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高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎⑨――結論は「保司分」由来
 “高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎”と銘打って、地元ネタで長々と論じてしまった。そろそろまとめておこう。最も有力な結論としては「保司分」由来ということになりそうだ。他の可能性も消えたわけではないが、中世的所領単位「保」の管理者である保司の所領「保司分」が「宝司部」地名のルーツであったと考える。これが論理的にも史料的状況からも一番可能性の高い結論として提示したい。
 では、実際に「保司分」という言葉が使用された例が存在するのであろうか。正平十五年(1360年)に書かれた「塔婆丸船差荷支配状」(東大寺文書二十一<一四五七>)を見ると、「得善保司分」「安田保司分」などの記載がある。使用例としては、やや意味を異にするようだが、14世紀当時は普通に使われていた言葉だったことが分かる。16世紀の『長宗我部地検帳』との時代的な隔たりも、適当な距離感ではないだろうか。
▲「塔婆丸船差荷支配状」正平十五(1360)年

 また、開発を受け負った在地領主が保司の下で公文職に任じられたとされる。春野町には「公文」姓の方がおられ、『長宗我部地検帳』にもすでに「公文孫九良」などの名が見える。職業から苗字に転化したパターンである。プロ棋士の羽生善治永生7冠、山下敬吾九段などがお世話になったという「やってて良かった公文式」の公文公(1914ー1995年)社長も高知県出身である。さらには「宝司部」地区の大半が屋敷地となっていたことからも、保司の所領としてふさわしい価値の高い土地であったと考えられる。


▲門屋貫助屋敷跡

 その西側にある春野町西分一帯は縄文・弥生時代からの遺跡も多く、古代寺院・大寺廃寺の存在も知られており、古くから拓かれていたことが分かる。これに対して、東側の低湿地で開墾に労力を要したと推測される芳原方面が「保」として開発の対象となったのではないだろうか。
 もともと荒野の開発は三年間の「地利免除」、「雑公事免除」をうけ、開発後は開発者をもってその土地の主とする慣習が、十二世紀に一般化しており、開発された田地をもって給田にあて、また年貢・公事を免ぜられた馬上免とすることがしばしばみられるのは、そうした慣習にもとづくものであったことはいうまでもない。しかしそうした慣習を足場にして、在地領主の開発に強力な保障を与えたのは鎌倉幕府――源頼朝であった。(『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』P119より、網野善彦著、2008年)
 この春野町芳原周辺一帯を「保」として開墾していく、まさに橋頭保となったのが「宝司部」地区だったと考えられる。その時期がいつ頃であったかを検証するのが今後の課題でもあり、春野町の歴史を解き明かしていく上で重要な問題となってきそうだ。
 当初期待していた古代までは遡(さかのぼ)れないようであるが、地名遺称「宝司部」には、その名の通りに春野町の歴史をひもとく宝が隠されていた。「宝司部」は中世の所領「保司分」に由来する地名だったのである。『長宗我部地検帳』の段階では、既にその制度はすたれ、地名化してホノギ「ホウシフン(分)」として記録されることとなった。やがて、その意味は忘れ去られ、音のみが伝えられ、好字に置き換えられて現代に至ったのだろう。


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【2022/02/21 11:40 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
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