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 今回は九州年号発見というわけではないが、それに匹敵する情報を公開しよう。「斎明六年棟札」についてである。
 伊予国には斉明天皇に関する伝承が数多く残っており、合田洋一氏の説のように斉明天皇が伊予にいたのが事実であったとしたら、土佐国にも何らかの形跡が残っていてもいいはずである。それが長岡郡大豊町に現存するという
「斎明六年棟札」なのではないだろうかと考えていた。その存在については情報をつかんでいたが、文面等については見ていなかったので、何とも言えずにいたが、実は『高知県史考古資料編』(高知県、昭和48年)に全文が掲載されていた。
 この本は目を通しておかなければと思いつつも、7.5cmの分
厚さに、今まで借りるのを躊躇していたのだ。関連する箇所を引用しておく。


又時代疑問とは、棟札の銘文が、其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきやの疑問あるものなり、本県にも斯様なるもの多少あるべしと思わるれども、予が調査せしものは四枚あり、予は自ら之が断定を下す能はずして、考古家沼田頼輔氏に教を請ひたり、今氏が報ぜられたる所のものにより、茲に摘記せんに、一は、長岡郡西豊永村桃原村社熊野十二社神社に、現存せる棟札にして、斎明六年(千二百五十六年前)の年号のある、左の銘文なりとす、


奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、


白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)


斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、又妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし、


二は、同神社に現存の大宝二年(千二百十六年前)の棟札にして、左の如し、


奉造立、三躰妙見熊野十二社権現、右意趣、宥爲國土安詮四海静謐持信心之、大願主長次上村源七良敬白、天長地久御願圓滿、一天大平風雨有之時、武運長久、子孫繁昌、別名内元事、道師權少僧都□喬、神主吉定祈所面所、大寶二壬寅三月廿五日


妙見社の此の時代にあらざること前述の如し、殊に上村源七良の如き氏名は、全く後世のものにして、此の時代に斯る称号なきことは、奈良時代の古文書に徴するも明かなりとす、


 「長岡郡西豊永村桃原」は現在、大豊町桃原となっており、熊野十二社神社には足を運んだこともある。急峻な山道を登ったところながら、境内は広く、伝説の牡丹杉が存在している。また「百手の的打ち」神事でも知られる神社である。


 
 この熊野十二社神社には、斎明六年および大寶二年という、きわめて古い年号が記された2枚の棟札が現存しているという。「其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきや」と否定しつつも、考古家に判断を仰いでいる。問題点を列挙すると、次の3点にまとめられるだろうか。

①斎明は天子の諡号であり年号ではない。しかも、この
諡号は後世に定めたものであり、斎明を年号代りにすることもあり得ない。
妙見信仰は藤原時代から始まったもので、王朝時代にあるのは疑わしい。
③名前や称号など後世のものである。

 斎明6年といえば660年に相当する。もしその時代の棟札とすれば高知県最古のものとなるが、さすがにそれは無理があるだろうか。問題点の指摘も理にかなっている。だが、あえて疑問視されるような棟札を偽作する動機も見当たらない。
 「信ずべき価値なし」と切り捨てるのは簡単だが、この
斎明6年棟札の研究を通して、何らかの歴史的真実を見出すことはできないだろうか。じっくり検証するには時間がかかりそうなので、今回は「斎明6年棟札」の存在を報告するにとどめておこう。


 

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 父方の祖母は田尻姓で、学歴についてはよく知らないが、祖母を知る人は一様に「学のある人であった」と言っていた。筑後の一宮・高良大社の宮司家の一つが田尻家なのだと聞いたことがある。つながりがあるかどうかは定かではないが、私がこれほど「高良神社の謎」を追いかけるようになったのも、何かの縁かもしれない。さらに漢の高祖劉邦に連なるとする大蔵姓田尻氏正統系譜(肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜)の登場によって、ルーツ探しのほうも新たな展開を見せることになった。ただし、家系図は単独では史料的根拠にすることは難しいとされているので、その扱いは慎重を要する。
 さて、前回「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した」というタイトルで境内社の一つ「瓦ノ宮社」が高良神社であったことを報告した。その岡豊別宮八幡宮から東へ6kmほど行ったところ、物部川の西岸に川原神社(南国市福船字寺屋敷)が鎮座する。ずっと気になっていた神社である。一般的には川原近くにあるから川原神社とされてきたが、あまりにも安易すぎないだろうか? 

川原神社

 旧岩村郷福船村舟渡、戸板島村、京田村の一部、蔵福寺島村の産土神で、旧村社。祭礼時當家に決まった節数のおはけ竹を立てる。現在のおなばれは一の鳥居(御旅所)間を往復する。台輪鳥居、狛犬、手水石鉢、石燈籠、百度石、中世石仏、五輪塔残欠がある。北側の墓地内にも中世石造物が見られる。
 今年(令和元年度)の「川原神社秋祭り神事」のお知らせが拝殿に貼り出してあった。11月1日(金)午後1時30分~となっている。『南路志 第二巻』には香美郡の福田村(岩村郷)のところに「川原大明神 川原宮 本地決主菩薩 祭礼九月九日」と出ている。

 川原宮(かわらのみや)と言えば、斉明天皇の板蓋宮が火災に遭ったので一時的に遷居した宮が川原宮であった。翌年、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を設けてそこに移っており、川原宮跡が川原寺になったとされる。
 これに対して、斉明天皇は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子であり、伊予に行宮があったとするのが合田洋一氏の説である。詳しくは著書『葬られた驚愕の古代史 越智国に"九州王朝の首都"紫宸殿ありや』を参考にしてほしい。
 もとより、高知県の川原神社を斉明天皇に結びつけるつもりはない。県外にも川原神社という名の神社が複数存在しているようだが、かつて高良神社は「瓦ノ宮」「川原社」などと呼ばれていたことがあった。多くはその名残りであろうと推測する。
 田尻の祖母が時折言っていた。「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社(祭神:高良玉垂命)としての由緒が失われてしまった川原社は、土佐弁風に言えば「瓦にかあらん」(瓦と大差ない)ということになってしまったのではないだろうか。


参考:南国市福船周辺
https://youtu.be/A_5R8dWLKCA

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 多元的「国分寺」研究サークルや方位の考古学などで知られる「肥さんの夢ブログ」で、高知県の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の素弁蓮華文軒丸瓦が紹介された。ついに四国に研究の手が伸びてきたというところだろうか。

 大寺廃寺跡の軒丸瓦については現在、高知市春野郷土資料館に展示されていて、年代は「8世紀」と紹介されている。同資料館のホームページには次のように説明されている。
軒丸瓦

軒丸瓦(のきまるがわら)

古代寺院跡である大寺廃寺跡〔おおでらはいじあと〕より採集されたもので、有稜線素弁八葉蓮華文〔ゆうりょうせんそべんはちようれんげもん〕がほどこされています。こうした瓦の出土事例は、高知県でも数少ないものです。
<高知県立歴史民俗資料館所蔵> 
 本来なら素弁蓮華文軒丸瓦は単弁や複弁よりも古く、7世紀とするのが通例である。それをあえて8世紀とした根拠はどこにあるのだろうか。おそらく『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)P61の記述によるものと推察する。
岡本健児氏は、仲村郷の西分付近を郡衙所在地と考えられているようである。同氏著『高知県史考古編』には、西分の大寺廃寺すなわち『長宗我部地検帳』時代なお存在した左の、
 大寺寺中
      同村 大寺寺中
 一所参代 下薬師堂床三間四面ヤシキニ取 喜津賀分
を取りあげ、この大寺が「和名抄」の中村郷を伝える地域にあるうえ、さらに発見された古瓦には、単弁蓮華文の鐙瓦があり、また平瓦には凸面に縄目文、凹面に布目を付けたものがある。丸瓦は有段式の玉縁式であるが、これら「その発見された古瓦類から、その年代をだいたい奈良時代、それも国分寺ができて以降と考えたい」とされる。なお右の大寺廃寺を安芸郡奈半利町コゴロク廃寺、高知市秦泉寺廃寺とともに「郡衙関係の寺院と考えてよいのではないだろうか」と推定され、国分寺と国衙関係同様に、「郡衙と密接な関係を持つ寺院であろう」と結ばれる。
 しかし、『春野町史』の記述は単弁蓮華文の鐙瓦や布目瓦などについての考察であり、昭和50年代という段階ではまだ研究も進んでおらず、国分寺建立以前とする判断はできなかったのだろう。ところが、『ものがたり考古学―土佐国辺路五十年―』(岡本健児著、1994年)の説明には、その後の研究の成果が反映されているように見える。

秦泉寺廃寺と大寺廃寺

 両方の軒丸瓦の蓮華文様には、花びらの中に線が入っています。そして子葉が描かれていません。このタイプの蓮華文様の入った軒丸瓦を、考古学の専門用語で「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」といいます。
 こうした瓦の文様は百済(四世紀前半から663年の朝鮮古代の国)から日本に入ってきたものです。ところが、飛鳥寺とか四天王寺、焼失した法隆寺にみられる典型的な百済様式とは文様が少し違っています。百済様式のものには花びらに線が入ってないのです。
 「有稜線…」は六六三年に朝鮮半島で百済が滅び、高句麗の時代に一般化します。高知の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の瓦の文様は百済の時代の終わりごろに、高句麗の影響を受けて作られたものだと思われるのです。作ったのは百済が滅んで国を追われた朝鮮の人たちだったのでしょう。瓦の分析により、この二寺院はいまのところ、高知県下では最も古い寺ではなかったかと推測できます。
 近年、地方寺院研究が大きく進展してきた。地方寺院の成立は、七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。秦泉寺廃寺と大寺廃寺はその中に含まれる、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在していたことになる。
 多元史観に立ったときに、これほどの多くの古代寺院群がどのような目的で建てられたのか。果たして九州王朝と何らかの関係があったのか。大和朝廷一元史観に縛られない今後の研究の進展が期待されるところである。


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 10月13日、高知県立歴史民俗資料館で土佐史談会理事の朝倉慶景氏による「本能寺の変と斎藤津戸右衛門の居所について」と題する講演会が開かれた。その内容についても紹介したいところだが、講演会後に向かったのは歴民館のある岡豊山とは県道を隔てた北側の岡豊別宮八幡宮(南国市岡豊町八幡)。以前に「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は存在するか?」というタイトルで記事を書いた。その時点では、『皆山集①』に登場する豊岡八幡宮について、高良神社を含む摂社十数社が記載されていることから「岡豊別宮八幡宮の境内社の1つが高良神社である可能性は高い」とした。

 前回は東側から車で登り、神社の裏側の広場についたが、今回は南側の一の鳥居から徒歩で正面突破を目指す。石段途中の恵比須神社や大山祇大神などを確認する目的もあった。参道の石段には実った栗の実が落ち、はじめはゆるやかだが次第に傾斜を増す。登りきったときには足もガクガク。息を切らしながら参拝を済まし、現地を実見する。
 本殿の西側には竹氏宮、岩清水宮など境内社7社が並べられている。本殿の北東に1社+3社の境内社。龍王宮、若宮社、瓦ノ宮社などが祀られている。この「瓦ノ宮社」こそが高良神社のことであった。

 『南路志 第八巻』所収、寛永十三年(1636年)八月十五日付けの「長岡郡別宮八幡宮之記」に、次のように記録されている。

○長岡郡別宮八幡宮之記

一御宝殿ハ三間四面 舞殿長床
一同東之方若宮有、五尺間ニ三間四面
一末社之事 戌亥之方ニ稲荷之社、其東ニ竹氏之社、其東鎮守、其東丑ノ方ニ松尾春堂二社ヲ一棟ニ立、寅ノ方ニ岩清水社、卯ノ方ニ龍王、其南桜田ノ社、辰巳ノ方ニ鐘楼堂有。南ノ坂本ニ鳥居、東ニ御幸門、関杖有。其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ。又東ノ川ノ渡上國分ノ分ニ神輿休社、大木ノ本有。
放生會御幸之事 右二所社ニテ、神輿ヲ舁居、神楽ヲ備也。
 この記録は江戸時代初期のことであるから、境内の配置などは現在とは大きく異なっている。火災を経験し、再建されているだろうから、境内社もまとめられて合社となったのだろう。かつては東側に御幸門があり、「其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ」とされ、その場所で放生会の神楽を舞ったと読み取れることから、「瓦ノ宮」が数ある境内社の中でも特別な位置づけにあると考えられる。
 そして『皆山集①』との比較により、この「瓦ノ宮」こそがイコール「高良神社」であることが判明する。かつて高良神社は「瓦ノ宮」あるいは「川原社」などと呼ばれていたことがあったのだ。1年半越しの宿題にやっと答えを出すことができた。岡豊別宮八幡宮の境内社として、間違いなく高良神社(瓦ノ宮社)が実在していたのである。
 そうなると、次に問題となるのは川原神社(南国市福船字寺屋敷)である。一般的には物部川の近く、川原に鎮座しているから川原神社と考えられていたが、それは神社の名称としてはあまりに安直すぎないだろうか。
 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」
 高良玉垂命を祀る高良神社の輝きも忘れ去られて、瓦や川原の如くに扱われてしまっているとしたら……。本来の光を取り戻すことはできるのだろうか。



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 『古事記』『日本書紀』に木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と石長比売(いわながひめ)の姉妹の話が出てくる。妹の木花之佐久夜毘売は美人で見染められ求婚されたが、姉の石長比売は醜く追い返される。天皇の寿命が短くなった原因譚ともされている。実質は二倍年暦から一倍年暦に暦が切り替わることによって、百歳を超えていた寿命が急に短くなったように見えたということだろうか。二倍年暦以前には二十四倍年暦のようなさらに異なる暦が用いられていた可能性がある。
 天孫邇邇芸命が日向の高千穂峯に天降りされた後、吾田(あた)の笠紗(かささ)の岬で絶世の美人に出会った。
 「誰れの娘か」と問われると、大山津見神の娘で名は神阿多都比売、またの名を木花之佐久夜毘売」と答えられた。
 邇邇芸命が、「結婚したいと思うがいかに」と申されると、「私からは申し上げられません。父の大山津見神がお答え申し上げましょう」と答えた。
 大山津見神は喜んで、姉の醜い石長比売を副え、多くの献上物とともに邇邇芸命の許に奉った。 しかし命は醜い石長比売を見るなり送り返され、妹だけを止められて婚姻された。
 大山津見神は「娘二人を奉ったのは理由がある。 石長比売を奉ったのは、その間に生れた御子は石のように永久に生命があるようにと。 木花之佐久夜比売を奉ったのは、木の花の栄ゆるが如く御子も栄えるようにとの理由からだ。 だが、今、石長比売を返され、木花之佐久夜比売一人を止められたから、 天つ神の御子の寿命は木の花のようにはかないものになるだろう」と申された。
 今でも天皇の御寿命が短いのはそのためである。
 それはさておき、聖書の中に似たような話がある。レアとラケルの姉妹の物語である。『旧約聖書』の「創世記」には多くの話が盛り込まれているが、その半ばあたりに書かれている。イサクとリベカの双子の弟ヤコブは兄エサウに与えられるはずの祝福を、母リベカの知略によって奪い取り、エサウの恨みを買って、伯父ラバンのもとへ逃れる。そこでヤコブはラバンの娘ラケルを好きになった。

創世記第29章16~32節

16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。
19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」
22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。
23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。
24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。
27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」
28 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。
29 ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。
30 ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。
31 主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。
32 レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ったからである。
 日本神話「木花之佐久夜毘売と石長比売」と聖書の物語「レアとラケル」、とても似ていると思いませんか? 「何が」って、できの悪い娘を思う父親の心が、である。もちろん話の設定やストーリー展開など、差異も見られるが、よく似通っていると感じるのは私だけだろうか。
 心理学者カール・ユングは、異文化間の神話に見られる類似性から、すべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」と名づけた。
 身体的に劣等感を感じている姉といつも人々からチヤホヤされる可愛いらしい妹。そこには誰もが共通に陥りやすい葛藤を生じさせる状況であり、神話のストーリーとしてはうってつけだろう。
 しかし、集合的無意識を持ち出さなくても、神話の時代から人々の東西交流が行われていたとしたら、神話の内容が相互に影響し合うことは有り得るだろう。ちなみに福岡県出身の木花(きばな)さんという人に会ったこともある。
 私はかつて、「神話理解の三段階」という文章を書いたことがある。
①神話をその如く信じる段階
②神話は作り話であると否定する段階
③神話には歴史的事実が反映されていると高次元的に解釈する段階
 実際に『聖書』や『日本書紀』、ギリシャ神話などが、一度は「全くの創作にすぎない」と批判されながらも、歴史的事実を反映した内容を含んでいたことが明らかになってきている。そのような理解に立って神話研究を進めていくことで、新たな歴史的事実を解明するきっかけになることもあるのだ。



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 「長野県の高良神社②――千曲川流域に分布」のところで紹介した吉村八洲男氏が、以前からブログ『sanmaoの暦歴徒然草』で「科野からの便り」を連載されている。最新ニュース「中国河南省安陽市安陽県の曹操(155~220年)墓出土の鏡が、大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)に酷似している」との報道に関して、すぐさま「科野からの便り――真田編(四)」として論考が出された。
 この鏡は、日田市で戦前に見つかっていて、その装飾の巧みさと中国でも稀な鏡である事から、1964年に「重要文化財」に指定されている。紹介したのは梅原末治博士で、同市の「ダンワラ古墳」から発掘したものと推定されている。
 「ダンワラ」とは不思議な地名だと思いつつ、天子の「壇」が築かれた「原」ではないか、などと想像を膨らませていたところ、吉村氏の指摘はまた違った角度からのアプローチであった。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に蕨手文が施されているというのである。
 この「蕨手文様」が出現するのは、筑後地域のほぼ連続して築造された9つの「装飾古墳」の中からであり、長野県上田市真田町でも「蕨手文様」が複数発見されている。詳しくは「科野からの便り――真田編(一)(二)(三)」で確認していただきたい。
 ところで、「魏の曹操と九州の山中にある日田と何の関わりあらんや」と不思議に思われる方も多いのではなかろうか。『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』に邪馬壹国の女王・卑弥呼が魏に使いを送ったことが書かれている。
 中学1年の生徒に聞いたら、やはり239年と覚えていた。原文には238年と書かれているのに、「戦時中に使節を送ることは不可能」との考えから、終戦後の239年と修正しているのである。しかし、239年だとかえって矛盾が生じることを『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏が指摘している。朝鮮半島がいまだ戦乱にある中での派遣であったからこそ、魏は邪馬壹国を同盟国として信頼し、豪華すぎるほどの下賜品を賜ったのだった。


 さらに『「三国志」を陰で操った倭王卑弥呼』(斎藤忠著、2004年)では、安徽省亳州市にある曹家一族の古墳から出土した字磚(じせん)という文字の刻まれたレンガ片に注目している。元宝抗村一号墓から出た倭人字磚には「……有倭人以時盟不」(倭人が時を以て盟すること有るか)と書かれていて、この一文から、曹家が倭人と盟約関係にあったことが推測されている。共に出土した字磚には建寧三(170)年の年号が刻まれていたことにより、ほぼ同年代のものと考えられる。
 卑弥呼が魏に使者を送ったのは、それから半世紀ほど後のことになるが、当時倭国は呉・狗奴国連合と対峙しており、魏・倭同盟の成否は生命線であった。曹操は「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となり、再三呉に攻め込もうとするが呉の水軍に苦しめられ敗走する。魏からすれば、倭国の水軍の力を頼みにしたいところもあっただろう。
 折しも9月初めに狗奴国に関する新説が出されたばかりである。「卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈」と産経新聞(2019年9月2日)で報道されていた。

 この説は免田式土器の分布図が、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察するもの。九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、狗奴国の実態に迫る学会発表を行った。魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。
 畿内銅鐸圏の国々を狗奴国と比定した古田武彦説とは異なるが、最近の考古学的成果を踏まえつつ、再検討するべき時機が来ているのかもしれない。


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 筑後の一宮・高良大社については倭の五王との関係が指摘され、九州王朝の宗廟であったとも目されている。高良神社あるところに九州王朝の足跡ありと考えられることから、高良神社の謎を追いかけて香川県までやってきた。
 「香川県の高良神社①~⑤」で県西部の三豊市周辺に高良神社が密集していることを紹介してきた。今回は三豊市にあるもう一つの重要な高良神社を紹介したい。

 瀬戸内海に突き出した荘内半島の中ほどで最も低くなっている部分が「船越」という地名で、古代においては船が陸を越して半島の反対側へショートカットした場所とされる。「ふなこし」は全国的にも同様の地形に付けられた地名として数多く存在する。高知県須崎市浦ノ内にも横浪半島の付け根の細くなったところに「舟越」という地名がある。そこは鳴無神社の社伝に、大神が乗ってきた金剛丸をかついで越えた場所とされている。


 さて、今春(平成31年3月)閉校となってしまった三豊市立大浜小学校の北、豊かな緑に囲まれた船越八幡神社(三豊市詫間町大浜1638)の境内に高良神社が鎮座している。祭神は武内宿禰命。他の境内社としては、金比羅神社、住吉神社、若宮神社、粟島神社など。木之花佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)をお祀りしている木村神社もあった。
 旧荘内村と香田、家の浦を氏子とする船越八幡神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。幣拝殿の奥に神橋と中門が建ち、塀に囲まれた中に本殿が建立されていた。蕨手燈籠も見られる。この蕨手については当初、高良神社と深い関係があるのではないかと推察したが、他でも見かけたことから、割とポピュラーなデザインのようでもある。
 境内の絵馬堂には、幕末から昭和初期にかけて製作された歌仙絵や歴史絵、船絵馬、芝居絵などが奉納されており、これらは市指定有形民俗文化財に指定されている。
 『西讃府誌』によると、神亀元(724年)に「宇佐八幡宮が御船に乗ってこの地に着かせ給うた」とある。また、『西讃府誌』とは別に、こんな伝承もあるそうだ。
 昔、香田の人が山で仕事をしているとき、家の浦の祝戸というところでキラキラと光るものを見つけました。不思議に思って近づいてみると、それは「神様」でした。
 そこで、この「神様」をどこにお祀りしたらよいかと浦の人々に相談したところ、朝日のよく当るところがいいだろうということになり、西香田の南の高台で、後に「モトミヤ」と呼ばれるところ(今の詫間電波高専の正門の南)にお祀りすることになり、後に船越の地に移されることとなりました。

 境内右側の玉垣内には亀の背に乗った浦島太郎像があり、少し離れた場所に浦島太郎の墓もあるという。この社の鎮座する荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、砂州の発達で陸地と連結した陸繋島となり現在のような半島となったものだそうだ。この辺りにも「浦島伝説」があるようだ。 
 北西2km程の紫雲出山(しうでやま)山頂(標高352メートル)にある紫雲出山遺跡は、三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。ここからは貝塚、円形竪穴住居址、高床倉庫、大型掘立柱建物の遺構などが検出されており、本遺跡が瀬戸内海の交通の監視を意図した可能性が高いとされている。
 本遺跡出土の石器の量は、優に畿内の大遺跡のそれに匹敵するとも指摘されており、ここが瀬戸内海の要所であったことは間違いない。また半島の付け根の波打八幡神社からは銅矛が出土しており、九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏の東の端に当たり、銅鐸文化圏の国々と接する最前線であったとも考えられる。佐原真は出土した石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと考察している。
 「香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社」の鎮座地も瀬戸内海を見渡せる場所であったが、紫雲出山からは晴れた日には対岸の岡山方面まで見ることができる。瀬戸内海の海上ネットワークの重要な拠点であったことは間違いないだろう。
 700年代に入って宇佐八幡宮から勧請されたとされる八幡神社が四国地方のみならず、多く見られる。九州王朝の滅亡に伴って宗廟の座が高良大社から宇佐八幡宮に移ったとされる伝承があるが、その反映であろうか。高良神社の大半は八幡神社の境内社(脇宮)となっている。
 とは言え、香川県では高良神社がよく残されていることが、調査を進めていくうちに分かってきた。神社探訪・狛犬見聞録さんが次のように語っている。
 「香川県ではそれぞれの地域の産土神が、かなりの規模で維持管理されています。現代社会において、これほどの信仰心が維持されている地域は、少ないのではないでしょうか? 嬉しい限りです」
 まるで、私が感じてきたことを代弁して下さっているようだった。同感である。

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  NHKのBSプレミアム「ダークサイドミステリー」(2019年6月13日放送分)で、和田家文書『東日流外三郡誌』が取り上げられた。予想はついていたが、初めから偽書と決めつけたスタンスであった。


 内田康夫による『十三の冥府』(2004年発表)では、『東日流外三郡誌』をモデルとした『都賀留三郡史』が登場している。大和朝廷とは別に荒覇吐(アラハバキ)王国が存在したとする『都賀留三郡史』をめぐって、八荒神社の宮司の周辺人物が次々と怪死する連続殺人事件で、『都賀留三郡史』を取材に訪れた浅見光彦が真相を解明するものである。このドラマもテレビで見たことがあるが、これはフィクションであるからいいとしよう。


 しかし「ダークサイドミステリー」では歴史学者をコメンテーターとして迎えながらも、『東日流外三郡誌』=偽書という結論ありきの番組編集であった。そこには2007年(平成19年)に『東日流外三郡誌』の「寛政原本」が発見されたことなど全く触れられていなかった。


 もちろん原本が発見されたからといって、書かれていることが全て真実だとは限らない。その内容が正しいかどうかは、また別に史料批判をすることによって、信頼性のあるなしを判断していかなければならない。

 例えば、『東日流外三郡誌』で渡嶋(わたりしま)が北海道として描かれていることは六国史の影響を受けたもので、「渡嶋は北海道ではない」ということは『地名が解き明かす古代日本 錯覚された北海道・東北』(合田洋一著、2012年)で既に立証されている。その点は正史だからといって『日本書紀』などに全て正しい歴史が書かれているわけではないのと同様である。


 ところで、高知県には“土佐の『東日流外三郡誌』”とも言われる『八幡荘伝承記』なる古文書が存在したとされる。こちらは原本が見つかってないので、真偽のほどははっきりしない。その史料的性格について、『佐川史談 霧生関39号』(佐川史談会、平成15年)に掲載された「夜明けの群像 ―八幡荘伝承記の謎を探る―」と題する越知史談会・吉良武氏の論考を紹介してみたい。
 八幡荘伝承記を西森哲氏と共に世に出した明神健太郎さんの功績は大きい。それは闇の中にあった高吾北の中世に光をあて、高吾北開拓の歴史を明らかにしたからである。
 そのため土佐史談会から高い評価を得、高知新聞や土佐史談会で画期的な新資料として紹介された。土佐史談会は伝承記を手がかりに何度も南朝遺臣探究会を開き、幾多の遺跡を発見した。
 しかし一九七八年海南史学で下村效氏に「昭和十年代前半の偽作」と酷評された。その理由として中世に書かれたものであるというのに、「虫も殺さんという人であった。」「大変好い方であられた」などと口語文が随所に見られる。又「聖戦・皇軍戦没者」など近世の用語が沢山見られると、鋭くしかも綿密に指摘された。その指摘は合理的で納得できるものであった。
 伝承記は根拠のない偽作なのかどうか、伝承記の記述と高吾北の遺跡の照合によって検証してみたい。
 ……(中略)……
 南北朝の頃の資料は土佐にはほとんどないが、唯一佐伯文書がある。豊後国佐伯庄の地頭をしていた佐伯氏は土佐へやって来、津野氏につかえ海辺の庄の庄主となって、堅田経貞と名のった。南北朝の合戦では津野氏と共に北朝方につき、細川定禅の命に従って南朝方と戦った。
 その戦いで自分の軍功を書きしるし、主人に上申して後日の論功行賞の証拠にしたのが、堅田経貞の軍忠状である。この軍忠状は土佐における南北朝の合戦を正確に記録しているので、佐伯文書といい精度の高い第一級の根本資料とされている。
 その佐伯文書と伝承記の記述が符合する。例えば「大高坂落城の事」の一部分を対比してみよう。
 ……(中略)……
 伝承記は鯨坂八幡宮の僧が書いたものであり、佐伯文書は堅田経貞が書いたもので、著者も著述の目的も全くちがうから、表現の仕方には多少のちがいはあるのは当然で、内容は全く一致する。
 佐伯文書が第一級の歴史資料とすれば、伝承記の内容もきわめて精度の高い歴史資料といえよう。
 下村效氏の批判を合理的なものと認めつつも、「文徳院の五輪群」「沖の古城」などの史跡との整合性が見られることや『佐伯文書』との共通性などを根拠に、その史料的価値を高く評価している。

 結論として「伝承記の記述を手がかりに高吾北の遺跡を照合してみると、符合する部分が非常に多く、伝承記は高吾北の中世の姿を物語っているといえる。しかし口語文が随所に出てきたり、農民・皇軍・戦没者など中世に使われようはずのない単語が続出するなどは、あってはならないことである。……(中略)……こうした改竄された部分を含みながらも、伝承記は高吾北の中世を語る資料となり得ると思う。そのためには遺跡との照合を、更に深める必要があるだろう」としている。
 当ブログでも鯨坂八幡宮が安芸郡から勧請されたとする伝承記の信頼性を確認する記事「鯨坂八幡宮との関係ーー安芸郡の田野八幡宮」を書いたこともある。コピー機がなかった時代には古文書を手書きで書き写すしかないので、そこに写し手の判断が入り込めば後代の言葉が混ざることにもなる。史料としての価値は下がることになるが、書かれていることが全て嘘になるというものでもない。個々の史料批判を行った上で、どの部分が信頼できて、どの部分に誤りが多いのかなどを分析し判定していくべきだろう。



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 無教会主義の流れを汲む原始福音「キリストの幕屋」グループの人たちが「ウケヒ」という言葉を使っていたのを聞き、てっきり「受け火」の意味だと思い込んでいた。『旧約聖書』の「列王紀上」で預言者エリヤがバアルの預言者たちとカルメル山で対決するシーンをイメージしたからだった。
 次のような話である。

「列王紀上」第18章20〜39節

20 そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。
21 そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
22 エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。
23 われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
24 こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。
25 そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。
26 彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。
27 昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。
28 そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。
29 こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。
30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。
 『旧約聖書』は1300ページ以上もある。長くて読むのが大変だが、真ん中よりちょっと前あたりに「列王紀上」という書がある。その第18章からの引用である。
 エジプトの地で奴隷となっていたイスラエル民族はモーセに導かれて出エジプトを果たし、約束の地カナンへ入って定着した。しかし、在地の風習に染まり本来の信仰が揺らぎつつあった時に、預言者エリヤが現れ、イスラエルの民に対して、主なる神に立ち返るよう呼びかけた。その際に持ちかけた提案がこうであった。「火をもって答える神を神としましょう」。エリヤが主の前に祈ったときに、主の火が下って、献げられたものをすべて焼きつくした。民は見て、「主こそ、神である」と告白した。


 後から知ったのだが、「ウケヒ」とは日本神話にも登場し、『日本書紀』などにもいくつかの記述がある。ウケヒとは日本古代の卜占の一種なのである。『日本古典文学大系 日本書紀』(岩波書店)の頭注では次のように説明されている。
 ウケヒとは、あらかじめ甲乙二つの事態を予想し、甲という事態が起れば、神意はAにあり、乙という事態が起れば、神意はBにありと決めておき、甲が起るか乙が起るかを見て、神意の所在がAにあるかBにあるかを判断すること。(下巻三九四頁、頭注九)
 預言者エリヤが行なったことはまさにウケヒそのものである。互いに祭壇を築き、「火をもって答える神を神としましょう」と神意がどちらにあるかを尋ねたのだ。

 『上代散文 その表現の試み』(中川ゆかり著、2009年)によると、日本書紀の「ウケヒ」はそれが行われる際の状況や心理の違いによって、「誓」「呪」「祈」と書き分けられているという。三種の用法は次のとおり。
①「誓」は、自らの潔白を誓うという情況でのウケヒ
②「呪」は、AかBかいずれか知りたいというウケヒ
③「祈」は、Aであることを願うという情況のウケヒ
 このウケヒを表す3種の漢語のうち、「祈」だけは漢籍や漢訳仏典に例が見出せないという。「祈」が登場するのは巻三・六・九・二八で、日本書紀区分論のβ群、すなわち日本人が書いたとされる巻々である。
 エリヤが行なったウケヒは一見②「呪」のようでもあるが、③「祈」に最も近い。「主こそ、神である」ことを明らかにしたいと乞い願う情況だからである。間違ってもバアルの預言者に神意が下るなど、毛頭考えていなかったであろう。
 このように見てくると、ユダヤ・キリスト教の伝統にある「祈り」こそ、『日本書紀』に「祈(ウケヒ)」として取り入れられた概念ではないだろうか。その証拠にウケヒを表す3種の漢語のうち、「祈」だけは漢籍や漢訳仏典に例がない。中国・インドの文化圏の枠を超えているのだ。
 バアルの預言者たちの祭壇とエリヤが築いた祭壇とどちらが火を受けるか、その神意を問う。その行為こそが「受け火(ウケヒ)」であると思い込んだのは素人の直感であったが、『聖書』と『日本書紀』には少なからず接点があるようだ。また折りを見て紹介していきたい。


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 「α群・β群」という概念なしに最先端の『日本書紀』研究はできなくなってきた。かつて『古田史学会報140号』(2017年6月号)に「七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと」と題する国立天文台・谷川清隆氏の論考が掲載された。その中にも「森博達のα群・β群」として要約されていたが、当時はまだその意味するところがよく理解できずにいた。このほど『日本書紀成立の真実 書き換えの主導者は誰か』(森博達著、2011年)を読んでみて、その重要性が分かってきたので少し紹介しておきたい。

 言語学者・森博達氏は『日本書紀』全三十巻が、唐代の正格漢文で書かれた巻の集まりα群、倭習(日本語の発想に基づく漢字・漢文の誤用や奇用)に満ちた漢文で書かれた巻の集まりβ群と、どちらとも言えない持統紀の3つに分類できるとした。すなわち、巻一四~二一・二四~二七がα群、巻一~一三・二二~二三・二八~二九がβ群で、最後の巻三十はα群にもβ群にも属さないとした。
 分かりやすく喩えるならα群はネイティブ英語、β群は和製英語といった違いだろうか。安室奈美恵のヒット曲「Can you celebrate?」は作詞をした小室哲哉さんも認める和製英語。ネイティブはあまり使わない表現だという。同様にα群はネイティブ中国人(唐人)が書いた漢文で、β群は日本人が書いた和製漢文ならぬ倭習漢文というわけだ。
 森氏は注目する漢字や語句についての使用例を『日本書紀』中においてピックアップし、正しい漢文(正格漢文)の用法であるか、それとも倭習による誤用あるいは奇用であるかを分類し、中国人によって書かれた巻(α群)と日本人によって書かれた巻(β群)があると結論づけた。これは『三国志』中の「壹」と「䑓」を全数調査した古田史学の方法論と通じる学問的方法である。今や『日本書紀』研究において、このような統計的に導かれた傾向性を無視して、独自の理論を展開することは難しくなってきた。
 谷川清隆氏も森氏の研究の成果をベースとしながら、『日本書紀』中の天文記録の記事に注目した。その結果、α群の天文記事には観測に基づくものはなく、β群の天文記録は観測に基づくものと結論づけている。持統紀は特別で、1つは観測に基づくが、残りの日食記録6個はすべて予測であるとした。
 谷川氏はα群を地群の人々(唐側に味方した勢力)によるもの、β群を天群の人々(百済に味方し白村江の戦いを戦った勢力)と考察している。いわゆる、大和朝廷と九州王朝の新旧両勢力に対応するものと見なしているようだ。
 最先端の研究成果を踏まえつつ、『日本書紀』の史料批判を深めていくことで、701年(ONライン)を前後する政権交代の流れに研究のメスが入れられそうである。


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塾講師
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将棋、囲碁
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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