今回の調査の最終目的は何と言っても高知県最東端の高良神社である安芸郡東洋町河内662-1の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社にあった。八幡宮から東へ50メートルほどの場所に向かい合うように高良神社が鎮座する。
当初はそれほど重要視していなかったが、実見して分かることもあった。甲浦港は室戸岬の東側にあって重要な港である。台風が多い地方において深く入り込んだ湾が風避けの港として適している。
高良神社が鎮座する場所に関して、大きく2つのグループに分けられるように思う。1つは九州王朝の水軍が拠点とした河口津など、大きい川や港に近接する地域(海彦型)。特に古墳地帯と重なっていれば歴史の古さが裏付けられ、倭の五王が勢力を拡大していった際の足跡を反映するのではないかと思われる。
もう1つは内陸の山間部に鎮座する高良神社群(山彦型)である。はじめは例外的なものかと思っていたら、長野県にも見られるように、数的にも多いことが判明してきた。こちらは「神稲(くましね)」「神代(くましろ)」などの地名との関連が指摘される(淡路国三原郡神稲郷、現在の兵庫県南あわじ市の高良神社など)。
さて、日没も近づいてきたので帰途に向かおうとしたが、ふと引き返して、洗車中の男性に質問してみた。
「お取り込み中のところすいません。高良神社のお祭りなどは行われていますか?」
「今月(9月)の29、30日がそうです。29日が宵宮ですから、聞きたいことがあったら八幡宮の小野宮司さんに聞かれたらいいですよ。なんでも高良神社の神様は八幡の神様より格が上だと聞いています」
「そうなんですか!」
驚いたように相づちを打ったが、内心では「我が意を得たり」という心境である。聞くところによると、高良神社の祭神は八幡神の叔母に当たるそうなのだ。これはどういうことだろう。誰のこと指しているのか。もちろん、古い史料など残っていないだろうから、人間的な解釈や判断による部分もあることを想定して考えなければならない。
(後編に続く)
野根八幡宮の脇宮として高良玉垂神社が存在しているという情報は以前から掴んでいて、リストにも加えていた。東洋町ホームページに以下のように紹介させている。
1 野根八幡宮の概説
高知県安芸郡東洋町野根小字中ノ坂に鎮座する野根八幡宮は、九州宇佐八幡宮の分社で祭神は応神天皇。鎌倉時代、野根宗惟氏の創建と伝承され、昔は八幡宮付近は野根川の川尻だったと言われています。古い棟礼記録には、室町時代・長享2年(1488)に若狭了泉、長亮3年(1489)に推宗兵庫亮長親、永禄9年(1566)に地頭惟宗右衛門助国長。江戸時代初期の慶長6年(1601)に富永頼母(甲浦・野根・佐喜浜代官)まどがあります。
ついに現地にやって来た。ホームページの記載によると野根八幡宮は九州宇佐八幡宮の分社であり、右に若宮神社、左に高良玉垂神社が祀られているのは、先に調査した羽根八幡宮(もと石清水八幡)とよく似ている。にも関わらず、勧請先が異なるのはやや疑問が残る。
境内に足を踏み入れてまず目にしたのは皇太神宮鳥居が残念なことになっていたことだ。つい最近のことだろうか。過去の写真では折れていない状態で撮影されている。本殿右横の脇宮が若宮神社、そして左の脇宮が高良玉垂神社のはずであるが……。
何ということだろうか。土台と屋根だけが残された状態で、見るも無惨な姿であった。なぜこんなことになったのか? そういえば先日の台風21号、高知市をそれて東側を通過してくれたので、ほとんど被害もなく助かったと思った。ところが室戸を直撃したため、室戸市や安芸郡近辺では甚大な被害が出たようだ。
とかく人間は、自分及び自分の身の回りのことしか考えられないエゴイスティックな存在なのかも知れない。現地の惨状を見聞して、改めて隣人への思いやりの欠如を恥じ入った。一日も早い復旧を願うばかりである。
当初は野根山街道越え(国道493号線)で甲浦行きを計画し、途中まで行ったものの、土砂崩れで通行止め。国道55号線に引き返すことになった。秋分の日も過ぎて日の入りも早くなってきた。どこまで行けるか分からないが、行けるところまで行ってみよう。
室戸岬へ向かう海岸通り。室戸市羽根町乙戎町1318の羽根八幡宮(祭神:神功皇后、誉田別尊、玉依姫尊)に到着した。もと石清水八幡と称したが、明治元年3月の達しにより改称。県東部には石清水八幡系(京都府)の八幡宮が多いのは確かだが、宇佐八幡宮(大分県)から勧請された八幡宮も混在している。
羽根八幡宮も旧郷社で、多くの境内社が存在する。本殿の右手には稲荷神社(祭神:宇賀能魂神)と若宮八幡宮(祭神:大鷦鷯天皇)、左手にも境内社が二社ある。その右側、本殿寄りの境内社が高良玉垂神社であることが判明した。祭神は高良玉垂命とし、「武内宿禰命、武内大臣とも云」と補足説明を加えている。
しかし、京都の石清水八幡宮では本殿内に武内宿禰命を祀り、高良神社は麓(ふもと)の摂社として存在するので、「高良玉垂命=武内宿禰命」説を否定している。高良明神と武内大臣を並列して描いた七社御影もこの二神が別神であることを裏付ける。
いくらか予想はつけていたものの、新たな高良玉垂神社の発見は、高知県の高良神社分布図を塗り変えることになりそうだ。
実はこの田野八幡宮については以前のブログ記事で一度触れたことがある。佐川町の鯨坂八幡宮に関する記事である。「乃木坂46」「欅坂46」など、今では人気のネーミングであるが、どうして海のない佐川町の山の中に鯨坂なのか? それはかつて鯨漁が盛んであった安芸郡から勧請されたからだ。
『土佐太平記』(明神健太郎著)による鯨坂八幡宮の祭神と田野八幡宮の祭神形態がほぼ一致する。そして何より、田野八幡宮一の鳥居から歩いてすぐ南は土佐湾。太平洋に面しているのである。地図上でも調べることはできるが、現地に来てみなければ、この実感は得られない。
もしかしたら田野八幡宮はかつて鯨坂八幡宮と呼ばれ、ここから佐川町の鯨坂八幡宮が勧請されたのかも知れない……。妄想は海原のごとく広がっていく。
そんな場所があるのか? 県東部の安芸郡ーーここには未知の高良神社がまだまだ存在する。そうにらんだのは、いくつかの根拠があった。
高良神社探しのポイントとしては、旧郷社格の八幡宮の境内社をチェックするのが可能性が高い。これは明治初年の神社整理や明治時代末の神社合祀の政策などによって、小さな高良神社は近隣の大きな八幡宮の境内社となっていることがよくあるからだ。
安芸市西浜3488の西八幡宮(祭神:胎中天皇、合祭:底筒男命・中筒男命・表筒男命・天之児屋根命)、安芸郡安田町安田2170の安田八幡宮(祭神:足伴津命、神功皇后、応神天皇)など、目ぼしいところを見て回った。境内社はあったが高良神社は見つからない。もしかしたら祀られているかも知れないが、摂社名や祭神名が書かれていないものもある。
次に向かったのは安芸郡田野町淌涛(しょうとう)2851の田野八幡宮。ここは旧郷社であり、地域の総鎮守で最も可能性が高いと見ていた。参道の陸橋を渡って行くと、境内には黒づくめの男たちが……。場違いなところに来てしまったとの思いも浮かんだが、神様がこの場に引き合わせたのかもしれない。
この日(9/24)は安芸郡及び安芸市等の郡市祭で、各地区から氏子代表と思われる地元の名士の方々、神職一同が集まって、重要な祭事を奉祀されているところだったのだ。
祭事が一段落して、皆が直会(なおらい、共飲共食儀礼)へ向かう前に高良神社のことを伺った。摂社として祭られていると思い込んでいたら、宮司さんの返答は意外なものだった。「高良玉垂命のことですね。八幡宮の御祭神としてお祀りされています」とのこと。史料は残っていないそうで、それ以上のことは聞けなかった。お忙しいところを引き止めて申し訳なかったが、この証言だけでも感謝である。摂社扱いではなく、八幡宮の祭神として崇敬されていたことが分かったのだ。
(後編へ続く)
東の端(徳島市)と西の端(山城町)、この分布はややいびつだなと感じていたところ、空白地帯であった徳島県中央部にも高良神社が存在していたことに気づいた。かつて香川県立図書館でメモしてきたリストの中に「美馬郡脇町 高良大明神 神主 上野村 二宮出羽守」(阿波国神社御改帳)とある。
先日、天都賀佐彦神社の調査でお世話になった美馬市ではないか。現在、脇人神社(祭神:脇人大名神、美馬市脇町大字脇町)の左境内に鎮座する高良神社がおそらく当該社であろう。徳島地方裁判所の西500m程の辺り、脇町の住宅街に鎮座する脇人神社は「脇人はん」とも呼ばれ、『阿波志』によると稲田植元(たねもと)が脇城丸の内に武田信頼・信定父子を祀るため、慶長年間に開いた神社である。
境内由緒書きによると、「明治8年(1875⦆カドノハラから高良神社が合祀し、社殿西に小社として祭られている」とのこと。
大河ドラマ『西郷どん』で注目される明治維新は、イギリスの名誉革命(1688年)にも並び評価される。その一方で、神仏分離や神社名変更、一元的な祭神の統一など、行き過ぎた改革もあった。その明治維新の際に神社整理された一つが美馬市の高良神社であった。かつての鎮座地や由緒など、情報が残されていれば、調べてみたいところである。
土佐国府(南国市比江)に達する公式ルートは、はじめ讃岐から伊予国府を経由した。おそらく周敷郡付近から南下して石鎚山脈を越え、仁淀川の支流を下るという、現在の国道一九四号線に近いルートをとり、仁淀川下流付近で東行し、土佐国府に至ったものであろう。しかし、このルートは、遠まわりの上に相当険難であったらしく、七一八年(養老二)五月、那珂川沿いにさかのぼり、四ッ足堂峠を経て物部川沿いに下る阿波国経由のルート(現在の土佐中街道)に切りかえられた(『続日本紀』)。しかし、このルートも、結局問題が多かったとみえて、七九六年(延暦一五)に至って、讃岐—伊予間の川之江市付近(旧宇摩郡)から南下し、水無峠を経て立川川沿いに下るように、再び切りかえられた。
国道一九四号線といえば寒風山トンネルを抜けるルートで、現在は道も良くなっており、西条市に行くには最短コースかもしれない。近くの山中に「越裏門(えりもん)」という地名があり、まさに土佐国の裏門を象徴しているようでもある。
また、四ッ足堂峠ルートを採用しているところを見ると初期の頃の説であり、西は中村経由、東は野根山ルートをとる近年の説(足利健亮説など)とでは、かなり異なっている。
しかし、完全に結論が出たわけでもないので、従来説として尊重しておこう。官道でなかったとしても、古くから利用されていた道のようであり、直短距離をつないでいる利点は感じられる。
『長宗我部地検帳』に登場する「大道」というホノギ(小字のようなもの)を追っていけば、もしかしたら、古代官道が浮かび上がってくるのではないか? そんな淡い期待を抱いていたところ、すでに先人達によって検証された事例があった。春野町(現在は高知市に合併)については、『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)の中にホノギ「大道」をもとに大道の推定がなされている。図のように東西にほぼ一本の点の束になっているが、南北方向に枝分かれした道も見られる。朝倉慶景氏はこの春野町を通る南ルート(高知市からやや南下して春野町―土佐市―須崎市へとつながる海岸よりのコース)を古代官道と推定している。
また、佐川町における「大道」に関するホノギを拾って中世における道路の推定復元図(『佐川町史 上巻』佐川町史編纂委員会、昭和57年)が作られているが、それを見ると一本ではなく複数の枝分かれした道路網である。木下良氏の著書に見られる古代南海道の図では、この佐川町を経る北ルート(JR土讃線が通っているコース)が採用されている。この二つのルートは二者択一的で、春野町と佐川町の両方を通っている可能性はかなり低いといえよう。とすれば、『長宗我部地検帳』に見えるホノギ「大道」は、仮に古代官道と重なっている部分があるとしても、全く関係のない道にも対応している地名だと結論づけられるのではないだろうか。
地域差はあるにしても他の市町村にも「大道」というホノギは広く見られ、「道」(多数)や「小道」(大道よりは少ない)も存在する。中には「タイトウシリ」(~シリは跡の意)、「コタイシキ道」など、古代官道を連想させるようなホノギも見受けられる。県全体をくまなく調べていけば何らかの傾向が見えてくるかもしれないが、一足飛びに古代官道までさかのぼるというわけにはいかないようである。
ところが最近、この言葉の真意が明らかになってきた。「『日本書紀』に書いてあるから史実である」といった誤った実証主義に対するアンチテーゼだったのである。
「教科書に書いてあるから正しい」という理屈はセンター試験の正誤問題をはじめ、多くのテストにおいて基準になる。教育の現場において教科書を尊重する姿勢は大切である。その一方で、例えば「対頂角は等しい」という命題は教科書に書いてあるから正しいのではなく、証明によって示すことができるから正しいというのが本質であり、学問的である。もちろん、毎回証明していては煩雑であり、学問の発展にもブレーキとなる。多くの専門家が監修し、長年蓄積してきた叡智の結実として信頼性の高い教科書だからこそ、そこに書いてあることは正しいと言うことは差し支えないのである。厳密に言うと、それぞれの学年、教育段階に合わせた方便が用いられていることはやむを得ないことであろう。
一方、『古事記』や『日本書紀』は教科書たり得るだろうか? 資料批判することによって書かれた背景や思想性、信頼度などを十分に検証する必要がある。それらを抜きにして「そこに書かれているから正しい」といった態度は真の実証主義とは言い難い。誰もが納得し得る根拠を示す必要があるのだ。やはり「学問は実証より論証を重んじる」のである。
平城京をはじめとする都城や寺院、道路など、古代の土木建造物には、真北や真東西に方位を合わせたものが少なくありません。工事にあたって測量がおこなわれたことは確実です。では、具体的には、どのような方法で方位を測ったのでしょうか。
いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。ですから、方位の測定では、まず東西線を決め、そこから直角に振り出すことで南北線を定めたと考えられます。そのさいに、各辺の長さが3:4:5の直角三角形(勾股弦こうこげんの法として広く知られていました)を利用したことは確実です。7世紀の奈良盆地には、横大路よこおおじという東西道路と、上ツ道かみつみち・中ツ道なかつみち・下ツ道しもつみちという等間隔の南北道路が存在していました。最初に横大路が設定され、3本の南北道路はそれと直交するようにつくられたものと思われます。
平城京は、このうちの下ツ道を基準に設計されていますから、造営時にあらためて方位を測定したわけではありませんが、その精度は古代の測量技術がかなりの水準に達していたことを物語っています。 (2013年6月のブログより)棒の影の長さが円の半径に等しくなる時刻が、午前と午後で一回ずつある。その方角は太陽が南中する真南の方角から対称なので、かなり正確に東西方向を決めることができそうである。その線に垂直な方向を南北線と決めるというわけだ。
しかし、問題は敢えて真北より東へ5度(東偏5度)ずらした方角で建てられた建造物群が存在するということだ。果たして、どのような意図があったのだろうか? 県内の古代建造物についても検証してみたいところである。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。