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 ホーキング博士の宇宙論がブームであった大学時代、理学部物理学科で人気の研究室は量子力学と宇宙物理学であった。どの研究室に進むべきかと迷っていたが、敢えて誰も行こうとしなかった地震学の研究室へと進んだ。


 昔はそれほど注目されなかった分野であるが、今となっては地震や災害の専門家は引っ張り凧である。元東大地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)氏は、四万十市における地震津波対策を推進するにあたってのアドバイザーであり、防災講演会を開いたりしている。高知新聞にも広告が出ている『歴史地震の話〜語り継がれた南海地震〜』(都司嘉宣著、2012年)を読むと、歴史文献に対する造詣の深さに驚かされる。

 というのも、防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事であり、歴史時代の地震を知るには、各地の旧家や寺社に残された古文書が大きな手がかりとなる。地震学者の都司氏にとって、本来は専門外であった膨大な古文書のデータを集め、コツコツと解読作業を続けてきた。

 その都司嘉宣氏が四万十市における防災講演会の中で、『魏志倭人伝』の話に触れたという。『魏志倭人伝』には女王・卑弥呼のいる邪馬壹国が記されており、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」、つまり豊後水道を渡ると倭種の国がある。その南には「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と記されている。
 都司氏は「邪馬台国=北九州」説に立ち、そこから方角、距離の記述を解き、侏儒国は幡多にあたると語った。すなわち「侏儒国=幡多国」説である。
 もしかして都司氏は古田武彦説をご存じなのではないかと思って調べてみると、やはり接点があった。古田氏が立ち上げた「国際人間観察学会」の会報『Phonix』No.1(2007)に都司氏の寄稿があるようだ。題名は「Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon」。

 さて、都司氏の「侏儒国=幡多国」説のポイントは、2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長1mほどの「こびとの人種」の化石(約1.8万年前、ホモ・サピエンスとは異人種)が見つかっており、このフローレス島人(ホモ・フローレシエンス)が海流に乗って幡多にやってきたという推論である。
 侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の人が住んでいたと記されている。都司氏は自ら四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけたというのだ。
 「猩々」とは中国の想像上の生き物で、少年の姿をして舞う赤い妖怪とも言われる。まさに「侏儒」(小人)あるいは「朱儒」(朱は赤あるいは南に通じる)の国である。


 フローレス島人と結び付けられるかどうかは今後の研究課題であるが、「侏儒国の痕跡を沖の島(宿毛)に見た 」(『なかった 真実の歴史学』第六号、2009年)と題する合田洋一 氏の論稿にも「侏儒国=幡多国」説を補強する有力な論拠が示されている。

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 今回は大長(おおちょう)ミカンの産地として知られる広島県呉市豊町大長ではなく、再び高知県須崎市の「大長岬(おながさき)」について。“地名として残された最後の九州年号「大長」①”を書いた当初は、これを年号由来地名(大正市場で有名な大正町など)とするのは無理筋と感じていた。ところがその後、九州王朝とつながるいくつかの根拠が見つかってきた。


▲野見湾の中央に突き出した大長岬

①コウラ地名

 大谷から、久通に通ずる坂道を法印坂とよぶ。絵のように美しい野見湾を眼下に見るこの坂の中腹に「法印さん」と呼ぶ石碑がある。昔からこの法印さんは平家の落人ではないかといわれている。法印さんが坂の麓に立っているところを船小浦(ふなこおら)というところから弓で射た。(『須崎市史』P1306より)

 現在も大谷小浦という地名が野見湾の奥にあり、河原川という川が流れている。単独なら地形由来であろうが、複数隣接することから、高良神社由来地名の可能性あり。大長岬とも近い。「小浦の聖さま」の昔話も伝わる。
▲野見湾の奥に大谷小浦、河原川の地名


②1300年前の伝承

 今から約1300年前に人魚を食べて、八百年も長生きた八百比久尼の話が伝えられている。内容の真実はともかく、ONライン(701年)前後の伝承が残る。最後の九州年号「大長」は704~712年の間、使用された。

③猫神社(須崎市多ノ郷乙)

 現在は猫を祀る隠れスポットとなっているが、最初から猫を祭神とするだろうか。本来は稚倭根子彦(ワカヤマトネコヒコ、開化天皇)あたりを祀っていたものかもしれない。

④鳴無神社の由緒

 旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より一五五〇年余(西暦四六〇年)の昔、雄略天皇の四年十二月晦です。大神は天皇との間に諸事有って京の葛城山を出られ、船に乗って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸にご上陸。海水煮き火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であられたので、尊び敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え玉島(現社殿地)に迎えた。そして宮殿を建て大神を奉安し、御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。(パンフレットの御由緒より)


 鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)の祭神は一言主命(味耜高彦根神)とされているが、土佐神社の元宮とも考えられ、古くは「お船遊び」とも呼ばれていた志那禰(しなね)祭が毎年8月に行われている。『南路志』では祭神として「級長津彦命」「級長津姫命」を併記する。

 由緒には大和朝廷一元史観の影響が見られるが、ONライン以前の5世紀の事跡であれば九州王朝を中心に再解釈する必要がある。鳴無神社は浦ノ内湾側にあり、大神は太平洋側に接岸している。ただし、半島のすぐ南側は船を停泊できそうな港がない。少し西になるが、須崎湾か野見湾あたりが九州方面からの船の停泊港として適しているようだ。

 以上、①〜④の内容は野見湾に九州王朝の船団が来ていたことを示唆し、九州年号が地名として残された可能性も、まんざら否定できないと考えられる。須崎市の野見湾に突き出した「大長岬」は最後の九州年号「大長」を反映した地名なのだろうか。


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 土佐清水市足摺岬の白皇神社について、「高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社」のところで、次のように説明した。


 白皇権現は、四国霊場38番札所「金剛福寺」の奥の院であり、金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。同時期に熊野三所権現や白山権現が勧請されている。すなわち、白皇山(標高433m)を対象とする真言系修験の山岳信仰と位置付けされる。後に神仏分離令により白皇神社となり、白山神社に合祀された。

 これが幡多郡に集中する白皇神社の弘仁年間勧請の根拠だと当初は考えた。ところがよく精査してみると、いくつかの白皇神社は弘仁年中(810~824年)、宿毛市山田村からの勧請であり、その時点で既に勧請元となる本宮が存在していたことになる。すると金剛福寺の創建より若干早そうだ。
①白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市横瀬・久才川)
弘仁年間、宿毛市山田大物川の清陀神社を勧請。

②白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市具同字宮ノ下)
弘仁年中、宿毛市山田村大物川に坐す大巳貴神を勧請。



 この山田村(現:宿毛市山奈町山田)は平安時代初期の幡多五郷の一つの山田郷や中世の山田郷の中心地であり、政治的にも重要な地域であった。平田古墳群の近くであり、芳奈遺跡や小島遺跡などのように弥生時代から古墳時代にかけての土器が多量に出土する。波多国造が治めた波多国の国庁近くの穀倉地帯の一つと考えられる。
 山田八幡宮に幡多郡の社頭家が置かれたことから、宗教的にも中心であったのだろう。少なくとも2社、弘仁年中に山田村から白皇神社の勧請がなされたという伝承が残っているということは、実質はもっと多くの白皇神社がその当時、幡多郡の村々へ一斉に勧請された可能性が見えてくる。
 そして『高知県神社明細帳』に次の記載のある白皇神社こそが、山田村の本宮あるいは奥宮的な位置づけではなかったかと推測する。

高知県土佐国幡多郡山田村字一生原宮ノコウラ鎮座
無格社
白皇神社
一祭神 大己貴命
一由緒 勧請年月縁起沿革等未詳
○神社牒云白皇権現(一曰白皇四社又白皇権現二座小宮)右弘仁年中勧請ト云伝記文無之不知宮床弐代御山方根居ニ不入無貢革室(へん革つくり室)谷八尺ニ一丈茅葺地下作事内ニ三尺四方板葺小宮有之、宮林長二十五間横拾五間南新田、西川、東北明所山限、鰐口一


 一生原(いっちゅうばら)は山田から15kmほど山道を入った大物川の上流で、かつては森林鉄道も通っていたが、小学校も廃校となり、平成16年度の中筋川総合開発によるダム建設のため、一生原地区の氏神を八幡宮境内に遷座した。残された須多ノ舞神社では毎年宮司が通って神事が行われ続けているようだ。さらに注目すべきは、白皇神社の鎮座地の小字が「宮ノコウラ」となっていることだ。どう考えても高良(こうら)神社の宮跡としか思えない地名である。とすれば弘仁年間以前に高良神社が鎮座していたことになる。


 中古以来、卜部(吉田)・白川の両家が各々その家法によって祭式を一般神職に伝授した。地方の神職は京都に上ってその伝授を受けて、神道裁許状を授けられ、あるいは受領位階の勅許を得て神道状を受ける。これを俗に「京官を受けに行く」と言っていた。
 神祇伯であった白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた吉田兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
 くり返すが、幡多郡のみ社頭家による「吉田家直支配」がなされたことは、古来より幡多地方がいかに重要であったかが分かる。
『南海通記』(香西資成著)にも「上古ハ御領ニシテ領主ニ属セス」と記されている。「上古」という表記は摂関家・一条教房公の幡多郡下向(1468年)より、もっと古い時代を指している。


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 「裏の小山の小池に子鴨が200羽、小米1俵。子鴨小米かむ、鴨米かむ」
 どちらかというと無口であった父はかつて、そんな早口言葉を言っていた。

 徳島県に新たな高良神社を発見! 鴨神社(三好郡東みよし町加茂字山ノ上3250)の境内社・国瑞彦(くにたまひこ)神社に合祀されている26社のうちの一つである。よって高良神社としての社殿や祠があるわけではない。
 国瑞彦神社には、以下の26社が合祀されていると記されている。
 鎮守神社・幸神社・宇賀比神社・八幡神社・若宮神社・八将神社・山塚神社・木神社・友與志神社・市坪神社・荒神社・高良神社・市杵島姫神社・熊丸鎮守神社・杉尾神社・松尾神社・毘沙門神社・古塚神社・稲荷神社・藤木神社・厳神社・若宮神社・奥森末神社・日吉神社・日之出神社・会川八幡神社。

 確かに「高良神社」が含まれている。できれば旧鎮座地を知りたいところだ。また、隣りの境内社・天神地祇社には、以下の27社が合祀されている。
 奥成山神社・熊丸山神社・谷奥山神社・秋葉神社・奈良神社・三島神社・愛宕神社・山神社・出雲神社・両皇神社・神通神社・神通龍神社・神通大山祇神社・神通愛宕神社・速大神社・妙見神社・榧森神社・天満宮・荒神社・蛭子神社・大谷山神社・井神社・境神社・金毘羅神社・伊勢神社・奥谷神社・奥森神社。

 他の境内社として豊受大神宮社ほか3社が祀られている。

 『式内社調査報告』には明治末の神社合併に際し天神地祇社に19社、国瑞彦神社に35社が合祀されたとある。数的なバランスをとったのだろうか。現在は国瑞彦神社に26社、天神地祇社に27社が合祀されている。
 これまで徳島県における神社合祀の実態がなかなかつかめずにいたが、そのリストを見れば他県ではあまり聞かないような社名も多く、多元的に捉える必要がありそうだ。杉尾神社・松尾神社などは高知県にもあり、一見ありふれた名前だが意外と珍しい。神社には土地に合った木が植えられ、その木の名前で呼ばれたという「中国の社」に淵源を持つようにも思える。
 いずれにしてもこれだけの数の神社が合祀されていたとなると、「一町村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情のあるものは合祀におよばず。云々」とする明治39年の神社合祀令が、この地域ではかなり忠実に実行されたと考えられる。ここでの「一町村一社」は古代における「一村一社」とは反対の性格を持ち、増え過ぎた神社を整理しようとするものである。南方熊楠らが反対運動を展開したことは以前
神社合祀令に反対した南方熊楠」で紹介した。
 合祀された時点では国瑞彦神社や天神地祇社は単立の神社であっただろうから、その後鴨神社の境内社に取り込まれるという2段階の神社整理があったのではないか。地元の史料を確認する必要があるかもしれない。
 さて、阿波國美馬郡の延喜式内社に比定される鴨神社の祭神は別雷命・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神。創建は不詳。社伝によると貞観2年(860年)以前、京都上賀茂神社より勧請。

 「鴨祠、延喜式小祀と為す加茂村に在り旧事紀に所謂、事代主の神孫鴨王是也、延喜式大和高市、鴨事代主神あり白川氏、宮川河原氏世々祝と為る」(『阿波志』)

 京都の賀茂社といえば、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)であるが、上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖・賀茂別雷大神 。『阿波志』の記述に白川伯王家の伯家神道が垣間見える。


▲那賀川沿いの阿南市「加茂宮ノ前遺跡」

 個人的には高良神社の発見に浮かれていた頃、世の中では考古学界に激震が走るようなニュースが流れていた。2019年2月18日(月)、 縄文の「朱」の生産拠点、阿南・加茂宮ノ前遺跡で国内最大・最古級の祭祀と居住一体となった遺構が出土したことが翌日(2月19日)、徳島新聞朝刊の第1面に報じられたのである。


 来たー。加茂宮ノ前遺跡というからてっきり、高良神社を合祀する国瑞彦神社を境内社に持つ鴨神社の前から出土したと思い込んでいた。新聞記事をよく確認したら、三好郡東みよし町ではなく反対側の阿南市の那賀川沿いの遺跡であった。古代阿波国(『古事記』では大宜都比売、オホゲツヒメ)が水銀朱の一大産地であったことが明らかとなる大発見だ。
 私が「高良神社の謎」を追っているのは、高良神社マニア(そうなりかけている感もあるが……)だからではなく、一つには九州王朝の足取りをつかむ目的がある。では、これほど重要な場所に九州王朝は進出しなかったのか。ご心配なく。隣りの勝浦郡勝浦町(旧・森村)に高良神社があったことまでは確認している。那賀川の地名にも福岡県の那珂川に通じるものを感じさせる。こちらはまだ調査してから発表しようと思っていたが、時が急がれているようである。地元からの情報提供もぜひお願いしたい。



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 つい最近、大学時代以来の恩師が「支那の夜」という歌を愛唱しておられたことを知った。私が生まれる以前の時代であろうか。

   「支那の夜」 

1.支那の夜 支那の夜よ
  港のあかり むらさきの夜よ
  のぼるジャンクの 夢の船
  あゝあゝ忘られぬ 胡弓の音
  支那の夜 夢の夜

2.支那の夜 支那の夜よ
  柳の窓に ランタン揺れて
  赤い鳥籠 支那娘
  あゝあゝやるせない 愛の唄
  支那の夜 夢の夜

3.支那の夜 支那の夜よ
  君待つ宵は 欄干の雨に
  花も散る散る 紅も散る
  あゝあゝ別れても 忘らりょか
  支那の夜 夢の夜

 流行歌「支那の夜」のヒットを受けて、1940年に同じタイトルの日本映画が作られた。中国大陸での上映も行われたが、「支那」という言葉が問題となってタイトルを変えて上映されたりした。
 国策プロパガンダとの批判も多かったが、恋愛シーンは検閲にもかかり、歴史学者の古川隆久は国策映画説を否定し、「典型的な娯楽映画」であると主張している。

 かつては敬意をもって使われていた言葉が、権力者の交代によって蔑(さげす)まれて使用されるようになった例は多く見られる。「エミシ」や「クマソ」がそうである。「支那」も本来は輝かしい言葉であったものが、日中戦争による敵対感情によってゆがめられた言葉の一つではなかろうか。
 中国大陸には固有の地名として支那が存在している。古代において中国大陸から海を渡って日本列島に移り住んだ人々もいるだろう。恩師はよく「中国は長男、韓国は次男、日本は三男」という話をしておられた。列島の倭人が支那の先進文化や支那人の技術に触れた時にどれほど驚き敬意を払ったことだろう。
 「支那津彦という神様は、雲南省から日本にやって来た」との説もある。何らかの配慮(ワープロ変換で「支那」が一発で出ないのも配慮か?)があったのか、ある段階で「支那」が「志那」や「級長(しな)」になって、単に風の神様とされている。


 徳島県では、天都賀佐比古神社(美馬市美馬町轟32)に級長津彦命・級長津姫命が、天都賀佐彦神社(美馬市美馬町西荒川48)に級長戸辺命が祀られている。高知県では主祭神として志那都比古命を祀る神社をあまり聞かないが、じつは土佐国の一宮・土佐神社の夏祭りで「志那ね様」と呼ばれる祭りが行われている。表記は「志那〜」だが、もしかすると支那にルーツ(根)を持っているのではないだろうか。
 言葉が似ているだけでは十分な論証にはならない。けれども、中国大陸とのつながりを考えるようになった背景には、いくつかの根拠がある。それらについてはまた、機会を改めて言及してみたい。


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 NHKの朝ドラ『まんぷく』もいよいよ佳境に入ってきた。チキンラーメンを開発した呉百福氏になぞらえた主人公・立花萬平さんが、かつて夫婦漫才を演じたシーンで「立ち話も何ですから……って、もう座っとるな」と言ったセリフ。実は俳優・長谷川博己さんのアドリブであったことが本人へのインタビューで判明した。
 さて、橘氏のルーツを探すと言っても、まずは基礎知識を押さえておこう。高校の日本史Bの教科書『詳説日本史 改定版』(山川出版社)の50ページから、橘諸兄(たちばなのもろえ)についての記載がある。

 不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣であった長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし、737(天平九)年に流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。かわって皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。
 ……(中略)……
 孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。

 710年以降の政権の中心は藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄と移り変わる。橘諸兄は県犬養三千代と敏達天皇系皇親である美努王(みぬおう/みのおう)との間に生まれた。
 三千代は天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている。
 橘氏の先祖をさかのぼると敏達天皇に繋がるというのは、簡単に言うと上記のような内容であった。


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 大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺』(日曜午後8時)で、主人公・金栗四三は嘉納治五郎を慕って熊本から上京する。「抱っこばしてもらいげー、東京へ行くとけ」とのセリフに思わず、「懐かしか熊本弁ばい」と親近感を抱いてしまった。
 そういえば同じような感覚を、初めて『日本書紀』を読んだ時にも感じたことがあった。「なしてー?」と不思議に思われるかもしれない。『日本書紀』垂仁天皇2年条の分注として、崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。
 この「ツヌガアラシト」に遭遇した時に、「これは熊本弁じゃなかとねー」と思わずにはいられなかった。熊本弁で「ツヌガアラシト」とは「角がおありになる人」のことで、まさにそのままの意味である。

 専門家は難しい語源的な解釈を試みているが、まわりくどくて核心に至らない。『盗まれた神話』(古田武彦著、1979年)で論証されているように、『古事記』『日本書紀』の神話は、大部分が九州王朝の史書からの盗用、すなわち古代九州を舞台とした記録だったとすれば……。熊本弁で解釈できる言葉があって当然である。そう感じたのは私が初めてではないと思うのだが……。『熊本弁で読み解く日本書紀』みたいな本はないのだろうか。



「一に云う。崇神天皇の世に、額に角がある人が一隻の船に乗って、越の国の笥飯(けい)浦に泊まった。それで、その土地を角鹿というのである。どこの国の人かと尋ねると、意富加羅国の王子、都怒我阿羅斯等と答えた。またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本に聖皇がいるという噂を聞き、帰化しようと、穴門に到った時、その国に伊都々比古(イツツヒコ)という人がいて、我はこの国の王だと言ったが、その人となりを見て、王ではないと思い引き返した。道を知らなかったため、島浦を伝って北海(山口県北部の海)より之(穴門)を廻り、出雲国を経てここに到ったのだと語った。…」
(『日本書紀』垂仁天皇2年条)


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 『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、著者が拝観した高知県内の白皇(王)神社は44社。祭神のほとんどは大巳貴(おおなむち)命とされ、その大半は県西部の幡多郡及び高岡郡に分布している。

 以前「高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社」と題する内容を紹介したら、県内外から多くのアクセスがあった。けれども、問題提起をしたに過ぎず、十分な検証もできなくて心苦しい思いを持ち続けていた。
 実は『高知県幡多郡誌 全』(高知県幡多郡役所編、昭和48年)によると、明治13年頃の時点で幡多郡には神社総数2007社、そのうち白皇神社が134社あったと記録されている。

▲宿毛市押ノ川の文旦畑の中に白皇神社の鳥居

 明治初年の段階で幡多郡には4郷130村あったので、4+130=134。ピタリと数を合わせたように、白皇神社の数と一致している。まさに「一村一社」ならぬ「一村一白皇」なのである。これは江戸時代までの神社行政の反映と見るべきだろうか。『南路志』などで村ごとの神社を拾い上げてみれば、完全に一対一対応ではないものの、幡多郡における「一村一白皇」が実感としてよく分かる。

 お隣りの高岡郡に入ると、白皇神社ではなく白王神社と表記が変わったものが増える。須崎市大谷の「白皇(しらおう)でなく白王神社(祭神:猿田彦命)」の例もある。これは愛媛県南予地方でも同様である。
 天皇の「皇」を使うのは不敬であるから「王」に変えたのではないかと推測できるが、祭神自体も異なるところがある。高岡郡の『中土佐町史』(中土佐町史編さん委員会、昭和61年)には白皇神社(祭神:少彦名)1社、白皇神社(祭神:彦火々出見命)1社が紹介されている。ちなみに愛媛県ではほとんど白王神社の表記で、祭神は菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊となっている。白山神社(本宮は石川県白山市三宮町にある加賀国一宮・白山比咩神社)と同系列との判断であろうが、この点に関しては愛媛県側の史料を精査する必要がある。
 白皇神社について『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、1972年)では農耕の神あるいは土地開発の神という説明がなされているが、納得できるものではない。
 社名から連想されるのは「白川伯王(しらかわはくおう)→しらおう」と省略した伯家神道(神祇官統領白川伯王家伝承惟神道)なのだが、その痕跡が見つからない。それどころか、幡多郡の神社を主管していたのは吉田神道の神官であった。
 土佐国には西から幡多郡・高岡郡・吾川郡・土佐郡・長岡郡・香美郡・安芸郡の7郡があり、「中5郡」という言葉もある。中央の指示・命令が行き届くのが中5郡であり、東の端・安芸郡と西の端・幡多郡はかなりの部分で独自性が貫かれた。高知県で幡多郡と安芸郡だけに高良神社が残されたことも、その反映ととれる。
 そして幡多郡の神社に関しては中央とは切り離され、社家頭であった山田村の正八幡宮の神主・宮部左近による「吉田家直支配」とされた。他郡にはこの制度はなかったようだ。黄幡(おうばん)神社や鷣(はいたか)神社など、全国的にも珍しい神社が幡多郡に残されたのは、この制度によるところが大きいと見ている。それだけ幡多郡が重要視され特別視されるべき何かがあったと考えられる。
 白皇神社が集中する幡多郡が「吉田家直支配」とされたのは、逆に言うとそれ以前は伯家神道の影響力が浸透していたからとも考えられる。たが、単なる仮説の域を出ないので、さらに情報を収集し、検証を重ねていきたい。

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 「春高」と言ってもバレーボールじゃないよ。高知市春野町の春野高校、略して春高はかつて園芸高校と呼ばれていた。卒業して就農する生徒はほとんどなく、農業色を払拭してイメージチェンジを図るための名称変更だったのだろう。
 高知市春野郷土資料館企画展として、春野高校歴史同好会展示発表が2月9日(土)〜28日(木)の期間行なわれている。数年前から開催されるようになって、高校生がこのように郷土史を自分たちの手で調べて発表することに好感を持っている。

 同好会の研究成果として壁新聞「春野をゆけば」の展示がなされているが、No.1「あじさい街道は桜並木だった!」を数年前に見て、非常に注目した記憶がある。たしか、同好会を立ち上げた生徒がとても歴史好きだったらしい。研究テーマとしても身近で親しみやすい。 

 現在のあじさい街道には紫陽花(あじさい)はあるが桜並木はない。戦争を契機に切られてしまったというのだが、なぜ切られてしまったのか?
 小林秀雄の講演会のCDを聞いていると、似たような話があった。とても桜好きで山桜の研究をしてきた男が、奈良県の橿原神宮前の道沿いにボランティアで山桜を植林したが、戦時中に切られてしまったという残念な話である。何か春野町の事例と時代的にも通じるものがあるように感じた。


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1878(M11)年 1月5校開校

 浅井小学校(寺尾崎) 本村小学校(善福寺) 永野小学校(久清)       

 家俊小学校(高添) 市野々小学校(三郎丸)
1888(M21)年合併し2校となる

宮原尋常小学校(本村宮原) 家俊尋常小学校(久保田)
1898(M31)年10月合併し1校となる 戸波尋常小学校と命名する(修業年限4年)

 土佐市に宮原村があったことまではつかめていたが、正確な場所までは分からない。明治時代に本村宮原というところに宮原尋常小学校があって、十年ほどで合併され、なくなったらしい。土佐市の人に聞いても、「宮の内」なら知っているが「宮原」は聞いたことがないという。やはり地名としては消えてしまったのだろうか。

 最後の手段として『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』を繰ってみた。戸波(へわ)郷のページに「惣ノ佾給」「常住佾給」「権ノ佾給」と3筆立て続けに「佾(いち)」が登場する。よく見ると「宮原村 前ハ末次名」とあるではないか。ホノギ(小字)は「タケハタ」となっている。その数筆後に「宮ノハラ」のホノギも出ている。

 難しいのはここからである。天正十七年(1589年)の検地の記録であるから400年以上も前。現在は残っていない地名も多い。「佾」が多いことからも付近に大きな神社があっただろうことは想像がつく。また、明治期に尋常小学校があったことから文教の中心地でもあったのだろう。そのような点では佐川町の宮ノ原や夜須町の宮ノ原とも通じる性格を持つことが類推できる。
 『土佐市史』(土佐市史編集委員会、昭和53年)によると、戸波地区本村宮本に宗像神社(土佐市本村940ー2)があり、境内社として神明宮と八坂神社が記載されている。土佐市のホノギに詳しい人に確認したところ、その近辺が旧宮原村であったことが判明した。

▲琴弾八幡宮より旧宮原村方面を望む

 『土佐市史』の表記が「宮本」となっていることも注目である。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原氏が「宮原の名称も宮本から来ている」と言及していたことを、図らずも裏付ける調査結果となった。

 このことは古くは宗像神社が土佐市戸波地区の宗教的中心地であったことを物語っている。おそらく、福岡県の宗像大社からの勧請であろう。また同地区家俊には熊本県天草郡大矢野(現上天草市)から移り住んだ矢野家の先祖・大矢野又十郎家俊の伝承もあり、九州と縁の深い地であったことが分かる。

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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