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  • 2024.05
越知町横畠北の「高良」地名

 以前から気になっていた高岡郡越知町横畠北の「高良」地名――ついに調査の足を伸ばすことにした。国道33号線で越知町まで行き、仁淀川中流の筏津(いかなづ)大橋を渡ったところが筏津。「いかだづ」ではなく「いかなづ」と読ませる難読地名である。その近くに「高良」地名があるとにらんでいたが、正確な場所は分からない。それでも現地を踏んでみることが大切である。

 初めは何を勘違いしたか、一本下流の橋を渡って今成地区に迷い込んでしまった。現地の人に「高良という地名をご存じないですか?」と尋ねても誰も知らない様子。それもそのはず、全く見当違いの場所に来ていたのだ。川辺に星神社があったので行ってみたが、やはり手掛かりなし。地元の人は妙見様と呼んでおり、後で調べたところ、多くの犠牲者が供養されている場所のようであった。無駄足を踏んだようだが、何か目に見えないものに引き寄せられたようにも感じる。
 「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」(平原綾香「ジュピター」より)

 勘違いに気づいて本来の調査地点へと向かった。今度はかなりの山道である。途中に大雑把な道案内はあったが、地図や標識などもなく、何を目標にすればよいかも分からない。たまたま庭先に出ておられたご婦人に尋ねてみた。

 「この辺りに高良という地名がありませんか?」
 「この道をもう少し行ったら広い駐車場があるので、そこの右手の山側がそうです。今は人も住んでいませんけどね」
 お礼を言って、教えられたところへ向かった。ちゃんとした駐車場があるわけではなく、細い道に入りこんでしまい、行き過ぎたことに気づいた。隣の仁淀川町との境界の谷川まで来ていた。深瀬神社より手前だったはずなのに、知らずに通り過ぎてしまっていたようだ。コンテナが積み上げられ道幅が広くなっているところまで引き返した。おそらくこの辺りだろう。

 心配されたのか、先ほどのご婦人が歩いて来られていた。確認したところ、生姜畑や竹が生い茂っているところが、昔から「高良」と呼ばれている場所であった。もし単独で探しても現地を特定することは難しかっただろう。この地に60年間暮らし続けている80代の女性との出会いのおかげで、今回の調査はほぼ目的を達成することができた。不思議な導きに感謝である。


 帰宅後、関連するメモを確認したところ、『長宗我部地検帳 高岡郡上の一』645ページに、次のような記載があった。
コウラ 壱反壱代切畑
同村(深瀬ノ村) 同し名(横畠名)
同し(片岡左衛門尉大夫給)
 「壱反壱代」といったら、約10ヘクタール(約1000平方メートル)の土地である。ちなみに古代中国の社に築かれた壇は一辺30メートル四方程度で約一反(段)の面積が必要であった。切畑については、『土佐藩の山村構造―三谷家文書考究―』(間宮尚子著、昭和53年)に次のように説明されている。
 切畑耕作は、山間部の農業を考える時、見過ごすことのできないものである。一般には焼畑ともよばれるが、山の傾斜面の灌木を伐りたおし、これを焼き、一雨あって灰の湿ったところへ、蕎麦、稗、粟、芋、麦、大豆、豆をまくものである。灰のみを肥料とし、別に施肥しないため収量は乏しい。「地方凡例録」によれば、年々の作付は不可能であり、一年二年がわりに作付をする。また地主はきまっており、一作後放棄されるのではなく、何年かののち同一人によって再び作付される課税地である。「土佐国韮生石川氏文書」によれば、穀類は三年ないし五年連作すれば土地は痩せる。沃土は一四・五年、痩土は二・三〇年を経て再び伐畑に作るとある。
 高知県の山間部ではかつて切畑が営まれていた。同じ畑で作物を作り続けると、すぐに土地がやせてしまう。そこで焼畑をしては数年周期で場所を変えながら畑を耕作し、作物を作っていた。江戸時代、土佐藩において林制が確立されるにつれ、切畑耕作は諸制限を受けるようになる。焼き畑をしなくなって、山は竹林に覆われてしまったのであろう。生姜畑が耕作地としての名残りを伝えている。
 標高約260mという山の斜面に石を積んで段々畑にしているところは徳島県三好市山城町の高良神社群の鎮座地を思い出させる。ここにもかつて高良神社があったのだろうか。その宮床跡として「高良」地名が残されているのではないか。この仮説を立証するための根拠を少しでも見出せればとの思いもあっての今回の調査である。
 『地検帳』には深瀬ノ村とあり、すぐ近くに深瀬神社があった。神社名が創建時から地名を冠することは普通あり得ない。祭神に係わる名称で呼ばれるはずである。過去、何段階かにわたり神社整理が行なわれた。その際、由緒不詳の神社については地名を冠して名称変更がなされた例がある。ここでもそうだったのではないだろうか。



 また、「片岡左衛門尉大夫給」とあることから、片岡氏の給地であったことも分かる。片岡氏の祖は詳らかではないが、黒岩城や片岡城などを居城としており、元亀二年(1571年)片岡城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったといわれる。『地検帳』に記録されているのは、茂光の子、左衛門尉大夫(下総守)光綱のことであろうか。

 天正十三年(1585年)に伊予金子の陣(豊臣秀吉による四国征伐)で、片岡光綱は伊予の金子城主・金子備後守の援軍として兵350余りを率い、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
 左衛門尉大夫光綱の弟、出雲守継光(光信)は片岡城に拠り、その子長兵衛の子孫は山内家家老で高岡郡佐川の深尾出羽に仕えた。出雲守継光の弟である紀伊守直季は吾川郡上八川に居た。その子八兵衛は長宗我部信親に仕え、天正十四年(1586年)に秀吉の九州征伐に従軍して、豊後戸次川の合戦で討死した。八兵衛の養嗣祐光は土佐郡本川郷の大藪紀伊守祐宗の孫であり、その七世孫が土佐郷士出身で明治期の政治家・実業家の片岡直輝・直温(大蔵大臣)兄弟である。

 『進撃の巨人』ではないが、今回の調査によって400年前の歴史がフラッシュバックしたような感覚になった。しかし、仮に高良神社が鎮座していたとしても、それ以前のもっと古い時代のことである。地元の古老に聞いたとしても、記憶や伝承としては残っていないことだろう。さらに踏み込んだ検証が必要になってくるが、果たしてそのような手掛かりが残されているのだろうか?


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【2019/07/01 11:52 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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