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 香川県観音寺市といえば琴弾八幡宮・境内社として高良神社があることを以前紹介した(“香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社”)。その時点では触れなかったが、四国遍路八十八箇所の第六十八番札所・琴弾山神恵院はかつて琴弾八幡宮の神宮寺として創建された。江戸時代以前の神仏習合の時代に刊行された『金比羅参詣名所図絵巻之三』(1847年)に描かれた琴弾宮の絵および説明を見ると、現在とは違った姿を知ることができる。
琴弾八幡宮
本社 応神天皇 大宝三年豊前国宇佐より遷座
高良社 武内大臣 本社の右に並ぶ
住吉社 住吉三神 本社の左に列(つらな)る
若宮権現社 住吉の社の南に在り

 現在は参道の階段途中に、小さな境内社として祀られている高良神社(祭神:高良玉垂神)が、かつては山頂に大きく祀られていたことが分かる。いや、もしかしたら今の高良神社とは別なのかもしれない。山頂に現在祀られているのは住吉神社・若宮・武内神社(祭神:武内宿禰命)である。どうやら江戸時代まで高良社と呼ばれていたものが、明治以降に武内神社と名前を変えたことが推察される。

 筑後の一宮・高良大社(福岡県久留米市)の両部鳥居から連想されるように、高良神社は神仏習合の色合いが強い。明治維新直後の神仏分離令に対して、神社側も極力仏教色を排することを余儀なくされた。社名変更もその一貫である。高知県土佐市の松尾八幡宮に境内社として武内神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座しているが、同じような理由から本来は高良社であったかもしれない。
 余談が長くなってしまったが、実は観音寺市にはもう一つの高良神社がある。『観音寺市誌 資料編』(観音寺市誌増補改訂版編集委員会、昭和六十年)によると、菅生神社の末社として原町野田の二社が次のように併記してある。
荒魂神社(大物主命)
高良神社(武内宿祢)
菅生神社の末社
野田が開拓されたのは、一五九二年(文禄元)で(郡史)、その当時氏神として奉斎されたものと思われる。
 地図上では野田自治会場の隣に荒魂神社と地神宮の名前が書かれているだけ。現地でも高良神社かどうかは判断できなかった。おそらく三豊市山本町辻の菅生神社(“香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社”)の末社として高良神社が合祀されているということだろう。距離的には1キロメートル以内の場所である。

 観音寺市には2基の古墳が知られている。一つは原町の青塚古墳で、帆立貝形の前方後円墳で、墳丘の長さは約43メートルで周濠をめぐらしている。もう一つは室本町(琴弾八幡宮の北)の丸山古墳で、径約35メートルの円墳である。前者は竪穴式石室、後者は横穴式石室を持ち、共に刳(く)り抜き式舟形石棺で、石材に阿蘇の凝灰岩を使用している。
 この2基の古墳と2つの高良神社のロケーションとが見事に一致する。これまでは倭の五王時代に対応する5世紀頃の横穴式石室古墳の分布に注目してきたが、竪穴式石室古墳となるとさらに古くなる。しかも石材が阿蘇の凝灰岩ということであるから、その産地である熊本県宇土市辺りとの交流があったことは、まず間違いない。5世紀の段階で讃岐地方に九州王朝が進出していたことの根拠となるのではないだろうか。銅矛などの分布を見ても、それは弥生時代からの歴史の継続性があると見てとれる。
 香川県にはまだ紹介できていない高良神社がいくつかあり、とりわけ県西部は高良神社の密集地帯であることがよく分かる。調べることはまだ多くあるが、高良神社の分布を追うことによって、九州王朝とのつながりが見えてくるようである。


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 数年前(2013年)、北海道から高知へ鶴が渡ってきて、かもめが鶴に変わったと囁かれた。何の話かというと、ドラッグストアの「かもめ薬局」が「ツルハドラッグ」にとって変わられたことを喩えたものである。
 ツルハホールディングスの経営者は鶴羽さん。『名字由来net』によると、「鶴羽」姓は現香川県である讃岐国寒川郡鶴羽庄が起源(ルーツ)とされる。近年、北海道、徳島県をはじめ九州や四国に多数みられる。
 また「津留」姓は現福岡県南部である筑後国山門郡津留村が起源(ルーツ)である。現宮崎県である日向、現大分県中南部である豊後にもみられる。近年、九州に多数みられる。関連姓は鶴。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏流、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流窪田氏族などにみられる。
 ところで、全国には鶴に関する地名が数多くある。ツルという語については、柳田国男が何度か言及し、鶴・釣・津留などの字が当てられているが、ツルとは水流すなわち、水がたたえられているところを指すとも考えられている。
 このことに関連して、『戦国・織豊期の社会と文化』(下村效著、昭和57年)の中に「ツルイ考――古代・中世村落考察のための一作業――」という論文が収録されている。『広辞苑』などでは「ツルイ」とは「ふかい竪(たて)井戸。吊井(つりい)。釣川。坪川(つぼかわ)」と説明されているが、地名に見られる「ツルイ」が実際は何を指しているのか。下村氏は、『長宗我部地検帳』に出てくる「ツルイ」地名を須崎市で悉皆調査をしている。その結果をまとめたのが次の四型類型である。

 ▽第一型 谷のツルイ

 小渓の淀みに石などで足場を構え、上部を水汲み場、下部を洗い場とする、最も素朴な水場

 ▽第二型 山清水のツルイ

 崖の際に湧出する泉を石で囲った水場

 ▽第三型 泉井戸のツルイ

 崖から少し離れたところに石で囲んだ井筒がある。

 ▽第四型 派生型

  掛樋で簡便に導水し、水槽・水瓶の設えをする。

 つまり、①小渓流に近く ②ツルイの水位は低く、深い竪井戸(釣瓶井戸)ではない ③個々の屋敷外にあり共同井として利用ーーの3点が当時のツルイである。
 言われてみれば、さもありなんである。昔は水道などなく、深い竪井戸が普及するのは近世以降である。けれどもライフラインとして生活用水の確保は村落の形成のためには絶対不可欠であり、県下に広く「ツルイ」地名が分布していることが、そのことを示している。

■四万十町の採取地

 四万十町の字一覧から、「ツルイ」地名を抽出すると次の26カ所となる。
 ウスツル井(宮内)、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(七里・柳瀬)、ツル井ノモト(七里・西影山)、鶴居ノ原(七里・小野川)、ツルイガ谷(七里・志和分)、鶴井谷・鶴井ノ平(上秋丸)、ツルイノクボ(市生原)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、柳ノツルイ(江師)、ツルイノ本(大正中津川)、カミツルイ・クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ谷・ツルイノ奥(昭和)、ツルイ本(河内)、奥釣井・釣井ノ口(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)

■四万十町外の採取地

 上ツルイ(いの町池ノ内)、ツルイノ上(いの町大内)、ツルイ(宿毛市押ノ川)、鶴井・鶴井ヶ谷(宿毛市小筑紫町湊)、ツルイヤシキ(宿毛市橋上町橋上)、鶴井ヶ谷(宿毛市平田町戸内)、ツルイ・ツルイダバ・ツルイ山(宿毛市平田町黒川)
(『四万十町地名辞典』より引用)
 下村效氏は「地検帳で中世・近世の村落を分析しようとすれば、まず、その景観の復元作業が必須となるが、そのためにはこの”ツルイ”とは一体、どのようなものであるかを見極めなくてはならない」(『土佐史談194号』「長宗我部地検帳のツルイ」)とし、須崎市の「ツルイ」地名をくまなく踏査し、土地の人々から聞き取り調査を行った。その結果、戦国期の土佐の山間部、山麓部農村では、さきのツルイ三態を「ツルイ」と呼んでおり、それは通念のような深い竪井戸ではなかったという事実を確かめ得た。「ツルイは井の原初的形態」であり、天正期に確かめられたツルイという水場の形態とその呼称が、近い過去までそのまま残った地域と、近世の釣瓶井戸に接して、それが古くからのツルイと音義において相通ずるところがあった為に、ツルイの概念に転移と混乱が生じた地域があったことを指摘している。
 「風呂」「釘抜き」地名など、現代人がイメージするものと、古代・中世における意味が異なってしまった地名群がいくつかありそうだ。それらの地名を理解する上で、下村氏の研究は良い参考例となっている。地名研究においては、言葉の印象や通説だけに頼らず、地道な調査が必要なようである。


 

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 『古賀達也の洛中洛外日記』第2238話(2020/09/22)に「天智天皇を祀る神社の分布」として、次のリストが紹介された。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)
 これらを県別に見ると、次の様な分布数になる。

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江神宮を含めると滋賀県は3社。鹿児島県の7社は他にお任せするとして、四国で天智天皇を祀る神社3社について分かる範囲で紹介してみたい。

①愛媛県の村山神社

 合田洋一氏が『葬られた驚愕の古代史』等の著書で、伊予国に残る斉明天皇行宮伝承地の一つとして紹介したことから、古田史学派の間では有名になった神社である。現在は四国中央市。『愛媛県神社誌』の記述を抜粋する。
村山神社(旧県社)
宇摩郡土居町津根一八六五番地
〔主祭神〕天照皇大神
〔配神〕斎明天皇、天智天皇
〔由緒沿革〕天照大神御鎮座は年代未詳。斎明天皇御鎮座は社伝記に詳らかで、天智天皇御鎮座は白鳳八年三月という。木像七〇余体は斎明天皇近侍の生像と云われている。
 当社は天皇行幸の旧跡に鎮座といい、社前の堀の中に周囲一〇余丈の小高き丘あり、郷人これを宝の丘と呼ぶ。天皇の御陵所と云われている。又、天智天皇行幸には天神地祇斎庭の御遺跡あり。文徳実録、三代実録に神位受賜の記載がある。延喜式の名神祭に預り、大社二八五座の内村山神社伊予国とあり。宇摩郡宗廟の神一群の鎮守として国守河野の崇敬篤く、又、西条藩社となり、松平家の祈願所であった。

②香川県の鉾八幡宮

 かつて“香川県の高良神社⑤ーー財田町財田上の鉾八幡宮・境内末社”で紹介したことがある。八幡宮が天智天皇を祀っているというのは不思議だと思って、もう一度確認してみた。するとやはり、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもの。推測した通り、神社合祀令によるもののようだ。


 政府の政策により、明治四二と四三年の二回、神社整理が行われた。これは全国的なもので、当時の内務大臣の指示によると、
「……格別の由緒なく小規模の神社で、神職も常置せず、氏子崇敬者が維持を困難とし、崇敬の実をあげることができない神社は合併して神社将来の発展を期すように……」
とされている。鉾八幡宮でも二八社が合祀されたが、大正四(一九一五)年から同七年にかけて約半数が氏子等の強い希望により旧社地に社殿を再建復興した。

③高知県の大森神社

大森神社(旧村社)
所在地 高知県吾川郡いの町中野川126番
祭神未詳(伝天智天皇)
勧請年月縁起沿革等未詳。
古来当地域の産土神で、もと大宝天皇と称した。道路がヘアピンカーブする間の大木の茂る林内に鎮座。

 “「大宝天皇」は政権交代の礎を築いた天智天皇をさしていた!”で紹介したように、天智天皇を祀る神社が高知県内に存在していることは早くから知っていた。しかし、古老の話によるものであり、現在は祭神未詳となっている。何かの差出しの時に祭神を伏せるようにとの配慮があったことが、ある史料に出ていたように記憶している。
 はじめはなぜこのような険しい山中に天智天皇を祀っているのかと不思議に思っていたが、村山神社との位置関係を見てもらえば、むしろ愛媛県との県境に近いからこそというもっともな理由が見えてくる。そこは長沢という地名もあり、もしかしたら無量寺『両足山安養院無量寺由来』「聖帝山十方寺由来之事」に記載されている「長沢天皇」との関連があるのではとの連想も浮かぶ。
 伊予国は合田氏が言うように斉明天皇の伝承が色濃く残る場所であり、天智天皇とも関連が深いわけである。鉾八幡宮にしても、大森神社にしても、伊予国を中心とする伝承の辺縁部という位置づけになる。

 さらに“長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①”で言及したように、愛媛県と徳島県との県境の町である大豊町に「斉明6年棟札」が存在していた。もっと言えば、高知市の朝倉神社周辺にも斉明天皇および天智天皇の伝承(『愛媛県神社誌』に天智天皇の土佐国朝倉行幸)は数多くあり、秦泉寺廃寺近くに天智天皇のミササギ伝承地も存在している。

 それらはあたかも天智天皇が近江朝を築く前に、四国に滞在していたことを指し示すかのようでもある。多元史観による考察が求められるところだ。


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 2008年10月19日、古田武彦氏は愛知教育大学で「日本思想史学批判 ―『万世一系』論と現代メディア―」と題する講演を行なっている。その中で、日本を代表するT大、K大、Q大の学生新聞がこぞって古田説を取り上げていることを語っている。3大学のうちでも、とりわけ「Q大が一番早かったかな」とも。
 「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである」(マタイによる福音書5章15節)とあるが如く、一度灯された真理の光を覆いかくすことはできないという意味で語られたものと受け止める。
 学生新聞というメディアを通して学生及び大学関係者に古田説を広めることに貢献した一人が、“『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念エッセイ①”で紹介したM氏であろう。古田史学に傾倒する歴女のQ大生から『「邪馬台国」はなかった』の存在を教えられたM氏は、初期3部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)をはじめ、手に入る古田武彦氏の著書を買い集めた。
 やがてM氏の「東アジア共同体の胎動 ー歴史的土台を探るー」という連載記事がいくつかの大学の学生新聞に掲載されるようになる。氏はICSAという団体で日本と韓国の学生交流に携わった経験から、両国間の歴史認識の違いを肌で感じていたようである。記事中における古代史の部分に関しては、大幅に古田説を取り入れた内容になっており、古田史学の影響を受けたことが読み取れる。

 手元にある1997年1月の『T大新報』(月3回発行)に、第30回目の連載記事があることから、T大学では1996年頃から連載が始まったと推察する。正確な資料はないが、母校のK大学や古田史学と出合ったQ大学では、さらに早い段階から学生新聞上での執筆活動をしていたようである。古田説を支持するQ大名誉教授と古田武彦氏の対談が実現するよりも少し前の頃ではなかっただろうか。
 大学は真理探究の府であり、学生新聞は大学界のオピニオンリーダーを自負していた当時である。古代史学会で古田説がいくら無視されたとしても、真理を求める者たちの目を覆うことは出来なかった。このようにして、真理を愛する人々の中に古田史学の種が蒔かれていったのである。




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 謎解きでおなじみの松丸亮吾さんではないが、はじめにクイズを一問。家庭教師のトライといえばアルプスの少女ハイジだが、土佐国最古の廃寺トライアングルといえば何?

 答えは、①旧土佐郡の秦泉寺廃寺(高知市中秦泉寺)、②旧吾川郡の大寺廃寺(高知市春野町西分)、そして③旧高岡郡の野田廃寺(土佐市高岡丙野田)である。中でも最古とされるのは秦泉寺廃寺であり、「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」をはじめとする出土物がそのことを裏付けている。
 秦泉寺廃寺の創建瓦の時期は、畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば飛鳥時代後半の七世紀後葉~末葉以降と考えられる。各次の調査で出土した軒平瓦の文様が重孤文のみとみられることと併せると、その時期を大きく下ることはないと思われる。そして大寺廃寺、野田廃寺の軒丸瓦は本類より後出するとみられることや平瓦においては秦泉寺廃寺、野田廃寺ともに凹面に模骨痕がみられるものが普遍的にあり、基本的に桶巻作りである可能性が高いことも、この年代観と齟齬はないといえる。(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』高知市史編さん委員会考古部会、平成31年)
 「畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば」としていることから、一元史観の影響でやや遅めの年代比定となっている感がある。ONライン(700年)以前の創建ということは間違いなさそうであるから、多元史観の視点に立てば、実際はさらに七世紀前半にさかのぼる可能性さえ見えてくる。

 春野町・大寺廃寺と土佐市・野田廃寺跡出土の軒丸瓦の文様は同型であり、秦泉寺廃寺に後続する同系瓦と見られている。一元史観の影響からか、創建年代を奈良時代と比定する向きもあるが、軒丸瓦の形式のみから判断すると、やはり七世紀の創建と推定できる。また「土佐国分寺や比江廃寺との関連を積極的に示す瓦は見当たらない」とされていることからも、長岡郡の国府跡付近(南国市)に建てられた土佐国分寺とは時代や背景を大きく分かつ。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在し、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。
 これら3つの廃寺は通説では郡寺的な役割とされるが、そもそも土佐国はもとは4郡(安芸・土佐・吾川・幡多)しかなく、国府が置かれた長岡郡は後に分郡されたとの説もある。すなわち、元来(ONライン以前=九州王朝時代)は土佐国の中心は土佐郡だったのではないかとの見方もできる。
 野田廃寺も創建当時は吾川郡内であり、吾川郡から高岡郡が分郡されたのが9世紀であるから、同郡内に2つの古代寺院が存在したことになる。瓦の文様等に類似性が見られるのも当然かもしれない。
 大寺廃寺跡では発掘調査は行われていないが、『長宗我部地検帳』に「大寺寺中」とあることから、16世紀まではその存在が確認できる。一方、野田廃寺のほうは早くにその姿を消してしまったようで、所在地の「字白石」周辺には寺院跡らしき地名遺称が見当たらない。

 他方、秦泉寺廃寺については「秦泉寺」や「カネツキ堂」という地名遺称がその存在を現在に伝えている。それ以外にも県下には、比江廃寺やコゴロク廃寺といった古代寺院跡が確認されている。
 近年の研究によると、地方寺院は七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。土佐国にもその1%程度の古代寺院がかつて存在しており、多元史観によってその役割や位置付けの解明が求められているのかもしれない。

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 “非時香菓(ときじくのかくのこのみ)は本当に橘なのか①”と題して、田道間守(たじまもり)が常世国から持ち帰ったとされる「非時香果」が本当に今の橘(タチバナ)のことであるのかどうかを考察してきた。とかく人は結論を自説に結び付けたがる傾向があるもの。その論証が正しければ、周辺の事情までピタリと合うようになってくるものであるが、そうでない場合は、矛盾を解決するために次から次へと継ぎあてをしなくてはならない状況に陥る。屋上屋を重ねるようなものである。
 そこで独善を避けるために、今回は最近発刊された『探訪』第十四号(仁淀川歴史会、令和二年六月)の中から、「たちばなの源流を探る」と題する石元清士氏の論考を紹介しておきたい。
 実に21ページにわたる力作であるが、まとめの部分から要旨となる部分を引用し、解説を加えたい。
 私の疑問は、多くの国語辞書が「歴史上の橘(コミカン様のもの、以下Aと略称)と、現存する野生タチバナ(以下Bと略称)は全く別物亅と云う事から始まった。そうした記述の根拠は、牧野富太郎博士の見解にあり、その詳しい考え方も分かった。
 見解の要は、Bが「食うに耐えない劣悪な代物」と見る点にあるから、公的機関にBの糖度と酸度を測定してもらった。結果は三月頃には、味の点では生食に充分適した値になることが証明された。
 続いて、Bは「タジマモリ」以前から国内にあった事を文献で確かめ、「トキジクノカクノコノミ」は、食用として期待されたものではなく、不老不死を希求する、信仰上の仙果であったことを浮彫りにした。
 以上の点をふまえ乍ら、おもな歴史上の作品・記録の中の橘について、それはAかBかの判別を試みた。幸いなことにAとBは、「種子繁殖の可否」、「食品としての優劣」、「熟期の差」などに、明確な差異があり、それを尺度にすれば、その判別はさして困難ではなかった。
 その結果、私の見た限りでは、それらの橘はAであるという確かな証は見つからず、AとBは別物ではなく、歴史上の橘は野生タチバナそのものという、私なりの結論を得た次第である。
 従って、万葉人の愛した花橘は、松尾山のタチバナ群落の遠祖であり、栽培にまで広がる戸田(へだ・沼津市)の野生タチバナも、「菓子の長上」と讃えられた古代の橘と同一種であることが確かめられた。
 一番のポイントだけを簡潔にまとめると、論旨は次の①~③のようになる。
①国語辞典は歴史上の橘と現存する野生タチバナは別物と記している。
②その根拠は牧野富太郎博士の見解にあった。
③しかし著者は調査研究の末、歴史上の橘は野生タチバナそのものという結論を得た。

 辞典の類は研究の初めには必須なものであるが、新説を出す際にはむしろ通説を代弁する大きな壁となる。辞典の種類がいかに多くとも、そのほとんどは学界の権威者が発表した見解が踏襲され、一斉に右へ倣いをしていることが往々にしてある。この橘問題において、その権威となっていたのが、高知県が誇る世界的な植物学者・牧野富太郎博士だったとは少々意外でもあった。
 『牧野日本植物図鑑』(北陸館、昭和十五年)は、「野生タチバナは紀州みかん即ち小みかん様のものとし、現在西日本海岸地帯に稀に点在する野生『タチバナとは別のもの」との見解を示している。その根拠は「菓子の長上」と讃えられた古代の橘が「食うに耐えない劣悪な代物」であるはずがないとの牧野博士の独断にあった。
 そこで石元清士氏は、本当に野生タチバナは食用に耐えないものなのかどうか、自らタチバナの木を育ててその実を食してみたという。確かに12月下旬頃のタチバナの果実は通説に違わずすっぱかったのだが、面白いことに3月下旬頃には生食可能なおいしさになるという事実が証明された。このことは中央西農業振興センターに依頼して、糖度や酸度などについても測定調査済みだという。
 牧野博士は小学校中退という学歴のため苦労も多かったようだが、学界に縛られない独自の研究スタイルで一躍世界に通用する植物学者となっていった。常に貧苦に苦しめられながら、実家の酒造会社を潰してでも後世のために充実した植物図鑑を残そうとした精神は尊敬に値する。その博士がいつしか学界の権威として君臨していたとは……。
 石元氏はイザナギ・イザナミの神話の時代から「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」といった「橘」地名が存在し、『魏志倭人伝』に橘が登場することにも言及。さらに「種子繁殖の可否」の点からの考察など、多方面からのアプローチで③の結論を導いている。自らの経験に基づき、実に実証的で、示唆に富んだ論考であった。
 だが疑問は残る。「非時香果」が本当に今のタチバナであったとすれば、田道間守がわざわざ常世国(海外)から持ち帰る必要はないことになる。もう一歩踏み込んだ考察が求められているのかもしれない。



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 台風が近づいてきていますので、皆さん気をつけて下さい。
 ところで台風の渦は右巻き、左巻きのどちらでしょうか? そう、北半球では左巻きですね。なぜ左巻きになるか、その理由が分かりますか。

 野球で喩えてみましょう。北極にマウンドがあると仮定して、そこからピッチャーが赤道にいるキャッチャーに向けて剛速球を投げたとします。ボールはまっすぐに飛んでいこうとするのですが、地球は反時計回りに自転しています。時間が経つにつれて、キャッチャーは東の方向へ移動していきます。相対的にボールは西の方へカーブしていくように見えます。すなわちピッチャーから見ると右側へ曲がっていくわけです。
 風は気圧の高い方から低い方へ吹きます。何もなければ気圧の低い低気圧の中心に向けて等圧線を垂直に横切って風が吹き込むはずですが、北半球では自転による影響で、右寄りの力を受けて等圧線に垂直な方向からやや右にそれた向きに風が吹き込んでくるわけです。台風は熱帯低気圧が発達して中心付近の最大風速が17.2m以上になったものをいいます。よって反時計回りに風が吹き込み、左巻きの渦ができるのです。
 このように北半球では右向きに引っ張られる見かけの力が生じます。これをコリオリの力と言います。この力は地球の自転による慣性力の一種なのですが、地球が自転しているというのは事実なのでしょうか。今でこそ地球が自転しているということは小学生でも知っていることですが、地球が自転していることを証明してみろと言われたら、それを相手に納得できるように示すことができますか? なかなか難しいですね。

 そこで今日は地球が自転していることを証明する物語を講談風にやってみたいと思います。以前から物理の授業を、今はやりの講談風にやれたら、物理嫌いになる人もいなくなるのではないかと考えていたところです。それではお聞きください。物理講談のはじまり、はじまり。


 時は1851年、黒船来航の2年前。ヨーロッパにおいて地球の自転を検証する一大実験が行われようとしておりました。フランスはパリ。パンテオン神殿といえば高さ83mもの大聖堂がそびえ立つ。そこで行われるのは聖日のミサなどではなく、壮大な科学の実験であった。その人の名はレオン・フーコー。無料の公開実験と銘打って、人々を集めた。
 「さあさあ、遠からん者は音にも聞け。近くは寄って目にも見よ」
 天井からつるされた振り子は、フーコー自ら設計した手作りのもの。ギネスブックにも載ろうかと思われるほど、とてつもなく長い振り子であった。仮に長さを64mとしても、振り子の周期はT=2π√ℓ/gであるから、ℓ=64を代入して計算すると、周期はおよそ16秒。
 その振り子がゆっくりと振れ始めた。すぐには目立った変化は見られない。10分、20分、……1時間。南北方向に振れていた振り子の振動面が、時間がたつにつれて、何と時計回りに向きを変えていくではないか。振り子は慣性の法則に従って、同一方向に単振動を繰り返すのみ。振り子が動いたのでなければ、動いたのは……。人々ははたと悟った。「動いたのは地面。すなわち、地球の大地なのだ」と。
 世に言う「フーコーの振り子」の実験の一幕でございます。
 ぜひ、講談師の神田松之丞さん(6代目神田伯山)にでも演じていただきたいですね。



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 高知県西部(幡多地方)には「白皇(しらおう)神社」が集中している。『高知県幡多郡誌 全』(高知県幡多郡役所編、昭和48年)によると、明治13年頃の時点で幡多郡には神社総数2007社、そのうち白皇神社が134社あったと記録されている。
 明治初年の段階で幡多郡には4郷130村あったので、4+130=134。ピタリと数を合わせたように、白皇神社の数と一致している。まさに「一村一社」ならぬ「一村一白皇」なのである。これは江戸時代までの神社行政の反映と見るべきだろうか。『南路志』などで村ごとの神社を拾い上げてみれば、完全に一対一対応ではないものの、幡多郡における「一村一白皇」が実感としてよく分かる。


 『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、著者が拝観した高知県内の白皇(王)神社は44社。祭神のほとんどは大巳貴(おおなむち)命とされ、その大半は県西部の幡多郡及び高岡郡に分布している。念のため白皇神社の鎮座地のリストを紹介しておこう。


土佐市永野・静神
吾川郡仁淀川町峠ノ越
四万十市具同・馬越
四万十市佐田
四万十市津蔵渕
四万十市名鹿・小名鹿
四万十市西土佐津賀
四万十市西土佐中家路
四万十市西土佐長生
四万十市深木
四万十市双海
四万十市森沢・浅村
四万十市横瀬・久才川
宿毛市押ノ川
宿毛市草木藪
宿毛市錦
宿毛市野地
宿毛市橋上町京法
宿毛市橋上町橋上
宿毛市山奈町山田
宿毛市山奈町山田
高岡郡四万十町井崎
高岡郡四万十町小鶴津
高岡郡四万十町十川小貝
高岡郡四万十町仁井田
高岡郡四万十町八千数
高岡郡四万十町古城
高岡郡四万十町宮内
高岡郡津野町北川
高岡郡中土佐町長沢
高岡郡中土佐町矢井賀
土佐清水市片粕
土佐清水市大岐
幡多郡大月町清王
幡多郡大月町泊浦
幡多郡大月町春遠
幡多郡大月町平山
幡多郡大月町芳ノ沢
幡多郡黒潮町田野浦
幡多郡黒潮町不破原
幡多郡三原村広野


 これが神社整理後の、ほぼ現在の実数と見てよいだろう。かなり減ったとは言え、その濃密な分布状況には驚かされる。


 もしかしたら神祇伯・白川伯王家との関連性があるのではという観点から、高知県西部の白皇神社の調査は始まった。これまでの様々な考察は次に示す通りである。


高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社
高知県西部の「白皇神社」再考①
高知県西部の「白皇神社」再考②
高知県西部の「白皇神社」は牛馬の神か?


  残念ながら、これまでの調査では、白川家とのつながりは見えてこなかった。ところが、ついに神祇伯・白川伯王家の家系が土佐国に来ていたという確実な情報を手に入れたので、ここに報告しておきたい。
 『中世土佐一条氏関係の史料収集および遺跡調査とその基礎的研究』(市村高男、2005年3月)の20ページに、土佐に下向した一条氏家臣白川氏のことが書かれていたのである。


白川氏 白川氏に関する史料の中に次のような文書がある(史料編編年史料62)


中村分使給之事
中村        丸田同所
一所卅代 使給   一所十代 使給
耕雲ノヲキ     中谷ヲノキ
一所壱反 柏井持  一所壱反 小使給
ヨシイケ
一所山畠一ツ    神右衛門尉
         門田
以上参反卅代   屋敷一ヶ所
天文十四年九月吉日 白川(花押影)
難波和泉守


 これは、天文一四年(一五四六)九月、白川氏が難波和泉守に知行を与えたときの文書である。「土佐国蠧簡集」の編纂者は、この中に見える知行地のホノギ名を高岡郡日下村の土地としており、また、高岡郡日下村別府新八幡棟札銘には、次のような記載がある(史料編編年史料67)。


□置祭別府新八幡宮、天文二十辛亥正月廿六日、大檀那従四位下行左近衛権中将源朝臣兼親


 これによれば、天文二〇年(一五五一)正月二六日、従四位下左近衛権中将源朝臣兼親が、日下村別府新八幡宮の造営に際して、大檀那になっていることがわかる。左近衛権中将源朝臣兼親は白川兼親である。石野氏は『尊卑分脈』などや右の二つの史料をもとに、白川氏は花山源氏の流れで雅業王の子息兼親であり、兼親が土佐に在国した背景には、父親の雅業王が京都一条氏の家来であったことを想定する。「歴名土代」によれば、兼親は享禄二年(一五二九)二月一日に従四位下に叙せられており、天文一六年(一五八八)七月二二日には彼の子の富親も従五位下に叙せられている(史料編「歴名土代」)。兼親の子富親もまた土佐に在国したと考えてよかろう。


 白川氏は花山源氏の流れで、神祇伯・雅業王の子息兼親であり、兼親が土佐に在国した背景には、父親の雅業王が京都一条氏の家来であったことを想定している。
 また、同書32ページでは、白川兼親が高岡郡東部の日下に配置されていたと考察している。


□置祭別府新八幡宮、天文二十辛亥正月廿六日、大檀那従四位下行左近衛権中将源朝臣兼親


 これにより、天文二〇年(一五五一)正月、白川兼親が日下村の新八幡の大檀那になっていたことが明らかになる。前述のように、白川氏は一条氏の配下に属していた京都下りの公家であり、享禄二年(一五二九)二月に従四位下に叙せられていたことも確認できる。このことから、白川兼親もまた、町顕量のように高岡郡東部の日下に配置されていたと考えて間違いないであろう。


 このように白川氏は、かつて土佐守護代を務めた大平氏の旧所領の一部であった高岡郡日下方面に配されていた。それを示すように、天文二〇年(一五五一)から天文二二年(一五五三)にかけて、町・白川・羽生氏らの名が高岡郡蓮池周辺の寺社の棟札に、相次いで登場する。


 しかし、永禄中頃になると長宗我部氏の勢力が拡大し、永禄一二年(一五六九)には蓮池城も奪取され、これを機に彼らは幡多郡に帰還した可能性が高い。「宿毛村地検帳」には、町氏の土居や旧所領、白川氏の旧所領も確認できる。さらに「中村郷地検帳」にも白川氏の旧所領が一箇所確認できる。このようなことから、彼らは永禄後半には中村周辺に居住していたと考えられる。


 さらに同書34ページで、白川氏が一条房基の側近として活動していた可能性が高いと考えている。


 白川氏については、天文一四年(一五四五)に難波和泉守に宛てた「中村分」の坪付を紹介した。白川氏が一条氏の諸大夫的な存在であったことからすると、一条氏の意を受けてこの文書を発給した可能性が高い。後述のように、康政も一条氏の意を奉じて家臣に坪付を発給しているので、その可能性は一層高まるが、白川氏の文書は、房基の代に発給されている点が若干異なるところである。しかし、白川氏が他の一条氏家臣に対して知行坪付を発していた事実は重要であり、このことから、房基の代には白川氏が一条氏奉書を発しはじめ、次の康政の活動の基礎を築いた可能性がある。


  活動記録として残るものは、房基のもとで白川氏が文書を発給していたと考えられる程度である。その他の詳しい働きは分からないものの、神祇伯・白川伯王家とのつながりを考えたときに、幡多荘における神社行政に、白川神道が影響を与えたであろうことは想像するに難くない。
 「白王の社は総計九〇(安・一、吾・一、高・二七、幡・六一)であるが、早くから開けていた中央から東の方に少なく、ほとんどが高岡郡と幡多郡(総数の三分ノ二)である」と『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)に記録されていることから、一条氏が没落した直後の段階でも、すでに白王の社(白皇神社)は幡多地方から高岡郡にかけて広く分布していたことが分かる。


 


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 滋賀県神社庁のホームページから「高良」で検索すると、次の4社がヒットする。
〔大津〕 宇佐八幡神社
     〒5200027 大津市錦織
     應神天皇
     〔祭礼日〕 9月 15日
〔彦根〕 高良神社
     〒5220004 彦根市鳥居本町
     武内宿禰命
     〔祭礼日〕 4月 5日
〔犬上〕 甲良神社
     〒5220242 犬上郡甲良町尼子
     竹内宿禰命
〔長浜〕 長濱八幡宮
     〒5260053 長浜市宮前町
     誉田別尊(応神天皇) 足仲彦尊(仲哀天皇) 息長足姫尊(神功皇后)
     〔祭礼日〕 4月 15日 / 10月 15日


高良神社の謎<滋賀県編>
滋賀県の高良神社①――彦根市の高良塚
滋賀県の高良神社②――長濱八幡宮 境内社
滋賀県の高良神社③――甲良神社は九州系
滋賀県の高良神社④――宇佐八幡宮境内社・高良社

 既に当ブログで紹介した4社である。滋賀県の高良神社を最初に紹介したのは、2年前の2018年5月であった。その後の調査をベースにとしながら、上表のように、滋賀県に密集する高良神社を公表しはじめたところ、研究協力の呼びかけたに呼応するように、関連するような情報が飛び込んできた。

 その一つが、滋賀県で日本最古級の絵画が発見されたというニュースである。

1300年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か

黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認 滋賀・甲良の寺

湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。(京都新聞社 2020/08/10)
 古田史学の会・代表の古賀達也氏によると、近江大津宮から離れた湖東に九州年号および聖徳太子伝承が多いという。これは高良神社の分布にも対応している。飛鳥時代の絵画が発見された甲良町西明寺も同町甲良神社の南方に位置する。
 また、ブログsanmaoの暦歴徒然草の次の記事が示唆に富んでいる。Photo_20200813174601
 上図を示しつつ、「三関」について次のように結論づけている。
 「鈴鹿關(すずかのせき)」・「不破關(ふはのせき)」・「愛發關(あらちのせき)」が守っているのは近江大津宮の近江京であり、この「三関」を設置したのは、天武・持統朝ではなく、九州王朝(近江遷都)乃至近江朝であったということになります。
 確かに、壬申の乱(672年)で大海人皇子を支援した美濃国や伊勢国などを仮想敵国と想定しているかのようである。

 実は滋賀県には、まだ他にも高良神社が存在する。近江最古の大社と呼ばれる白鬚神社(滋賀県高島市鵜川215)の境内社・八幡三所社に祀られる高良神社(祭神:玉垂命)である。高島市の白鬚神社は全国に多い白髭神社の本社とされ、琵琶湖の湖西に立つ大鳥居は観光スポットにもなっている。
 神社の略記では、祭祀は古代から始まり、垂仁天皇二十五年皇女倭姫命が社殿を再建、天武天皇白鳳二年(674)比良明神の号を賜ったとある。祭神は猿田彦大神であり、境内には次に列記するように、11の摂社が鎮座する。
 若宮神社「太田命」、天照皇大神宮「天照大神」、豊受大神宮「豊受姫神」、八幡神社「應神天皇」、高良神社「玉垂命」、加茂神社「建角身命」、天満神社「菅原道眞」、岩戸社「祭神不詳」、波除稲荷社「祭神不詳」、寿老神社「壽老神」、鳴子弁財天社「鳴子弁財天」
 このうち、八幡神社、高良神社、加茂神社は3社相殿の八幡三所社として合祀され、社殿は慶長期の造営で、高島市指定有形文化財にもなっている。
 八幡神社と高良神社の関係の深さはこれまで見てきた通りであるが、加茂神社とのつながりをどう見るべきか。思い出されるのは、徳島県三好市山城町瀬貝西の高良神社(祭神・武津見命)である。建角身命を祭神とする加茂神社とも何がしかの縁があるのだろう。
 ところで、九州から畿内への移動ルートといえば、ふつう瀬戸内海航路をイメージする人が多いかも知れない。しかし、近江地方へは日本海ルートで若狭湾辺りから上陸するコースも考えられる。
 第11代垂仁天皇をいつの時代に比定するかは難しいものの、一般的には弥生時代頃とされる。それほど古代にさかのぼる歴史があるのか疑問に思う人がいるかも知れないが、琵琶湖周辺の遺跡(近江八幡市の元水茎遺跡、彦根市の松原内湖遺跡、長浜市湖北町の尾上浜遺跡、高田遺跡など)からは縄文時代の丸木舟がたくさん出土している。
 このことは近江朝廷よりも遥かに先行する歴史があったことを示唆するものだ。弥生・古墳・飛鳥時代――九州王朝の勢力がこの地方に進出したのはいつ頃だったのか。琵琶湖周辺の高良神社の分布は、それを推定する材料の一つになるかもしれない。


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 約80年ぶりに「輪抜けさま」(6月30日の夏越大祓)が復活したことで注目を集めた四万十市の不破八幡宮(四万十市不破1392)。ここには高良神社があると言い続けてきたが、今までブログ記事にすることができなかった。現地に足を運んでも、境内社として高良神社が見つからなかったのである。確かに江戸時代の文献などには、境内社として高良神社が記録されている。だが、八幡宮の横にある摂社は三島神社(祭神:大山祇命)と住吉神社(祭神:中筒男命・底筒男命・表筒男命)のみ。いずれも「勧請年月日・縁起沿革等未詳」としながらも、八幡宮が勧請される以前からこの地に祀られ、八幡宮が造営される折、今の地に遷りて摂社として祀られたことが案内板に記されている。

 江戸時代には存在していたはずの高良神社はどこへ行ったのだろうか。消えた高良神社の謎である。とにかく宮司さんに聞いてみることにした。すると「高良神社は八幡宮に合祀されています」とのこと。かつて安芸郡の田野八幡宮で境内社・高良神社を探し回った記憶が思い返された。その時も最終的には宮司さんに聞いて、八幡宮の御祭神として高良玉垂命が祀られているという話を聞くことができた。
 厳密に言うと、田野八幡宮とは多少意味合いが違っている。あくまでも不破八幡宮の御祭神は、品陀和気命・玉依姫命・息長足姫命の三神であり、それとは別に高良神社(祭神:武内宿祢命)が八幡宮本殿に合祀されているというのだ。
 宮司さんの話によると、明治の段階ではすでに本殿に合祀されていたであろうという。昭和41年の解体修理の時点で高良神社の祠が本殿の中に祀られていたのだという。その前の大修理が明治33年であるから、その時点で合祀された可能性が高い。

 まずは不破八幡宮の由緒について、拝殿横の案内板から引用しておこう。

幡多郡総鎮守 不破八幡宮

御祭神 品陀和気命(第十五代天皇 応神天皇)
    玉依姫命
    息長足姫命(神功皇后)
旧格社 県社
由緒
 当社は文明年間(一四六九‐一四八六年)、前の関白一条教房公が応仁の乱を避け、荘園経営のため中村に開府の時、幡多の総鎮守として且つ一条家守護神として、山城国(京都府)に鎮座する石清水八幡宮を勧請し造営されたものである。また、現在の御本殿においては永禄元年(一五五八年)から翌二年(一五五九年)にかけて一条康政氏に京都から招聘された宮大工の北代右衛門氏により再建されたものである。三間社流造、屋根はこけら葺として都風の洗練された技術による室町時代末期の建造物として昭和三十八年七月一日付で国の重要文化財に指定され、土佐一条家の文化を今に伝える唯一の貴重な遺構である。明治以前は正八幡宮、広幡八幡宮と称されていたが、明治初年に不破八幡宮と改称する。同年五月社格を県社に列した。
 また当社の秋の例大祭は一条氏の創設に関わるもので、当時この幡多地域で横行した略奪結婚の蛮風を戒める為に、四万十市初崎に鎮座する一宮神社と共に執り行う結婚式を神事に織り込み始められた結婚儀礼神事であり、昔から地元の氏子崇敬者に神様の結婚式として親しまれ、また全国的に見ても非常に珍しい神事である。秋季例大祭(神様の結婚式)は昭和三十八年三月五日付で市の指定無形民俗文化財になる。
祭日 旧暦三月十五日      春季山川海神事
   九月敬老の日の前の土曜日 秋季例大祭宵宮祭
   九月敬老の日の前の日曜日 秋季例大祭本祭典
   旧暦十月十五日      秋季山川海神事
 山城国の石清水八幡宮を勧請したものとされていることから、高良神社が同時に勧請された可能性も考えられる。だが、摂社である三島神社と住吉神社が、八幡宮の勧請以前よりこの地に祀られていたことから類推しても、おそらく高良神社も八幡宮に先行して鎮座していたと見るべきではないだろうか。
 その根拠を示すことは簡単ではないが、いくつかの傍証となる事柄を示すことはできる。

①不破八幡宮の北10kmほどの四万十市蕨岡に、
高知県で唯一の単立の高良神社(“四万十市蕨岡の高良神社が鎮座している。
②幡多郡にある他社の宮床地名に「宮ノコウラ」「川原山」など、高良神社由来と推測できる地名遺称があること。
③不破八幡宮の「神様の結婚式」(当宮を男神、市内の一宮神社を女神として祭典神事の中で結婚式を執り行う)と呼ばれる結婚儀礼神事は全国的にも珍しいとされる。これと似た神事として、奈良県の高良神社(“瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚”)「まぐわい神事」(高良神社の男神が八幡神社の女神のもとへ出会いに行く)が行われている
 そうなると、前回紹介した“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”の事例が連想される。すなわち、高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請され、従来の主祭神が相殿の神として置き換わる……。祠が本殿内に祀られることは格の高さの表れでもあり、尊ばれていることの証しであるが、現在の案内板やパンフレットには高良神社に関しては何も触れられていない。こうして表向きは完全に“消えた高良神社”となってしまった。
 不破八幡宮の消えた高良神社の謎は、ここ数年来の宿題となっていたことであったが、今回の調査によって、やっとその謎を解くことができた。そして再び幡多地方の高良神社にスポットを当てることがかなったとすれば幸いである。


 

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HN:
朱儒国民
性別:
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職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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