『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(2020年12月)に続いて『中世土佐国 長宗我部氏に関する論文集』を著した朝倉慶景氏が、『土佐史談282号』(土佐史談会、2023年3月)で「番匠」について書いている。「長宗我部地検帳にみる職種の人(20)ーー番匠・屋番匠ーー」と題する論考である。この「長宗我部地検帳にみる職種の人」シリーズも、本にまとめて出版してほしいとの要望が多数寄せられているという。 さて、長野県に多数の番匠地名が見られることから、古代の番匠制度に由来する地名であるとする説(「科野・『神科条里』① ―『条里』と『番匠』編―」)を吉村八洲男氏が発表している。この番匠地名は上田市周辺で60程度、江戸期の検地帳に見られるものだという。 これに対し、高知県ではおなじみの『長宗我部地検帳』は戦国末期(16世紀末)であるから、少し古い時代になる。その中には職業名としての「番匠」が数多く見られる。適当に開いただけで、わりとすぐに「番匠〇〇」という形で、主に名請人の場所に記載されている。後ろに人名が続くことから、多くは無姓者に冠した職業名であると考えられる。姓の可能性がないわけではないが、「舟番匠」といった例もあり、また「番匠 岡野源四良給」(幡多郡山田郷平田村地検帳)と有姓者にも冠されている事例を見ても、職業名とすることに、ほぼ異論はない。 「番匠には有姓・無姓を問わなかったようで、その番匠とはどのような職種の人だろうか。それは番の工匠の意味で、『番』とは一週間または十日間で交替して、領主に奉公する中世の人間を本位とした集団を意味しており、その中の手工業者を指し、さらに主として建築職人とみてよかろう。即ち番匠は中世の建築工で、現在の建築大工に相当する」と朝倉慶景氏はまとめている。 では、近世(江戸期)の検地帳に「番匠免」「番匠田」などと書かれている地名は何を表すのだろうか。中世における「番匠」の使用例を見ている研究者から見れば、中世の職業「番匠」に関連した給地または居住地域などが地名化したものと考えるのが自然である。このような観点を退けて、古代の番匠制度に結びつけるには、かなり高いハードルがあるように感じる。 ただし、「番匠」という語は古代から使用されており、中世における「番匠」とは多少違った意味での古代の番匠制度が存在していたようである。古代における「番匠」とは「王朝時代に諸国から京都に交代勤務した木工の称」と説明されている。愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』に、次の記事があることを正木裕氏が指摘している。 「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二(六四八)戊申」 この記録を信頼するなら、その始まりは7世紀半ばということになる。しかし、古代における「番匠」の使用例は少ない。阿部周一氏が「『古記』と『番匠』と『難波宮』」(『古田史学会報No.143』)で古代番匠制度に相当する記述があることを指摘している。ただし、大和朝廷内では「番匠」という表現は使用されなかったかのようにも映る。 はたして、長野県における「番匠免」「番匠田」などの地名は、古代あるいは中世、どちらの「番匠」に由来するものだろうか。隣りの岐阜県不破郡表佐村に「苅屋免」「番匠免」「大領免」などの地名がある。「免」は免田で、免税の田のことを表す。古代の郡司職に関連すると思われる「大領免」があることから、もしかしたら「番匠免」も古代由来かも、という連想は考えられなくもない。研究を深めていったら面白そうだが、いずれにしても、しっかりとした根拠に基づく論証が求められそうだ。 PR |
主人公すずが仮想空間「U」の世界で、ベルの姿となってクジラに乗って現れた。9月23日秋分の日、延期されていた『竜とそばかすの姫』がついにテレビ放映されることとなった。細田守監督のこの作品が高知県を舞台としていることは広く知られるようになってきたのではないか。『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に13のスポットが掲載されているが、それ以外の隠れスポットもある。 まずは鯨坂(くじらざか)八幡宮。「おらんくの池にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」とよさこい節に歌われるように、ベルがクジラに乗って登場するシーンは主人公すずが立っている場所が高知県であることを象徴しているかのようだ。実は作品の舞台となる仁淀川流域の佐川町には鯨坂(くじらざか)八幡宮が鎮座している。
「鯨」の語源は和語の「くじく」「くずれる」「ぐじぐじ」等の意味で、えぐられた崩壊地や湿地のことを表すとされる。例えば、熊本県天草市鯨道は「くずれみち」が訛ったもの。茨城県石岡市鯨岡、福島県いわき市鯨岡なども内陸の崩壊地に関係する地名と考えられている。 高知県においても『和名類聚抄』に幡多郡鯨野郷が記録されている。これを「いさの」と読んで伊佐地名の残る土佐清水市に比定するのが従来説であった。これに対して「くじらの」と読み、四万十川流域の崩壊地名と考えて四万十市(旧中村市)付近に比定する新説も出されている。 鯨坂八幡宮の場合はどうだろうか。高岡郡佐川町庄田、古来深尾領佐川郷総鎮守。『八幡荘伝承記』によれば、高北開拓の元祖別府経基が承平二年(932年)、別府の本領安芸郡鯨坂八幡を勧請したという。ところが、この神社名に対応する「鯨坂」という地名が見つからない。 多くの場合、内陸部の「鯨」地名については、崩れやすい土地や崩壊地に関連する地名と考えてよさそうだが、海岸部に見られる「鯨」地名もそうなのだろうか。長崎県五島市の鯨埼、北海道厚岸町鯨浜、新潟県佐渡市稲鯨、柏崎市鯨波等がある。海のクジラに由来する地名ということはないだろうか。 鯨漁が始まったのは江戸時代からとされているが、古くから日本人は海岸に打ち上げられたクジラを生活の糧としてその恵みをいただいてきた。そして残った骨を鯨塚に納めて供養したという鯨信仰のようなものも存在する。鯨塚から鯨坂。言葉自体は似ているとも言えるが、この変化は単なる想像に過ぎない。しっかりと検証する必要があるだろう。 その他の隠れスポットとして、同じ佐川町永野に鈴神社がある。主人公の名前はここからとったのだろうか。一方、いの町には「ベル薬局」なるものも存在するとか。鈴神社の祭神は素戔鳴尊。映画『竜とそばかすの姫』において、Uの世界で暴れまわる竜の存在を連想させる。当地域の産土神。古来中鈴権現と称し当村の総鎮守であった。明治二年鈴神社と改称し、同五年村社に列す。 さらには歌姫ベルをプロデュースするすずの親友、毒舌眼鏡娘のヒロちゃん(別役弘香)にまつわる別役神社も存在している。まだまだ隠れたスポットがたくさんありそうだ。 高知県といえば四万十川が有名であるが、細田守監督の『竜とそばかすの姫』では「鏡川」と「仁淀川」が要所要所で描かれる。「川を舞台にしたかったので、美しい仁淀川や鏡川のある高知を選んだ」――高知県がなぜ作品の舞台モデルとして選ばれたかは、この2つの川にインスピレーションを受けたことが理由の一つと語られている。 |
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高岡郡日高村といえば「日高見国」を連想する人もいるだろう。日高見国とは古代日本において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語とされる。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
しかしながら、地名研究においては対象とする地名がいつ始まったかということを確認する必要がある。結論から言うと、日高村という村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する。したがって日高村と「日高見国」を結びつけることは不可能であり、地名が似ているだけでは地名由来の根拠とならないことは理解できるだろう。他にも、越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が愛媛県今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命と結びつける説もあるようだが、高知県高岡郡の日高村は古代に遡れない地名であるから、これも成立しないことになる。 1954年(昭和29年)、日下村・能津村および加茂村の一部(大字岩目地・九頭)が合併して日高村が発足。能津村といえば、映画『竜とそばかすの姫』で思い出の小学校として登場した能津小学校のある場所だ。映画では「謎の竜」の正体探し(アンベイル)が一つのテーマとなっているのだが、実は日高村に竜をかたどった国宝の大刀が隠されている。それが小村(おむら)神社の御正体(御神体)であり、竜の模様(双竜銜玉)の環頭を持つ金銅荘環頭大刀拵・大刀身(古墳時代・7世紀前半)だ。 『映画「竜とそばかすの姫」舞台のモデル公式ガイドMAP』に掲載されている13のスポットには入っていないが、隠れスポット①として小村神社を推したい。棟札の記録によると、小村神社は勝照二年(586年)の創建。『土佐幽考』(安養寺禾麿著)では、『新撰姓氏録』に見える高岳首・日下部と高岡郡日下庄とを関連づけ、その共通の祖神として国常立命を祀り大刀を御神体としたとする。 御神体の大刀については『刀剣乱舞』のキャラクター候補にもなったようだが、年に一度11月15日の秋の大祭の時に一般公開されるのみで、制作会社からの申し出は丁重にお断りされたようである。ただし、高知県立歴史民俗資料館の特別展「驚異と怪異―世界の幻獣と霊獣たち」では本物が展示されていた。 それでは、どこに行けば竜に会えるのか。日高村オムライス街道にある「村の駅ひだか」――観光情報発信コーナーでは、観光案内所を併設するとともに、国宝の「金銅荘環頭大刀」のレプリカを展示公開している。直接目にして、環頭の模様に隠された竜を見つけ出してほしい。 国道33号線沿いには日高村特産のシュガートマトを使用したオムライスの店が建ち並ぶ。なぜオムライス街道と呼ばれるようになったのかというと、名前の由来はオムライス……だけではなくて「小村神社」にかけた命名なのだという。映画のタイトル『竜とそばかすの姫』をもじった「竜田そば天かす入り」みたいなメニュー開発にも期待する。 日高村の中心は旧日下(くさか)村であり、漫画家のくさか里樹さんや江戸時代の義賊・日下茂平(茂兵衛)は地元出身の有名人である。間違っても声優の日髙のり子さんとは直接関係なさそうだ。 |
「5五の位は天王山」という将棋の格言がある。現代将棋では穴熊囲いに代表されるように、低く構えて、細い攻めをつなげ、大さばきを狙う戦い方が主流となり、私が好んで指していた五筋位取り戦法などはすたれてしまった。 天王山という山は実在していて、最も有名なのは京都府乙訓郡大山崎町にある。かつては西側の山腹を摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、南北朝の争乱や応仁の乱でも、戦略上の要地として奪い合いの舞台となった。なかでも、1582年に織田信長を討った明智光秀と、その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして、「天下分け目の天王山」と表現された。
前置きはそれくらいにしておいて、昨年(2021年)9月に『肥さんの夢ブログ』で “日本各地にある「天王」”というタイトルで、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンの地名を紹介していただいた。その際、「いの町の天王は、何に由来するものでしょうか?」との質問をいただいていたが、正確なところが分からず、そのままになっていた。このほど有力な情報が見つかったので報告させていただきたい。 『伊野史談第50号』(伊野史談会、平成12年)に大岩稔幸氏の「天王・八坂神社建立の経緯」という記事があった。天王という地名について、元伊野町会議員・森沢豊吉翁(平成11年没)の話が紹介されている。「天王地区には天王山、天王ヶ谷という字(ほのぎ)があった。山は削られ、谷は埋められたため、現在は山も谷も消滅している。『天王』という名前は新たに勝手につけた団地名ではない。天王山という山があったので、関係者全員が『天王』という名前がよかろうという事になった」という。 ここに登場する天王山は関西の山ではなく、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンにおける話である。旧高知八田街道にある鳥越峠に沿って北側に聳える三角に尖った山であった。そしてこの山を含む北側の字をも天王山、下の字を天王ヶ谷といった。この天王山は造成地第一の高地であったが、昭和61年工事が始まって、2ヵ月ではやくもその面影は消失したと記録されている。 その山にはかつて祇園様(牛頭天王)が祀られていて、後に現在の八田天王島に移転したという。昔は八坂神社と言われていたが、いつの間にか中島神社になった。すなわち、この牛頭天王および天王山が「天王ニュータウン」の地名由来ということになりそうだ。
天王ニュータウンは八田地区(吾川郡)と池ノ内地区(旧土佐郡)にまたがって新しく造成された町である。したがって天王地区には産土神(うぶすながみ)としての氏神様というものがなかった。この天王ニュータウンという名称の由来となった「祇園様」を再度天王地区に招来し、氏神様としてお祀りしようという試みがあったが、八田からUターン分祠はかなわず、結局京都の八坂神社からⅠターン御霊分けとなったようだ。 平成12年に遷座された天王八坂神社は八田の境谷の東隣りで、天王南七丁目にも接する池ノ内木屋ヶ谷に鎮座する。この八坂神社を天王地名の由来とするには新しすぎると感じていたが、以上のようないきさつがあったわけである。 昭和29年の市町村合併により、八田も池ノ内も同じ吾川郡伊野町に合併されて、2004年(平成16年)に吾北村、土佐郡本川村を新設合併。その際、現在の平仮名表記「いの町」になった。 |
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前回までの考察で、中世の所領単位「保」の管理責任者である保司の得分、すなわち「保司分」を「宝司部(ほしぶ)」地名の由来とする仮説が浮かび上がってきた。「保」及び「保司」については、高校の教科書『詳説 日本史』にも書かれている。
この荘園整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園を整備していった。国司は支配下にある公領で力をのばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また、田所・税所などの国衙の行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮のもとで次長官人に実務をとらせた。(P86~87)簡単に言うと「保」は国衙領であり、鎌倉時代にあっては幕府の直轄領(天領)にも相当するようだ。問題となるのは春野町に中世の所領単位「保」が実在したのかという歴史的事実である。 『吾妻鏡』によれば、文治二年(1186年)、源頼朝が平康頼を阿波国の天領麻植(おえ)保の保司に任命した記録が残されている。土佐国においても「荘園や保・別府などが土佐中央部(現在の高知市内)に集中し」(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』P115)たのが、11世紀後半から12世紀とされている。具体的には香美郡の香曽我部保・菟田保・徳善保、土佐郡の潮江保、高岡郡の津野保などが知られている。吾川郡にも「保」があったことが立証されれば新発見となる。 『国史大辞典』「保司」の項には「官務小槻隆職が多くの官厨家領便補保の保司となったごとく、在京の領主(京保司)も少なくなかった。京保司の場合は現地で開発を受け負った在地領主が保司の下で公文に任じられた」とも書かれていた。小槻隆職(おづきのたかもと、1135~1198年)は若狭国国富保をはじめ数多くの官厨家領の便補保(びんぽのほ)を、功力を投入して開発しているが、その中の一つに「土佐国吉原荘」があった。『壬生家文書』に「源包満より伝領し、隆職が自ら開発し、建久9に子孫相伝」といった内容が記録されている。
春野町西分の宝司部周辺がかつて「保」であったとすれば、それがいつ成立したものなのか。保司となったのは誰か。在京の京保司だったならば、現地で開発を請け負った在地領主は誰なのかなど、新たな疑問が沸き上がる。春野町の歴史を研究する上で大きなテーマとなりそうだ。 |
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「宝司部」「法司分」「法師分」など、これまで順番に考察してきたが、正直なところ決定打といえる論証はできなかった。まだ何か見落としているものがあるのかもしれない。
もう一度整理してみよう。現在は「宝司部(ほしぶ)」と呼ばれている地名であるが、古い文書や地図には「法司分」「法師分」などと表記されているものもあった。さらに遡(さかのぼ)って、16世紀末の『長宗我部地検帳』には「ホウシフン(分)」と記録されている。漢字表記は色々と揺れているので、後に好字があてられている可能性があり、後代の漢字表記に引きずられないようにしなければない。とは言え、地名の語源としてよくありがちな「傍示(ぼうじ)」由来も妥当性が低いようであった。 完全に行き詰ってしまって、藁(わら)にもすがる思いで『国史大辞典』を開いてみた。「ほ」で始まる言葉を探してみると、「保司」という言葉が飛び込んできた。これは天啓なのではないか。「保司」について次のように書かれている。
この保司得分、つまり「保司分」が「ホウシ分」、そして「宝司部」地名となったのではないか。これまで「宝司」「法司」などの漢字に引きずられて思い至らなかったが、音で当てはめたとき「ホウシブン」とも読め、現在「ほう」と伸ばさずに「ほしぶ」と呼ばれていることと良く符合する。「宝」や「法」では「ほ」とは読めない。『長宗我部地検帳』(16世紀末)の段階で地名化しホノギとして記載されていることから、それ以前の時代にルーツを持っているはずである。平安時代後期から鎌倉時代ごろの成立であれば、年代的にも適合する。 中世的所領単位の一つである「保(ほう)」について、『国史大辞典』には「平安時代後期に現れ中世を通じて存在した所領単位。荘・郷・保・名(別名(べつみょう))と並称された。十一世紀後半のころ律令制的郡郷制の解体とそれに伴う国衙領再編の過程で、未懇地の開発申請に応じて国守が認可を与えることで出現し、開発申請者は保司に補任されて、保内の勧農、田率官物収納の権限を与えられた」とある。保の管理責任者が「保司」であり、その保司の得分、すなわち「保司分」を地名の由来とする仮説が浮かび上がってきたのだ。 やっと新たな光明が見えてきた。俄然これからの検証作業に力が入りそうである。 |
高知市春野町西分の「宝司部(ほしぶ)」が、かつては「法司分」や「法師分」と表記されていた。「法司」から連想される「法を司る」というイメージから、前回は吉良氏による吉良条目に着目した。 少し補足しておきたい。条目制定に携わったとされる南学の始祖・南村梅軒については、高校の日本史の教科書にもその名が登場し「戦国時代に土佐で開かれたとされ、谷時中に受け継がれた南学(海南学派)も朱子学の一派で、その系統から山崎闇斎・野中兼山らが出た。とくに闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道を説いた」と説明されている。しかし、南村梅軒や吉良条目についての歴史的根拠は『吉良物語』以外になく、その実在性が疑問視されている。 ならば、実際に土佐国の分国法として制定された「長宗我部元親百箇条」との関連で考えることはできないだろうか。制定年次が文禄五年(1596年)、慶長二年(1597年)となっており、検地が行なわれた前後の時期である。『長宗我部地検』に「ホウシフン」という一定領域を指す地名として定着するのは難しそうである。 そこで今回は、もう一つの「法師分」という表記に着目してみたい。「法師」とした場合は僧侶および寺院関係に注目しなければならない。やはりこちらが本筋であろうか。仏教寺院との関連を調べる必要がありそうだ。 『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』(高知市史編さん委員会考古部会 編、2019年3月)によると、高知県最古の古代寺院は高知市の秦泉寺廃寺(白鳳時代)とされ、素弁蓮華文軒丸瓦をはじめとする出土物がそのことを示している。春野町の大寺廃寺、土佐市の野田廃寺からも同形式の素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、秦泉寺よりはやや遅れると考えられている。 素弁蓮華文軒丸瓦といえば畿内では飛鳥時代、すなわち四天王寺が建立された時代に比定される。実は春野町秋山の種間寺には、用明天皇の治世に来朝した百済の工人が四天王寺建立後に土佐国に立ち寄り、種間寺を建立したという説話が「種間寺縁起」として伝承されている。
位置関係についても見ておこう。大寺廃寺跡は六条八幡宮(春野町西分3522)に隣接する喫茶店「梅園」付近とされ、宝司部と同じ春野町西分内にある。その南方1km圏内に第34番札所種間寺(春野町秋山72)もある。 寺院というものは伽藍や仏像だけ造ればいいわけではない。仏法に精通した法師がいてこそ寺院というものは維持できる。その「法師」に対する所領として「法師分」があったのではないかと考察した。 宝司部地区を基点にして、西に大寺廃寺、北に柏尾山寺(観正寺跡)、東には慶雲寺(後の雪渓寺)があった。それらの古い歴史を持つ寺院との関わりや、県外における「法師田村」(島根県)や「法師畑」(栃木県)などの類縁地名の存在もあって、この「法師分」説はかなり有力に見え、最終結論を出そうと考えつつも、何か納得できないものがある。寺院の所領は寺田や寺領であり、「法師分」のような所領形態があったことは聞かない。まだ何か見落としている重大な点があるのだろうか。 |
現在では「宝司部」と表記されている春野町の「ほしぶ」地名であるが、古い地図では「法司分」や「法師分」との表記が見られる。読みも「ホウシブン」であったかもしれない。 まず「法司分」とした場合に連想されるのは、戦国時代に春野を治めた吉良氏による分国法「吉良条目」の制定である。何か法を司る機関が存在したのだろうか。「天文年間吉良宣経は弘岡城主として周防山口から南村梅軒を迎え、土佐南学の基を開き、法を定めて所領の支配と家臣の統制を行ない、善政をしいて次第に勢力を伸張した」(『長宗我部地検帳 吾川郡上』P683の解説)と山本大氏は述べている。高知市のホームページにも「南学発祥の地」について、次のように紹介されている。
現在この場所には南学発祥地としての記念碑が建っています。しかし、この梅軒や南学発祥についてはのちに研究が進められ、『吉良物語』などの史料の信憑性が疑われるようになったこともあり、さまざまな異説もあります。(高知市公式ホームページより)高知県の観光業界の振興のためには、隠しておきたいところであるが、「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない」(マタイによる福音書5章15節)――真実を隠しておくことはできないのである。吉良宣経により制定されたとする吉良条目の根拠とするところは『吉良物語』(真西堂如淵著)であり、「長宗我部元親百箇条」などを参考にして、後世の潤色がなされているとの指摘があり、近年は疑問視される部分も多いようだ。物語と史実を混同してはいけないのである。 余談ではあるが、このことは大化二年(646年)に出された「改新の詔」が、大宝律令など後世の律令をベースにして、『日本書紀』編纂に際し書き替えられた可能性があるといった内容とよく似ている。 南村梅軒や吉良条目に関する新しい根拠でも発見されれば別であるが、史実に基づかない以上は、法を司る機関としての「法司分」といった地名由来の可能性も消えることになる。残る本命としては、やはり「法師分」であろうか……。 |