煉獄杏寿郎は何の脈絡もなく、主人公・竈門炭治郎に対して、開口一番「溝口少年」と呼びかける。この場面と福岡県筑後市溝口1553の溝口竈門神社(祭神:玉依姫命)との関連性を見つけ、最初に聖地化のアドバイスを観光協会にしたのが、地域活性化コスプレイヤー・丹タキさん。その後、丹さんが属するコスプレイヤー集団『奇抜の刃』は、イベントや祭事、テレビ取材に協力しながら溝口竈門神社を鬼滅3大聖地の一つに押し上げたという。
年越山といえば、頼朝の実弟、源希義が平家方の家人・蓮池家綱や平田俊遠らと激戦を交えた由緒ある場所とされる。源氏方夜須行家の援軍も間に合わず、無惨にも25歳の若さで斬り殺されてしまったのがこの年越山の近くだと考えられてきた。
“眠り鬼”魘夢(えんむ)と激闘。その後に登場した“上弦”と呼ばれる幹部クラスの鬼・猗窩座(あかざ)と、壮絶な死闘を繰り広げた末に若くして命を落とした鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎の姿とオーバーラップする。テレビ放送をきっかけに再燃する『鬼滅の刃』ブームに合わせて、これまで紹介した高知県のプチ『鬼滅の刃』聖地をリストアップしておく。
『鬼滅の刃』ブームと竈(かまど)神社①――土佐市塚地 |
『鬼滅の刃』ブームと竈戸(かまど)神社②――春野町秋山 |
『鬼滅の刃』ブームと竈土(かまど)神社③――横浜新町 |
『鬼滅の刃』ブームと竈戸(かまど)神社④――瀬戸荒神宮 |
『鬼滅の刃』ブームと竈門(かまど)神社⑤――高知市長浜 |
それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
今風に言うと、古代官道は“コスパ最悪”。すなわち全盛期は幅12m以上の官道が大半だったが、建造費・維持費・運用費などがかかりすぎて、平安時代には駅路が6メートルに幅員減少することが多かった。コストパフォーマンス(費用対効果)が悪いことが古代官道衰退の大きな要因となっている。地方では諸道の駅路が七世紀のものが一〇メートルから一一メートル、奈良時代には一二メートル・九メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は六メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も六メートルになることが多い。(P6~7)
また、駅路とは別に郡家間を繋ぐ伝路と呼ばれる道は当初から6m幅の規格だったとされる。土佐国府から南に伸びる南北道が前者か後者かは、道幅6mだけでは判断がつかない。
▲埋め戻し前の柱穴跡(南国市元町1丁目の野中廃寺跡) |
従来は8世紀末以降の平安時代の建立とされてきた野中廃寺が、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡では7世紀後半の建物跡が見つかっている。道をはさんだ東西に7世紀の建物があるということから、この南北道も7世紀には伝路として建設されていたと考えるのが合理的である。さらに東偏12度(N12°E)の長岡条里に沿っているので、香長平野における条里制の設営も7世紀以前になりそうだ。
南国市教育委員会・文化財係の担当者は「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話しているようだが、この中央政権が近畿天皇家であるか、それとも倭国・九州王朝なのかは、評制の時代(700年以前)であったことも考慮して慎重に判断する必要がありそうだ。
専門家は天孫降臨を単なる神話と見る向きもあって、正面から歴史研究の対象とされることは少なかった。これに対して、古田武彦氏は『盗まれた神話』(昭和54年)で、学問の研究対象として取り上げ、筑紫(福岡県)の日向峠へ降り立ったとする天孫降臨の真相を解き明かしたのであった。
通説では筑紫を九州島と解釈し、宮崎県の日向(ひゅうが)に当ててきた。ひと昔前はサッカー漫画『キャプテン翼』の大流行で主人公・大空翼のライバル日向(ひゅうが)小次郎の存在感もあってか、「ひゅうが」読みが一般的であった。
最近ではアニメ『ハイキュー!!』の主人公・日向(ひなた)翔陽、アイドルグループ日向(ひなた)坂46の人気も一役買って「ひなた」読みが市民権を得てきたように感じる。不思議なことに、「日向坂46」のグループ名は、東京都港区三田に実在する「日向坂(ひゅうがざか)」に由来しているという。ひらがなにした時に、「ひゅうがざか」よりも「ひなたざか」の字画の方が運勢的に良いため、「ひなたざか」になったそうだ。実は日向坂(ひなたざか)自体も、埼玉県さいたま市に実在している。
「此の地(糸島郡、高祖山付近から望む)は
①(北なる)韓国に向かって大道が通り抜け、
②(南なる)笠沙の地(御笠川流域)の前面に当たっている。そして、
③(東から)朝日の直に照りつける国、
④(西から)夕日の照る国だ」
余談になるが、古田氏は「くしふる→くぬぎ」音の転訛説は、無理な俗説としており、同感である。高知県にも複数見られる「くぎぬき」地名が「くぎぬき→くぬぎ」と転訛したものではないだろうか。いずれにしても天孫降臨の地「筑紫の日向」とは、“宮崎の日向(ひゅうが)”ではなく、“福岡県の日向(ひなた)峠”一帯を指していたと結論づけたい。
①野中廃寺(南国市元町)
古代寺院の伽藍配置判明 県内初
南国市の野中廃寺跡 基壇発見
……古代寺院の伽藍が判明するのは県内初の事例。近くの「若宮ノ東遺跡」(篠原)で見つかった同時代の役所「評衙」跡との深いつながりが推測される。……寺域は150メートル四方におよび、ほかにも全国に類例のない独自模様の瓦や、県内では3遺跡目となる「二彩陶器」が出土したという。(高知新聞7月10日号より抜粋)
②比江廃寺(南国市比江)
他の古代寺院については伽藍配置は不明とされているものの、比江廃寺に関しては塔の心礎が残っており、東に金堂、西に塔がある「法隆寺式」と推定されている。出土した瓦については「7世紀代に遡り得る瓦も存在するものの、その多くは8世紀以降のものとみられ、創建当時の堂宇は金堂など限られていたのではなかろうか」とし、寺院の性格に関しては次のように考察されている。豪族の氏寺として創建された点については,特に異論は出されていないもののその後の性格についてはいくつかの考えが提示されている。一つは国府寺(国府付属寺院)に転用されたとするもの(岡本1959,廣田 1990)である。比江廃寺が土佐国府の丁度北東部,鬼門に位置することが大きな要因である。
もう一つは国分尼寺に転用されたとする意見(安岡・山本 1959 ,岡本 1968)である。比江廃寺から土佐国分寺の瓦と同范のものが出土していることと地名に国分尼寺に関係したホノギがあることを理由にしている。
(『比江廃寺跡Ⅲ 平成6・7 年度の確認調査報告書』より)
③土佐国分寺(南国市国分)
もう一つの土佐国分寺についても、昨年までに大々的な発掘調査が行われた。2020年12月12日に「土佐国分寺の寺域3倍か 南国市 周辺に5棟の建物跡」との見出しで、金堂などの主要施設があった伽藍地の南西側で、8世紀前後とみられる建物群跡などが見つかったと新聞報道された。整理すると、①野中廃寺と②比江廃寺がONライン(701年)以前の創建となり、③土佐国分寺がONライン以後の創建と考えられる。安芸郡奈半利町のコゴロク廃寺や安芸市僧津の瓜尻遺跡で確認された古代寺院なども含め、さらなる調査や検証が求められるところだ。
國分尼寺[古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。]按ニ、此鐘楼堂跡ハ古への國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出[国分寺よりも古瓦出る]、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、猶可考。 (『南路志 第2巻』郡郷の部(上)P345)
古代寺院の伽藍配置、高知県内で初特定 南国の野中廃寺
高知県南国市の野中廃寺について、市教育委員会は9日、東に塔、西に金堂がある「法起寺式(ほっきじしき)」に近い伽藍(がらん)配置だったことが発掘調査でわかったと発表した。県内には野中廃寺を含む八つの古代寺院があったと伝えられ、伽藍配置を特定できたのは初めてという。住宅開発に伴い、昨年2月から始めた調査で、寺の中心的建物の基礎になる基壇が新たに二つ見つかった。存在が知られていた二つの基壇を含め、計四つの基壇の特徴から野中廃寺の塔、金堂、講堂、中門の配置が明らかになった。金堂の基壇は東西25・5メートル以上、南北18メートル以上で、塔の基壇は12メートル四方のほぼ正方形だった。
▲野中廃寺の伽藍配置図(南国市教育委員会) これまで野中廃寺は、8世紀末以降の平安時代の建立とされてきたが、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡で7世紀後半に建てられた役所と見られる建物跡が見つかっていることから、市教委の文化財係の油利崇(ゆりたかし)さんは「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話している。また、塔や金堂の北側に見つかった講堂の基壇の東側に、規則正しく並ぶ柱穴も確認された。僧侶などが暮らした僧坊跡(南北19・8メートル、東西6・3メートル)と見られる。(朝日新聞デジタル記事2021年7月10日)
法起寺式は九州から関東地方まで、地方に多い古代寺院の形式とされている。一元史観では奈良県の法起寺の伽藍配置の形式が地方に伝播したものとされるが、これについては多元史観の立場から機会を改めて、別の考察をしてみたいところである。今後、他の古代寺院についても発掘調査等を経て、伽藍配置が明らかにされることを期待する。
「先生、万有引力って何ですか?」
キタ━(゚∀゚)━!
高校2年の物理では万有引力について学習する。「万有」などという言葉は普段使うことがないので、その意味が捉えにくい。ここでどう答えるかが腕の見せどころである。言葉の意味を説明するのか。それとも公式を示してあげるべきか。
私は物理学者アイザック・ニュートン(1642-1727年)の話から入ることにした。
コロナ禍というわけではないが、ヨーロッパで感染症のペストが広まっていた頃、ニュートンは自宅にこもって考え事をしていたそうな。リンゴが木から落ちた時にニュートンは万有引力の法則を思いついたと言われている。なして? 「万有引力」というわけだから、万(よろず)の物が引っぱる力を有する。地球がリンゴを引っ張ったのでリンゴは地球に落ちた。それだけではない。リンゴも地球を引っ張っているのである。じゃあ、なぜ地球はリンゴに向かって落ちてこないのか。それは質量が桁違いに地球のほうが大きいので、目に見える移動は起きないのだ。
さて、リンゴは木から落ちてきたのだが、その上空にはぽっかり月が浮かんでいたという。ニュートンは考えた。「なぜ月は落ちてこないのか」と。当時のヨーロッパでは重いものは下に落ちる性質があるとされ、地上の法則と天体などの運動に関する天上の法則は異なるものと考えられていた。ニュートンはその常識に疑問を呈したのである。「万有」と名づけるからには、月や星なども含めた概念となる。地球と月の間にも万有引力が働くはずである。どうして月はリンゴのように落ちてこないのか。現代では常識の範囲かもしれないが、月は地球の周りを公転しており、重力と遠心力がつり合っているからである。
ある人は言った。「宇宙は回転するもので満ちている」と。まさに『自転しながら公転する』世界である。逆に言うと回転しないものは存在できなかったという理屈なのだ。すなわち宇宙のあらゆる存在は中心を求めて調和し、一体となって回転運動しているのである。
<万有引力の公式> |
万有引力定数(G = 6.67×10-11 N⋅m2/kg2 |
ところで、万有引力の公式を見ると、力の大きさは距離の二乗に反比例することが分かります。距離が2倍、3倍……になると、力は2×2=4分の1倍、3×3=9分の1倍……というようにです。一説によると、学習効果も先生との距離の二乗に反比例するとも言われます。だから前に座ったほうがいいという話です。
「一番後ろに座っている人、もっと前に来ませんか?」
「いえ、大丈夫です。心の距離は近いですから……」
<徳島県の高良神社の密集地帯> |
徳島県の高良神社①ーー三好市山城町相川 |
徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞 |
徳島県の高良神社③ーー三好市山城町佐連 |
徳島県の高良神社④ーー三好市山城町瀬貝西 |
徳島県の高良神社⑤ーー三好市山城町尾又 |
徳島県の高良神社⑥ーー美馬市脇町の脇人神社境内社 |
徳島県の高良神社⑦ーー鴨神社の境内社・国瑞彦神社に合祀されていた |
今年も全国的に連日の集中豪雨であるが、山城町の白川谷川沿いは3年前の西日本豪雨でも相当の被害を被っている。がけ崩れの起きた山肌はコンクリートで固められたところもあるが、当面は緑の森が戻ることはない。そのような災害の傷跡を横目に見ながら尾又地区へと山道を登っていく。
やはり簡単には見つかりそうにない。集落の最上部まで登っていっても神社の鳥居さえ見かけないので、地元の人に尋ねてみたが高良神社については全く知らない様子。高い場所からのぞき込むように集落を見下ろしてみたが、それらしき建物も見えない。大豊町桃原(高知県)の集落も急な斜面を切り拓いて、よくこのような場所に生活しているものだと感心したものだが、山城町尾又(徳島県)はさらに急な斜面を開墾しており、道路のふちに立つと断崖絶壁のような恐怖すら感じる。地元の人からの情報も得られず、本当に高良神社があるのだろうかと疑いが湧いてきた。
八方ふさがりとなり、日も傾いてきた状況で、ふとグーグルマップ上に「神社」と出ている場所を思い出した。3年前にも、高良神社の鎮座地ではないかと予想した所だ。一度は下から登ろうと試みたが途中で道が途絶え、たどり着くことができなかった。
今回は新たなインスピレーションがあった。集落の上方から道がつながっているのではないかという推理である。第一候補の道に入るも、すぐに柵で道が閉じられている。やむを得ず、もう一つ上の道から進んでいった。人が住んでいないような民家の前を横切りながら、目的の場所には近づいている感覚はある。だが、民家を過ぎると道は消え、目の前には森林が横たわる。よく見ると森を下っていく石段があった。日没前であったが、光が差し込まず暗闇へと続く階段である。ここを降りていくしかない。
足元に気を付けながら進んでいくと、暗闇の中に突然、鳥居と社殿らしきものが現れた。扁額に書かれていたのは「高良神社」である。3年越しの宿題をついに解決することができた。尾又にも高良神社が実在したのである。これで三好市山城町の高良神社5社をコンプリート。かつての相川名・末貞名・佐連名・瀬貝名・尾又名(〜名は古い行政単位のようなもの)に各一社ずつ。「一名(みょう)一高良」といった様相を示していたことが分かる。
山城町尾又の高良神社の祭神は高良玉垂命や武内宿禰などではなく、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)――「海幸山幸」の神話に登場する山幸彦である。神社そのものを隠すだけでは足らず、祭神すらも隠そうとしているかのようだ。わずか十数名の集落でありながら、神社自体の手入れはなされているように見えた。
高良神社の鎮座地として2つのタイプがあることを以前言及したことがある。①河口津・川津に付随するような場所(海彦型)と、②平家の落ち武者伝承でもありそうな山中(山彦型)の2種類である。前回紹介した大豊町桃原の高羅大夫社や山城町の高良神社群は②のタイプに分類される。
さて、帰り道が第一候補の道とつながっているか確認してみた。やはり、こちらが本来の参道となる道のようだが、二重の柵でふさがれていることが分かった。「御用のない者、通しゃせぬー♪」のようである。闇に包まれた高良神社の存在に何かしら畏敬の念すら覚えつつ、夕暮れの尾又を後にした。
国道439号線から大豊町桃原へ入っていく登り口を、うかつにも通り過ぎでしまって、32号線に入って引き返すように山道へ進入していった。先日の台風の影響だろうか。道のいたるところに木の枝が散乱している。本当ならば通行止めになっていて、車数台が停められ作業中の道を何とか通らせてもらうことになった。本来のルートへ合流する部分は路肩が崩れ、細くなっていた。冷汗ものである。
集落の最上部まで登ってきて、道の広い場所に駐車し、徒歩で周辺を調べる。前回同様、若宮八幡宮はすぐに見つかるのだが、その東方にあるはずの高羅大夫社への道が分からない。事前に地図上の位置は把握しているつもりだったが、標高差のある山の斜面なので勝手が違うようだ。私道なのではないかと思えるような道から入っていくのが正解だった。柿の木に半分隠れた鳥居とそれらしき社殿が見えてきた。
鳥居の扁額には確かに「高羅大夫社」とある。祭神不明であり高良神社と表記が異なるところに若干の疑問は残るが、四万十市蕨岡の高良神社の祭神がかつては「大夫天皇」または「大武天皇」と呼ばれていた。また高良神社の密集地帯である徳島県三好市山城町と隣接し、山道で繋がれている。高麗系の氏族との関連も考えられないことはないが、現段階では高良神社の一つと判断する。
“長岡郡大豊町桃原には上村姓がいっぱい”で紹介したが、この地区のほとんどは上村さんばかりである。高羅大夫社の建立願主も上村茂仁と刻まれている。さらによく見ると社殿の屋根に描かれている紋は「三階菱」――豊永氏(清和源氏小笠原氏流)の家紋であろうか。
大豊町は大杉と豊永の名前を合わせたものであり、桃原はかつての豊永郷に含まれる。小笠原備中守豊永の末裔で、豊永の姓は肥前松浦郡豊永庄に由来していると記録にある。現在も熊本県玉名郡に豊永という地域があり、球磨郡にもかつては豊永郷があった(相良家文書、平河家文書)。そうなると桃原の上村氏も人吉相良氏初代相良長頼の四男頼村を祖とする上村氏に関係があるのではないかとの可能性も見えてくる。
天御中主尊を祭神とする妙見社は明治になって星神社に名称変更されているが、高知県下約60社中の13社が大豊町に集中している。熊本県の八代神社(妙見宮)をはじめとする九州方面からの妙見信仰が高知県内で最初に根付いたところが大豊町(旧豊永郷)だったようである。
同時代史料ではないにしても、660年の創建を伝える大豊町桃原の参大妙見社の棟札(“長岡郡大豊町に斉明6年棟札があった①〜④”)の存在や、大宝二年(702年)棟札(熊野十二所神社所蔵)に上村姓が見えることから、この上村一族が大豊町桃原の地で、古くから妙見社および熊野十二所神社、さらには高羅大夫社を祀ってきたのではないかと推測できる。隣接する徳島県三好市山城町の高良神社群との対比も視野に入れて検討する必要がありそうだ。
五六川(ごろくがわ)は、岐阜県本巣市と瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている(美江寺宿は実際には55番目の宿場町)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
▲岐阜県瑞穂市を流れる五六川 |
高知県では「ゴロ」「ゴーロ」「ゴロク(五六)」は木の丸太に関連する言葉で、山林で伐採した材木を下流域で集積する場所などに見られる地名である。昔は丸太を筏のように組んで川に流して運んでいたようだ。「筏津」といった地名も見られる。
▲左から御荘八幡神社、高良神社、八坂神社 |
承平年中(931~938年)に作られたとされる『倭名類聚抄』によると、土佐国7郡で郷名43が記載されている。そのうち幡多郡には大方郷・鯨野郷・山田郷・枚田郷・宇和郷の5つの郷があった。これらの郷が現在のどこを指しているかは諸説あるが、宇和郷について、①愛媛県南宇和郡一帯という説と、②旧中村町全域(中村、不破、右山、角崎)と、後川を隔てた対岸一帯(現四万十市)とみる説とがある。愛媛県民に忖度(そんたく)しているのか、①の説は高知県の研究者もあまり強く主張してこなかった。
実はこの説には有力な根拠が存在する。平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、比叡山延暦寺の三大門跡の一つである青蓮院の荘園が南宇和の地にあり、「御荘」という地名はそこに由来する。御荘八幡神社の東方約400mの場所には四国八十八ヶ所・第40番札所である平城山薬師院観自在寺があり、愛媛県最初の霊場とされる。この観自在寺について、青蓮院門跡の尊円親王(1298~1356年)が編纂した青蓮院の寺務記録『門葉記』には「壱所土佐国観自在寺」(6巻139頁)と記されている。寛喜元年(1229年 )8月11日の記録である。
古代における幡多郡は現在の高知県幡多郡の郡域よりもっと広かったとされている。高岡郡の西半分をも含み、愛媛県南宇和郡まで含んでいた可能性すら出てきた。それは波多国造が治めた領域の延長上にあり、藤原氏の支配を経て九条家、一条家の荘園「幡多荘」へと連なっていく。この幡多荘の中に宇和郷に相当する地名が見当たらないことから、幡多五郷のうち宇和郷が比叡山延暦寺末寺である青蓮院の荘園となったと推測される。
16世紀末には完全に伊予国に属しているようだが、『門葉記』の記録を信頼すると、古くは土佐国幡多郡と同一文化圏に南宇和郡愛南町付近が含まれていたと考えることができるのである。つまり、御荘八幡神社境内社・高良神社は伊予国最南端に孤立して鎮座していたわけではなく、高良神社の密集地帯である幡多郡の同一信仰圏に含まれていたとするのが理性的な判断ではなかろうか。
土佐国と伊予国の境界線がいつ、どのようないきさつで変化したのかは今後の研究課題であるが、江戸時代前期にも土予国境論争が起きており、歴史的にも境界線の変動が何度かあったようである。正しい史実に基づいて正しい歴史観を構築していく必要がありそうだ。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。