高知県の歴史研究をする上で越えなければならない壁がある。「長宗我部地検帳のふるい」である。 関ヶ原の戦いを前後して、土佐国の領主が長宗我部氏から山内氏に交代する。16世紀末に行われた検地の成果は『長宗我部地検帳』として記録され、政権交代後もそのまま山内家に引き継がれた。現在368冊、土佐七郡ほぼ全てを網羅する史料として残されている。 『文化遺産オンライン』には次のように紹介されている。
高知県
桃山時代
袋綴冊子装(五ツ目綴) 料紙楮紙
縦39.5cm×横27.5cm
全368冊
高知県立高知城歴史博物館
重要文化財/指定番号(登録番号):00291(S46.6.22指定)指定名称:長曽我部地検帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った。
※長宗我部氏の表記統一のため、指定名称(長曽我部地検帳)と異なる資料名を採用している。
『土佐史談』(土佐史談会)や『探訪』(仁淀川歴史会)などに、高知県の郷土史家による歴史研究の論考が次々と発表されている。それらが正しいと認められるためには、少なくとも『長宗我部地検帳』の記録に矛盾しないことが必要条件となる。研究対象となる時代にもよるが、とりわけ江戸時代から戦国時代(織豊期)へとさかのぼる場合、いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」にかけられることになる。
もちろん、『長宗我部地検帳』も無謬(むびゅう)というわけではない。けれども客観的な資料的性格を考えると、主権者のイデオロギーを反映する『日本書紀』などよりも、はるかに信頼性があると言える。それゆえに、歴史小説ならいざ知らず、歴史論文となると勝手に空想を膨らませることはできない。 この長宗我部時代と山内時代の画期、山内一豊の土佐入国1601年をもって「C(長宗我部)・Y(山内)ライン」と呼ぶことにする。古田史学で用いられている701年の「O(Old九州王朝)・N(New大和朝廷)ライン」になぞらえて命名した。この「C・Yライン」をまたぐ時は要注意である。 12月23日(日)に土佐史談会関東支部理事・正木宏幸氏による「歴史の特効薬ー長宗我部地検帳ー(吾川郡 上)」と題する平成30年度史談会講座がオーテピアで開かれる。どのような切り口で語られるのか楽しみである。[1回]
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