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今こそチコちゃんに問いたい――なんで師管は「師」管と書くの?
 中1の理科2分野「植物のからだのつくり」で茎の断面図が出てくる。ホウセンカなどの双子葉類の場合、根から赤色の水を吸収させると形成層より内側の管が赤く染まることから、水や肥料分の通る道管が内側にあることが分かる。水が通る管であるから「水―道管」と覚える。
師管
 一方、光合成により葉で作られた養分が運ばれる管は形成層の外側にあり、師管と呼ばれる。ところで師管の「師」って、どうして教師や師匠の「師」なの? ちょっと「イミフ(意味不明)」ではないですか。話はそれますが、東北地方の県名は「ああイミフや」と覚えます。青森県・秋田県・岩手県・宮城県・福島県・山形県の6県です。頭文字をつなげてみて下さい。覚え方なので深い意味はありません。
 本題に戻ろう。なんで師管は「師」管と書くのか? NHK総合テレビ『チコちゃんに叱られる』(毎週金曜 午後7時57分 | 再放送 毎週土曜 午前8時15分)に投稿してみたい内容である。
 「ねー岡村、この中で知ったかぶりの教師面している大人って誰?」
 5才のチコちゃんが上記の問いをゲストに投げかける。知らないでいると、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られることになる。
 このクイズ、もう10年ほど前から理科の授業で使っているネタの一つで、正しいかどうか、はっきりとは分からないが、たぶんこうだろうという結論を得ている。当然ながら、生徒に質問してもまともな答えは返ってこない。テストでは「師管」と書けば○がもらえるからと丸暗記して、その意味まで深く考えていない学生がいかに多いことか。
 でも、チコちゃんは知っています。なんで師管は「師」管と書くのか。――師管はもともと「篩(ふるい)管」と書いていたから。
 師管の構造を詳しく見てみると、管の途中に穴のあいたしきり板のようなものがある。まるで篩のようである。ケーキを作る時に小麦粉にだまができないようにふるいにかけるあの篩である。その構造をよく表した表記として師管のことを昔は「篩管」と言っていたが、「篩」は当用漢字にないため、竹冠を除いた「師」の字を当てて「師管」と書き表すようになった。すなわち、篩は古い漢字だから「師管」と表記されるようになって、その意味がわからなくなったのではないだろうか。


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【2019/04/18 01:45 】 | おもしろ授業 | 有り難いご意見(0)
長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布
 長野県千曲(ちくま)川水系に集中する高良神社についての情報をいただいたので、早速紹介することにしよう。以前に「長野県の高良社の分布」で紹介した12社のリストと一部重なるが、新たな発見を加えて、その数、何と現在では23社になるという。長野県内には大小2400余りの神社があり、神社総数は高知県とほぼ同数である。
 上田市の吉村八洲男氏の“「科野」の「高良社」と多元史観”(『TAGEN』2018年9月号)と題する論稿から、高良神社のリスト「十三社の概要」を引用させていただく。

【表】 十三社の概要

(所在地  神社名  主祭神名 「高良社」の状況 特記事項 八幡と若宮)
一、飯山市瑞穂 小菅神社 伊弉諾尊・他6神 「玉垂社」今は無いが『明治神社誌』にあり 白鳳8年 役小角創建社伝 柿本人麻呂歌碑あり 
二、長野市塩崎 軻良根古神社 誉田別命・他2神  石柱上の「高良社」石祠 八幡・若宮(共に石祠あり)
三、長野市松代 祝神社 生魂命・他2神(境内社に「応神天皇」あり) 「高良社」現在は無い、が『明治神社誌料』には掲載 合祀されて現在地へ 八幡社
四、須坂市小山 墨坂神社 品陀和気尊・他3神(a.) 境内社「高良社」 白鳳2年創建 社伝 八幡宮・若宮(境内社・額) 同市「芝宮」地にも同名社あり
五、千曲市八幡 武水別神社 誉田別命・他3神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 「さざれ石」あり 裏に「天神7代」「地神5代」神名・社 八幡命(地名も)若宮(額)
六、千曲市上山田 佐良級神社 誉田別命・他2神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 若宮(額・地名)
七、上田市本原 誉田足玉神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 八幡さま(口伝)
八、上田市国分 国分神社 応神天皇 境内社「高麗社」 国分寺の鬼門 八幡宮(額)
九、上田市下之条 葦原淵神社 大鷦鷯命(仁徳天皇だが応神天皇と同一人物とのこと) 「高良社」(樹の洞中) 本殿「若宮八幡宮」表示 八幡・若宮(社名・地名)
十、上田市下本郷 誉田別神社 応神天皇 境内社「高良社」・「高良玉垂命」あり 八幡宮(額)
十一、上田市五加 八幡大神縣社 誉田別神・他2神(a.b.) 境内社「高良社」「高良玉垂命」 拝殿あり(武内宿祢神) 八幡(社名)若宮(額)
十二、佐久市蓬田 浅科八幡神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良玉垂社」(武内宿祢 配祀) 八幡(社名)
十三、佐久市岩村田 若宮八幡社 誉田別命・他4神 「高良社」額・説明板にも明示 合祀あり(他に多くの神名) 八幡・若宮(社名)

(注記)
・神名は「誉田別神」を先頭に表記し直した。神名で多い「a.息(気)長足比売命(神功皇后) b.玉依姫(比売)命」は「他」に含めた。数字はこれを含めたものとなっている。

 現地を見てみなければいけないところだが、とりあえず私自身の高良神社探究の経験から感じることを少し言及しておきたい。


 ① 八幡神社摂社としての高良社が多い。平安期、石清水八幡宮の荘園時代ないしは戦国時代の勧請によるものか。高良神が八幡神の伴神とされ、若宮神社とともに八幡神社の脇宮として祀られるケースがある。これは全国的な傾向と類似する。

 ② 祭神が誉田別天皇(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依姫命の三柱となっている八幡神社については、高知県西部(高知県で唯一、四万十市蕨岡に単立の高良神社が残る)の八幡宮に多く見られるタイプと同型。
 ③ 鳥居付き境内社「高良社」はかつて単立の高良神社であり、明治39年の神社合祀令により整理された可能性がある。
 ④ 千曲川水系に集中しているところは、香川県の財田川水系に集中する分布と類似する。
 ⑤ 高良社の数としては多く、歴史が古いと推測される。単立の高良神社は残されていないが、「筑紫神社は高知県にもあった①」で紹介した筑紫神社(下伊那郡泰阜村字宮ノ後 3199)は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭神(相殿:誉別尊)として祀っており、他にも高良神を祀る神社が存在する可能性がある。

 いずれにしても筑後地方を除けば、他県に抜きんでた高良社の密集度であり、高良大社を擁する筑後地方ないしは古代九州と長野県とのつながりを否定することはできないだろう。長野県(科野国)は阿蘇神社の祭神ともつながりがあり、高知県の一の宮・土佐神社の「しなね様」とも語源的な関連(“土佐神社の「志那ね様」は支那にルーツ(根)をもつ?”)があるようにも感じられる。
 また、『鯰考現学』(細田博子著、2018年)にも紹介された要石を信仰する神社もあり、鯰(なまず)をトーテムとした「東鯷人(とうていじん)」の文化圏(“到底考えない東鯷人と鯰のつながり”)との関連もあるように思える。どこまで的を射ているか保証はないが、さらに地元における研究の進展に期待したい。



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【2019/04/10 23:37 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
金剛頂寺の寺領「宮原庄」はどこか?
 室戸岬に近い金剛頂寺(西寺)の寺領として「宮原庄」が存在していたことを以前紹介した("室戸岬・金剛頂寺の寺領「宮原庄」")。

 正安四年(一三〇二)一〇月に神供田の実検が行われ、当時の寺領として「島田庄・浮津庄・大田庄・池谷庄・宮原庄・安田庄」などの名が見える。いずれも浮津から北西の安田に及ぶ海岸の地と思われ、前述の寺記に「応永の比(ころ)迄ハ三千五百石浮津ヨリ海辺安田迄」とあるのは石高は別にしてもある程度裏付けられる。(平凡社『高知県の地名』より)


 ここに登場する宮原庄がどこにあるかと探していたところ、東洋町資料集・第六集『土佐日記・歴史と地理探訪』(原田英祐著、平成30年)に掲載されていた「室戸市字図」(室戸市役所)に目がとまった。室津港のすぐ北に「宮原」地名がある。これこそ「宮原庄」の痕跡に違いない……。鬼の首を取ったつもりになっていた。


 『長宗我部地検帳 安芸郡上』に当然出ているだろうと調べたところ、該当しそうな付近に宮原地名が見つからない。16世紀頃には存在せず、比較的新しい地名ということだろうか。いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」("土佐国(高知県)の「C(長宗我部)・Y(山内)ライン」"参照)で、ふるい落とされてしまったのかもしれない。

 室戸市出身の人に確認したところ、確かに「宮原(みやばら)」は存在するが、猫の額のような狭い土地で、八王子神社の関連であり、宮原庄とは無関係であろうとのことだった。
 よく考えてみれば、すぐ隣りが浮津であり、この辺りは「浮津庄」に含まれると見るべきか。やはり、地元の人による土地感というのは大切である。研究は振り出しに戻ったが、危うくとんでもない妄想に走るところであった。
 しかし一方で収穫もあった。『地検帳』に「安芸郡田野庄」の頁に「シマタ」(p550)がある。「島田庄」に由来する地名ではなかろうか。また「池ノ谷 下司名」(p564)も存在する。現在も奈半利川の西に池谷川があり、「池谷庄」に連なる地名と思われる。
 さらに安芸郡東寺地検帳の鹿岡村に「大タ」(p186)、室津地検帳の室津ノ村に「太タ」(p213)がある。ありふれた地名なので「大田庄」に比定できる確証はない。
 現在も使われている地名と合わせて、比定候補地をまとめると次の表のようになる。


島田庄旧田野庄シマタ(田野町)
浮津庄室戸市浮津
大田庄旧鹿岡村大タ or 旧室津ノ村太タ?
池谷庄旧田野庄池ノ谷(田野町)
宮原庄不明
安田庄安芸郡安田町

 そうなると、最後の関門がやはり「宮原庄」である。これまでの経験から、「宮原」地名が宗教的中心地との関連が深いことを考えると、安芸郡の延喜式内社のある室津神社(室戸市室津船久保3241)や多気坂本神社(奈半利町乙中里)の近辺が怪しいが、それらしい地名は今のところ見つかっていない。もうしばらく宿題とさせていただきたい。


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【2019/04/01 07:28 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
到底考えない東鯷人と鯰のつながり

 ホワイトデー(3/14)に佐賀嬉野温泉日帰りの旅をしてきた。と言っても、のんびり温泉に浸かったり、観光を楽しむためではない。のっぴきならない急用ができたためだ。
 もし、許されるものなら、研究テーマとなっていた太良町(淑人がいた「多良」はどこか?)や河上神社(佐賀県「與止姫伝説」の分析)など、寄りたいところは山のようにあった。ただ、嘉瀬川や脊振山系を見ることはできたので、ブログに書いてきたことが単なる妄想ではなかったと手応えは感じられた。また、折しもこの日に、佐賀県でも弥生時代の硯(すずり)が発見されていたことが報道されていた。

 さて、佐賀市大和町、嘉瀬川の上流に鎮座する肥前国一宮・與止日女(よどひめ)神社(別名・河上神社)には「鯰(なまず)」に由来する伝説が残っているという。『肥前国風土記』に、以下の記述がある。
 「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る」

 この魚がナマズと考えられており、祭神の使いであるナマズを土地の人は食べないという話を聞いていたので、本当にそうなのか、地元の人に質問してみた。
 「ああ、淀姫さんですね。長年地元に住んどりますけど、あんまり知らんとです。元々、ナマズを食べる風習自体なかけんですね」
 そう言われればそうだ。好んでナマズを食べている日本人が一体どれくらいいるだろうか? それよりは河上神社のことを本当に地元の人は「淀姫さん」と呼んでいるという事実を知ることができたのが新鮮だった。
 ナマズと言えば、後漢(一世紀前葉)の班固の書いた『漢書』地理志に、「倭人」と「東鯷人(とうていじん)」のことが対句のように記述されている。「鯷」は鯰(なまず)を意味する漢字である。

 「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」(楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」(会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 古田武彦氏も「東鯷人」問題ではかなり悩み考えた跡が伺える。『邪馬壹国の論理 古代に真実を求めて』(2010年)に、次のような考察があった。
 第二字「鯷」が難関だった。“東のなまずの人”では何とも奇妙だ。……「東鯷人」とは“東の一番はしっこの人”という意味になるではないか。
 ……(中略)……
 “倭人の、さらに東の一番はしっこに当たる、とされる「東鯷人」とは何者か”――その答えは、もはや疑う余地もない――“銅鐸圏の人々”である。(P249)

 古田氏は「東鯷人」の「鯷」について、第一義的な鯰との関連を否定してしまった。意味が通じないと考えたためであろう。しかし、意外にも鯰を祀る人々は肥前・肥後を中心にかなりの広がりがあった。
 民俗学の谷川健一氏も「この東鯷人はナマズをトーテムとする人種と解することが出来る」としてこの記事に注目。「それらの住む国がどこであるか不明とされているが、強いてそれをわが列島の中に求めるとするならば、九州の阿蘇山の周辺をおいて他にはない」と『古代史ノオト』(1975年) のなかで述べている。
 阿蘇には大鯰(なまず)の逸話が伝わっていて、阿蘇神社の祭神、健磐龍(たけいわたつ)命の「蹴破り神話」とも呼ばれる。昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったとされ、健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため、外輪山を蹴破る。そして湖の水は流れ出したが、大鯰が横たわり水をせき止める。健磐龍命はこの大鯰を退治し、湖の水を流すことに成功した。
 この大鯰の霊は、阿蘇の北宮と呼ばれる「国造神社」の鯰宮に祀られ、国造神社では鯰を眷属としている。『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)を見ると、阿蘇信仰をはじめとして、九州を中心に鯰をトーテムとした信仰の広がりがあることがよく分かる。


 東鯷人についての記載は「呉地条」の最後にある。この東鯷人は会稽郡治(今の蘇州付近)を通して貢献していることから、呉国との関係が強かったことは容易に想像できる。
 古く、呉人の風俗が提冠提縫とされる。提も鯷と同様、鯰の意。すなわち呉人は鯰の冠を被るという。BC473年、呉が滅亡したことで東シナ海を渡って九州方面に逃れた人々もいたようだ。中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。
 『漢書』地理志の記述は、呉地において「鯰」をトーテムにする人々がいることを周知の事実としながら、海の向こうにも、鯰を祀る「東鯷人」がいることを伝え、読者もそのように解釈することを予測した表記に思える。
 東鯷人を“銅鐸圏の人々”と結びつける古田説も魅力的ではあるが、「呉」との関係の深さを検討した上で、再考証を要する問題なのではなかろうか。


 

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【2019/03/27 11:18 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
春分の日に二倍年暦を考えた
 春分の日(3月21日)に『扶桑略記』を見ていたら「六十九年己丑四月,天皇春秋百歲,崩」のように「天皇春秋○○歳、崩」という記述がいくつかあった。昔の天皇は百歳も生きたのか。長生きだったんだなあ。なんてことを思う人もいるかもしれないが、この記述に遭遇して、これは「二倍年暦」なのではないかと考えた。
 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。


 古田史学の会・関西例会(2019年3月16日)が大阪市中央区のエル大坂で開かれた。「『扶桑国』はどこにあったか?」「古事記を歴史書として読む」など、NHKカルチャーの講師としても名高い神戸市の谷本茂氏から「二倍年暦」モデル想定案がいくつか発表された。その中でも蓋然性の高いモデルとして、次の計算式が示されている。

「二倍年暦」モデル

基本の1年*=180日(=15日×12)[1年*=12カ月*]
5年*に1回の閏月*(=15日)を置く。
180×5+15×1=915日/年* →平均183日/年*[366日/年]
*印は「二倍年暦」における年や月

 これは一月を15日とし、一年を12か月とするモデルで、春に1才歳をとり、秋にも1才歳をとるので、今の暦と比べると2倍の年齢になる。日本の伝統行事(お盆と正月)や風習(1日、15日の月次祭)などと照らし合わせても、あまり矛盾がなさそうである。有力な考えと言えそうだ。
 三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い(「縄文人はカレンダーを持っていたか?」)。その点から考察すると、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリなのではなかろうか。

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【2019/03/23 22:12 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
日本の神社は自然発生でなく「中国の社」が淵源ではないか

 以前から考えていたことだが、日本の神社には先例となるものがあったのではないだろうか。一般に神道考古学では、日本の神道は磐座(いわくら)や神木などの自然物を崇拝するところから自然発生的に誕生し、社殿や鳥居は後に造られたーーといった説明がなされる。

 自然の中に神様を見出し、崇敬する心は誰しもが持つ感情であり、そういう信仰心を否定するつもりはない。問題は神社組織が形成された時、国家権力の関与があったかどうかという点である。

 『古代中国の社 土地神信仰成立史』(E.シャヴァンヌ著・菊地章太訳注、2018年)を読むと、周〜漢代の「中国の社」に関する記述には、古代日本の統治制度と関係があるのではないかと思われる点が見られる。いくつか紹介しよう。
 里は二十五家からなり、そこにひとつの社がある。里には春二月の吉日に土地の社をまつることが義務づけられていた。(P10)

 古代日本では2倍の五十戸を里(さと)としていた。神社では春の大祭が行われる。

 天子は封建諸侯に国を封じるとき社稷を設けさせた。小司徒という官吏がそれを補佐した。[『周礼』によれば]九畿のそれぞれに「社稷の土壇を築き、土地の神とあがめる樹木を植える。土地ごとにふさわしい樹木を選んだので、それぞれの国の社は樹木の名で呼ばれた」という。(P11)


 神社には鎮守の森があり、神木が祀られていることもある。「杉尾神社」「松尾神社」など樹木の名で呼ばれる神社名が存在する。


 「……州長が管轄する地域では、社がひとつ置かれたが、稷は置かれていない。これは州長が師団長の役目をはたしたことにつながっている。古代には軍隊が出動するとき、師団長は社をかたどった[主という]板をたずさえたが、稷の板はたずさえなかった」とある。(P11)

 ご神幸やおなばれのルーツとも考えられる。お神輿は軍隊が出動する際に、神様を伴って行くための社をかたどった板に相当する。

 漢代には皇帝のもとでも、また諸侯の公国にあっても、社稷は周代の封建社会にすでに存在したのと同じ形態を示した。漢王朝の統治機構を採用したいくつもの王朝においても同様である。それは唐にいたるまでつづいた。(P12)

 「漢委奴国王」の金印を授かった倭国も漢王朝の統治機構を採用した可能性が高い。
 社のある場所には土壇が築かれた。(P15)

 古い書物は社の土壇を冢土と記す。……
 漢代に宮廷に置かれた社、すなわち太社は五十歩四方の土壇を有した。壇の四方にそれぞれの方角に対応する色の土が盛ってある。東は青、南は赤、西は白、北は黒、壇の上部は黄色い土である。諸侯の社はその半分の二十五歩四方の土壇を有した。その壇には領地の方角に対応するいずれかの色の土が盛ってあった。(P16)

 後漢の状況については蔡邑の『独断』の記述にあきらかである。すなわち「天子の社では五色の土によって壇が築かれた。……(P18)

 境内に相撲の土俵がある神社も多い。壇に相当するものがあった神社や天子宮の存在。「段」や「壇」地名もあると聞く。

 以上のことから、古代中国の影響を考えるべきであるが、神道は日本古来のものとされている建前上、認めたくない部分も多いだろう。けれども、日本は中国大陸との国交を通じて、政治や経済、文化など沢山の恩恵を受けてきた。
倭国時代に「中国の社」の制度を取り入れて、統治システムの一環として神社制度を創り上げていったとしたら……。
 里ごとに置かれた神社が、今に伝えられる産土(うぶすな)神につながるーーいわば古代における「一村一社(一里一社)」制である。


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【2019/03/21 08:18 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
住吉神社が『魏志倭人伝』の「一大率」とは?
 最新の「四国の高良神社分布図」(2019年2月現在)を発表したところ、「住吉神社についてはどうですか?」との質問を受けた。『古田史学会報』144号で「住吉神社は一大率であった」とする奈良市の原幸子さんの論稿がある。近畿は「住吉神社」を設置した時点から九州王朝の治世下にあったとする考察で、一見突拍子もないが、『住吉大社神代記』の分析による論拠は、一笑に付すことのできない内容がある。『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。
 「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
 すなわち、女王国の北側には、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国は畏(おそ)れている。女王は常に伊都国で治めており、中国(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだというのである。

 筑後国の一宮・高良大社の祭神に住吉大神が含まれており、九州王朝の水軍と関連があるのではないかというイメージは以前から持っていた。その住吉神社の分布が高知県ではどうですかとの質問の意図であろう。
 高知県のいくつかの住吉神社が浮かんだが、「資料を見てみないとはっきりは分かりません」と答えた。多いような、少ないような漠然としたイメージしかなかったが、『鎮守の森』(竹内荘市著、2009年)を開けば、神社数上位のランキング表があったので確認できると踏んでいた。


 ところが、実際に表を見てびっくり。10社以上のランキング表に載っていない。一桁しかないということだろうか。そこまで少ないというのは意外な気がして、すぐに数え上げることにした。その結果22社が確認できた。多いというほどでもないが、妥当な線であろう。しかし、なぜこれほどポピュラーな住吉神社がランキング表から漏れたのであろうか。
 『鎮守の森』は著者・竹内氏のフィールド・ワークと神社愛によって書かれた本なので、多少の漏れや間違いがあっても、文句を言う筋合いなどない。むしろ、県内の神社に関する基本資料を作っていただいて感謝するばかりである。
 調査結果としては、県内にバランスよく分布しているという状況が掴めた。一覧表を作成したので、ご
参考までに。


神社名現住所祭神
住吉神社香南市吉川町吉原住吉大神
住吉神社香南市夜須町手結底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社室戸市浮津町三筒男命
住吉神社安芸郡奈半利町横町底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社安芸市本町一丁目不明
四社住吉神社香南市吉川町吉原三筒男命、級津彦神
住吉神社南国市前浜不明
住吉神社南国市大埇船岡山底筒男命外三神
住吉神社高知市春野町甲殿上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、応神天皇
住吉神社高知市長浜三筒男命
住吉神社高知市池三筒男命
住吉神社高知市浦戸・桂浜三筒男命
住吉神社吾川郡いの町勝賀瀬三筒男命
住吉神社須崎市浜町一町目不明
住吉神社四万十市下田三筒男命
住吉神社高岡郡津野町水野筒男三柱命
住吉神社高岡郡中土佐町久礼底筒男命外四神
住吉神社須崎市上分乙樽三筒男命
住吉神社幡多郡大月町大浦三筒男大神
住吉神社土佐清水市下ノ加江三筒男神
住吉神社宿毛市山奈町山田三筒男命、神功皇后
住吉神社宿毛市小筑紫町小浦三筒男命

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【2019/03/20 10:00 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
愛媛県の阿蘇宮は久米評にあった

 『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)によると、阿蘇神社の分霊をお祀りした神社は、全国に約500社あるという。内訳としては熊本県に461社、大分県に32社、福岡県に8社、宮崎県に5社、長崎県に4社と九州に大半が集中する。その他、青森県を北限とし本州に13社、そして四国では愛媛県に1社が鎮座している。
 そしてこの1社がどこかというと、愛媛県松山市に九州阿蘇系の神社があることを既に過去のブログで取り上げていた。「愛媛県の高良神社⑤ーー高家八幡神社 境内社」で紹介した高家八幡神社(松山市北斎院町295)である。祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。
 高家八幡神社を訪れるまでは、恥ずかしながら阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神が健磐龍命(たけいわたつのみこと)であることを知らなかった。そもそも四国では他に健磐龍命を祀っているところを聞かない。それもそのはず、『鯰考現学』では四国で1社だけとなっている。
 阿蘇山には何度も登り、熊本地震の前も後も阿蘇神社の前を通過した。けれどもその重要性に気付かず素通りしてしまっていた。『隋書俀国伝』にも「阿蘇山あり」と書かれているように、「日出ずる処の天子」を自称した阿毎多利思北孤(あまたりしほこ、聖徳太子ではない)の治める国は阿蘇山と深い関係がある。
 健磐龍命は阿蘇神社が奉斎する阿蘇山の神としての性格を持つほか、阿蘇神社では神八井耳命(神武天皇の子)の子と伝える。その阿蘇神社と愛媛県松山市の高家八幡神社(旧阿蘇宮)とどのようなつながりがあったのだろうか。
 松山市には古代において「久米評」があった。かつて「郡評論争」と呼ばれる議論があり、結論として、大宝律令の施行(701年)以前に「郡」に先立つ「評」という行政単位が存在していたことが立証された。大和朝廷が評制を制定したという記録はないなので、一元史観の学者たちは評の存在を認めたくなかったが、700年以前の「〜評」と記された木簡が出土しており、701年以後は「〜郡」に変わる。「評」は大和朝廷以前の王朝、すなわち九州王朝によって制定された行政単位だったと考えられる。
 熊本県には球磨郡久米郷(現・多良木町)があり、愛媛県にも久米評(現・松山市)が存在していた。「久米評」と刻まれた6×7cm前後の須恵器の破片が発見され、評衙が松山平野に存在していたことが明らかとなったのである。伝承によると健磐龍命の第3子、健岩古命が伊予国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったと言われている。

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【2019/03/14 22:27 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
大分県「臼杵」は水銀朱生産の臼と杵
 臼杵の市内には、いたるところに古い歴史と文化を物語る石造物があります。なかでも、稲田にある臼杵神社の境内には、県内でも珍しい石造物があります。その形が、甲冑に身を固めた武人(頭部はつくられていない)に似ているところから、石甲(せっこう)とも短甲型石人(たんこうがたせきじん)とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
 この神社がある小高い丘のようなところは、今から千五百年以上前の古墳時代に築かれた全長87mの前方後円墳で、古代このあたり一帯を支配していた豪族「海人部(あまべ)」の墳墓にあたります。そして、この墳墓の上に立てられた石人は、ここに葬られたものを守衛する番兵としての武人の役割を果たしていたと考えられます。また、この石人について、このあたり一帯では昔から語り伝えられていることがあります。それは、この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるというものです。

 二基の石人は、長い間野ざらしになっていたこともあり、だいぶ痛んでいますが、その表面からわずかながらも朱の痕跡を認めることができます。おそらく、これらがつくられた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。
(https://www.kireilife.net/contents/area/history/1193852_1504.htmlより)


 “臼杵石仏に刻まれた「正和四年」は九州年号か?”では古代にさかのぼる有力な根拠を示すことができなかったが、最新の情報から新たな可能性が見えてきた。結論から言うと、「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵に淵源を持つということである。

 
 昨年、徳島県で赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂(しんしゃ)を採掘していた坑道が見つかった。弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(阿南市水井町)で、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点が見つかったという。これは日本最古の坑道として注目された。
 その約5km離れた加茂宮の前遺跡から、今度は縄文時代後期の水銀朱生産に関連する遺跡が見つかったのである。徳島新聞に次のように報道された。

 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
 
 石臼の大きいものは直径約30センチ、石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、関連した遺物の出土数は1000点に上った。水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
 

 調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
 
  センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
 
 県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末-後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。

 平安時代末期に阿波国那賀郡の南部が分立して海部(かいふ)郡ができた。高知県土佐市宇佐には海部(あまべ)郷、そして大分県臼杵市の海人部(あまべ)とくれば、これらの地域が海上交通でつながりをもっていたことが伺える。

 また、臼杵市周辺に伝わる「朝日長者伝説」は金の鉱脈に関連深い説話であるが、水銀と金の鉱脈はほぼ重なっていると指摘されている。とすれば臼杵市も古代における水銀朱の一大生産地であった可能性が高い。「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵だったのである。


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【2019/03/04 07:10 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
地震学者・都司嘉宣氏の「侏儒国=幡多国」説
 ホーキング博士の宇宙論がブームであった大学時代、理学部物理学科で人気の研究室は量子力学と宇宙物理学であった。どの研究室に進むべきかと迷っていたが、敢えて誰も行こうとしなかった地震学の研究室へと進んだ。


 昔はそれほど注目されなかった分野であるが、今となっては地震や災害の専門家は引っ張り凧である。元東大地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)氏は、四万十市における地震津波対策を推進するにあたってのアドバイザーであり、防災講演会を開いたりしている。高知新聞にも広告が出ている『歴史地震の話〜語り継がれた南海地震〜』(都司嘉宣著、2012年)を読むと、歴史文献に対する造詣の深さに驚かされる。

 というのも、防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事であり、歴史時代の地震を知るには、各地の旧家や寺社に残された古文書が大きな手がかりとなる。地震学者の都司氏にとって、本来は専門外であった膨大な古文書のデータを集め、コツコツと解読作業を続けてきた。

 その都司嘉宣氏が四万十市における防災講演会の中で、『魏志倭人伝』の話に触れたという。『魏志倭人伝』には女王・卑弥呼のいる邪馬壹国が記されており、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」、つまり豊後水道を渡ると倭種の国がある。その南には「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と記されている。
 都司氏は「邪馬台国=北九州」説に立ち、そこから方角、距離の記述を解き、侏儒国は幡多にあたると語った。すなわち「侏儒国=幡多国」説である。
 もしかして都司氏は古田武彦説をご存じなのではないかと思って調べてみると、やはり接点があった。古田氏が立ち上げた「国際人間観察学会」の会報『Phonix』No.1(2007)に都司氏の寄稿があるようだ。題名は「Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon」。

 さて、都司氏の「侏儒国=幡多国」説のポイントは、2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長1mほどの「こびとの人種」の化石(約1.8万年前、ホモ・サピエンスとは異人種)が見つかっており、このフローレス島人(ホモ・フローレシエンス)が海流に乗って幡多にやってきたという推論である。
 侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の人が住んでいたと記されている。都司氏は自ら四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけたというのだ。
 「猩々」とは中国の想像上の生き物で、少年の姿をして舞う赤い妖怪とも言われる。まさに「侏儒」(小人)あるいは「朱儒」(朱は赤あるいは南に通じる)の国である。


 フローレス島人と結び付けられるかどうかは今後の研究課題であるが、「侏儒国の痕跡を沖の島(宿毛)に見た 」(『なかった 真実の歴史学』第六号、2009年)と題する合田洋一 氏の論稿にも「侏儒国=幡多国」説を補強する有力な論拠が示されている。

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【2019/02/28 23:48 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
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