古代における最大の事件といえば、やはり「大化の改新」(645年)であろうか。小・中学生でもだいたい覚えている重要事項の一つである。覚え方はいろいろあるが、次のようなものはいかがだろうか。4項目を一文に盛り込んでみた。
大化の改新は虫殺しで なかなか いそがしい 645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏 大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。
問題は「改新の詔」其の二に登場する「郡」制度が7世紀末でもまだなく、「評」だったことが木簡で明らかになったことだ。坂本太郎と井上光貞との間で行われた、いわゆる「郡評論争」である。それゆえ「大化の改新」、特に「改新の詔」は虚構という説が一時期有力となっていた。 教科書でも「『日本書紀』が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる」としながらも、「藤原宮木簡などの7世紀代の木簡や金石文に各地の「評」の記載がみられる。また、地方豪族たちの申請により「評」(郡)を設けた経緯が、『常陸国風土記』などに記されている」との注記をしている。 『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。 21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。 PR |
南国市篠原の埋蔵文化財センターで、弥生時代の硯(方形板石硯)6点が期間限定で公開された。「百聞は一見に如かず」――本当に硯として使われたのか、直接見てみることにした。 第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。 従来は刃物を研ぐ砥石(といし)と考えられてきた出土物(石の破片)が、弥生時代の硯と再評価される事例が九州北部を中心に相次いでいる。砥石でなく硯と判断した根拠はどこにあるのだろうか。福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡 「下原遺跡」 で見つかった石の破片に関しては、次の3つの理由が示されている。 ①漢時代の硯と似た形――中国の漢の時代に使われていた古代の硯は現代の硯と違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代の硯と形がよく似ている。 ②黒い付着物――石の側面に黒い付着物が付いていた。これを表面から垂れた墨と見なした。 ③表面のくぼみ―― 刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカー ブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。
高知県内で弥生時代の方形板石硯が確認されたのは今回が初めてだ。とりわけ古津賀遺跡群(四万十市)出土の方形板石が最古と見られ、最多の4点が見つかったことから、「弥生時代の後期の初め頃(紀元前後)高知県の一部の地域で文字を理解していた人がいた可能性」について公式発表した。また、祈年遺跡と伏原遺跡から各一点見つかっており、「弥生時代後期末(3世紀後半)には高知県の中央部の2ヵ所の遺跡で方形板石が確認され、後期の初め頃よりも文字が浸透していた可能性」についても言及している。 『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」について、古田説では足摺岬付近としている。縄文時代においては、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心に石鏃(せきぞく)等の遺物が数多く出土していることから、その妥当性は高いであろう。けれども、弥生時代の遺跡の分布は四万十川流域に集中していることから、その時代における中心は四万十川流域に移っていると考えられる。 『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。 「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」 諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。 今回発見された弥生時代の硯(方形板石硯)は現在、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示中である。 |
「高知の弥生時代、文字使用? 県内3遺跡で『すずり』」
1年以上待ち続けていたニュースが飛び込んできた。福岡県に始まり、山陰・近畿など全国的に弥生時代の硯(すずり)が数多く見つかってきている。その大半は「砥石(といし)」を再鑑定して、実際は硯と判明したものだ。 高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。 鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。 古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。 高知県立埋蔵文化財センターと南国市教育委員会が、調査結果を発表したのは4月26日。その2日前、「発掘速報展 西野々遺跡」初日(24日)のギャラリートークの時点では、本物の砥石についての展示と解説はあったものの、硯の発見については、まだ極秘にされていたということか。 弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。 今後は文字の伝来や文字使用についても、これまでの教科書の記述を大きく改める必要性が出てきそうだ。そもそも建武中元二年(57年)に後漢の光武帝から賜った金印の印文「漢委奴國王」が読めていなかったとしたらナンセンスである。 今回確認された硯は、南国市篠原の埋蔵文化財センターで4月28日~5月8日(土曜休館)、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示される。本当の意味での「速報展」になりそうだ。 |
よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。
ここに登場する安芸家とは、戦国時代に長宗我部元親と覇権を争って敗れた安芸国虎の家系(“ 橘系安芸氏と蘇我氏との関係”参照)である。居城とした安芸城は、今注目されている瓜尻遺跡の東方にある。蘇我氏を先祖とする安芸氏に関する伝承があることは知っていたが、これまであえて触れることはしなかった。家系図や伝承といった類は史料としては信頼度が低く、それを論証の中心に据えることは危険なのである。 だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。 蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。 屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。 蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。 |
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昨年(2020年)、『東洋町の神社と祭り』(東洋町資料集・第7集)で原田英祐氏が第41回平尾学術奨励賞を受賞した。東洋町神社の由来や資料集・年中行事・歴史文化を刊行・文化財保護に力を注いだことなどが評価されものだ。原田氏は高知県安芸郡東洋町野根の郷土史家。1977年、31歳のころから野根史談会の一員として活動。半世紀近く高知県東部の歴史文化を丹念に掘り起こしてきた。「郷土史の火種になる知識を残そう」と、資料集の発行を進め、現在までにすでに7集を発行している。 第6集『土佐日記・歴史と地理探訪』については興味深く読ませていただき、資料としても大変参考になるものであった。「土佐日記は過去の教科書や参考書を読んでも、さほど面白くない。これを郷土史の立場で深読みをすると、断然面白い」と著者・原田氏は言う。 「紀貫之は名家・紀氏の復活を目指したが、天皇・上皇の交代で新派閥から外れ、遠国土佐へ左遷された。国司の任を終えて帰京したが、貫之には冷淡な官界となり、帰り着いたわが家はボロボロに荒れ果てていた。このようなストレスを発散するため、帰京して半年後に『土佐日記』を書いた。日記文の中からストレス発散部分を探り当てる人は読みの達人である」とも。 『土佐日記』の原文とともに縁の地名の写真や、関係する資料も掲載されており、さまざまな角度から読み解かれていて、『土佐日記』の新たな一面が楽しめる。 そして、待望の第7集『東洋町の神社と祭り』ーー遅まきながら、やっとを手に取ってみて驚いた。知りたかった情報が満載である。まず、東洋町における高良神社の情報が網羅されている。その他、神社研究には欠かせない史料・文献など、よく収集されている。 『南路志』『皆山集』に代表されるように、土佐の歴史家は伝統的に史料収集に徹して、私見を交えず、後世の歴史家にバトンを託してきた偉人たちが多い。その伝統に違わず、原田氏の取り組みは現代の武藤致和・松野尾章行に喩えられる業績であり、平尾賞受賞は妥当であり、むしろ遅すぎたくらいかもしれない。 高知新聞(2020年5月29日)に「平尾学術賞を受賞して」と題して、原田英祐氏のコメントが掲載されている。もう少し早く紹介したいと思いつつ、年を越してしまった。その一部を引用しつつ、氏の研究の発展を祈りたい。 718年の南海道の新官道開設は、高知では野根山街道しか研究されていない。徳島では鳴門の撫養(むや)港から「中みなと」「奥みなと」という南部海岸の水駅(港)の研究しかない。徳島南部の海路と高知東部の陸路をドッキングさせるのが、私の役目だろうか。……まだまだ道は遠い。全てをまとめ終わるまでに、果たして寿命が足りるだろうか。 原田氏の運営する東洋町の歴史のHPhttps://toyotown-historic-spots.blogspot.com/p/blog-page_5.html |
日本史上最大のクーデターともいわれる「本能寺の変」(1582年)を起こした明智光秀を通して描かれたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が、いよいよ最終回を迎えた。 なぜ、明智光秀は謀反を起こしてまで、主君・織田信長を討とうとしたのか。背後の動機などをドラマでどのように描くか注目していたところだったが、従来説+鞆幕府説を背景としながら、明智光秀には「この戦はしょせん、己ひとりの戦」と語らせた。近年注目されるようになった四国説は、あくまでも付け足しといった描かれ方であった。
高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には、次のように書かれている。
新たに浮上した四国説というのは、長宗我部元親と関係の深い光秀が、信長の四国征伐を回避するために信長を討ったというものである。美濃国守護土岐氏の一派とされる石谷孫三郎光政の娘が長宗我部元親の長男・信親と結婚。斎藤利三とも姻戚関係にあり、明智光秀もまた土岐源氏の流れをくむと考えられている。 当初、長宗我部元親と信長は友好関係にあり、「四国は切り取り次第、所領として良い」と認められていたものが、三好氏を巡る処遇の変化によって方針は撤回され、阿波の占領地を上表(返還)するよう迫られたのである。元親はこれを不服としたため、信長の四国征伐が始まったとされる。光秀は元親および親戚縁者を助けるためにやむを得ず、「本能寺の変」を起こすようになったというのだ。 斎藤利三については「謀反第一」、すなわち本能寺の変の首謀者と公家の日記に記録されている。その娘が春日の局であり、三代将軍・徳川家光の乳母にあたる。 『麒麟がくる』では、明智光秀が堺にいた徳川家康への手紙を、岡村隆史演じる菊丸に託す。光秀は「200年、300年も穏やかな世が続くまつりごとを行のうてみたいのじゃ」と麒麟がくる世の中を思い描きつつ、それが叶わぬ時には家康殿に託したい旨を伝える。 1603年、ヒーローおっさん徳川家康結果的には、265年続く江戸時代をもって“麒麟が来た”平和な世の中と視聴者に連想させた最終回であった。謀反人の娘であった春日の局のみならず、長宗我部元親の客人であった蜷川道標(旧室町幕府政所代)をも、家康は召し抱えている。明智光秀の志は家康へと引き継がれていったと見るべきだろうか。 |
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民俗学者の谷川健一氏は『白鳥伝説』(1986年)のなかで、『東日流外三郡誌』について次のように述べている。 「アラハバキの神が注目されるようになったのは、『東日流外三郡誌』という奇怪な書物が青森県北津軽郡の『市浦村史資料編』として戦後出版されて以来のことである。その書には荒吐族が登場して活躍する。 いかなるところからこのアラハバキをもち出してきたかは不審な点である。それには興味がなくもない。しかしながら『東日流外三郡誌』は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。」 このように、谷川氏は『東日流外三郡誌』偽書説の立場に立ち、『学問のすすめ』(1872年)の著者でもある福沢諭吉との関係についても言及している。 「また『東日流外三郡誌』次の文章がある。 『依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし……』 唖然とするのはどっちだろうか。民族学者・谷川健一ともあろう人が、『学問のすすめ』→『東日流外三郡誌』の影響関係を決めつけ、その逆は全く考えなかったのだろうか。元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」 確かに、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」は有名になった。それを『東日流外三郡誌』がまねて書いたとすれば、後世の偽書と見なされても仕方がない。 しかし、これを否定する根拠は十分にある。 ①『学問のすすめ』では「〜と云へり」と引用表記をしていること。 ②福沢諭吉は平等思想の持ち主ではないこと。 ③『東日流外三郡誌』の寛政原本が発見されたこと。 ②については、大学の部落解放教育という授業の中で「賀川豊彦と福沢諭吉は差別論者であった」との説を聞かされたことがある。賀川豊彦を差別論者と批判する時点で、「木を見て森を見ず」ーー揚げ足取りも甚だしいところだが、教職免許取得には必要な科目だったので、受講せざるを得なかった。 ただ、福沢諭吉のエピソードとして自分の母親が貧しい人々に良くしてあげていたことに対して、あまり快く思っていなかったという話は、「脱亜入欧」を主張した諭吉本来の思想に合致しているように感じて、妙に納得するものがあった。その福沢がなぜ突然「天は人の上に人を造らず〜」と語り出したのか。 『学問のすすめ』が300万部を超えるベストセラーになったのも、実は『東日流外三郡誌』の底流に貫かれた万民平等の思想を背景としていたからこそだったわけだ。 そして『東日流外三郡誌』寛政原本の発見によって一連の事実は立証されたと言えるだろう。「天は人の上に人を造らず〜」の思想は福沢諭吉の『学問のすすめ』に先行して、『東日流外三郡誌』の底流に流れており、随所に書き綴られていたのである。 『東日流外三郡誌』の思想は江戸時代以前においては表に出すことのはばかられるものだった。福沢諭吉はその崇高な精神を世に知らしめるために筆をとった。それが『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」だったわけである。彼こそ『東日流外三郡誌』の精神に魅了され感化を受けた一人だったのかも知れない。 |
令和2年度教科書展示会を見に行ってきた。 教科書展示会は、昭和23年の検定教科書制度の実施に伴い、教科書の適正な採択に資するため、教科書発行法により設けられた制度。令和2年度は、6月12日から7月31日までの任意の14日間を中心として、全国で開催されている。 会場に行ってみると、案内の掲示等もなく、部屋には電気もついていない。すぐに職員が出てきて、簡単に案内してくれた。 開口一番、「社会の教科書ですか?」と聞かれた。どうして分かったのだろう。「そう、歴史の教科書です」と答えておいた。他教科については記述がどうのこうのといった問題点を指摘されることはほとんどないのだろう。いつも話題になるのは歴史教科書である。 当ブログのタイトルにもなっている『もう一つの歴史教科書問題』について言及しておかなければなるまい。従来の歴史教科書問題と言えば、「自虐史観」か「自由主義史観」かといった論点であった。これに対して『もう一つの歴史教科書問題』と銘打ったのは、「一元史観」か「多元史観」かという視点を導入したかったからである。 中学校『社会(歴史的分野)』の教科書については、7つの出版社の見本が並べられていた。東京書籍 ・教育出版 ・帝国書院 ・山川出版 ・日本文教出版 ・育鵬社 ・学び舎である。 あまり期待してはいなかったが、やはり全ての教科書で「邪馬台国」という表記。『魏志倭人伝』の原文通りなら「邪馬壹国」でなければならない。原文改定がまかり通っているのだ。 そして、もう一点「聖徳太子」がどうなっているかが気になっていた。一時期、「聖徳太子が教科書から消える」と騒がれていたからだ。ところが、どうしたことか6つの教科書までがそろって「聖徳太子(厩戸皇子)」という表記であった。そんな中で唯一、異なる表現をしていたのが学び舎の教科書『ともに学ぶ人間の歴史』である。「厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)」との書き方は最先端の歴史研究の成果を取り入れた好感が持てるものであった。
古田武彦主要著作 |
『日本書紀』の各巻には、①正格漢文で書かれたα群(巻14~21、24~27)、②倭習漢文で書かれたβ群(巻1~13、22~23、28~29)、③それ以外(巻30)があることが最近の研究で分かってきている。とりあえず、巻ごとに[α][β]を付けてみた。 『日本書紀』αβリスト[β] 巻01/神代上[β] 巻02/神代下 [β] 巻03/神武天皇(50年ごろか) [β] 巻04/綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇 [β] 巻05/崇神天皇(210年ごろか) [β] 巻06/垂仁天皇(250年ごろか) [β] 巻07/景行天皇(300年ごろか)、成務天皇 [β] 巻08/仲哀天皇 [β] 巻09/神功皇后(350年ごろか) [β] 巻10/応神天皇(400年ごろか) [β] 巻11/仁徳天皇(420年ごろか) [β] 巻12/履中、反正天皇 [β] 巻13/允恭、安康天皇 [α] 巻14/雄略天皇(480年ごろか) [α] 巻15/清寧、顕宗、仁賢天皇 [α] 巻16/武烈天皇(500年ごろか) [α] 巻17/継体天皇(507-531年) [α] 巻18/安閑(531-535年)、宣化天皇(535-539年) [α] 巻19/欽明天皇(539-571年) [α] 巻20/敏達天皇(572-585年) [α] 巻21/用明(585-587年)、崇峻天皇(587-592年) [β] 巻22/推古天皇(592-628年) [β] 巻23/舒明天皇(629-641年) [α] 巻24/皇極天皇(642-645年) [α] 巻25/孝徳天皇(645-654年) [α] 巻26/斉明天皇(655-661年) [α] 巻27/天智天皇(661-671年) [β] 巻28/天武天皇(673-686年) [β] 巻29/同上 他 巻30/持統天皇(686-697年) ▲タイトルや各天皇の即位年代は、「日本書紀、全文検索」のサイトを参照しており、「継体天皇以降は通常のものですが、それ以前については、イメージをつかむために便宜的に設定したものに過ぎません(根拠なし)」とのこと。 様々な検索結果等をグラフにしてみることは大変有益であるが、今後αβ付きのデータにしてもらえると、より参考になるのではないかと感じる。α群とβ群では作者が違うとされているので、最先端の『日本書紀』研究において、α群・β群の差異を考慮しないのは片手落ちになる可能性大だ。 例えば、『肥さんの夢ブログ』で紹介された「蝦夷」検索結果にαβを付けてみたら、次のような感じになる。α群・β群で大きく違いが出るのか、あるいはほとんど影響が見られないのか。 「蝦夷」検索結果β 神武 β 綏靖 β 安寧 β 懿徳 β 孝昭 β 孝安 β 孝霊 β 孝元 β 開化 β 崇神 β 垂仁 β 景行・成務 ●●●●●●●●●● ●●●● 14 β 仲哀 0 β 神功 0 β 応神 ●● 2 β 仁徳 ●●●● 4 β 履中・反正 0 β 允恭・安康 0 α 雄略 ●●● 3 α 清寧・顕宗・仁賢 0 α 武烈 0 α 継体 ●●● 3 α 安康・宣化 ● 1 α 欽明 ● 1 α 敏達 ●●● 3 α 用明 ● 1 α 崇峻 0 β 推古 0 β 舒明 ●●●●●● 6 α 皇極 ●●●●●●●●●● ● 11 α 孝徳 ●●● 3 α 斉明 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●● 32 α 天智 ●● 2 β 天武 ●● 2 他 持統 ●●●●●●●● 8 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「蝦夷」という言葉はα群に60件、β群に28件、その他8件であった。このようなデータを集めることで、α群・β群の史料としての特徴が浮かび上がってくるのではないだろうか。 とりわけ、α群ーー地群の人々(大和朝廷)によるもの、β群ーー天群の人々(九州王朝)によるものとする谷川清隆氏の仮説が成立するのか、どうなのか。検証を深めていく必要がありそうだ。 |