前回までの考察で、中世の所領単位「保」の管理責任者である保司の得分、すなわち「保司分」を「宝司部(ほしぶ)」地名の由来とする仮説が浮かび上がってきた。「保」及び「保司」については、高校の教科書『詳説 日本史』にも書かれている。
この荘園整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園を整備していった。国司は支配下にある公領で力をのばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また、田所・税所などの国衙の行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮のもとで次長官人に実務をとらせた。(P86~87)簡単に言うと「保」は国衙領であり、鎌倉時代にあっては幕府の直轄領(天領)にも相当するようだ。問題となるのは春野町に中世の所領単位「保」が実在したのかという歴史的事実である。 『吾妻鏡』によれば、文治二年(1186年)、源頼朝が平康頼を阿波国の天領麻植(おえ)保の保司に任命した記録が残されている。土佐国においても「荘園や保・別府などが土佐中央部(現在の高知市内)に集中し」(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』P115)たのが、11世紀後半から12世紀とされている。具体的には香美郡の香曽我部保・菟田保・徳善保、土佐郡の潮江保、高岡郡の津野保などが知られている。吾川郡にも「保」があったことが立証されれば新発見となる。 『国史大辞典』「保司」の項には「官務小槻隆職が多くの官厨家領便補保の保司となったごとく、在京の領主(京保司)も少なくなかった。京保司の場合は現地で開発を受け負った在地領主が保司の下で公文に任じられた」とも書かれていた。小槻隆職(おづきのたかもと、1135~1198年)は若狭国国富保をはじめ数多くの官厨家領の便補保(びんぽのほ)を、功力を投入して開発しているが、その中の一つに「土佐国吉原荘」があった。『壬生家文書』に「源包満より伝領し、隆職が自ら開発し、建久9に子孫相伝」といった内容が記録されている。
春野町西分の宝司部周辺がかつて「保」であったとすれば、それがいつ成立したものなのか。保司となったのは誰か。在京の京保司だったならば、現地で開発を請け負った在地領主は誰なのかなど、新たな疑問が沸き上がる。春野町の歴史を研究する上で大きなテーマとなりそうだ。 PR |
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