香川県三豊市を中心とする財田川水系は高良神社の密集地帯である。財田西の高良神社の確認を済ませて、次に向かったのは三豊市山本町辻1433の菅生神社であり、境内社として高良神社があるという情報をつかんでいた。7月14日は折しも、「夏越しの祓」を行っており、近所からも茅の輪をくぐってお祓いを受けに来られる参詣客が見られた。高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りで6月30日に行われるところが多いが、ここでは時期を少し遅らせているようだ。「水神様が7月15日に来訪される」という信仰によるものであろうか。 面積約3ヘクタールの「菅生神社社叢」は、香川県下ではここにだけしか成育していないカンザブロウノキがあり、国の天然記念物に指定されている。神職の話によると「普段はとても静かな神社」とのことだが、10月の例祭では太鼓台が神社に集結し、「神相撲」「夜神楽」などが行われる。「秋祭りは辻から」の伝統を引き継ぎ、江戸時代の大名行列に由来する「奴行列」が登場。獅子や太鼓台などとともに、子供らが参道を練り歩き、時代絵巻を演出する。また3月には戦国時代の名残を残す古式ゆかしい「百々手祭り」が行われる。 境内社に、神武天皇神社・帯神社・高良神社・荒魂神社・塞之神社・若宮神社・荒魂神社・靇神社・五音殿神社・地神宮・山本宮などがある。神職に話を聞こうとしたが、火災により史料が残っておらず、詳しいことは分からないと言う。この火災については天正年間との記録もあり、長宗我部元親の侵攻によるものだとすると、少なからず責任を感じずにはいられない。 さて、境内社・高良神社の位置はというと、長い参道を歩いて右手一番最初に見つかった。三社がまとめられ、左から順に帯神社・神武天皇神社・高良神社とある。帯神社というのは息長帯比売命すなわち神功皇后を祀っているのだろう。反対側の向かいにも三社がまとめられた境内社があり、左から若宮神社・靇神社・荒魂神社・五音殿神社と並ぶ。表に表記されているだけでなく、実質は明治42年、大正5年、昭和4年と三期にわたって10社程度が合祭されている。これらは明治39年の神社合祀令によるものだろうが、高良神社を含む数社はそれ以前から境内社として存在していたようで、その歴史的な淵源が気になるところだ。祭神は武内宿禰命とされているようだが、旧鎮座地などについての史料は見当たらない。 菅生神社については、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)2月15日、菅生大神を鎮斎し、天福元年(1233年)8月13日、宇佐八幡大神を鎮祭して福生神社と称した。一説には天福元年3月15日、古川村鎮座の八幡宮を奉斎して福生神社と称したとも。菅生大神は、瓊々杵尊・天種子命・天押雲命の3柱の総称。福生神は、品陀和気命・息長帯媛命・玉依比女命の3柱とされる。また、石清水八幡宮との関係を示す史料もあるようだ。 さらに境内に山辺古墳という市史跡があった。元は山本町辻1896にあり、圃場整備で発見され、現在は菅生神社境内に移築されているのだという。発見時、すでにほとんど破壊されていて、玄室の床の部分だけが残っていた。現状で長さ3m、幅1mほどで、奥壁には板石を鏡石に据えている。須恵器と銀環が出土した。 高良神社の分布と横穴式石室古墳の分布に相関関係があることが以前から指摘されている。愛媛県でもその傾向は顕著である。九州では横穴式石室の出現が4世紀後葉、古墳時代中期の初めである。近畿における横穴式石室の出現は九州よりも遅れ、近畿の中央部で古墳時代中期末、5世紀の第四半期くらいに出現したと言われている。 5世紀は讃・珍・済・興・武という倭の五王が活躍した時代であり、主に南朝の宋(420~479年)に朝貢している。『宋書』の蛮夷伝にある武の 478年遣使の際の上表文に、「東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ」とあるが、九州王朝を基点とし、東征による九州王朝の勢力圏拡大とともに横穴式石室が普及していったとしたら……。 一元史観によって説明できなかった九州から近畿への文化移動のベクトルをうまく説明することができる。そしてもう一つの着眼点は九州王朝の船団が寄港する河口津の存在である。次は、財田川河口へと目を向けなくてはならなくなった。
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