香美郡香我美町の小字図に「コウラ」地名が見つかった。おそらく高良神社の宮床跡ではあるまいか。かつて太平洋岸の赤岡町でとれた塩を物部の奥地に運んだ「塩の道」はこの近くを通っていた。川の対岸に宗我神社があり、高知市鏡梅ノ木の「コウラ」が八坂神社の対岸であったことと類似する。またどちらも「かがみ」地名であることも何か意味があるのだろうか? 場所も特定できることから、貴重なデータである。また、すぐ側の「サバイ」も神社関連地名と見られるが、現在は民家や畑地となっている。また、ここの西方に兎田八幡宮(長さ23.4cm、幅4cmで根元刳込部と対面の関部にシカ、サギ、カエル、カマキリの4種7体が半肉彫りで描かれている弥生時代の絵画銅剣が伝来)、北方に「ミヤケ」という小字が存在することも注目である。
上記以外に、宿毛市山奈町山田の「宮のコウラ」、高岡郡越知町横畠北(旧・片岡郷深瀬ノ村)の「コウラ」、吾川郡いの町枝川の「コウラ」などが存在することから、今回の発見で、もしかしたら土佐7郡全域にコウラ地名が存在する可能性が見えてきた。しかも交通の要所であったり、各地方の中心領域であったりするように思える。
さらにデータを集め、場所を特定するなど、それぞれについて検証を深めていく必要がありそうだ。
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ダラダラと安芸郡のことばかり書いて、飽き飽きされているかもしれない。この辺りで「2018年秋の安芸郡調査」の総括をしておきたい。
高知県東部の安芸地方で、高良神社及び高良玉垂命に関連している神社は、現在確認しているところ次の7社。
①芸西町和食の宇佐八幡宮境内社・高良神社
②安田町安田の安田八幡宮境内摂社・若宮神社
③安田町東島の城八幡宮
④田野町淌涛の田野八幡宮
⑤室戸市羽根町の羽根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑥東洋町野根の野根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑦東洋町河内の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社
まず、これだけの数と密集度は高良神社分布図を大きく塗り替えることになるだろう。⑤以外は安芸郡であるが、室戸市も旧安芸郡として含めることにした。しかし、旧安芸郡の中心部とも言うべき安芸市内には、未だ高良神社は見つかっていない。また、安芸平野に延喜式内社が存在しないことも謎だと広谷喜十郎氏が指摘している。
個々に見ていくと、境内社としては①⑤⑥で、いずれも参拝者側から見て本殿の左手脇宮のような位置付けである。そのうち⑤⑥は右手脇宮として若宮神社がある。③④は八幡宮の祭神「応神天皇・神功皇后・高良玉垂命」の三柱として祀られている。大分県の宇佐神宮における比売大神が高良玉垂命に置き替わった形態である。福岡県で見られる「応神天皇・神功皇后・武内宿祢命」の祭神形態は「高良玉垂命→武内宿祢命」の置き替えとも考えられ、高知県安芸郡には置き替え前の原初的形態が残されている可能性がある。
②は祭神が「仁徳天皇・気長帯姫命(神功皇后)・高良玉垂命」となっている点が注目される。特に高知県では仁徳天皇を祀る若宮神社が少ない中で、高良玉垂命を共に祀る形態は、若宮神社としては珍しく貴重な例かもしれない。
⑦については境外摂社であるが、八幡宮のお祭りとは別に、高良神社としてのお祭りも行われており、高良玉垂命を応神天皇の叔母に当たる人物(與止比売のことか)に比定し、八幡神より格上の神様と位置付けている。この與止比売については邪馬壹国の女王・卑弥呼の宗女「壹與」とする説が有力であり、倭国・九州王朝との関係性が見い出された「2018年秋の安芸郡調査」であった。
「宮ノ原」というと神社関連地名のように見えるが、神社があるからといって、どこにでもこの地名があるわけではない。古来より文教の地とされた高岡郡佐川町庄田の宮ノ原以外に、高知県では香南市夜須町の宮ノ原があり、かつては土佐市戸波(へわ)に本村宮原があった。
香南市夜須町については『長宗我部地検帳 香美郡 上』(P27)の夜須庄地検帳・宮ノ原に「宮ノ原 弐十代 出三十弐代壱歩 下畠 惣佾給」と書かれている。「佾(いち)」というのは巫女さんのような人であり、必ずしも女性とは限らない。「惣佾」とあるから「佾」をまとめるリーダー格の人物であろうか。
以前は香美郡夜須村といい、西山宮ノ原には猿田彦神社、伊勢が岡神社(明神様)が鎮座する。この惣佾はどちらかの神社、あるいは西山八幡宮(現・夜須大宮八幡宮)に関係する人物と見られる。
『和名類聚抄』にも香美郡安須郷が見え、条里制地割も行われていた。『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に石清水八幡宮宝塔院の荘園となり夜須庄となる。その中心部に鎮座する夜須大宮八幡宮には、その由緒を刻んだ百手碑が立つ。祭神は応神天皇であるが境内社として武内神社を祀る。碑文にも「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。
ところが、通常は長寿の神として祀られ、臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)が、「武内宿祢王」として武内神社に祀られているのはどうしたことか。
『国史大辞典』 (吉川弘文館)によると、高良大社の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる(古賀寿 「高良大社」)ようになったという。
荘園の鎮めとして永承5年(1050)に勧請された夜須大宮八幡宮は、はじめは千切に仮休座し、出口、西山中村と社地を転じ、最後に現在地(西山馬場崎)に遷座した。「宮ノ原」に近いこの場所には、古くは九州との関係が深い寺社があったのかもしれない。
香南市夜須町については『長宗我部地検帳 香美郡 上』(P27)の夜須庄地検帳・宮ノ原に「宮ノ原 弐十代 出三十弐代壱歩 下畠 惣佾給」と書かれている。「佾(いち)」というのは巫女さんのような人であり、必ずしも女性とは限らない。「惣佾」とあるから「佾」をまとめるリーダー格の人物であろうか。
以前は香美郡夜須村といい、西山宮ノ原には猿田彦神社、伊勢が岡神社(明神様)が鎮座する。この惣佾はどちらかの神社、あるいは西山八幡宮(現・夜須大宮八幡宮)に関係する人物と見られる。
『和名類聚抄』にも香美郡安須郷が見え、条里制地割も行われていた。『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に石清水八幡宮宝塔院の荘園となり夜須庄となる。その中心部に鎮座する夜須大宮八幡宮には、その由緒を刻んだ百手碑が立つ。祭神は応神天皇であるが境内社として武内神社を祀る。碑文にも「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。
ところが、通常は長寿の神として祀られ、臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)が、「武内宿祢王」として武内神社に祀られているのはどうしたことか。
『国史大辞典』 (吉川弘文館)によると、高良大社の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる(古賀寿 「高良大社」)ようになったという。
荘園の鎮めとして永承5年(1050)に勧請された夜須大宮八幡宮は、はじめは千切に仮休座し、出口、西山中村と社地を転じ、最後に現在地(西山馬場崎)に遷座した。「宮ノ原」に近いこの場所には、古くは九州との関係が深い寺社があったのかもしれない。
福岡県で橘氏の末裔とされる宮原氏と出会って、1年近く。やっと橘氏のルーツ探しに足を踏み入れることになった。『土佐史談231号』(土佐史談会、2006年3月)に朝倉慶景氏の「橘系安芸氏と安芸地域について」と題する論考が掲載されている。
まず吉田萬作氏の「橘姓は本家のみに称せられ、分家である畑山氏(後に安芸姓に改む)系統は蘇我姓が継承され、かつ本家橘姓呼称は国虎自刃と共に消滅する訳である」との先行研究を紹介しながら、豊富な史料を精査した上でのいつもながら鋭い分析を加えている。
地頭橘系安芸氏については「室町幕府は安芸地域を支配するため、地頭に橘系安芸氏を任命したと考えられる」とし、南北朝統一後の永享十(1438)年と推定される八月二十二日付け文書では、細川京兆家(管領家)が佐川四郎左衛門尉を討伐するため、土佐国人に対し出陣命令を出した。その中に「安芸備後守」と出ているのが地頭橘系安芸氏の初見史料であるとしている。
また、戦国期の橘系安芸氏については、いくつかの棟札が知られている。「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、棟札では俗称安芸氏は用いないで本姓橘を使用している。地頭の橘系安芸氏は元親・元泰・国虎と継がれ、彼を以って国人橘系安芸氏は滅亡した。
結論として「地頭で橘姓を名乗る安芸氏は暦応三(1340)年ではまだ安芸荘に居住していなかったと考えられる。つまり橘系安芸氏は蘇我系の家筋とは異なるのである」とした。すなわち古代安芸地域の郡司の流れを汲む蘇我系の家筋と戦国期栄えた橘系安芸氏の両家筋は異なるーー通説を正す明快な指摘が出されている。
安芸郡芸西村の和食宇佐八幡宮に高良神社が境内社として存在しているらしいという情報を以前から目にはしていた。9月の安芸郡調査の際にも寄りたいと思いつつも気付かずに通り過ぎてしまっていた。国道55号線から北に入った金岡山という大ざっぱなロケーションは把握していたので、今回は何とか神社の裏手にたどり着くことができ、やっと現地確認することができた。
まずは沢山の境内社に驚かされた。高知県の神社には案内板のないところが多く、現地調査だけでは分からないことだらけ。かろうじて池に浮かぶ(この日は水が涸れて空堀のようになっていた)厳島神社だけは分かった。
そして、一番西の端が延喜式内社論争にもなった坂本神社であろう。写真で見た覚えがある。ホームページ「高知県の観光」によると、摂社が15社ある中で主なものは5社として紹介されている。
境內には攝社が十五あるがその中にて主なるものは五社で本社の左脇は帶媛神社と云ひ祭神は氣比大神帶媛大神のニ坐にて万治三子年九月八日の勸請である、神社の右脇は高良神社にて祭神高良玉垂命で由緒は方治三年子九月八日勸請になつて居る、高良神社の西側は嚴島神社で須勢現毘賣命を祭り萬治三年九月八日の勸請である、その西側は九頭神社で祭神は砥鹿串神にて承應ニ年本村住人野老山惣左箱門と云ふもの同村字九頭神と云ふ處を開墾中神像を掘り得て祭祀し初めしによる、九頭神社の西側は坂本神社にてこれは由緖舊く慶長十三歲猛夏吉日大工小助と記載せる棟札出でたことがある。
高良神社は本殿の右脇、参拝者から見るとすぐ左手側になる。羽根八幡宮や野根八幡宮と同じ脇宮タイプとして鎮座している。文献と照らし合わせないと何も分からず、徒労に終わるところだった。
東から順に①帯媛神社 ②高良神社 ③厳島神社 ④九頭神社 ⑤坂本神社 と境内社が並ぶこの配置は……。もしや『皆山集1』のあの図ではあるまいか。ずっと気になっていた図だったので、ふと思い出して確認したところ、ピッタリ一致する。間違いなさそうである。
「安芸郡奈半利村坂本神社」と書かれているが、ここ芸西村和食の宇佐八幡宮境内の図であったのだ。「謎は解けたよ、ワトソン君」と言いたい気分である。この坂本神社については、さらに掘り下げていく必要がありそうなので、改めて論じることにしたい。
古田史学の会・関西例会で「弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点」というテーマで、大原重雄氏から、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は「環濠」や「土塁・柵」が考古学者の誤った解釈により誤「復元」されたものであり、土塁や柵の存在は確認されておらず、防衛のために集落を囲んだとされた「環濠」は川から集落へ生活用水を取り込むための流路(人工河)、あるいは洪水に備えた治水設備とする見解が紹介された。
発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。
「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。
一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。
「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。
一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。
これまでの調査で、安芸郡田野町の田野八幡宮および安田町の安田八幡宮境内社・若宮神社、さらには安田城跡の城八幡宮にも高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が祀られていることが明らかになった。いずれも高良神社ではないものの、高知県東部の安芸郡が高良玉垂命祭祀の密集地帯となっていたことが判明してきたのである。
そして安芸郡の「高良玉垂命=與止比賣」説がどうして生まれてきたのか? その根拠の1つが川上神社の存在ではないかと推察する。安田川をさかのぼり、「ゆずぽん」でお馴染みの馬路村に向かう中間地点あたりに川上神社が鎮座する。田野八幡宮や安田八幡宮からするとほぼ北の方角で、さながら奥の院といった位置付けのように感じられる。
『新安田文化史』(安田町、1975年)から川上神社についての記述を紹介しておこう。
川上神社
小川の字明神口にあって、祭神を淀比売神とする。社宝の棟札に「元和十甲子年二月(1624年)当国主松平土佐守豊儀公、代官渡辺九兵衛尉・庄屋安田清右衛門・清岡三良兵衛・森源兵衛・清岡小助・清岡十右衛門・諸百姓中」とあるので、創建年代は相当昔にあることが分かる。以前は川上大明神と呼んだ。社宝に右の棟札の他に、天下一藤原武重の銘の鏡二面がある。
「淀比売神」というのは、肥前国一宮・與止日女神社(よどひめじんじゃ)の祭神「與止日女」のことであろう。一般的には神功皇后の妹とされているが、古賀達也氏(古田史学の会代表)は多面的な考察から、「與止日女=壹與」と比定した。卑弥呼の後を継ぎ、邪馬壹国を導いた女性である。
與止日女神社は、佐賀県佐賀市大和町大字川上1にある延喜式内社であり、旧県社。別名「河上神社」「淀姫さん」などとも呼ばれる。佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち6社が嘉瀬川流域にあるという。
「カセ川」あるいはそれに類する河川名は全国的に見られる。その語源は船を繋ぐ「枷(かせ)」だという。つまり船を繋留(けいりゅう)する川の意である。邪馬壹国の流れをくむ倭国(九州王朝)は強力な水軍を率いていた。その拠点が吉野ケ里および嘉瀬川流域であったと思われる。
「干珠」「満珠」を使い、潮の満ち引きを巧みに操って、敵を翻弄する與止姫伝説は、干満の差が激しい有明海を発祥とする説話ではないか、との指摘もある。
また、『日本書紀』持統紀に31回の吉野行幸が記録されているが、疑問点が多かった。古田武彦氏は『壬申大乱』(2001年)で、「吉野」は大和でなく九州の吉野ヶ里を含む一帯であったとした。実際は白村江の戦い(663年)直前における水軍の視察という九州王朝内の史実を「34年」繰り下げて盗用し、持統天皇の事績として記載したというのだ。
そして佐賀県の嘉瀬川と共通するのが高知県安芸郡の安田川である。古代において安田川河口は湖になっていて、天然の良港であったとの記録もある。また、近くの神峯(こうみね)神社(安田町字塩屋ケ森)は日本で最も古い社に属し、神武天皇東征や神功皇后の伝承も残されている。九州王朝の船団が安芸郡安田の安田川までやって来たと考えても良さそうである。
安芸郡の「高良玉垂命=與止比賣」説を紹介した際に與止比賣は神功皇后の妹とされる人物に結び付けられていると指摘した。そもそも與止比賣(與止姫)とはどのような人物なのだろうか。諸説ある中で信頼性の高い論文を見つけることができた。『市民の古代 第11集』(市民の古代研究会編、1989年)に掲載された古賀達也氏(古田史学の会代表)の論考『よみがえる壹與ー佐賀県「與止姫伝説」の分析』である。詳細はホームページ「新・古代学の扉」からアクセスして、全文をご覧いただきたい。ここでは結論だけを紹介する。
(前略)
その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。
(中略)
『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。
(中略)
『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。
1). 世田姫は與止姫、淀姫と同一人物であること。
2). 九州王朝始源の人物であること。
3). 甕依姫(卑弥呼)の説話と類似した現われ方をすること。
4). 海神を従えた人物であること。
(中略)
(中略)
『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。
(後略)
(後略)
以上のように、與止姫は邪馬壹国の女王・卑弥呼の宗女壹與である可能性が高いということが論じられている。
あまり公にはしていないが、安芸郡ではこの與止姫を高良玉垂命として、八幡大神よりも格上の神として、古来より崇敬してきたということが分かってきた。その裏付けとして安芸郡には淀比売神を祭神とする川上神社(安田町小川字明神口)が存在しているのである。
あまり公にはしていないが、安芸郡ではこの與止姫を高良玉垂命として、八幡大神よりも格上の神として、古来より崇敬してきたということが分かってきた。その裏付けとして安芸郡には淀比売神を祭神とする川上神社(安田町小川字明神口)が存在しているのである。
11月11日(日)、荒倉神社(高知市春野町弘岡中1113)の秋季大祭が行なわれた。昨年から復活した浦安の舞も地元の小中学生によって舞われ、春野高校の生徒たちも獅子舞や神輿担ぎで参加した。ここの御神輿は八角形になっているのが特徴である。
さて、この荒倉神社については過去に何度か取り上げた。「春野昔ばなし」に御神体は北向きという言い伝えがあって、御神体北向きは徳島県美馬郡轟の天都賀佐比古神社だけではないということをさも知ったかのように紹介したが、広谷喜十郎氏が荒倉神社の宮司さん(先代の吉良さんであろうか)に確認したところ「そんなことはない」と否定されたということが『土佐史の神々 第二集』(平成17年)に記されていた。
私もお祭り終了後、質問してみた。御神体の扉は「開けるべからず」とされており、現在の新川宮司は直接は見ておられないようだったが、「外を向いているはずはなく、南向きであろう」とのことであった。この点については私の早とちりだったかもしれない。
ところで、安芸郡の安田八幡宮などでも御神体が厨子に納められており、「古来より之を開かず」とされている。荒倉神社は約1300年前、安田八幡宮もそれに勝るとも劣らない歴史の古さがある。にもかかわらず「延喜式内社」には含まれていない。
もしかしたら、九州王朝につながりを持つ秘密が隠されているのではないだろうか。九州年号「勝照二年(586年)」始鎮の小村神社もやはり式内社となっていない。荒倉神社の神紋には小村神社と同様「五七の桐」が使われている。
高知市秦泉寺には古代寺院があったとされ、「古代の巨刹であった」と地元古老により永く伝えられてきた。昭和15年に重孤文軒丸瓦が発見されたことにより、物証も出て本格的な調査が始まった。高知市文化財調査報告書第5集『秦泉寺廃寺跡 ー第3次調査ー』(高知市教育委員会、1984年)には、昭和58年3月12日〜4月21日の間に行われた高知市中秦泉寺字鷹通54番における発掘調査の記録がある。古墳時代〜奈良・平安時代の遺物が出土しており、柵列遺構は磁北に対してやや西よりの方向で配列。
出土した瓦は軒丸瓦(素弁蓮花文3・単弁蓮花文1・複弁蓮花文1)・軒平瓦(重孤文6)・丸瓦・平瓦・鬼瓦(破片で3片)など。
素弁8葉蓮花文軒丸瓦の1つは、周縁が素文縁であり、花弁に稜を有する。肉付けのある花弁に稜線を有し、花弁端は丸味をおびて反転している。中房には、13個の蓮子をもち、中房径4.5cm・周縁での径15.7cmを測る。
かつては浦戸湾が秦泉寺の南まで入り込んでいて中津という古代の港があり、愛宕山など後背地には、6世紀後半〜7世紀前半の古墳が十か所余り確認されている。
『阿波国徴古雑抄』に収録されている、乾元二年(一三〇三年)の『那賀郡木頭村伊瀬権現夢想旧記』に「土州秦泉寺」と出てくる。これが「秦泉寺」という地名を最初に紹介した文献とされているが、明確に地名として表わされるのは、永禄年代(一五五八~六九年)の史料や、天正十六年(一五八八年)の『秦泉寺郷地検帳』などになる。土佐で古くから開けていた地域の1つであったことは間違いなさそうだ。
結論として「本寺院の創建時期は、7世紀後半、白鳳時代におかれるものと考えられ、高知県最古の古代寺院の1つとして捉えることが可能だと思われる」と締めくくられている。最古の古代寺院の1つとしているのは、高知市春野町西分の大寺廃寺跡からも同形式と見られる軒丸瓦が出土しており、共に最古級と考えられるためである。
ONライン(701年)以前の創建であることから、いずれも九州王朝系の寺院と考えてもいいのではないだろうか?
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(仁淀川歴史会、2024年7月)
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自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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