1906年(明治39年)に出された神社合祀令とは、一村一社を原則とし、その他の小社小祠ををこわし、他の神社へ併合させるという政策である。南方熊楠が神社合祀令反対の意見を『牟婁新報』に発表したのは1909年9月であった。
柳田国男の協力もあって、1920年神社合祀無益の議決が貴族院を通過した。反対運動は結実を結んだと言えるが、そのために年月を要した。神社合祀令による神社整理は多くの都道府県で既に実施されていたのであった。 1906~1911年末まで、全国でおよそ8万の村社が合併または廃止された。最も極端な破壊が行われたのは三重県で、数において6.8分の1に減じ、次いで和歌山県が4.7分の1に減少した。 これらのことは『南方熊楠』(鶴見和子著、1981年)に詳しい。 PR |
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