忍者ブログ
  • 2024.04
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2024.06
吾川郡いの町の「厩ノ尻」は古代官道の駅家(うまや)跡か
 高知市朝倉の西に隣接する“土佐和紙”のメッカ吾川郡いの町。ここには古代官道の駅家(うまや)の存在をにおわせる「馬ヤノシリ」地名がある。アニメ映画『竜とそばかすの姫』の舞台として有名になったJR伊野駅の南西、早稲川西岸で伊野中学校の近くの場所だ。

 岡本健児氏が「地検帳から見た土佐の郡衙」(『土佐史談159号』土佐史談会、昭和57年5月)の中で、吾川郡の郡家を伊野町(現いの町)に比定したのは『長宗我部地検帳』に見える「大リャウ(大領)」などの地名が根拠になっている。それを補足すべく、伊野村地籍図で「厩ノ尻」を確認した後、「大領は県立伊野商業高校北の小高い場所にあり、厩ノ尻は町立伊野中学校の近くである」と結んでいる。

▲おおよそ上が東、左が北
 「〇〇ノ尻」は〇〇跡を意味すると考えられ、「厩ノ尻」は「厩(うまや)跡」ないしは「駅家(うまや)跡」を示す地名遺称として、高知県下に数か所存在している。それが中世のものか、古代まで遡れるかについては慎重に議論すべきところだが、郡家比定地とセットで存在するケースがいくつか見られる。
 南海道の土佐国府に通じる古代官道に関しては、718年以降は阿波国経由。それ以前は伊予国経由であったと考えられている。古い段階の伊予国経由の官道がどこを通っていたかについては、いくつかの説があって、いの町に吾川郡家があり、「厩ノ尻」が古代官道の30里(約16km)ごとに配置された駅家跡であったとすれば、ルートを推定する上で重要な定点となる。
 この経路が有力な点は、土佐神社(一宮)――朝倉神社(二宮)――小村神社(二宮;三宮とする説あり)という歴史ある延喜式内社および国史現在社を経る東西線上にあって、現在もJRや国道33号線が通る比較的直線的な交通路であることだ。小村神社の創建については「勝照二年(587年)」という九州年号で記録されている点は、これまで言及してきた通りである。
 その一方で、古代寺院である大寺廃寺(春野町西分)や野田廃寺(土佐市高岡町丙)はそれよりも南方にある。ともに素弁蓮華文軒丸瓦が出土した7世紀に遡りうる寺院である。他県の事例でも、古代寺院は古代官道付近に建立されることが多く、大寺廃寺跡のさらに南方、春野町秋山に吾川郡家を比定する説も出されている。先の岡本氏自身も大寺廃寺跡付近に郡衙関連施設が発掘される可能性について言及している。
 これらを状況証拠とするならば、高知市春野町(旧吾川郡)――土佐市を経由する南方ルートの可能性も見えてくる。四国八十八か所遍路道が春野町や土佐市を通っていることも、その有力な根拠と考えられる。すなわち古代官道の多くは、後の四国八十八か所遍路道に引き継がれていったという指摘である。
 718年以前の伊予国経由の古代官道がどのようなルートを通っていたか。今後、発掘調査等で明らかになることが期待されるところだが、高知県における‘古代史の争点’の一つである。


拍手[2回]

PR
【2022/04/18 10:54 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
新刊・古田史学論集第25集『古代史の争点』の中身は?
 毎年3月下旬に刊行される「古代に真実を求めて」シリーズの最新刊・古田史学論集第25集『古代史の争点』がついにお目見えした。期待していたイメージとはやや異なっていたが、その内容を簡単に紹介しておこう。追って『新・古代史の扉』や明石書店のホームページ等でも取り上げられることだろう。
古代に真実を求めて
古田史学論集第25集
『古代史の争点 ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―』

<目次>
【特集】
古代史の争点
ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―
◆「邪馬台国」大和説の終焉を告げる
 ー関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』 の気概ー
◆「邪馬台国」が行方不明になった理由
◆伸弥呼・壹與から倭の五王へ
◆二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」
◆聖徳太子と仏教
 ―石井公成氏に問う―
◆「鴻朧寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について
 ―『日本書紀』に於ける所謂「推古朝の遣隋使」の史料批判ー
◆九州王朝と大化の改新
 ー盗まれた伊勢王の即位と常色の改革ー
◆九州王朝の全盛期
 ー伊勢王の評制施行と難波宮造営ー
◆王朝統合と交代の新・古代史
 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
◆王朝交代の真実
 ―称制と禅譲ー
◆中宮天皇
 ー薬師寺は九州王朝の寺ー
コラム①『鬼滅の刃』ブームと竈門神社
コラム②小野妹子と冠位十二階の謎
コラム③教科書から聖徳太子は消えるのか?
コラム④北部九州から出土したカットグラスと分銅



 裏表紙のキャッチコピーは次のような内容になっている。
奴国とされた場所に邪馬壹国はあった
聖徳太子は二人実在した
倭国改革の立役者その名は伊勢王
なぜ薬師寺は二つあったのか?
古代史の争点を多元論で読み解く
 あえて各論考のタイトルのみを記すにとどめておいたが、今回の第25集『古代史の争点』は「古田史学の会・関西」の四天王による共著という色合いが強い。古田史学の中心テーマに絞ったため、バラエティー感には欠けるが、「邪馬台国大和説」の矛盾点を明確に指摘し、「多元史観・九州王朝説」という歴史観を明示し、学術的にはレベルの高いものになっている。

拍手[1回]

【2022/03/27 20:18 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
小村神社の棟札写真――本当に九州年号「勝照二年」か?
 「地方史を多元史観で読み解く」――これは簡単なことではない。とりわけ土佐国(高知県)において中世以前にさかのぼれる史料は少なく、古代についてはなおさら希少である。多くの県でかかえている悩みでもあろう。そんな中でも長野県における吉村八洲男氏の研究は、古田史学をベースとした多元的地方史研究の方法論として、大いに参考にさせてもらっている。ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に「科野からの便り」シリーズと題して連載されているので、ご参照いただきたい。
 さて、小村神社(高岡郡日高村下分小村1794)の始鎮「勝照二年」という九州年号の存在は、土佐国古代史を多元史観で読み解く上で嚆矢(こうし)となる発見(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1”)であった。これに対して、「近畿天皇家以外に年号なし」という一元史観の立場から疑問視する向きもあろう。それだけに、その年号が書かれている「貞和三年(1347年)棟札」の文面を実際に見てみたいと思っていた。この棟札は現存する県内棟札最古の「仁治元年(1240年)棟札」に次いで2番目に古いとされる。もちろんそこには、同時代性が疑問視されている「斉明六年棟札」「大宝二年棟札」などは含まれていない。
 そんな折、その棟札の写真が偶然にも『伊野史談50号』(伊野史談会、平成12年3月)に掲載されていたのである。墨書は摩滅が著しく、岡本健児氏は赤外線照射によって棟札に記された文字を確認したとある。「小村神社の仁治・貞和の棟札」と題する論考で、次のように紹介されている。
 「上棟正一位二宮小村大天神造営 番匠左兵衛尉藤原弘次 鍛冶権守掃部員氏 當天神者去勝寶二年當國御影向之後天平寶字三年被始行御船遊……(中略)……
右意趣者生金輪聖王天長地久國吏安穏并将軍家繁昌家門泰平万民快楽乃國法界平等利益    貞和三年丁亥
十一月十五日」

 岡本氏は大意についても、次のように説明している。
 この度、正一位二宮小村大天神の上棟、造営を行なった。大工は左兵衛尉藤原弘次、そして、鍛冶は権守の掃部員氏である。さて、当小村天神社は天平勝宝二年(七五〇)に土佐国に影向(ようごう)している。 影向は神の来現を云う。その後天平宝字三年(七五九)には、始めて御船遊びをされる。……(後略)……
 これを読む限りでは「勝照」年号など、どこにも見当たらない。『土佐国群書類従 巻一』『高岡郡日高村資料調査報告書』など、岡本氏と同様に「當天神者去勝寶二年當國御影向」と記載している活字本も多い。これに対して「當天神者去勝照二年~」というように「勝照二年」と書かれている文書もある。『高知県神社明細帳』および『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)などである。
 おそらく原文は「勝照二年」の形であろう。中間的な形態として、「勝照二年」の「照」の字の右横に(宝カ)と註書きしてる文献も存在することから、「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。しかも初出で「天平」を省略した「勝宝」と表記し、2番目の「天平宝字」年号は省略なしという書き方には矛盾がある。
 写真を見る限りでは、確かに「勝照」か「勝寶」か判断がつかない。とりわけ2文字目はほとんど見えていないようだ。そのため岡本氏は『土佐国蠹簡集木屑』(寛政初年―同六年の間の編)・『南路志』(文化十年編)の同棟札文も参照したと書かれている。どちらも「勝宝」と書かれている文献である。
 しかし、より古い段階では文字が判別できていたはずであり、その意味でも江戸時代前期の儒者・谷重遠(号は秦山、1663~1718年)の『土佐遺語』における「勝照」表記のほうが信頼できると言えるだろう。彼の「小村社造替勧縁疏」では「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國」と考察されており、「勝照二年=用明天皇二年(587年)」説をとっている。原文が「(天平)勝寶二年」だったとしたら、孝謙天皇の治世なので全くのナンセンスである。
 これが根拠となって小村神社の縁起等も用明天皇二年(587年)創建という立場をとっているようだ。けれども九州年号としての「勝照二年」であれば実際は586年であり、1年のずれが生じている。原文が「勝照二年」であることの確認と、その上での正しい歴史像を形成していく必要があるだろう。

 現在、社殿前にある神社の案内板には「用命帝の2年」と誤字が放置されたままになっている。暗に「用明天皇などではない」との気概が込められているのかもしれないが、訂正される際には「勝照二年(586年)」と正しい伝承を伝えてほしいと願う。

拍手[1回]

【2022/03/24 11:31 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
吾川郡いの町天王ニュータウンの地名由来は「天王山」
 「5五の位は天王山」という将棋の格言がある。現代将棋では穴熊囲いに代表されるように、低く構えて、細い攻めをつなげ、大さばきを狙う戦い方が主流となり、私が好んで指していた五筋位取り戦法などはすたれてしまった。
 天王山という山は実在していて、最も有名なのは京都府乙訓郡大山崎町にある。かつては西側の山腹を摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、南北朝の争乱や応仁の乱でも、戦略上の要地として奪い合いの舞台となった。なかでも、1582年に織田信長を討った明智光秀と、その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして、「天下分け目の天王山」と表現された。

▲吾川郡いの町天王ニュータウン

 前置きはそれくらいにしておいて、昨年(2021年)9月に『肥さんの夢ブログ』で “日本各地にある「天王」”というタイトルで、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンの地名を紹介していただいた。その際、「いの町の天王は、何に由来するものでしょうか?」との質問をいただいていたが、正確なところが分からず、そのままになっていた。このほど有力な情報が見つかったので報告させていただきたい。
 『伊野史談第50号』(伊野史談会、平成12年)に大岩稔幸氏の「天王・八坂神社建立の経緯」という記事があった。天王という地名について、元伊野町会議員・森沢豊吉翁(平成11年没)の話が紹介されている。「天王地区には天王山、天王ヶ谷という字(ほのぎ)があった。山は削られ、谷は埋められたため、現在は山も谷も消滅している。『天王』という名前は新たに勝手につけた団地名ではない。天王山という山があったので、関係者全員が『天王』という名前がよかろうという事になった」という。
 ここに登場する天王山は関西の山ではなく、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンにおける話である。旧高知八田街道にある鳥越峠に沿って北側に聳える三角に尖った山であった。そしてこの山を含む北側の字をも天王山、下の字を天王ヶ谷といった。この天王山は造成地第一の高地であったが、昭和61年工事が始まって、2ヵ月ではやくもその面影は消失したと記録されている。
 その山にはかつて祇園様(牛頭天王)が祀られていて、後に現在の八田天王島に移転したという。昔は八坂神社と言われていたが、いつの間にか中島神社になった。すなわち、この牛頭天王および天王山が「天王ニュータウン」の地名由来ということになりそうだ。

▲いの町八田の中島神社(祇園様)

 天王ニュータウンは八田地区(吾川郡)と池ノ内地区(旧土佐郡)にまたがって新しく造成された町である。したがって天王地区には産土神(うぶすながみ)としての氏神様というものがなかった。この天王ニュータウンという名称の由来となった「祇園様」を再度天王地区に招来し、氏神様としてお祀りしようという試みがあったが、八田からUターン分祠はかなわず、結局京都の八坂神社からⅠターン御霊分けとなったようだ。
 
平成12年に遷座された天王八坂神社は八田の境谷の東隣りで、天王南七丁目にも接する池ノ内木屋ヶ谷に鎮座する。この八坂神社を天王地名の由来とするには新しすぎると感じていたが、以上のようないきさつがあったわけである。
 昭和29年の市町村合併により、八田も池ノ内も同じ吾川郡伊野町に合併されて、2004年(平成16年)に吾北村、土佐郡本川村を新設合併。その際、現在の平仮名表記「いの町」になった。



拍手[4回]

【2022/03/19 20:04 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
天晴年号と鼓鳴山の森神社ーー高知市春野町西畑
 仁淀ブルーとして県外にも知られるようになった仁淀川。その河口に位置する高知市春野町西畑地区は「西畑人形」の発祥の地である。高知県では人形を「デコ」といい、人形芝居を「デコ芝居」といっていた。明治~大正期には農民が一座を組み、最盛期には34座が活動したという。農閑期には四国内のみならず 中国・九州方面でも興行を行い人気を博した。
 昭和に入って次第に衰退し、戦後は全く見られなくなったが、1996年に「西畑人形芝居保存会」が発足し、春野町西畑の岐(ふなと)神社の夏祭り(旧暦6月25日)などで活動が復活した。西畑バス停の近く、「介護予防施設高知市春野デコの里」の前には「西畑人形発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。

▲春野町西畑の森神社が鎮座する鼓鳴山

 岐神社には何度か足を運んだことがあるが、西畑地区には岐神社の他に、近くに森神社が鎮座しているはずだ。以前来たときは見つけられずに帰ってしまったが、岐神社の春祭りの日の夕刻、何かに誘われるままに森神社へと向かった。山の登り口に森神社の案内板があった。後から知ったことだが、岐の谷の東側の山を鼓鳴山(こめいざん)といい、岐の里では真夜中にこの山から鼓の音が聞こえてくるという話が伝わっている。
 この鼓鳴山の頂き近くに小さいお宮さんがあります。古くから不入〔いらず〕権現〔ごんげん〕と呼んでいますが、文書の上では森神社となっています。祭神は谷の西側にある岐神社の祭神の姉神様だそうです。不入権現というのは、前は女人禁制となっていたからだろうと思いますが、昔から女性がこの山にはいると大雨になる、といわれています。(『はるの昔ばなし』「鼓鳴山」より)
 入山して、はたと困った。道がないのである。断片的には道らしきものがあるが、つながっていない。崩れやすい急な斜面で、倒木もある。正規ルートでないところから入ってしまったのだろうか。滑落する危険も考えないではなかったが、下山するときは分かりやすい道に出れるだろうと期待して、そのまま道なき道を登っていった。
 そこまでして森神社にこだわったことには理由がある。春野一帯を支配していた国人領主としての吉良氏は、戦に敗れて戦国期には衰亡した。吉良氏に与(くみ)した森山氏も森氏へと姓を変えて命脈を保ったとされる。
 実は、その森氏に関係する神社が、春野町西諸木にある2つの神社「森神社」「御山所神社」ではないかという推測があった。まるで、かつての「森山」姓を「森」と「山」に分けて祀っているかのようである。ブログで紹介した際は私年号をテーマとして、“「天政」年号を刻んだ手水鉢――高知市春野町西諸木の森神社”、“御山所神社にもう一つの「天晴」年号――高知市春野町西諸木”という形で取り上げた。実際に西諸木には数軒の「森」さんが住んでおられるようだ。機会があれば森山氏をルーツとしているかどうか調べてみたい思いもある。
 一方、西畑の森神社はどうなのか。森神社を山に祀るという点でいえば、これも「森山」につながるという連想もできる。しかしながら、西畑地区では森姓は電話帳にも出ていない。

 道なき山の急斜面を尾根まで登ると参道らしき道が現れた。少し行くと、扁額に「森神社」と書かれた鳥居がある。その左脇の立て札にも何か記されていた。「奉納 天晴一五三年五月吉日予定 芳実」ーー知識がなければ意味するところが分からないことだろう。「天晴一五三年」とはいつのことなのか?

 これに関してはピンと来るものがあった。幕末土佐で使用された私年号である。もちろん国家主権が定めた正規の年号ではないが、土佐では明治維新よりも1年早く、天晴年号が民間で用いられた。すなわち天晴元年=1867年ということが知られている。当然ながら「天晴一五三年」などは架空の年号ということになるが、春野町西諸木の森神社や御山所神社の「天政」「天晴」年号を知る人のウイットか、あるいはルーツや思想を共有する者たちによる何らかの意図が感じられた。
 一応「天晴一五三年」がいつになるか計算してみると、1867年を元年として、1867+153-1=2019年。ほんの3年前だ。現在では西畑の森神社は夏祭りしか行われていないと聞く。
 さて、夕日も傾き、暗くなる前に下山しようと道を探したが、やはり迷ってしまった。登ってきたルートよりもさらに南方の山の急斜面を恐る恐る下っていった。標高がさほど高くなく、無事民家の脇道に出られたから良かったものの、あまり人に勧められたものではない。けれども今回、「天晴」年号を用いた幕末土佐の志士たちの精神が春野町西畑の地にも受け継がれていることを垣間見た気がした。


拍手[2回]

【2022/03/11 01:04 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
『南路志』に記録された「朱鳥3年」
 これまで『皆山集』(高知県立図書館発行:原本は明治時代、高知県庁で高知県史料などの編さんに従事していた松野尾章行が集録した史料集)をメインに、いわゆる「九州年号」を発見してきた。一方、1815年(文化十ニ年)高知城下朝倉町、武藤到和・平道父子が中心となり編纂された『南路志』には「九州年号」はないだろうと思っていた。もちろん『日本書紀』からの引用としての「白鳳」などは随所に見られるが、それはものの数には入れられない。同様に「天武天皇朱鳥元年八月丁丑、為天皇體不豫、祈于神祇」(『南路志 第1巻』P167)なども、『日本書紀』の引用としての「朱鳥元年」であるからノーカウントだ。
 ところが、それに続いて「同書曰 持統天皇朱鳥三年七月辛未、流偽兵衛、河内國澁川郡人、柏原廣山、于土左國」とある。配流に関する記事だ。この「朱鳥三年」とは何なのだろうか。


 現在の『日本書紀』によるならば、天武天皇十五年(686年)に朱鳥元年となっており、朱鳥の元号はこの年限りで、翌年からは持統天皇元年になる。しかし、『万葉集』左注が引用した日本紀の記述に持統天皇の時代の記事に対してまで、朱鳥の元号(朱鳥四年、六~八年)が用いられているのである。
 万葉集に引用された日本紀は、現存日本書紀そのものではなく、寧ろ年の干支や朱鳥の年号などが書かれてあった本ではなかったのか。あるいはまだ一部に整理整頓の残されていた未完成な草稿本のようなものであったのかもしれない。(並木宏衛氏 「万葉集巻雑歌と日本書紀」より)
 これに対し、『南路志』では「持統天皇朱鳥三年」として持統天皇三年の記事をそのまま引用していることから、編者は「朱鳥三年=持統天皇三年」つまり朱鳥は持統天皇の年号のようにとらえていることが判断できる。これは江戸時代における尊皇派の儒者の思想によるものだろうか。土佐南学派の谷秦山(重遠)が「勝照二年=用明天皇二年」と考えたこと(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1”)と背景が似ている。すなわち、「天皇家以外に年号なし」という一元史観に基づく歴史認識である。

 だが、問題はそれだけにとどまらない。“朱鳥二年の天満宮の宝刀はいずこへ①”で紹介したように、潮江天満宮の宝刀に「朱鳥二年」が刻まれていることが『皆山集①』に記録されている。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)
「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀   土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有   匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
 これが本物であれば金石文扱いの一級史料となるが、仮に偽造されたものであったとしても、それが製造された時点で朱鳥年号が元年だけではないという認識があったことになる。『南路志』の「持統天皇朱鳥三年」についても同様のことが言える。すなわち、朱鳥年号は元年のみでなく、複数年続いたという認識である。
 『日本書紀』編者は隠そうと試みたかもしれないが、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』などいくつかの文献にその痕跡が残っており、抹消することはできなかったようである。近畿天皇家に先行する九州王朝による「九州年号」の痕跡を……。持統天皇、文武天皇は改元を行わず、通説では「大宝」建元(701年)までの15年にわたって元号は断絶したことになっている。
 

拍手[2回]

【2022/03/06 20:20 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎⑨――結論は「保司分」由来
 “高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎”と銘打って、地元ネタで長々と論じてしまった。そろそろまとめておこう。最も有力な結論としては「保司分」由来ということになりそうだ。他の可能性も消えたわけではないが、中世的所領単位「保」の管理者である保司の所領「保司分」が「宝司部」地名のルーツであったと考える。これが論理的にも史料的状況からも一番可能性の高い結論として提示したい。
 では、実際に「保司分」という言葉が使用された例が存在するのであろうか。正平十五年(1360年)に書かれた「塔婆丸船差荷支配状」(東大寺文書二十一<一四五七>)を見ると、「得善保司分」「安田保司分」などの記載がある。使用例としては、やや意味を異にするようだが、14世紀当時は普通に使われていた言葉だったことが分かる。16世紀の『長宗我部地検帳』との時代的な隔たりも、適当な距離感ではないだろうか。
▲「塔婆丸船差荷支配状」正平十五(1360)年

 また、開発を受け負った在地領主が保司の下で公文職に任じられたとされる。春野町には「公文」姓の方がおられ、『長宗我部地検帳』にもすでに「公文孫九良」などの名が見える。職業から苗字に転化したパターンである。プロ棋士の羽生善治永生7冠、山下敬吾九段などがお世話になったという「やってて良かった公文式」の公文公(1914ー1995年)社長も高知県出身である。さらには「宝司部」地区の大半が屋敷地となっていたことからも、保司の所領としてふさわしい価値の高い土地であったと考えられる。


▲門屋貫助屋敷跡

 その西側にある春野町西分一帯は縄文・弥生時代からの遺跡も多く、古代寺院・大寺廃寺の存在も知られており、古くから拓かれていたことが分かる。これに対して、東側の低湿地で開墾に労力を要したと推測される芳原方面が「保」として開発の対象となったのではないだろうか。
 もともと荒野の開発は三年間の「地利免除」、「雑公事免除」をうけ、開発後は開発者をもってその土地の主とする慣習が、十二世紀に一般化しており、開発された田地をもって給田にあて、また年貢・公事を免ぜられた馬上免とすることがしばしばみられるのは、そうした慣習にもとづくものであったことはいうまでもない。しかしそうした慣習を足場にして、在地領主の開発に強力な保障を与えたのは鎌倉幕府――源頼朝であった。(『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』P119より、網野善彦著、2008年)
 この春野町芳原周辺一帯を「保」として開墾していく、まさに橋頭保となったのが「宝司部」地区だったと考えられる。その時期がいつ頃であったかを検証するのが今後の課題でもあり、春野町の歴史を解き明かしていく上で重要な問題となってきそうだ。
 当初期待していた古代までは遡(さかのぼ)れないようであるが、地名遺称「宝司部」には、その名の通りに春野町の歴史をひもとく宝が隠されていた。「宝司部」は中世の所領「保司分」に由来する地名だったのである。『長宗我部地検帳』の段階では、既にその制度はすたれ、地名化してホノギ「ホウシフン(分)」として記録されることとなった。やがて、その意味は忘れ去られ、音のみが伝えられ、好字に置き換えられて現代に至ったのだろう。


拍手[2回]

【2022/02/21 11:40 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
吾川郡いの町大内の天満宮――天神は菅原道真か?
 大学時代を過ごした福岡市。中央区天神の交差点では『通りゃんせ』の音楽が信号音として流れていて、まさにご当地アイデアといったところで、ちょっと粋だと感じていた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
 その記憶からか、天満宮に向かう時、脳内でこの音楽が自然と流れてくる。「仁淀ブルー」で有名になった仁淀川右岸、土佐市から吾川郡いの町へ抜ける土佐伊野線。その道沿いに、いの町大内の天満宮の鳥居がある。

 かつては受験生のための合格祈願もあって、九州の太宰府天満宮へよく行っていたものだが、近年はコロナ禍にあって、しばらく参拝できていない。そういう理由もあり、以前から気になっていた近場の天満宮へと向かった。
 「天神さま」といえば一般的には、学問の神様として祀られる平安時代の菅原道真(845-903年)公のこととされているが、本当だろうか。八幡宮に次いで、高知県で2番目に多い神社が天満宮である。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)には、県内の144社が紹介されている。
 かつて土佐国(高知県)は、菅原道真に連座して長男の菅原高視が左遷されている。また菅原道真が立ち寄ったという伝承もあり、小筑紫といった地名も存在する。確かに無関係というわけではないが、そこまで道真公を信仰する必要があるだろうか。

 菅原道真については尊敬すべきところもあり、学問の神様としてあやかりたいところではあるが、これだけの広がりを見せる天神信仰が単なる一個人を崇拝するものとは考えにくい。もしかすると、道真以前から北部九州を中心として存在していた、歴史的に古い淵源を持つ信仰なのではなかろうか。
 真理探究の道は細く険しい。「ここはどこの細通じゃ 天神さまの細道じゃ」――『聖書』にも「狭き門からはいれ。……命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書7章13・14節)とある。
 ふと、天満宮への道脇に白梅の木があるのが目にとまった。東日本では雪。高知県では雨となった日曜日。たくさんのつぼみの中に、すでに咲いている花があった。天神さまのご利益かどうかは分からないが、翌日、予期せぬ2人の大学合格の嬉しい報告を聞くことになろうとは……。



拍手[2回]

【2022/02/14 11:25 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎⑧――土佐国の「保」分布
 前回までの考察で、中世の所領単位「保」の管理責任者である保司の得分、すなわち「保司分」を「宝司部(ほしぶ)」地名の由来とする仮説が浮かび上がってきた。「保」及び「保司」については、高校の教科書『詳説 日本史』にも書かれている。
 関白藤原頼道には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。個性の強かった天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ)らの学識にすぐれた人材を登用し、強力に国政の改革に取り組んだ。
 とくに天皇は荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫しているとして、1069(延久元)年に延久の荘園整理令を出した。中央に記録荘園券契所(記録所)を設けて、荘園の所有者から提出された証拠書類(券契)と国司の報告とをあわせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準にあわない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、整理令はかなりの成果を上げた。
 この荘園整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園を整備していった。国司は支配下にある公領で力をのばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また、田所・税所などの国衙の行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮のもとで次長官人に実務をとらせた。(P86~87)
 簡単に言うと「保」は国衙領であり、鎌倉時代にあっては幕府の直轄領(天領)にも相当するようだ。問題となるのは春野町に中世の所領単位「保」が実在したのかという歴史的事実である。
 『吾妻鏡』によれば、文治二年(1186年)、源頼朝が平康頼を阿波国の天領麻植(おえ)保の保司に任命した記録が残されている。土佐国においても「荘園や保・別府などが土佐中央部(現在の高知市内)に集中し」(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』P115)たのが、11世紀後半から12世紀とされている。具体的には香美郡の香曽我部保・菟田保・徳善保、土佐郡の潮江保、高岡郡の津野保などが知られている。吾川郡にも「保」があったことが立証されれば新発見となる。
 『国史大辞典』「保司」の項には「官務小槻隆職が多くの官厨家領便補保の保司となったごとく、在京の領主(京保司)も少なくなかった。京保司の場合は現地で開発を受け負った在地領主が保司の下で公文に任じられた」とも書かれていた。小槻隆職(おづきのたかもと、1135~1198年)は若狭国国富保をはじめ数多くの官厨家領の便補保(びんぽのほ)を、功力を投入して開発しているが、その中の一つに「土佐国吉原荘」があった。『壬生家文書』に「源包満より伝領し、隆職が自ら開発し、建久9に子孫相伝」といった内容が記録されている。

▲春野町西分宝司部の田園風景

 春野町西分の宝司部周辺がかつて「保」であったとすれば、それがいつ成立したものなのか。保司となったのは誰か。在京の京保司だったならば、現地で開発を請け負った在地領主は誰なのかなど、新たな疑問が沸き上がる。春野町の歴史を研究する上で大きなテーマとなりそうだ。





拍手[3回]

【2022/02/09 00:00 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎⑦――中世の所領「保司分」
 「宝司部」「法司分」「法師分」など、これまで順番に考察してきたが、正直なところ決定打といえる論証はできなかった。まだ何か見落としているものがあるのかもしれない。
 もう一度整理してみよう。現在は「宝司部(ほしぶ)」と呼ばれている地名であるが、古い文書や地図には「法司分」「法師分」などと表記されているものもあった。さらに遡(さかのぼ)って、16世紀末の『長宗我部地検帳』には「ホウシフン(分)」と記録されている。漢字表記は色々と揺れているので、後に好字があてられている可能性があり、後代の漢字表記に引きずられないようにしなければない。とは言え、地名の語源としてよくありがちな「傍示(ぼうじ)」由来も妥当性が低いようであった。
 完全に行き詰ってしまって、藁(わら)にもすがる思いで『国史大辞典』を開いてみた。「ほ」で始まる言葉を探してみると、「保司」という言葉が飛び込んできた。これは天啓なのではないか。「保司」について次のように書かれている。
 「平安時代後期に出現した中世的所領単位の一つである保の管理責任者。保は未墾地の開発申請に基づき国司の認可を得て立てられるが、その際、立保の申請者は国司に任じられ、開発勧農を前提として官物徴収の権限を掌握し、また保内から雑公事を徴収して得分とする権利を与えられた」
 この保司得分、つまり「保司分」が「ホウシ分」、そして「宝司部」地名となったのではないか。これまで「宝司」「法司」などの漢字に引きずられて思い至らなかったが、音で当てはめたとき「ホウシブン」とも読め、現在「ほう」と伸ばさずに「ほしぶ」と呼ばれていることと良く符合する。「宝」や「法」では「ほ」とは読めない。『長宗我部地検帳』(16世紀末)の段階で地名化しホノギとして記載されていることから、それ以前の時代にルーツを持っているはずである。平安時代後期から鎌倉時代ごろの成立であれば、年代的にも適合する。

 中世的所領単位の一つである「保(ほう)」について、『国史大辞典』には「平安時代後期に現れ中世を通じて存在した所領単位。荘・郷・保・名(別名(べつみょう))と並称された。十一世紀後半のころ律令制的郡郷制の解体とそれに伴う国衙領再編の過程で、未懇地の開発申請に応じて国守が認可を与えることで出現し、開発申請者は保司に補任されて、保内の勧農、田率官物収納の権限を与えられた」とある。保の管理責任者が「保司」であり、その保司の得分、すなわち「保司分」を地名の由来とする仮説が浮かび上がってきたのだ。
 やっと新たな光明が見えてきた。俄然これからの検証作業に力が入りそうである。

拍手[2回]

【2022/02/06 00:03 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>