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 今回は少し前に書いた「高良の神の正体に迫る『弓八幡(ゆみやわた)』」の姉妹編ともいうべき内容なので、ぜひそちらと併せてお読みいただきたい。

 「高良玉垂命=武内宿禰」説が広まり、定着していった理由の一つが、謡曲『放生川』にあると以前からにらんでいた。能楽における主役のことを「シテ」と呼ぶが、『放生川』では武内の神(武内宿禰)が、『弓八幡』では高良の神がシテとして登場する。どちらも八幡神の神徳を讃え、治世を賛美するという役割や話の設定が似通っているため、高良玉垂命=武内宿禰と解釈したとしても無理からぬところである。
 まずは、『放生川』のあらすじと解説を『能を読む②世阿弥 神と修羅と恋』(監修 梅原猛・観世清和、平成25年)から抜粋して引用してみよう。
新品本/能を読む 2 世阿弥 神と修羅と恋 梅原猛/監修 観世清和/監修 天野文雄/編集委員 土屋恵一郎/編集委員 中沢新一/編集委員 松岡心平/編集委員|dorama2

『放生川』(生ける魚を放つ放生会、大君守護の八幡神、その末社神武内の神による将軍の治世賛美)

あらすじ

 鹿島社の神職(ワキ)が上洛して、放生会が行われる男山(石清水)八幡に参詣すると、魚を桶に入れた老翁(前ジテ)に出会う。神職がそのわけを尋ねると、老翁は今日は生ける魚を川に放す放生会であると言い、その謂われを語って、みずから小川に浸かって魚を放す。老翁はさらに、八幡が欽明帝の御代に垂迹して以来、大君を守護し、万民の迷いを晴らしてきたことを語り、八幡の威徳を称え、自分はじつは八幡に仕えて、その神徳に浴してきた武内の神だと名乗って、山上に消える。山下の里人(アイ)が、その老人は武内の神であろうと言うので、神職が男山に逗留していると、武内の神(後ジテ)が現われ、八幡神の大君守護と、それによる泰平の御代の永続を祈念し、神代と同じように四季の歌で四季の舞を舞い、当代の和歌隆盛を祝福するのだった。

解説

 本曲は、八幡神に仕える武内の神(高良の神)が放生会の場に現れて、代々の大君を守護し、放生会に象徴される泰平の御代を実現させてきた八幡の神徳を賛美する形になっている。いちおう八幡の神徳賛美が主題と認められるが、足利将軍は代々氏神として八幡を篤く尊崇していたから、このような八幡賛美は、つまるところ、将軍の治世賛美に帰着する。八幡の威徳によって、「文武二つの道」が盛んになり、和歌の道が盛んになったとあるのも、将軍を中心にした文学隆盛を念頭においた文辞かと思われる。この点、八幡の神事を舞台にした世阿弥の「弓八幡」がかなりストレートに将軍の治世を賛美しているのに比べると、本曲は主題の表わし方が婉曲的だといえる。

武内の神 八幡の末社で、山上にあった武内宿禰を祀る高良明神。「山上さしてあがりけり」はそれをふまえた表現。武内宿禰は六代の天皇に仕え、仁徳天皇のときに二百八十歳で没したという伝説上の人物(『日本書紀私見聞』)。
百王(しらおう)守護の日の光 八幡は伊勢とならぶ「宗廟の神」(朝廷の祖先神)であり、また守護神でもあった。

 解説にも「
八幡神に仕える武内の神(高良の神)」とあることから、解説者および関係者は「高良玉垂命=武内宿禰」説の立場に立っていることが明白に読み取れる。流派の違いによって異なる解釈も見られ、「弓八幡のシテ高良の神とは高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)であります。この命は八幡宮に合祀されている武内宿禰、月天子の神格化、神功皇后征韓の武将 藤大臣、海底の竜神安曇磯良など諸説ありますが、この曲では藤大臣を想定して作曲されたのではと、小倉師は述べておられます」といった見解もある。

 謡曲『放生川』は「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる祭典がベースとなっており、その内容については「宇佐神宮ホームページ」より引用した。古くは養老4年(720年)大隈・日向の隼人(はやと)の反乱を鎮圧したことがきっかけとなっているようだ。

仲秋祭(放生会)

祭典日:10月体育の日、前日、前々日、3日間

 明治以前まで「放生会」と呼ばれていた祭典で、養老4年(720)大隈・日向の隼人(はやと)が反乱を起こしたとき、朝廷の祈願により八幡神は託宣を下し、鎮定のため同5年両国に行幸、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、同7年ご還幸になられました。
 このとき、百人もの隼人の首をもち帰って葬った所が、神宮より西約1キロの所にある「凶首塚」です。また、すぐ下に「隼人の霊」を祠(まつ)る百太夫殿が、その後造立されました。現在の『百体神社』です。 さらに、神亀元年(724)「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、蜷(にな)や貝を海に放つ『放生会』の祭典がとり行われました。これが「放生会」の始まりです。
(宇佐神宮ホームページより)

 すでにで言及した(「世の中は空しき……令和ブームの宴に興じる)ことがあるが、養老4年(720年)大隈・日向の「隼人(はやと)の反乱」とは大和朝廷側の大義名分であり、実質は九州王朝滅亡後に南九州へ逃れた残存勢力の討伐戦であった。いわゆる明治維新における戊辰戦争のようなものだったと、多元史観の視点から考えることができる。
 701年以降、日本国の中心王朝として君臨するようになった大和朝廷にとって、まず急がれたことが、主権の正統性を確立することであった。その目的に沿って編集されたのが『日本書紀』である。その一方で唐の制度に倣って大宝律令が出され、神祇官が置かれる。歴史の教科書で「二官八省」という言葉が出てきたことを覚えておられるだろうか。二官とは神祇官と太政官のことであり、神祇官は政治を司る太政官よりも上位であり、朝廷の祭祀を司る最高の位とされた。
 西洋において「王権神授説」があったように、古代日本でも先祖神を祀り、その守護を受ける立場に立つ必要性があった。「百王(しらおう)守護の日の光」の語句解説に「八幡は伊勢とならぶ『宗廟の神』(朝廷の祖先神)であり、また守護神でもあった」とあるように、大和朝廷の宗廟となる社を整備することが急務であったと考えられる。ちなみに「百王(しらおう)」という表現は神祇伯・白川伯王家と重ねた表現ではなかろうか。「白王(白皇)神社」との関連も感じさせるところである。
 久留米の高良山に残された『高良玉垂宮神秘書同神背』の一節には、「九州ノコソウヒョウタルカ、天平勝宝元年丑己ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、高良、御マ丶コタルニヨリ、九州ソウヒウノ御ツカサヲユツリ玉フ也」と書かれている。福岡県久留米市の高良大社(筑後国一宮)はかつて九州(王朝)の古宗廟であったが、749年に宇佐八幡宮の造立があって宗廟の役割を引き継いだことが読み取れる。その理由については「高良、御マ丶コタルニヨリ」とあることから、八幡神(応神天皇)が高良玉垂命の継子(ままこ)であったことが伺える。また「譲り給う」という穏当な表現になっているが、神社版「国譲り神話」ともいうべき、政権交代によって宗廟の地位を奪い取られたいきさつが読み取れる。
 このような事情を知ったならば、「八幡神に仕える
高良神」との解釈が成立しないことはご理解いだだけるだろうか。むしろ高良神は八幡神の先祖神の立場なのである。たとえ事実上は高良玉垂命を宗廟の神としてきた九州王朝を滅ぼして獲得した権力だったとしても、古き倭国の時代より国家を守り続けてきた高良神の守護なくしては、大和朝廷の正統性を誇示することはできない。そのために「放生会」が行われるようになり、『放生川』『弓八幡』によって新たな宗廟の神・八幡神の威徳を確立していくことになったと考えるのは、誇大(古代)妄想にすぎるであろうか。



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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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