『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)の中で岡村眞氏は次のように述べている。
「須崎市野見湾の戸島北側に断層活動によるくい違いを見いだした。ただし、堆積速度から判断すると、断層が動いた時期は今から三、四千年前と見積もられ、伝えられる約千三百年前の白鳳地震とは関係がありそうにない。」(「島は本当に沈んだか」)
現地の漁師さんに聞くと、野見湾には水深5メートル程度の台地状の地形があり、その縁から急に深くなっているという。断層による地形なのかも知れない。さらに海底に井戸があったとの証言もあり、石包丁などの弥生時代の遺物等の出土もあることから、弥生時代以降にも沈降があった可能性は十分考えられる。
さて、この野見湾に伸びる岬の地名が大長岬という。古賀達也氏の説によると「大長(704〜712年)」は九州王朝最後の年号とされる。「大正町」のように年号が地名になることは現代でもよくあることだが、この大長岬も年号に由来するものだろうか?
地名辞典によると「大長崎(おおながさき)」との読みが出ているが、現地の人は「大長岬(おながさき)」と呼んでいた。これはすぐ近くの「小長岬」と対となる地名のようである。
白鳳地震(684年)によって野見湾及び大長岬ができて、ニ十数年後の復興の時期である大長年間に地名がつけられたとすると……。
一方、大長みかんで有名な広島県呉市豊町大長(おおちょう)は王朝を連想させる読み方である。はたして、年号の「大長」は何と読むのか?
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