筑後の一宮・高良大社については倭の五王との関係が指摘され、九州王朝の宗廟であったとも目されている。高良神社あるところに九州王朝の足跡ありと考えられることから、高良神社の謎を追いかけて香川県までやってきた。 「香川県の高良神社①~⑤」で県西部の三豊市周辺に高良神社が密集していることを紹介してきた。今回は三豊市にあるもう一つの重要な高良神社を紹介したい。 瀬戸内海に突き出した荘内半島の中ほどで最も低くなっている部分が「船越」という地名で、古代においては船が陸を越して半島の反対側へショートカットした場所とされる。「ふなこし」は全国的にも同様の地形に付けられた地名として数多く存在する。高知県須崎市浦ノ内にも横浪半島の付け根の細くなったところに「舟越」という地名がある。そこは鳴無神社の社伝に、大神が乗ってきた金剛丸をかついで越えた場所とされている。 さて、今春(平成31年3月)閉校となってしまった三豊市立大浜小学校の北、豊かな緑に囲まれた船越八幡神社(三豊市詫間町大浜1638)の境内に高良神社が鎮座している。祭神は武内宿禰命。他の境内社としては、金比羅神社、住吉神社、若宮神社、粟島神社など。木之花佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)をお祀りしている木村神社もあった。 旧荘内村と香田、家の浦を氏子とする船越八幡神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。幣拝殿の奥に神橋と中門が建ち、塀に囲まれた中に本殿が建立されていた。蕨手燈籠も見られる。この蕨手については当初、高良神社と深い関係があるのではないかと推察したが、他でも見かけたことから、割とポピュラーなデザインのようでもある。 境内の絵馬堂には、幕末から昭和初期にかけて製作された歌仙絵や歴史絵、船絵馬、芝居絵などが奉納されており、これらは市指定有形民俗文化財に指定されている。 『西讃府誌』によると、神亀元年(724年)に「宇佐八幡宮が御船に乗ってこの地に着かせ給うた」とある。また、『西讃府誌』とは別に、こんな伝承もあるそうだ。
境内右側の玉垣内には亀の背に乗った浦島太郎像があり、少し離れた場所に浦島太郎の墓もあるという。この社の鎮座する荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、砂州の発達で陸地と連結した陸繋島となり現在のような半島となったものだそうだ。この辺りにも「浦島伝説」があるようだ。 北西2km程の紫雲出山(しうでやま)山頂(標高352メートル)にある紫雲出山遺跡は、三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。ここからは貝塚、円形竪穴住居址、高床倉庫、大型掘立柱建物の遺構などが検出されており、本遺跡が瀬戸内海の交通の監視を意図した可能性が高いとされている。 本遺跡出土の石器の量は、優に畿内の大遺跡のそれに匹敵するとも指摘されており、ここが瀬戸内海の要所であったことは間違いない。また半島の付け根の波打八幡神社からは銅矛が出土しており、九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏の東の端に当たり、銅鐸文化圏の国々と接する最前線であったとも考えられる。佐原真は出土した石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと考察している。 「香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社」の鎮座地も瀬戸内海を見渡せる場所であったが、紫雲出山からは晴れた日には対岸の岡山方面まで見ることができる。瀬戸内海の海上ネットワークの重要な拠点であったことは間違いないだろう。 700年代に入って宇佐八幡宮から勧請されたとされる八幡神社が四国地方のみならず、多く見られる。九州王朝の滅亡に伴って宗廟の座が高良大社から宇佐八幡宮に移ったとされる伝承があるが、その反映であろうか。高良神社の大半は八幡神社の境内社(脇宮)となっている。 とは言え、香川県では高良神社がよく残されていることが、調査を進めていくうちに分かってきた。神社探訪・狛犬見聞録さんが次のように語っている。 「香川県ではそれぞれの地域の産土神が、かなりの規模で維持管理されています。現代社会において、これほどの信仰心が維持されている地域は、少ないのではないでしょうか? 嬉しい限りです」 まるで、私が感じてきたことを代弁して下さっているようだった。同感である。 PR |
「咲いたコスモス、コスモス咲いた」 sin(α+β)=sinα cosβ+cosα sinβ 『ドラゴン桜』などにも紹介された三角関数の加法定理の覚え方である。「おもしろ授業」風に始めてしまったが、実はコスモスは財田(さいた)町の町の花なのだという。 古くは「たからだ」と読んた例もあるようだが、現在の地名としては「さいた」と読む。簡単そうで県外の人には読みにくい地名である。 香川県における高良神社の密集地帯として、前回までに財田川水系4つの高良神社について紹介した。次の表を参照してほしい。
財田三郷にはそれぞれ御神体として鉾が祀られていたというのだが、それらはどこにあったのだろうか。鉾八幡宮の鎮座は天正六年(1578年)であるが、境内末社である高良社(こうらしゃ、祭神:竹内宿禰)の鎮座は文亀2年(1502年)となっている。鉾八幡宮が鎮座する以前に高良社があったことになる。このような事例は他県にも見られ、高良神社の鎮座地に八幡宮が建てられた例がある。栃木県の友沼八幡宮(下都賀郡野木町友沼912)の由緒には、八幡宮の創建に先立って既に高良神社が鎮座していたことが書かれている。 そうなると御神体の鉾も高良社に伝世されていたものではないかとの推定ができそうである。根拠はどこにあるのか。鉾はそれぞれ財田三郷とよばれていた財田上、財田中、財田西に祀られていたとされる。「香川県の高良神社①――財田西の高良神社」で、すでに言及しているように高良神社は財田西に一社存在する。ところが『西讃府誌』には「中之村」の記述中に「高良大明神 宮坂ニアリ」と出てくる。現在の財田中である。そして今回紹介した財田上……財田三郷の財田上・財田中・財田西の3つのピースが見事に合わさった。アニメ『ワンピース』も隠された歴史がストーリーの背景にあるようだが、今回の発見は「高良神社の謎」に迫る重要なカギを握っているといえよう。 かつて九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏があった。銅鐸圏の国々を東鯷国や狗奴国に比定する説もあるが、いずれにしても香川県西部は銅剣・銅矛文化圏の東限にあたり、邪馬壹国連合の最前線に相当する地域であったと考えられる。観音寺市や三豊市周辺は古墳地帯になっていることからも、この一帯は瀬戸内海交通の重要拠点であったようだ。そのために財田川水系が水軍の拠点とされたのであろう。 神社合祀令によるものか、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもので、多く九州系の神々が含まれている。 当然ながら、高良社については明治末の神社整理によるものではない。宝物庫の左、石積みの上に建てられた神明造りの高良社は格式高く、あたかも宝物を守っているかのようである。由緒でも「天正六年(1578)三村に鎮座していた神社を七尾山に社殿を建立し合祀した。御神体は鉾なので鉾八幡宮と称した。文亀三年(1503)以前の御神体の鉾、天正六年詫間村浪打八幡宮より治められた鉾二口は現在も宝物として保存している。旧社地はいずれも鉾の宮といい、今なおこの称がある」とされている。 「鉾の宮」と呼ばれる旧社地がどこなのか、地元の人の教えを請いたいところである。高良神社の社領は淡路島では神代(くましろ)、徳島県の高良神社密集地帯では山城(やましろ)と呼ばれたのではないか。そして香川県最多の高良神社地帯における高良神社の社領「高良田」が訓読みされて「たから田」、さらに「財田」という二字の好字に置き換えられ「さいた」と音読みされた……。これは勝手な想像であるから軽く聞き流してほしいところだが、三豊地区にこれだけ高良神社が集中していることをことを考えると荒唐無稽ともいえないのではないか。 香川県西部の高良神社はこれだけではない。まだ紹介できていないところがあるので、追って取り上げていきたい。 |
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香川県最大の高良神社といえば、やはり四国八十八ヶ所70番札所本山寺(三豊市豊中町本山甲1445)に隣接する高良神社であろう。ここもまた財田川流域の要衝の地である。四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4か所だけという五重塔が目印。大同2年(807年)平城天皇の勅願により、弘法大師が70番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残る。天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれる。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。その後、「本山寺」と名を改めた。 近隣の神社などについては案内板に描かれているが、隣接する高良神社については何も見あたらない。本山寺境内はお参りや五重の塔を撮影したりする参詣客でにぎわっていたが、塀を1枚隔てた高良神社を訪れる者は誰もいなかった。もともと寺家村の氏神とされているわけだから、よそ者が来ることを歓迎していないようでもある。 しかし古い史料では高良神社が大きく描かれていた時期もあり、長福寺(本山寺)は高良神社の神宮寺という位置づけだったのかもしれない。秋の大祭では盛大に神輿が出るということを近所の人からも聞いた。 静謐(せいひつ)な境内には「高良神社のクスノキ」と呼ばれる香川県の保存木も存在する。勧請元である久留米の高良大社にもクスノキ(県指定天然記念物)があり、高良大社縁起書『高良記』によれば、「クスの木は神木として、御社殿等の用材としても一切使用しないという秘伝がある」と述べられている。 拝殿の中には武内宿禰と見られる人物を中心に5枚の絵が飾られていた。『西讃府誌』では「高良大明神 祭神武内大臣 祭禮八月十七日」としているが、『豊中町誌』(豊中町誌編纂委員会、昭和54年)を見ると、少し違う解釈もあるようだ。
玉垂命(一説に猿田彦命) 「社伝」によると、貞観十四年(八七二)、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山から勧請して当地の岡本村(寺家・岡本・本大村)の氏神として奉斉したと伝えられている。その後衰頽していたが、宝暦十二年(一七六三)、 本大、岡本、本ノ大村の三か村の人々によって再興され、八幡宮とともに総氏神として祭祀した。明治五年神社社格改訂の折、寺家村の氏神として祭祀を行うことになった。『西讃府誌』に「祭神武内大臣…社地四段四畝、神田六石六斗」と記されている。 さて、社伝によると872年、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山(高良大社)から勧請したとされている。 田井式部についてはっきりしたことは分からないが、田井姓については『日本姓氏語源辞典』によると「①香川県高松市上田井町・下田井町発祥。平安時代に『田中』と呼称した地名。同地に分布あり」と書かれている。小豆島にも田井地名があり、徳島県海部郡美波町田井や高知県にも土佐郡土佐町田井という地名が存在している。また、武内宿禰の後裔とされる玉井姓や田口姓とも一字を共有していることが気になるところだ。 田井式部と聞いてすぐに思い出したのは、大学時代に読んで感動した『対馬物語 日韓善隣外交に尽力した雨森芳洲』(田井友季子著、1991年)の著者であったが、歴史学者の御主人は東京出身のようである。 ちなみに高知県には土佐雨森氏(武家)の後孫となる雨森姓がいる。ルーツをたどると藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。この雨森良高はもと三左衛門良治といったが、父高良より自分の子の証明として与えられた薬籠(名香三種)に橘の紋が付せられていた。これを雨森氏の紋としたとの伝承がある。藤原北家の流れでありながら橘紋というのも不思議だが、あたかも「高良」の名を継承するかのように見えるのは偶然であろうか。 |
香川県の財田川水系に高良神社が密集しているのはなぜか? 財田川河口が古代における天然の河口津として、九州王朝の船団が寄港する拠点となったからであろう。財田川河口に発展した観音寺市には観光の名所・銭型砂絵がある。そこの地名がなんと有明浜。九州王朝の心臓部に広がる有明海を連想する。銭型砂絵を見下ろす山の上には琴弾八幡宮(観音寺市八幡町1丁目1-1)が鎮座する。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。その境内社として、参道の途中左手に高良神社が存在しているのだ。近くには興昌寺山第1号古墳もあって、これらの地理的条件は九州王朝とのつながりが深いことを示唆するものではないだろうか。 7月13・14日は観音寺市の夏祭りで賑わっており、琴弾八幡宮の境内が夏祭りのための駐車場として利用されていた。祭りには目もくれず、一目散に参道の階段を上っていく。大鳥居から381段の階段を上がると本殿がある。 琴弾八幡宮は大宝3年(703年)3月、琴弾山で日証上人が修行していると彼方の空が鳴動し、琴を弾く翁を乗せた船が漂着。その翁は「宇佐より至る八幡菩薩なり、この風光去りがたし」と告げ消えた。上人は、このお告げを感得し、里人と共に、その船を神舟とし琴と共に、山頂に運び祀ったのに始まるとされ、社名の「琴弾」はそれに由来する。 ただし、ONライン(九州王朝と大和朝廷の画期701年)直後の大宝年間勧請という由緒を持つ神社が全国的にも多いのは、大和朝廷による神社再編のような政策が反映されている可能性も考えられる。 西方には愛媛・九州方面へ瀬戸内海が広がり、本殿からの眺めは雄大で、確かに風光明媚と言えよう。さらに琴の演奏の音楽がながれ、訪れる人の心を癒してくれる。また、滝沢馬琴の『椿説弓張月』の舞台にもなっている。 麓から琴弾山頂まで数多くの境内社があり、一覧は次の通り。 境内社:庚申神社、山之神神社、琴弾戎、忠魂社、鹿島神社、船霊神社、須賀神社、稲荷神社、宮阪天神、高良神社、松童神社、風之神社、五所神社、蔵谷神社、青丹神社、住吉神社、若宮、武内神社 山頂に武内宿禰命を祭神とする武内神社がありながら、『香川県神社誌』で高良神社の祭神を同じく武内宿禰命としているのはいかがなものだろうか。本来は高良玉垂命とすべきところを後世の解釈によって武内宿禰命としたために、このような矛盾が生じてしまったのだろう。現地の看板には「高良玉垂(かはらたまたれ)神」と書かれていた。 |
香川県三豊市を中心とする財田川水系は高良神社の密集地帯である。財田西の高良神社の確認を済ませて、次に向かったのは三豊市山本町辻1433の菅生神社であり、境内社として高良神社があるという情報をつかんでいた。7月14日は折しも、「夏越しの祓」を行っており、近所からも茅の輪をくぐってお祓いを受けに来られる参詣客が見られた。高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りで6月30日に行われるところが多いが、ここでは時期を少し遅らせているようだ。「水神様が7月15日に来訪される」という信仰によるものであろうか。 面積約3ヘクタールの「菅生神社社叢」は、香川県下ではここにだけしか成育していないカンザブロウノキがあり、国の天然記念物に指定されている。神職の話によると「普段はとても静かな神社」とのことだが、10月の例祭では太鼓台が神社に集結し、「神相撲」「夜神楽」などが行われる。「秋祭りは辻から」の伝統を引き継ぎ、江戸時代の大名行列に由来する「奴行列」が登場。獅子や太鼓台などとともに、子供らが参道を練り歩き、時代絵巻を演出する。また3月には戦国時代の名残を残す古式ゆかしい「百々手祭り」が行われる。 境内社に、神武天皇神社・帯神社・高良神社・荒魂神社・塞之神社・若宮神社・荒魂神社・靇神社・五音殿神社・地神宮・山本宮などがある。神職に話を聞こうとしたが、火災により史料が残っておらず、詳しいことは分からないと言う。この火災については天正年間との記録もあり、長宗我部元親の侵攻によるものだとすると、少なからず責任を感じずにはいられない。 さて、境内社・高良神社の位置はというと、長い参道を歩いて右手一番最初に見つかった。三社がまとめられ、左から順に帯神社・神武天皇神社・高良神社とある。帯神社というのは息長帯比売命すなわち神功皇后を祀っているのだろう。反対側の向かいにも三社がまとめられた境内社があり、左から若宮神社・靇神社・荒魂神社・五音殿神社と並ぶ。表に表記されているだけでなく、実質は明治42年、大正5年、昭和4年と三期にわたって10社程度が合祭されている。これらは明治39年の神社合祀令によるものだろうが、高良神社を含む数社はそれ以前から境内社として存在していたようで、その歴史的な淵源が気になるところだ。祭神は武内宿禰命とされているようだが、旧鎮座地などについての史料は見当たらない。 菅生神社については、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)2月15日、菅生大神を鎮斎し、天福元年(1233年)8月13日、宇佐八幡大神を鎮祭して福生神社と称した。一説には天福元年3月15日、古川村鎮座の八幡宮を奉斎して福生神社と称したとも。菅生大神は、瓊々杵尊・天種子命・天押雲命の3柱の総称。福生神は、品陀和気命・息長帯媛命・玉依比女命の3柱とされる。また、石清水八幡宮との関係を示す史料もあるようだ。 さらに境内に山辺古墳という市史跡があった。元は山本町辻1896にあり、圃場整備で発見され、現在は菅生神社境内に移築されているのだという。発見時、すでにほとんど破壊されていて、玄室の床の部分だけが残っていた。現状で長さ3m、幅1mほどで、奥壁には板石を鏡石に据えている。須恵器と銀環が出土した。 高良神社の分布と横穴式石室古墳の分布に相関関係があることが以前から指摘されている。愛媛県でもその傾向は顕著である。九州では横穴式石室の出現が4世紀後葉、古墳時代中期の初めである。近畿における横穴式石室の出現は九州よりも遅れ、近畿の中央部で古墳時代中期末、5世紀の第四半期くらいに出現したと言われている。 5世紀は讃・珍・済・興・武という倭の五王が活躍した時代であり、主に南朝の宋(420~479年)に朝貢している。『宋書』の蛮夷伝にある武の 478年遣使の際の上表文に、「東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ」とあるが、九州王朝を基点とし、東征による九州王朝の勢力圏拡大とともに横穴式石室が普及していったとしたら……。 一元史観によって説明できなかった九州から近畿への文化移動のベクトルをうまく説明することができる。そしてもう一つの着眼点は九州王朝の船団が寄港する河口津の存在である。次は、財田川河口へと目を向けなくてはならなくなった。
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これまでに徳島県の高良神社の密集地帯、高知県の高良神社の密集地帯を紹介した。西日本豪雨被害の傷跡が残る三好市山城町での昨年(2018年)夏の調査、および台風通過による被害もあった高知県安芸地方での昨年秋の調査の成果をまとめたものが以下の2つの表である。
実は香川県にも高良神社の密集地帯がある。三豊市を中心とする財田川水系である。香川県の高良神社調査で大変お世話になっている「伝える会」さんのホームページによると、財田川水系に4社あるという。 まず最初に、三豊市山本町財田西の高良神社から紹介したい。この神社は、菅生神社(三豊市山本町辻1433)より歩いて十数分程のところにあるが、周りには特に目印もなく、小高い木に囲まれ、ナビがなければ見つけるのが難しい。『香川県神社誌』には菅生神社境外末社として、次のように書かれている。
ところが、一つ問題点がある。住所が辻村字東側となっているにもかかわらず、現住所は財田西なのである。隣接する地域であり、山本町に統合されてはいるが、元々は辻村と財田西村(西野村)とは隣村であり行政区分が異なる。 私が現地を訪れたところ「西之村高良神社」との石碑を見つけることによって、かろうじて、その存在を確認することができた。しかし木立ちに阻まれて、直接見ることができない。坂道を登ったすぐ上の辺りであろうと予測できたが、何しろ道が夏草に覆われてしまっており、先程からの雨で濡れている。一歩踏み入れ、草むらの深さに、一瞬ひるんでしまった。7月中旬、蛇が出てもおかしくない季節である。引き返そうかとも思ったが、せっかく来たのに見ずに帰るのも無念である。勇気を振り絞って、草むらをかき分け突き進んだ。 そう広くはない社地だったが、確かに拝殿と本殿があり、高良神社であることを確認できた。かなり風化した五輪の塔のような石積みもいくつかあり、似たような石積みが菅生神社の裏手にもあるという。菅生神社境外末社とされるには、それなりのつながりがあるのかもしれない。 一方『西讃府志』を見ると「三野郡高野郷」のページに、「西之村」は次のように書かれているが、高良神社についての記述はない。
どういうわけか、次の「中之村」についての記述中に「高良大明神 宮坂ニアリ」と出てくる。中之村は西之村の南側に隣接する村である。一つの高良神社の鎮座地について、こうも記述が異なるのはどうしたことだろうか。もしかしたら、かつては村ごとに高良神社があって、複数の鎮座地が混同された可能性すら見えてくる。というのも、菅生神社の境内社として高良神社が存在しており、ある段階で神社整理されたとしたら、近くに旧鎮座地があるはずなのだ。とりあえず、菅生神社についても調査する必要がありそうだ。 |
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今回は少し前に書いた「高良の神の正体に迫る『弓八幡(ゆみやわた)』」の姉妹編ともいうべき内容なので、ぜひそちらと併せてお読みいただきたい。
「高良玉垂命=武内宿禰」説が広まり、定着していった理由の一つが、謡曲『放生川』にあると以前からにらんでいた。能楽における主役のことを「シテ」と呼ぶが、『放生川』では武内の神(武内宿禰)が、『弓八幡』では高良の神がシテとして登場する。どちらも八幡神の神徳を讃え、治世を賛美するという役割や話の設定が似通っているため、高良玉垂命=武内宿禰と解釈したとしても無理からぬところである。 まずは、『放生川』のあらすじと解説を『能を読む②世阿弥 神と修羅と恋』(監修 梅原猛・観世清和、平成25年)から抜粋して引用してみよう。
解説にも「八幡神に仕える武内の神(高良の神)」とあることから、解説者および関係者は「高良玉垂命=武内宿禰」説の立場に立っていることが明白に読み取れる。流派の違いによって異なる解釈も見られ、「弓八幡のシテ高良の神とは高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)であります。この命は八幡宮に合祀されている武内宿禰、月天子の神格化、神功皇后征韓の武将 藤大臣、海底の竜神安曇磯良など諸説ありますが、この曲では藤大臣を想定して作曲されたのではと、小倉師は述べておられます」といった見解もある。 謡曲『放生川』は「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる祭典がベースとなっており、その内容については「宇佐神宮ホームページ」より引用した。古くは養老4年(720年)大隈・日向の隼人(はやと)の反乱を鎮圧したことがきっかけとなっているようだ。
(宇佐神宮ホームページより) すでにで言及した(「世の中は空しき……令和ブームの宴に興じる」)ことがあるが、養老4年(720年)大隈・日向の「隼人(はやと)の反乱」とは大和朝廷側の大義名分であり、実質は九州王朝滅亡後に南九州へ逃れた残存勢力の討伐戦であった。いわゆる明治維新における戊辰戦争のようなものだったと、多元史観の視点から考えることができる。 701年以降、日本国の中心王朝として君臨するようになった大和朝廷にとって、まず急がれたことが、主権の正統性を確立することであった。その目的に沿って編集されたのが『日本書紀』である。その一方で唐の制度に倣って大宝律令が出され、神祇官が置かれる。歴史の教科書で「二官八省」という言葉が出てきたことを覚えておられるだろうか。二官とは神祇官と太政官のことであり、神祇官は政治を司る太政官よりも上位であり、朝廷の祭祀を司る最高の位とされた。 西洋において「王権神授説」があったように、古代日本でも先祖神を祀り、その守護を受ける立場に立つ必要性があった。「百王(しらおう)守護の日の光」の語句解説に「八幡は伊勢とならぶ『宗廟の神』(朝廷の祖先神)であり、また守護神でもあった」とあるように、大和朝廷の宗廟となる社を整備することが急務であったと考えられる。ちなみに「百王(しらおう)」という表現は神祇伯・白川伯王家と重ねた表現ではなかろうか。「白王(白皇)神社」との関連も感じさせるところである。 久留米の高良山に残された『高良玉垂宮神秘書同神背』の一節には、「九州ノコソウヒョウタルカ、天平勝宝元年丑己ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、高良、御マ丶コタルニヨリ、九州ソウヒウノ御ツカサヲユツリ玉フ也」と書かれている。福岡県久留米市の高良大社(筑後国一宮)はかつて九州(王朝)の古宗廟であったが、749年に宇佐八幡宮の造立があって宗廟の役割を引き継いだことが読み取れる。その理由については「高良、御マ丶コタルニヨリ」とあることから、八幡神(応神天皇)が高良玉垂命の継子(ままこ)であったことが伺える。また「譲り給う」という穏当な表現になっているが、神社版「国譲り神話」ともいうべき、政権交代によって宗廟の地位を奪い取られたいきさつが読み取れる。 このような事情を知ったならば、「八幡神に仕える高良神」との解釈が成立しないことはご理解いだだけるだろうか。むしろ高良神は八幡神の先祖神の立場なのである。たとえ事実上は高良玉垂命を宗廟の神としてきた九州王朝を滅ぼして獲得した権力だったとしても、古き倭国の時代より国家を守り続けてきた高良神の守護なくしては、大和朝廷の正統性を誇示することはできない。そのために「放生会」が行われるようになり、『放生川』『弓八幡』によって新たな宗廟の神・八幡神の威徳を確立していくことになったと考えるのは、誇大(古代)妄想にすぎるであろうか。 |
高良神社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)については謎が多い。引っ張りすぎと思われるかもしれないが、あえて安易な結論を出さず、多面的な方向からフィールドワークや史料収集などを通じて様々なアプローチをしてきたのが「高良神社の謎」シリーズである。世阿弥(1363?~1443年?)の謡曲『弓八幡(ゆみやわた)』に「高良の神」が登場することは、能に関心のある方でなければ、あまりご存じないかもしれない。『弓八幡』に登場する「高良の神」をどう解釈するかは、大きく2つに分かれるようである。 名探偵コナンの「真実はいつも一つ」という名セリフは多くの人に受け入れられやすい考え方であるが、そんなに単純なものでもない。私は東京にいた頃、アメリカの神学校卒のA先生から主観主義という考え方を教えてもらったことがある。「真理は客観的に存在するものではなく、一つの事実に関しても解釈は受け止める人の主観によって変わる。真理を伝えるためには表現方法の工夫・無限なる説得の努力が必要である」といった内容だったと覚えている。 まずは『能を読む②世阿弥 神と修羅と恋』(監修 梅原猛・観世清和、平成25年)P438の『弓八幡』(八幡大菩薩の神徳をもって描く、泰平の御代の到来、高良の神による祝福)のあらすじを紹介しておく。読者の皆様はどのように感じられるであろうか。 後宇多院の宣旨をうけた廷臣(ワキ)が男山(石清水)八幡宮の初卯の神事に参詣すると、袋に桑の弓を入れて担いだ老人(前ジテ)に出会う。老人は袋に弓を包むことは、周の時代から泰平の御代の象徴とされていると言い、このたび桑の弓を大君に献上せよという八幡神の神託があったので、廷臣の参詣を待っていたのだと言う。老人は、続いて男山八幡と初卯の由来を語り、いまのような泰平の御代の到来は男山八幡の大君守護のたまものだと言い、じつは、自分は八幡神に仕える高良(かわら)の神(しん)だと言って、姿を消す。山下(さんげ)の里人(アイ)から八幡や初卯の神事の由来を聞いた廷臣が、さきほどの老人が高良の神であることを知り、帰洛してこのことを奏上しようとすると、高良の神(後ジテ)が現れ、神々しい舞を舞い、泰平の御代の到来をことほぐのだった。 本曲『弓八幡』が書かれた時代背景は室町時代であり、袋に入れた弓が大君に献上されるという設定やシテの高良の神が「天下一統」を祈念していることなどから、南北朝の合一がなって、泰平の御代の到来をことほいで制作された作品かと思われる。本曲の「天下一統」「弓箭を包む」という言葉が南北朝の合一を記した当時の文献にみえること、「治まる御代に立ちかへり」が両朝合一による平和の到来にふさわしい表現であることなどが、その根拠とされている。南北朝合一直後の応永元年(1394年)に、足利義持が父義満のあとをうけて将軍となった頃のことで、義持が実質的な将軍になった応永十五年の制作とする説もある。 八幡社は全国各地に約4万社あり、鎌倉幕府を開いた源頼朝も鎌倉の中心地に鶴岡八幡宮を造営し、源氏の氏神として崇拝していた。八幡宮の隆盛については、一般的には鎌倉幕府の寺社政策によるものが大きいと考えられている。高知県でも6月の「アジサイ祭り」で有名な六條八幡宮(高知市春野町西分3522)の勧請は鎌倉幕府とのつながりがあるとされる。 ただそれだけでなく、室町時代に入って南北朝の争乱を経つつも、その寺社政策の方向性は引き継がれたようである。幕府が京都に置かれた事もあって足利将軍の社参は特に多く、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍義満は、石清水八幡宮(京都府八幡市八幡)には15回も社参しており、第4代将軍義持に至っては、その数は37回にも及んだという。 高知県の八幡宮には大分県の宇佐八幡宮からの勧請によるものがある一方、京都の石清水八幡宮から勧請されたものもあり、それぞれに時代的な背景がありそうだ。 さて、足利義満にその才能を見出された世阿弥の『弓八幡』に話題を戻そう。世阿弥も「すぐなる體は『弓八幡』なり、曲もなく真直なる能、當御代の初めに書きたる能なれば秘事もなし」と『申楽談儀』に書いているように、八幡大菩薩の神徳を称え、室町幕府による泰平の世の到来を讃揚することを表向き主題としているようである。 問題は「八幡神に仕える高良(かわら)の神(しん)」とあらすじに説明してあることだ。神功皇后が異国退治のために、九州の四王寺の峯(太宰府の北西の山)において七か日の御神拝をした後に、高良神の登場となる。「高良の神とは我なるが、この御代を守らんと、ただいまここに来たりたり」のセリフには臣下を思わせる言葉はないにもかかわらず、「じつはわたくしは八幡神に仕える高良の神で……」と現代語訳されている。ここには解説者の解釈が混入しており、監修者・梅原猛氏の責任も大きい。「高良の神は石清水八幡宮の末社神で、武内宿禰」とする一元史観的な解釈が表れている。 しかし、遠藤真澄氏が「『弓八幡』における高良の神の夜神楽」の中で「高良の神は、単なる末社の神ではなく、それなりの位を持った神」と推測しているように、研究者の多くは古き時代より国家を守護してきた高良神の超越的なイメージを素直にとらえている。 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」とした『風姿花伝』の内容は、まさに「高良の神=高良玉垂命」の正体について、多くを語らず、推して知るべしといったメッセージを込めているように感じられる。世阿弥がどこまで分かっていて、この作品を制作したのかは不明であるが、この問題についてはさらに検証を深めていきたい。 |