ここ最近、「宮ノ原」地名に注目が集まっている。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」“宮原(みやのはる)から見える宮野 ”や「ひろっぷ」“旧宮原村古地図と岡原村の神社様”などで紹介されており、九州では「みやのはる」と読み、「〜原」を「〜ばる」と読むことが多い。 今回は高知県高岡郡佐川町にある「宮ノ原(みやのはら)」にスポットを当ててみたい。やはり由緒ある土地柄のようなので、九州の宮ノ原との比較対照する上で参考になれば幸いである。 『佐川町史 下巻』(佐川町史編纂委員会、昭和56年)に次のように記されている。 佐川町黒岩地区の庄田、宮ノ原集落は中世から明治維新まで、邑主深尾氏の城下町佐川に次ぐ、深尾領内唯一の文教の地として栄えた。~(中略)~また宮ノ原には元黒岩領主片岡氏が創建したという宮ノ原八幡宮とその別当寺宮ノ原寺があり、「やはた」と並ぶ繁栄の地であった。この宮ノ原寺は藩政時代には代官役所も兼ね、また近郷の子弟を集めた「宮ノ原塾」ともなっていた。 今となってはかつての繁栄は面影もなく、のどかで自然豊かな山野が広がっている。宮ノ原寺や八幡宮には多くの古文書類が保存されていたが、明治初年廃屋となる。その中に散佚(さんいつ)を免れ、秘蔵されてきた『八幡荘伝承記』『片岡物語』などの伝承的物語文書があったとされる。 『八幡荘伝承記』は文明のころ(1470~1490年)、庄田代官橘照助(たちばなのてるすけ)が鯨坂八幡宮の別当寺八幡寺の住僧律仙、勢国らに命じて「時代年歴の書き写し」なるものを作らせたものだと言われる。その写本は後の戦国時代の初めごろまで書き継がれており、元宮ノ原寺の住僧亀鳳法印による一部分の写本、及び原書を保存したという結城有氏の写本が残されている。 土佐の中世史を埋める貴重な史料を有しているものの、偽書説も発表され、いわゆる「土佐の『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』」といった存在である。ちなみに『東日流外三郡誌』は寛政原本の発見により、偽書説が覆(くつがえ)り、史料としての価値が見直されている。 いずれにしても、内陸部の片田舎とも思えるような高岡郡佐川町の「宮ノ原」が、なぜ古くからこのように文教の地として栄えてきたのか。その重要性に新ためて気付かされることとなった。 PR |
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