土佐市に宮原村があったことまではつかめていたが、正確な場所までは分からない。明治時代に本村宮原というところに宮原尋常小学校があって、十年ほどで合併され、なくなったらしい。土佐市の人に聞いても、「宮の内」なら知っているが「宮原」は聞いたことがないという。やはり地名としては消えてしまったのだろうか。 最後の手段として『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』を繰ってみた。戸波(へわ)郷のページに「惣ノ佾給」「常住佾給」「権ノ佾給」と3筆立て続けに「佾(いち)」が登場する。よく見ると「宮原村 前ハ末次名」とあるではないか。ホノギ(小字)は「タケハタ」となっている。その数筆後に「宮ノハラ」のホノギも出ている。 難しいのはここからである。天正十七年(1589年)の検地の記録であるから400年以上も前。現在は残っていない地名も多い。「佾」が多いことからも付近に大きな神社があっただろうことは想像がつく。また、明治期に尋常小学校があったことから文教の中心地でもあったのだろう。そのような点では佐川町の宮ノ原や夜須町の宮ノ原とも通じる性格を持つことが類推できる。 『土佐市史』(土佐市史編集委員会、昭和53年)によると、戸波地区本村宮本に宗像神社(土佐市本村940ー2)があり、境内社として神明宮と八坂神社が記載されている。土佐市のホノギに詳しい人に確認したところ、その近辺が旧宮原村であったことが判明した。
『土佐市史』の表記が「宮本」となっていることも注目である。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原氏が「宮原の名称も宮本から来ている」と言及していたことを、図らずも裏付ける調査結果となった。 このことは古くは宗像神社が土佐市戸波地区の宗教的中心地であったことを物語っている。おそらく、福岡県の宗像大社からの勧請であろう。また同地区家俊には熊本県天草郡大矢野(現上天草市)から移り住んだ矢野家の先祖・大矢野又十郎家俊の伝承もあり、九州と縁の深い地であったことが分かる。 PR |
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