縁起でもないが、地に足をつけて走る馬であれば問題ないかもしれない。高知競馬のハルウララ(生涯戦績113戦0勝)はむしろ、土をつけすぎて超人気になったくらいだ。当時を知らない世代でも、『ウマ娘 プリティーダービー』でブームが再燃している。 別に縁起を担ぐわけではないが、平安時代中期に編纂された『延喜式』には「鎭竈鳴祭」「御竈祭」などの祭りの名が記されており、竈神のルーツは古く、宮中と関連を持っていたことが分かる。中世、神仏習合の時代には「三宝荒神」として祀られるようになり、明治維新の際の神仏分離政策により、高知県では「三宝荒神」「荒神宮」などに対して、一律「竈戸神社」への名称変更の達しがなされた。 長野県大町市の「竈神社」について見ても、高知県と事情は似通っている。そのルーツは少なくとも鎌倉時代まではさかのぼることができ、当初は三宝荒神社と呼ばれ、地域の人々にも荒神様として親しまれていたようだ。明治に入り新政府により神仏分離令が発せられると、信濃大町の「三宝荒神社」は神道色の強い「竈神社」に名称が改められ、現在に至ったとのこと。 祭神が「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」「奥津彦(おくつひこ)神」「奥津姫(おくつひめ)神」とされているところは、最も標準的といえる。ある面、『古事記』『日本書紀』の神話体系に合わせたような一元的な祭神について、廣江清氏は『長宗我部地検帳の神々』(昭和58年)で、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」と指摘している。むしろ、今回紹介した「竈土神社」の大土御祖神という祭神は「竈の神」としてはマイナーであり、右へ倣いをしておらず、かえって真実味を帯びている。 はたして、竈門(竈戸、竈、竈土)神社の祭神「火の神」とはどのような存在なのだろうか。アニメ版『鬼滅の刃』第19話では、竈門家に「ヒノカミ神楽」が伝承されていたことが描かれている。2021年9月に地上波で初放送された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で「ヒノカミ」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。はやく続編が放映されることを期待しつつ、さらなる調査を進めていきたい。 PR |
2022年、今年も6月30日がやって来た。この日は高知市内における学習塾の授業出席率が最も低くなる日とされてきた。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日だからである。近年はコロナの影響で出店も少なくなり、塾を休んでまで祭りに行こうという生徒は減ってきた。 主に高知市内を中心とする主だった神社で行われ、市外でもいくつかの神社で開催されている。香南市野市町の人にリサーチしたところ「高知市内に出てきて初めて知った」とのこと。県外では7月に実施するところもあるようだ。 ところが、今年は多くの神社で屋台が復活すると予想されている。アンパンマンミュージアムに近い大川上美良布神社(香美市香北町韮生野243)では、輪抜け様の夜に「おつまみ神社2022」が3年ぶり開催されるとのこと。前回は2019年の第2回目「川上さまが『ひろめ市場』になった夜!」以来、待望の出店となる。 今年は「よさこい祭り」も復活する。輪抜け様2022はその前哨戦になりそうな気配である。屋台が並ぶ潮江天満宮、土佐神社などでも参詣客が多くなりそうだ。 ここでなぞかけ。「輪抜け様とかけて『エヴァンゲリオン』と解く。その心は?」――「本来の主人公はシンジ(神事)でしょう」。どうもシンジ君以外の人気がすごいですね。 今年は塾の出席率も再び低下する恐れが出てきた。早速、事前欠席の連絡も入っている。高知八幡宮のように、密集を避けて数日間にわたって実施するところも増えているので、当日行けなくてもチャンスはある。穴場を狙って人の集まりにくい神社に行く予定だという人もいた。参考までに夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧を紹介しておく。年々グレードアップしてきており、正確でないところもあるかもしれないが、役立ててもらえたら幸いである。 夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧<神社名> <現住所> 土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1 朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ 石立八幡宮 高知市石立町54 出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29 潮江天満宮 高知市天神町19-20 多賀神社 高知市宝永町8-36 小津神社 高知市幸町9-1 郡頭神社 高知市鴨部上町5−8 高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2 高知八幡宮 高知市はりまや町3丁目8−11 仁井田神社 高知市仁井田3514 大川上美良布神社 香美市香北町韮生野243 八王子宮 香美市土佐山田町北本町2-136 山内神社 高知市鷹匠町2-4-65 若宮八幡宮 高知市長浜6600 愛宕神社 高知市愛宕山121-1 薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7 鹿児神社 高知市大津乙3199 清川神社 高知市比島町2丁目13−1 天満天神宮 高知市福井町917 本宮神社 高知市本宮町94 多賀神社 高知市宝永町8−36 掛川神社 高知市薊野中町8-30 六條八幡宮 高知市春野町西分3522 仁井田神社 高知市北秦泉寺 熊野神社 南国市久礼田2213 剱尾神社 南国市浜改田2465 椙本神社 吾川郡いの町大国町 三島神社 土佐市高岡丁天神 久礼八幡宮 高岡郡中土佐町久礼 不破八幡宮 四万十市不破 常栄神社 四万十市具同8712番 |
水質日本一を何度も獲得している“奇跡の清流”仁淀川。映画『竜とそばかすの姫』では、主人公すずが通学で通る橋のモデルとなった「浅尾(あそう)の沈下橋」、重要シーンで登場した広い河原と橋のモデルとなった「波川公園」など、仁淀ブルーの魅力の数々が垣間見られる。
その仁淀川下流左岸の堤防と用水路に挟まれた高知市春野町の一画に、鳥居が3つ横に並んでいる場所がある。西から順番に旧郷社、川窪の八幡宮(高知市春野町弘岡上3413-ロ)、境内社の竈神社と神明宮が鎮座する。八幡宮の祭神は応神天皇であり、大山祇命(山神社)ほか3神<(少童命(海津見神社)・天忍穂耳命(王子神社)・木花咲耶姫(大山神社)>を合祭している。
明治時代末の神社合祀については、アニメ『刀使ノ巫女(とじノみこ)』でも触れられているが、村社や無格社などの小社が地域の中心的な郷社に合祭され、一村一社を目指して整理されていった。八幡宮に合祭されている4社はその時の政策によるものだろうか。 しかし、境内社2社については、もっと歴史が古そうな印象を受ける。最も小さな祠ながら竈神社は3つ並びのセンターに位置している。鳥居もほぼ並列で格の違いを感じさせない。あたかも大分県の宇佐神宮において、応神天皇でなく比売大神が中央(二之御殿)に祀られていることを連想させる。 『高知県神社誌』(竹崎五郎著、昭和6年)によると、高知県内の竈戸神社の総数は260社を超える。一部が村社で大半は無格社であったが、その数の多さに驚かされる。もちろん昭和初期の資料なので、数が減っていることは十分考えられるが、県内どこの市町村に行っても一定数の竈戸神社が存在しており、かなり高い割合で残されているようだ。 神社数の多さは歴史の古さとも相関関係がありそうだ。「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふ事になって居る」(『神道史』清原貞雄著、1941年)とあるように、竈戸神社は奥津日子神・奥津比売神の二神を祭神としているところが多い。古く、朝廷では春と秋に、かまどの神をまつる神事として竈祭りを行ったことが「延喜式」(平安時代中期に編纂)にも記録されている。単なる民間信仰ではなかったことが分かるだろう。もしかしたら平安時代以前にルーツを持つ可能性すら見えてくる。 『鬼滅の刃』三大聖地である九州の竈門神社<①宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)、②溝口竈門神社(福岡県筑後市)、③八幡竈門神社(大分県別府市)>など、他県の事例とも比較検討しながら、より深く竈神について考察していく必要があるかもしれない。 |
||||
延喜式に筑前国(福岡県)の竈門神社のルビが「トマト」になっていたという報告(「竈門神社」は蕃茄の神社?―「延喜式」によれば―)を受け、『国史大系』延喜式を開いて調べてみた。「カマト」「カマカト」となっており、実際には濁点をつけて読むのかもしれないが、「トマト」というルビはなかった。写本による違いであろうか。あるいは原文改定がなされたものだろうか。 それはさておき、ふと竈門神社の上段を見たら、筑後国(福岡県)の高良玉垂命神社の記載がある。ルビを確認して驚いた。現代の「こうら」読みに近く主流と考えてきた「カワラ」以外に、「タカラ」「タカワラ」「タカンラ」などもあるではないか。”高良神社余話①~③ーーどう読む? 「こうら」 or 「たから」”問題が再浮上してきた。 これまでは故なしと思ってきた「タカラ」読みに、意外にも文献的根拠が存在していたのである。「タカンラ」という読み方も、いかにもありそうだ。「〇〇ン〇〇」の「ン」は所有格の「の」が促音化したもので、「ラ」は神様を表す接尾語と考えれば「高(タカ)の神」といったニュアンスになる。 『伊勢神宮の向こう側』(室伏志畔著、1997年)の中でも、高良大社や月読神社が「タカガミさん」と呼ばれていることが紹介されており、現地の伝承とも通じる内容がある。もしかしたら古くは「たから」読みが存在していたという可能性も否定できなくなってきた。仮にそれが間違いであったとしても、そのような写本が存在していたという事実は尊重しなければならない。 当たり前と思っていたことが、必ずしも根拠が確かなものとは限らない。「壹」は「臺」の誤りなりと決めつけてきた「邪馬台国」論争がそうであった。思い込みや先入観を廃して、常に謙虚に真理を探求する姿勢を持ちたいものである。 |
中1生の皆さん、もうすぐ中学校に入ってから最初の中間テストになります。テスト対策は早目に計画的にやっておきましょう。 1学期といえば、理科では「花のつくりとはたらき」について学んでいると思います。 花には、おしべ、めしべ、花弁、がくがあり、めしべの先端部を柱頭、下のふくらんでいる部分を子房と言います。子房の中には胚珠という小さな粒が見られます。おしべの先端部には葯(やく)という小さな袋があり、その中に花粉が入っています。花弁は、花によって色や形がさまざまで、アブラナのように花弁が1枚1枚はなれている花を「離弁花」、ツツジのように花弁がひとつにくっついている花を「合弁花」といいます。
花を咲かせ、種をつくる植物をまとめて種子植物と言います。そのうち、胚珠が子房に包まれている植物を「被子植物」、子房がなく胚珠がむき出しになっている植物を「裸子植物」といいます。この分類は知っているかもしれませんが、念のため覚え方を教えておきます。 「生存競争で種子植物のなかまは必死らしい」 被子(ひし)裸子(らし) 子孫を残すためには、めしべの柱頭に花粉がつく(受粉する)必要があります。受粉すると、胚珠が種子となり、子房がふくらんで果実ができます。この辺りはテストにもよく出されますので、しっかり覚えましょう。 どっちがどっちだったか忘れたときには、しりとりをしてみましょう。 「はいしゅ→しゅし→しぼう→う、う、う……熟れた果実」 アブラナやツツジのように大きな花はさきませんが、マツにも花がさきます。マツの花には雌花と雄花があり、花弁やがくはありません。雌花は子房がなく胚珠はむき出しになっており、雄花の花粉が雌花の胚珠につくと、胚珠は種子となりますが、子房がないので果実はできません。コブクロの曲『桜』の歌詞に「実のならない花も……♪」とあります。あれは実は裸子植物のことを歌っていたんですね。裸子植物のなかまにはマツ以外にもスギやイチョウ、ソテツなどがあります。 |
||
南国市篠原の埋蔵文化財センターで、弥生時代の硯(方形板石硯)6点が期間限定で公開された。「百聞は一見に如かず」――本当に硯として使われたのか、直接見てみることにした。 第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。 従来は刃物を研ぐ砥石(といし)と考えられてきた出土物(石の破片)が、弥生時代の硯と再評価される事例が九州北部を中心に相次いでいる。砥石でなく硯と判断した根拠はどこにあるのだろうか。福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡 「下原遺跡」 で見つかった石の破片に関しては、次の3つの理由が示されている。 ①漢時代の硯と似た形――中国の漢の時代に使われていた古代の硯は現代の硯と違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代の硯と形がよく似ている。 ②黒い付着物――石の側面に黒い付着物が付いていた。これを表面から垂れた墨と見なした。 ③表面のくぼみ―― 刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカー ブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。
高知県内で弥生時代の方形板石硯が確認されたのは今回が初めてだ。とりわけ古津賀遺跡群(四万十市)出土の方形板石が最古と見られ、最多の4点が見つかったことから、「弥生時代の後期の初め頃(紀元前後)高知県の一部の地域で文字を理解していた人がいた可能性」について公式発表した。また、祈年遺跡と伏原遺跡から各一点見つかっており、「弥生時代後期末(3世紀後半)には高知県の中央部の2ヵ所の遺跡で方形板石が確認され、後期の初め頃よりも文字が浸透していた可能性」についても言及している。 『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」について、古田説では足摺岬付近としている。縄文時代においては、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心に石鏃(せきぞく)等の遺物が数多く出土していることから、その妥当性は高いであろう。けれども、弥生時代の遺跡の分布は四万十川流域に集中していることから、その時代における中心は四万十川流域に移っていると考えられる。 『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。 「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」 諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。 今回発見された弥生時代の硯(方形板石硯)は現在、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示中である。 |
源頼朝の弟といえば、まず真っ先に思い浮かべるのが義経ではないだろうか。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さん演じる義経が、神戸・一ノ谷の合戦で「逆落とし」の奇襲作戦で手柄を挙げるシーンが登場した。戦場は「須磨」ではなく「鵯越(ひよどりごえ)」との説もあるが、近年は地元の郷土史家の間でも新たな説が出されているようだ。 それはさておき、ドラマの中で一ノ谷が鉢伏山の麓にあることに気づいた。高知県にも鉢伏山があり、その麓には源頼朝の弟の墓所と伝えられる場所がある。高知市介良乙の源希義神社だ。 平治元年(1159年)の平治の乱後、源頼朝の同母弟の希義は土佐国介良(けら)庄に配流された。治承四年(1180年)、頼朝が挙兵すると希義も呼応すべく、夜須七郎行家(行宗)を頼り、夜須荘(現・香南市夜須町)に向かったが、平氏方によって年越山(現・南国市)で討ち取られてしまう。 平氏の威光を恐れ、そのまま放置されていた希義の遺骸を介良の琳猷(りんゆう)上人が手厚く葬り、頼朝から寺領を与えられ、西養寺(真言宗)を創建し、長く法灯を伝えた。正徳三年(1713年)に焼失後衰え、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は当時の石垣の一部を残すのみ。傍らの山林の中に建つ無縫塔が源希義の墓と伝えられている。ちなみに希義の法名は「西養寺殿円照大禅定門」である。
現・高知市春野町弘岡(旧吾川郡)の地で基盤を固め、後の戦国時代の土佐七守護の一人とされる「吉良氏」の系譜が源希望につながるとしているのはロマンあふれる話ではあるが、『吉良物語』の創作かもしれない。けれども、『吾妻鏡』には「時に家綱俊遠ら吾河郡年越山に追到して希義を誅し訖(おわ)んぬ」と、希義終焉の地を吾川郡と記録しており、原文を尊重するなら、一考の余地はあるだろう。
地元の高校生に源希義神社の場所を尋ねても、まったく知らない様子。地図で探してやっと入り口の路地を見つけたものの、山中に入ってから道案内がなく、無事たどり着けたのは幸運であった。現地にはいくつかの掲示板があったが、一つははがれたままになっていた。このまま人々の記憶から消えていくのではないかと案ずるのは杞憂であろうか。 |
||
「高知の弥生時代、文字使用? 県内3遺跡で『すずり』」
1年以上待ち続けていたニュースが飛び込んできた。福岡県に始まり、山陰・近畿など全国的に弥生時代の硯(すずり)が数多く見つかってきている。その大半は「砥石(といし)」を再鑑定して、実際は硯と判明したものだ。 高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。 鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。 古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。 高知県立埋蔵文化財センターと南国市教育委員会が、調査結果を発表したのは4月26日。その2日前、「発掘速報展 西野々遺跡」初日(24日)のギャラリートークの時点では、本物の砥石についての展示と解説はあったものの、硯の発見については、まだ極秘にされていたということか。 弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。 今後は文字の伝来や文字使用についても、これまでの教科書の記述を大きく改める必要性が出てきそうだ。そもそも建武中元二年(57年)に後漢の光武帝から賜った金印の印文「漢委奴國王」が読めていなかったとしたらナンセンスである。 今回確認された硯は、南国市篠原の埋蔵文化財センターで4月28日~5月8日(土曜休館)、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示される。本当の意味での「速報展」になりそうだ。 |
2022年4月24日から、「発掘速報展 西野々遺跡」(主催:高知県立埋蔵文化財センター)が始まった。西野々と聞いても、地元の人間ですらどこにあるかピンと来ないかもしれない。高知龍馬空港の北西、南国市立香長中学校の西にある丘陵の麓、物部川とその支流により形成された扇状地に立地している。 高知南国道路の建設に伴い、平成16〜19年度にかけて西野々遺跡の発掘調査が実施された。平成22年度までには、 発掘成果の整理作業を行い 『西野々遺跡Ⅰ〜Ⅲ』の報告書3冊が刊行されている。 ということは‘発掘速報展’と呼ぶには時間が経ち過ぎている。まあ、今までの慣例でタイトルをつけてしまったということだろうか。けれども初日のギャラリートークでは、新鮮な発見もあったので良しとしよう。 発掘調査では、弥生時代から中世にかけての竪穴建物跡や掘立柱建物跡、横列や溝、土坑、道路遺構、中世墓などを含めて約2万か所の遺構が確認されている。とりわけ注目したのは幅3~5mの道路遺構である。香長中学校付近で道路遺構が出ているという話は以前から耳にしていたが、詳細はあまり知らなかった。それもそのはず、遺跡名と結びつかなかったのだ。
南海道土佐国における古代官道の遺構といえば、「祈年遺跡」における幅6mの南北道。それと昨年の発掘速報展「高田遺跡」の幅10.4mの東西道が注目されている。実は西野々遺跡の道路遺構はそれらに先行して発掘されていたものだ。古代官道とするには道路の規格としてワンランク落ちるようであり、「主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性」と判断している点はうなずける。 周辺の遺跡群との関連からも、この遺跡が持つ意義は大きい。西野々遺跡の南には、里改田(さとかいだ)遺跡があり、字「道源寺」の地名遺称が残る。これは『続日本紀』天平勝宝八年(756年)、「土左国道原寺」の記載と関連すると考えられている。 東には、1000人規模ともいわれる弥生時代最大級の田村遺跡群があり、『土佐日記』に書かれた紀貫之の寄港地「おおみなと(大湊)」は物部川河口付近に比定される(緒説あり)。北上すれば、長岡評の評衙関連施設ではないかと注目されている若宮ノ東遺跡や法起寺式伽藍配置の野中廃寺跡、そして土佐国府推定地 (土佐国衙跡)に達する。 遺跡名のインパクトの弱さのせいか、あまり注目されてこなかった「西野々遺跡」に再度目を向けさせた今回の発掘速報展。周辺での新たな発見が相次ぐ中、遅きに失したとはいえ、いいところにスポットを当てたタイムリーな企画だったかもしれない。 |
全国の一級河川の水質ランキングでも連年1位(国土交通省調べ)を記録している奇跡の清流仁淀川。その川沿いに拓けた吾川郡いの町は土佐和紙の産地としても有名である。春先には花見客でにぎわう仁淀川堤防桜堤公園のたもと。相生川が仁淀川に流れ込む川口付近に、いの町では数少ない竈戸神社の一つが鎮座する。 いののかみ この川ぐまに よりたまひし 近くには中世の荘園制度に由来する地名「今在家」もあることから、有力百姓とそれに連なる小作人で形成された集落があったことが想定される。堤防のすぐ内側にある竈戸神社は今在家の人々によって祀られてきたものだろうか。 |