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高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎④――「傍示」の可能性
 『長宗我部地検帳』に「ホウシ分」とあることから、高知市春野町西分の「宝司部(ほしぶ)」地名が中世以前にさかのぼれる古い地名であることが判明した。「宝司」という漢字のイメージから、個人的な印象では福岡県太宰府市蔵司地区の「蔵司」(収められた税を管理する役所)のように、古代の役所か何かに関係する地名ではないかとの期待もあった。
 しかし、古くは「法司」「法師」などとも表記され、「宝司」は最も新しく当てられた漢字のようである。『長宗我部地検帳』に「ホウシフン」とある音を基本に考えるべきだろう。そこで向かったのが高知大学図書館。地名辞典を開きながら、全国に似たような地名はないかと探してみた。『地名が解き明かす古代日本ー錯覚された北海道・東北ー』(ミネルヴァ書房、2012年) の著者・合田洋一氏も「渡島は北海道ではない」ことを論証した際に、古田武彦氏のアドバイスで全国の「渡(わたり)」地名について悉皆調査を行ったという。

 当時はまだコロナが流行する前だったので、時間をかけて調査することが可能であったが、コロナ禍の蔓延防止対策として、ここしばらくの間は、大学関係者以外は図書館内の滞在は30分程度までと決められている。館内には少ない人数しか見当たらないのだが、学問の発展にとってはやや残念な現状である。
 地名辞典を検索しながら、「ホウシ~」に似たような地名はないかと探したところ、「傍示峠」のような地名が多く存在することが分かってきた。「数多ければ勝つ」とは言い切れないが、やはり統計的手法も可能性を絞り込んでいく上では有効である。
 四国では愛媛県・徳島県・高知県の県境に「三傍示山」があり、大阪府(河内国)と奈良県(大和国)の境にも「傍示(ほうじ)の里」という地名が残っている。傍示とは傍(ふだ)を立てて、国境であることを通行人に示した標柱のようなものである。全国的に見ると、この「傍示」に由来する境界線付近につけられた地名が多いようである。ちなみに高知県には「傍士」姓も存在する。
 そのような事例を多く目にすると、春野町西分の「ホウシ分」も元は「傍示分」だったのではないかという思いになってきた。古くは濁点抜きの表記も多く「ボウジ」が「ホウシ」と書かれている可能性もある。そもそも「西分」という地名自体が喜津賀分を東分と西分とに分けたことに由来する。「宝司部」はその東分と西分の境目だったのではないか。驚くべき大発見を期待しすぎていたが、意外と結論は平凡なものなのかもしれない。
 一応、「宝司部」が境界付近に位置しているか確認しておく必要はある。『長宗我部地検帳』に記載された当時の喜津賀(木塚)は長浜村の西に隣接する地域で、西分は西分村及び西諸木村、東分は内谷村・東諸木村・吉原村からなっている。現在、「宝司部」地区は西分にあり、東は芳原と接している。境界部という条件に合いそうだが、西分の小字図を見てみると、「法司分」の東隣りに「南林口」「マガリヤ」などと続く。地検帳にも「ホウシフン」に続いて西分内に出てくるホノギである。境界線が変わった可能性もあるが、そうでなければ傍示を立てるべき場所とは違う。どうも「傍示」に由来する地名ではなさそうだ。
 他にもいくつかの可能性があり、一つ一つ調べていくことにしよう。

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【2022/01/15 10:24 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎③――長宗我部地検帳
 新しい地名なのか、古くからある地名なのかは、地名研究においてまず確かめておかなければならないことである。高知市春野町西分の「宝司部(ほしぶ)」についてはどうだろうか。
 高知県には恰好の史料がある。豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳『長宗我部地検帳』である。天正十五(1587)年から数年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。
 『長宗我部地検帳』に記載されていれば16世紀以前にさかのぼることができ、記載されていなければ、ほとんどの場合江戸時代以降の比較的新しい地名ということになる。いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」である。
 もちろん、『長宗我部地検帳』も無謬(むびゅう)というわけではなく、記載されないものもある。けれども土佐一国の基本台帳としての客観的な資料的性格を考えると、主権者のイデオロギーを反映する『日本書紀』などよりも、はるかに信頼性があって、まさに一級史料と言えるだろう。
 実はこの『長宗我部地検帳』に例の地名が記録されていたのである。『長宗我部地検帳 吾川郡上』P180~181に「ホウシフン」というホノギ(小字)があり、「ホウシ分」との表記もある。このことから3文字目の漢字について、古くは「部」ではなく「分」であったことは確認できるが、初めの2文字が「宝司」「法司」「法師」のいずれであるかについては判明しない。

▲『長宗我部地検帳 吾川郡上』P181

 また当時は濁点をつけずに表記することが多く、「ホ」と「ボ」それと「シ」と「ジ」のどちらで発音していたのかは判断がつかない。いずれにしても現代の「ほしぶ」という発音とは微妙に違っている。変化が最も小さいものと考えると「ホウシブン」というように「フ」だけに濁点をつけて「ブ」と発音するのが良さそうだが、他の選択肢も念頭に置いておくべきかもしれない。

 重要な点は16世紀末の時点で、現代とはやや異なっているものの、すでに「ホウシ分」という地名が実在していたということである。よって地名の由来もそれ以前にさかのぼって考えなければならないようだ。


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【2022/01/14 10:02 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎②――星に願いを
 高知市春野町に「宝司部(ほしぶ)」という不思議な響きの地名がある。あまり聞きなれない地名なので、名前の由来が気になって仕方がない。「干しぶどう?」ーーちょっと短絡的すぎる。
 全国的に大雪の予報が出されて心配なところだが、おでんがおいしい季節でもある。ギザギザのちくわぶは切り口が星型になり、星形のちくわぶで「ほしぶ」なんてことをふと連想してしまった。

 「宝司部(ほしぶ)」の音から、すぐにイメージされるのは「星~」である。「星組」や「星神社」などとは関係ないのだろうか。宝司部から1キロメートル圏内に大寺廃寺という古代寺院跡がある。そこから高句麗様式とされる有稜線素弁蓮華文軒丸瓦が採集され、現在は高知市春野郷土資料館に「8世紀」(7世紀とすべきか)と説明・展示されている。古代瓦に用いられた瓦当文様には「花組」「星組」などの分類があり、その一方の「星組」流派の瓦工集団に関係する地名なのではとの妄想がふくらんだ。
 しかし、妄想の風船は真実のひと針ですぐに破裂する。「花組」「星組」は学問分類上の通称であり、古代においてそのような呼ばれ方をしたわけではない。つい最近の命名なのである。このように名称の新旧についてはしっかりと確認する必要がある。
 地名研究においても市町村合併等で新たに誕生した地名なのか、古代から続く地名なのかは調べておくことが重要だ。例えば「山田」+「芳奈」=「山奈」(宿毛市)という合併後の地名を見て、「山名氏と関連がある地名だ」などと言ったら、とんだ恥をかくことになる。

 同じような理由で「星神社」の線も消えることになる。高知県には星神社が50社以上あり、春野町内にも2つの星神社がある。1社は最近紹介した“高知市春野町秋山の旧郷社・星神社”で、もう1社は森山字妙見谷という場所に鎮座する。いずれも天之御中主神や明星尊などを祭神とする星信仰に関係する神社であるが、地名が示すように江戸時代以前は「妙見」と呼ばれていて、明治維新の神仏分離令に伴い、「星神社」へと名称変更している。やはり新しい名称なのである。
 地名研究は単なる言葉遊びであってはいけない。可能な限り実証的な史料を根拠としながら、統計的な手法も活用しつつ、大半の人たちが納得できるような論証を心がけていかなくてはならない。次回からもう少し、学問的なアプローチを試みたい。

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【2022/01/13 11:00 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎①――プロローグ
 高知市春野町西分に「宝司部(ほしぶ)」という珍しい地名がある。初めてこの地名を目にした時から、何か心惹かれるものがあり、その由来をたずねてみたいと思いながらも、他に類例はなさそうで、手がかりも少ないだろうと予想された。

 場所はJA高知春野から東へ行くこと約600メートル、「うららか春陽荘」周辺の微高地である。広域農道を挟んだ北側に宝司部公民館があり、「寶司分組」と刻まれた灯籠(明治十丑四月吉日)も立っている。そのままの字形であれば、「宝を司る部署」といったイメージである。

 昭和11年発行の大日本帝國陸地測量部刊「明治三十九年測圖量之宿尺圖昭和八年測圖及び修正測圖」に書かれた地名を見ると「法司分」となっている。こちらは「法を司る」という漢字が使われ、「部」が「分」になっている。『第二集西分村史』にも「字法司分段別七畝十六歩」と同様の表記である。
 ところが『春野町史料』には「法師分部落 一ニ宝司分トモ云フ。元標北▢度ノ方位ニアリ。東西約二町、南北約四町ノ間ニ人家散在ス。全戸農ニシテ副業ハ紙仕茸薦製造及養蚕等ナリ。大正四 三十七戸」と記述されている。「法師分」だと意味合いがかなり違ってくる。現地在住の長老にお聞きしたところ、これらの表記の差異が存在することは熟知しておられたが、地名の由来については知らないとのこと。
 より原初的な表記および地名のルーツは何なのだろうか。
「宝司」か「法司」か、あるいは「法師」なのか。3文字目についても「部」または「分」に、表記は揺らいでいる。先行研究もなく、地名の由来を紹介した出版物等もなさそうである。いろいろと想像は膨らむが、数年前から調査してきた内容を順を追って紹介していきたい。


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【2022/01/11 23:03 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
天孫降臨ーー筑紫の日向は「ひゅうが」か「ひなた」か?
 ニニギノミコトが降り立ったという天孫降臨の地はどこだろうか。通説では九州の日向(今の宮崎県)の高千穂のクジフル嶺(たけ)、あるいは霧島山とされている。また『古事記小事典 古代の真相を探る』は薩摩半島笠沙町や筑紫(福岡県)の日向峠等へ降り立ったとする説なども紹介している。


 専門家は天孫降臨を単なる神話と見る向きもあって、正面から歴史研究の対象とされることは少なかった。これに対して、古田武彦氏は『盗まれた神話』(昭和54年)で、学問の研究対象として取り上げ、筑紫(福岡県)の日向峠へ降り立ったとする天孫降臨の真相を解き明かしたのであった。
 ところで、日向には「ひゅうが」「ひむか」「ひなた」など、いくつかの読み方が存在する。天孫降臨の地、日向はどう読むのだろうか。
 通説では筑紫を九州島と解釈し、宮崎県の日向(ひゅうが)に当ててきた。ひと昔前はサッカー漫画『キャプテン翼』の大流行で主人公・大空翼のライバル日向(ひゅうが)小次郎の存在感もあってか、「ひゅうが」読みが一般的であった。
 最近ではアニメ『ハイキュー!!』の主人公・日向(ひなた)翔陽、アイドルグループ日向(ひなた)坂46の人気も一役買って「ひなた」読みが市民権を得てきたように感じる。不思議なことに、「日向坂46」のグループ名は、東京都港区三田に実在する「日向坂(ひゅうがざか)」に由来しているという。ひらがなにした時に、「ひゅうがざか」よりも「ひなたざか」の字画の方が運勢的に良いため、「ひなたざか」になったそうだ。実は日向坂(ひなたざか)自体も、埼玉県さいたま市に実在している。
 『古事記』には「竺紫の日向の高千穂のくしふるたけに天降りまさしめき」とあり、この天孫降臨の場所について、古来より宮崎県(日向)の高千穂などに比定されてきた。しかしこの通説には疑問がある。古田氏は「天孫降臨神話」は大和朝廷の史官による創作ではなく、「歴史上の事実を“本質的に”反映している。それは紀元前二~三世紀頃、朝鮮海峡を拠点とする天照や邇邇芸命ら海人(あま)族による、稲作が盛んだった豊穣の地(豊葦原水穗国とよあしはらみずほのくに)“博多湾岸”への青銅の武器を携えての侵攻だった」とした。創作された神話なら降臨場所はどこでも構わないだろうが、史実の反映と見るならば、周辺に紀元前にさかのぼる弥生時代の遺跡がなければならない。
 その点、遺跡が密集する糸島郡と福岡平野の境付近の日向峠とする古田説は有力である。しかも『古事記』にはこの場所について重要なヒントが示されていた。「此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と書かれている。
「此の地(糸島郡、高祖山付近から望む)は
①(北なる)韓国に向かって大道が通り抜け、
②(南なる)笠沙の地(御笠川流域)の前面に当たっている。そして、
③(東から)朝日の直に照りつける国、
④(西から)夕日の照る国だ」
 この文章は「四至」文だったと古田氏は指摘する。後に荘園立荘の際などに四至を定めて場所を確定するのに似ている。この文面は玄界灘に面し、韓国に直行できるような場所にこそふさわしい。その点、宮崎県や鹿児島県などには違和感しかなく、周囲の遺跡の状況ともそぐわない。
 慶長年間の福岡恰土郡高祖村椚(くぬぎ)に関する黒田家文書に「五郎丸の内、日向山に、新村押立」とあり、『福岡県地理全誌』恰土郡には「民家の後に、あるを、くしふる山と云」とあることから、糸島郡の有名な三雲遺跡の近辺、高祖連山一帯の地が「日向山」と考えられる。
 余談になるが、古田氏は「くしふる→くぬぎ」音の転訛説は、無理な俗説としており、同感である。高知県にも複数見られる「くぎぬき」地名が「くぎぬき→くぬぎ」と転訛したものではないだろうか。いずれにしても天孫降臨の地「筑紫の日向」とは、“宮崎の日向(ひゅうが)”ではなく、“福岡県の日向(ひなた)峠”一帯を指していたと結論づけたい。

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【2021/09/09 11:45 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
岐阜県の五六川(ごろくがわ)の由来は?
 岐阜県(濃尾平野)を東西に移動してみると、木曽川、長良川、揖斐川およびその支流も含め、やたら川が多いことに気付く。今でこそ立派な橋が架かっているので、苦にならず移動できるが、古代や中世において川を渡る苦労はいかばかりであっただろうか。古代官道である東山道が、のちに整備された中山道よりも山寄りの北のルートをとっていたことは、渡河の労力を減らし、河川の氾濫を避ける意味合いもあったのだろう。川沿いや低湿地は古代官道にはそぐわないとされている。
 以前、瑞穂市を自転車で移動していたら、五六川という川に遭遇し、その名前に興味を持った。高知県民ならば、語源はあれだろうと予想がつきそうだが、一応調べてみることにした。
 五六川(ごろくがわ)は、岐阜県本巣市と瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている(美江寺宿は実際には55番目の宿場町)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 55番目の宿場町なのに「五六川」とはこれいかに。ウィキペディアは信頼できる記事も多くなっているが、この名称由来には明確な根拠があるのだろうか。ちょっと疑問である。

▲岐阜県瑞穂市を流れる五六川

 高知県では「ゴロ」「ゴーロ」「ゴロク(五六)」は木の丸太に関連する言葉で、山林で伐採した材木を下流域で集積する場所などに見られる地名である。昔は丸太を筏のように組んで川に流して運んでいたようだ。「筏津」といった地名も見られる。
 このような知識がいくらかでもあったので、「五六川」という地名を見た時に、真っ先にイメージしたのが「上流で伐採した丸太を運搬するのに利用した川」に由来する河川名なのではないかということである。地図を開くと瑞穂市内には熊沢材木店・ヤマガタヤ産業(株) 西濃店・谷川木材といった材木店がいくつもある。古くから木材関係の産業があったものと見える。古来、岐阜県は最も良質の木材供給地であったとされる。しかし、岐阜県民でもない私は土地勘がないに等しいので、一つの説として提起しつつ、地元の研究者の判断を仰ぎたい。



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【2021/08/08 00:07 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
柳田國男の「ゴウラ」と「ゴウロ」は……
 過去のブログで、“柳田國男の「強羅」は……”および、“柳田國男の「強羅(ごうら)」は……その2”とのタイトルで記事を書いた。研究が進展したので、その続編のような位置付けで、さらに踏み込んだ考察をしてみたい。
 『東洋町の神社と祭り』(東洋町資料集・第7集)で原田英祐氏が安芸郡東洋町大字河内字高良前に鎮座する高良神社(“甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(前編)”、“甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(後編)”)について『高知県神社明細帳』の記述を紹介するとともに、次のような興味深い注記を加えている。
 注・全国的に著名な高良神社には①官弊大社・石清水八幡宮の摂社・高良明神社②国弊大社・筑後国の高良神社がある。高良はコウラと読み、武内宿祢の別名とされるが詳細不明。野根の高良神社は旧名竹内大明神と称し、奈半利多気神社と同系か? とすれば、コウラは野根のゴーロや奈半利のコゴロクと同義語・五六(林産物集積地〜加工所〜交易地)の意味にも結びつく。(第7集P21)
 まず、高良はコウラと読むことを明記している。これにはかつて神職でも「たから」と誤読する事例があったことを原田氏にお伝えしたことがあったので、配慮してくださったものであろう。だが、「コウラは野根のゴーロや奈半利のコゴロクと同義語・五六(林産物集積地〜加工所〜交易地)の意味にも結びつく」としたのはどうなのだろうか。
 『日本の地名 60の謎の地名を追って』(筒井功著、2011年)の151ページに、「強羅(ごうら)」地名について書かれている。「ゴウラ、ゴウロ、コウラ、コウロ」などの変化ありとし、神奈川県箱根町強羅について、柳田國男は「岩石の露出している小地域」を意味すると指摘したという。
  そこで『柳田國男全集20』(柳田國男著、1990年)の164ページを開くと、次のように説明されている。
   一八 強羅
 箱根山中の温泉で強羅という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwürdigになったものであることを知った。この地名の分布している区域は、
 相模足柄下郡宮城野村字強羅
 同 足柄上郡三保村大字中川字ゴウラ
 飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ
 越前坂井郡本郷村大字大谷字強楽
 丹波氷上郡上久下村大字畑内字中ゴラ
 備前赤磐郡軽部村大字東軽部字ゴウラ
 周防玖珂郡高根村大字大原字ゴウラ谷
 大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷
等である。西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ。ゴウラはまた人によってゴウロと発音したかと思う。こちらの例はなかなかある。いずれも山中である。
 信濃北佐久郡芦田村大字渡字郷呂
 駿河安倍郡村大字渡字ゴウロ
 飛騨吉城郡坂下村大字小豆沢字林ゴロ
 美濃揖斐郡徳山村大字戸入字岩ゴロ
 但馬城崎郡余部村大字余部字水ゴロ
 美作苫田郡阿波村字郷路
 安芸高田郡北村字号呂石
 長門厚狭郡万倉村字信田丸小字黒五郎
 伊予新居郡大保木村村大字東野川山字郷路
 土佐吾川郡名野川村大字二ノ滝字ゴウロケ谷
 土佐にはことにゴウロという地名が多い。中国ことに長門にもたくさんあるから、かの地の人は地形を熟知しているであろう。
 柳田國男が「土佐にはことにゴウロという地名が多い」と言及しているように、安芸川下流右岸や室戸岬周辺に、いくつかの「ゴウロ」地名が見られる。しかし、これらについては、原田英祐氏が説明しているように、「材産物の集積地」由来の地名であり、「岩石の露出している小地域」とは異質なのである。

 高知県は古代から岐阜県と並び良質な材木が採れるとされたことで、畿内の寺社の建替えなどに用いる木材の供給地(杣;そま)として、山から木を切り出し、川を下って河口付近に材木を集積し、畿内方面に運び出していた。そのような場所に「ゴウロ」地名が存在している。
 もちろん、長野県下高井郡木島平の朝日ゴウロ古墳や長野市芋井の狢郷路山(むじなごうろやま)のように、「ゴウロ」とは岩っぽい場所を指すことが多い。上水内郡信濃町黒姫山の表登山道(東登山道)の入り口、町民の森近くにも「ゴウロ」地名があるとのこと。これらの地名に関しては柳田國男の説が適用されそうである。
 一方、和歌山県東牟婁郡古座町姫字ゴウラに関しては三角州性低地として「河川の土砂が河口付近に堆積して形成された平野部分」といった場所もある。むしろこの場合は高知県のゴウロ地名に近いのではないか。
 そしてもう一つ、高良神社由来地名「コウラ」の存在も無視できない。調べてみると、柳田國男が収集した地名群の中にも、高良神社由来地名が混ざっている可能性すらある。「飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ」「大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷」——いずれも「宮地」すなわち神社の宮床を連想させる。そのような場所は神社名あるいは祭神名がそのまま地名となっているケースが大半である。高知県でも香南市香我美町徳王子の高良神社鎮座地にコウラ谷が存在する。
 柳田國男の説を受け、筒井功氏も「ゴウラ、ゴウロ、コウラ、コウロ」などをひとくくりにしているが、これらは少なくとも3種類の語源が異なる地名に分類されそうである。①「岩石の露出している小区域」(主に山岳地帯)、②「材産物の集積地」(主に河川の下流域)、③「高良神社宮床」(高良神社鎮座地あるいは旧鎮座地)である。
 地名研究は土地勘がないと難しい部分もある。今回紹介した「ゴウロ」などの類縁地名が身の回りにあれば、①〜③のどれに当てはまるか、検討してみてほしい。「師の説にななずみそ」ーー権威ある学者の説であっても鵜呑みにせず、しっかり検証して学問を進展させていくことが後進たちの責務なのかもしれない。



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【2021/03/17 10:16 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
下村效(いさお)氏のツルイ考
 数年前(2013年)、北海道から高知へ鶴が渡ってきて、かもめが鶴に変わったと囁かれた。何の話かというと、ドラッグストアの「かもめ薬局」が「ツルハドラッグ」にとって変わられたことを喩えたものである。
 ツルハホールディングスの経営者は鶴羽さん。『名字由来net』によると、「鶴羽」姓は現香川県である讃岐国寒川郡鶴羽庄が起源(ルーツ)とされる。近年、北海道、徳島県をはじめ九州や四国に多数みられる。
 また「津留」姓は現福岡県南部である筑後国山門郡津留村が起源(ルーツ)である。現宮崎県である日向、現大分県中南部である豊後にもみられる。近年、九州に多数みられる。関連姓は鶴。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏流、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流窪田氏族などにみられる。
 ところで、全国には鶴に関する地名が数多くある。ツルという語については、柳田国男が何度か言及し、鶴・釣・津留などの字が当てられているが、ツルとは水流すなわち、水がたたえられているところを指すとも考えられている。
 このことに関連して、『戦国・織豊期の社会と文化』(下村效著、昭和57年)の中に「ツルイ考――古代・中世村落考察のための一作業――」という論文が収録されている。『広辞苑』などでは「ツルイ」とは「ふかい竪(たて)井戸。吊井(つりい)。釣川。坪川(つぼかわ)」と説明されているが、地名に見られる「ツルイ」が実際は何を指しているのか。下村氏は、『長宗我部地検帳』に出てくる「ツルイ」地名を須崎市で悉皆調査をしている。その結果をまとめたのが次の四型類型である。

 ▽第一型 谷のツルイ

 小渓の淀みに石などで足場を構え、上部を水汲み場、下部を洗い場とする、最も素朴な水場

 ▽第二型 山清水のツルイ

 崖の際に湧出する泉を石で囲った水場

 ▽第三型 泉井戸のツルイ

 崖から少し離れたところに石で囲んだ井筒がある。

 ▽第四型 派生型

  掛樋で簡便に導水し、水槽・水瓶の設えをする。

 つまり、①小渓流に近く ②ツルイの水位は低く、深い竪井戸(釣瓶井戸)ではない ③個々の屋敷外にあり共同井として利用ーーの3点が当時のツルイである。
 言われてみれば、さもありなんである。昔は水道などなく、深い竪井戸が普及するのは近世以降である。けれどもライフラインとして生活用水の確保は村落の形成のためには絶対不可欠であり、県下に広く「ツルイ」地名が分布していることが、そのことを示している。

■四万十町の採取地

 四万十町の字一覧から、「ツルイ」地名を抽出すると次の26カ所となる。
 ウスツル井(宮内)、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(七里・柳瀬)、ツル井ノモト(七里・西影山)、鶴居ノ原(七里・小野川)、ツルイガ谷(七里・志和分)、鶴井谷・鶴井ノ平(上秋丸)、ツルイノクボ(市生原)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、柳ノツルイ(江師)、ツルイノ本(大正中津川)、カミツルイ・クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ谷・ツルイノ奥(昭和)、ツルイ本(河内)、奥釣井・釣井ノ口(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)

■四万十町外の採取地

 上ツルイ(いの町池ノ内)、ツルイノ上(いの町大内)、ツルイ(宿毛市押ノ川)、鶴井・鶴井ヶ谷(宿毛市小筑紫町湊)、ツルイヤシキ(宿毛市橋上町橋上)、鶴井ヶ谷(宿毛市平田町戸内)、ツルイ・ツルイダバ・ツルイ山(宿毛市平田町黒川)
(『四万十町地名辞典』より引用)
 下村效氏は「地検帳で中世・近世の村落を分析しようとすれば、まず、その景観の復元作業が必須となるが、そのためにはこの”ツルイ”とは一体、どのようなものであるかを見極めなくてはならない」(『土佐史談194号』「長宗我部地検帳のツルイ」)とし、須崎市の「ツルイ」地名をくまなく踏査し、土地の人々から聞き取り調査を行った。その結果、戦国期の土佐の山間部、山麓部農村では、さきのツルイ三態を「ツルイ」と呼んでおり、それは通念のような深い竪井戸ではなかったという事実を確かめ得た。「ツルイは井の原初的形態」であり、天正期に確かめられたツルイという水場の形態とその呼称が、近い過去までそのまま残った地域と、近世の釣瓶井戸に接して、それが古くからのツルイと音義において相通ずるところがあった為に、ツルイの概念に転移と混乱が生じた地域があったことを指摘している。
 「風呂」「釘抜き」地名など、現代人がイメージするものと、古代・中世における意味が異なってしまった地名群がいくつかありそうだ。それらの地名を理解する上で、下村氏の研究は良い参考例となっている。地名研究においては、言葉の印象や通説だけに頼らず、地道な調査が必要なようである。


 

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【2020/10/02 10:06 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
全国の「内裏」地名

 「肥さんの夢ブログ」で、高知県の「内裏」地名にスポットが当てられ、注目が集まっている。最近のブログでも「『小字 内裏』は,他にもあるか?」と題して、ネット検索の結果がリストアップされていたが、やや物足りない印象を受けた。インターネットは便利であるが、検索にかからないものもある。
 合田洋一氏からも前に「内裏地名はいくつかあります」という話を聞いていた。その時点では、京都や奈良、太宰府はあって当然としても、高知以外に「内裏」地名があるのだろうかとやや疑問も持っていた。そこで『地名辞典』で拾ったところ、いくつか見つかった。
①京都市「内裏」、②奈良県「内裏」、③滋賀県甲賀市「内裏野」、④福岡県北九州市「旧・内裏村」(後に大里町)、⑤長崎県佐世保市「内裏山城」、⑥熊本県菊池市「内裏尾」、⑦千葉県富津市「内裏塚」、⑧東京都八王子市「内裏谷戸」、⑨高知県南国市「内裏」
 ①~③は大和朝廷に関係するもの。④~⑥は九州王朝との関連があるのではないかと予想される。その他⑦~⑨についても、多元史観に立って調査する必要があるかもしれない。上記には「大裏」地名は別扱いとしたため、太宰府および静岡県の「大裏」は含めていない。実際に高知県以外にも「内裏」地名は存在した。合田氏のおっしゃる通りであった。

 氏は著書『地名が解き明かす古代日本―錯覚された北海道・東北―』(2012年)の中で、一章を割いて、「渡」地名遺称についての調査結果を示しておられる。同書における「渡嶋は北海道ではない」という論証は見事なものであったが、古田武彦氏より「合田さん、やることが一つ残っていますよ」とアドバイスされたのだという。それは『角川日本地名大辞典』を使って、全国の「渡」地名を全数調査することである。もし「渡嶋は北海道ではない」とすれば、「渡」地名の分布にその傾向が現れるはずである。「言うは易し。行うは難し」だが、古田氏自ら『三国志』中の「壹」「䑓」の全数調査を行って「壹は䑓の誤りではない」ということを論証している。これこそが古田史学の方法論である。
 合田氏は何度も図書館に通いつつ、各県ごとの地名一覧のページをコピーしては、日本全国の「渡」地名を拾い上げた。その結果、北海道には一例を除いて「渡」地名は見当たらず、むしろ青森県をはじめとする東北地方に多く存在していたのである。(全国的に見ると鹿児島県をはじめとする九州周辺に最も集中しているようだ。)


 さて、問題は高知県南国市の国府跡に存在する「内裏」地名である。実は『長宗我部地検帳』に「タイリ」として2か所出てきている。国府域の紀貫之が住んだとされる「内裏」は有名であるが、もう一か所は国分川の南岸にある。菅原道真の息子、高視が居所とした場所ではないかとの新説が「菅原高視の居所について」と題し、『土佐史談268号』(土佐史談会、2018年7月)に発表された。その居所として比定された場所が高知県における「もう一つの内裏」である。
 これまでにも「内裏」に関する記事をいくつか書いてきたが、完全な結論には至っていない。「多元的『国分寺』研究サークル」でも高知県の遺跡を精査し、データ化して下さったことで研究の材料も増え、新しい視点も与えられた。また、他県における「内裏」地名の研究と比較対照することも必要になってくるかもしれない。今後とも研究ネットワークを広げ、有益な情報交換を進めつつ、未解決の課題に踏み込んでいきたいところである。
 最後に土佐国府跡に関するこれまでの記事をリストアップしておく。

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【2019/11/01 03:06 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
土佐市戸波の宮原村②――小学校跡地発見
 「土佐市戸波の宮原村①」を書いた時点では旧宮原村の正確な場所をつかみきれていなかったが、新たな調査で分かったことを追記して紹介したい。
 よさこい祭りの前夜祭が行われる日、会場となる高知市内とは逆向きに車を走らせた。土佐市民図書館戸波分館――以前訪ねたときは閉館で、この日も図書館の担当職員不在で残念ながら閉まっていた。けれども2度目ということもあってか、対応して下さった男性が図書館のカギをあけてくれたのだ。臨機応変な対処に感謝である。
 郷土史関係の書籍としてはそれほどでもなかったが、宮原村を知るための資料が準備されていた。『学びの庭 戸波小学校100周年記念誌』(戸波小学校100周年記念事業実行委員会、2000年)に宮原尋常小学校のことが書かれていたのである。やはり地元のことは地元で調べてみるに限る。「戸波小の生い立ち」についてまとめられたページの明治時代、戸波村では五校時代から二校時代を経て、一村一校へと統合されていったことが書かれている。ここまでは以前紹介した通りである。

明治時代

 戸波村史によると、室町末期迄の記録は定かでないものの教育機関としては、寺院であり、僧侶により読書き、算盤を習っていたようであり古くから戸波は教育熱心なところがあったのが伺える。その後現在の戸波小学校の前身となる五校時代(資料1)を経、明治21年(1888年)二校時代(資料2)となった。さらにこの2校を合併する機運が徐々に高まり、明治31年(1898年)10月4日両校合同して戸波尋常小学校と命名するが、当初は宮原の一部の学年を家俊に移すのみで両校において存続されていた。明治32年新校舎建設に着手し同33年(1900年)6月18日、新校舎落成し、両校の職員・児童が新校舎に集い入校の式典を盛大に行い名実共に一村一校(資料3)となりこの日を開校記念と定められた。又、同(1909年)42年10月1日には現在の校章が制定された。


 とりわけ二校時代(明治21~31年)の資料2に学校の位置まで示してあった。宮原尋常小学校の住所は本村宮ヶ原911ノ2~3番地。もう一つの家俊尋常小学校は家俊窪田1282~5番地となっている。卒業生名簿を見ると毎学年約5分の1の割合で矢野姓が占めており、戸波校区において最も多いことがわかる。また校舎の所在地に関連すると思われる久保田姓は見られるが、宮原姓は見つからなかった。宮原姓は高知県では激レアなのである。ちなみに「宮原」姓については福岡県が最も多く、次いで東京都、長野県の順となっている。

 さて、現地を訪ねてみると宮原小学校の跡地が見つかった。今は民家もわずかであるが、かつては旧道に沿って飲み屋が立ち並ぶ繁華街もあったという。

 急な階段を登った鉄砲辻の上が宗像神社が鎮座する宮本。そのすぐ南がかつて宮原小学校があった宮ヶ原。そして宮原村としては波介川の対岸も含んだもう少し広範囲な地域であったようである。かつて宮ノ原には神に仕え、神楽を舞う佾(いち)が住んでいた。宮ノ原とは本来は祭祀が行なわれるような場所ではなかったのだろうか。
 少し不思議なのは、宗像神社が現在は北向き鎮座なのである。ほとんどの神社は南向きに鎮座しているもので、安芸市赤野の大元神社などを含め北向き鎮座は少ないはず。元々は宮ノ原を見下ろす南向きではなかったのだろうかと想像する。




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【2019/08/09 18:25 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
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