延喜3年(903年)2月25日、太宰府で薨(こう)ぜられた菅原道真公の遺品、袍(ほう)、剣(つるぎ)及び観音像を、土佐国に左降させられていた息子・菅原高視朝臣に伝えるため、侍臣・松本(渡会)春彦が携えてはるばると土佐にやって来た。老齢と難路に苦しんで健康を害し、ようやくたどりついた長岡郡大津村船戸の霊松山雲門寺で病を発し、延喜5年(905年)12月9日同地にて歿した。白太夫(しらだゆう)の俗称で世に広く知られる春彦は大津の岩崎山にその墓と祠堂(しどう)がある。
さて、その時伝えられたとされる剣について、『皆山集①』潮江村の天満宮(現在の潮江天満宮、高知市天神町19-20)の項に次のような記述がある。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)
「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥
平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
『皆山集』の著者・松野尾章行は謹んで拝見した。菅原道真の遺品である宝刀の銘「朱鳥二年(687年)」という九州年号を。
高知県西部、幡多地方の白皇神社と白山信仰とのつながりを調べようと『白山信仰の謎と被差別部落』(前田速夫著、2013年)を読んでみたが、当初から感じていたように、積極的な関連性はなさそうに思われる。調査は振り出しに戻ってしまった。
けれども、副産物として九州年号「聴徳三」年の発見があった。ホームページ「新古代の扉」にも紹介されているが、『ニ中歴』にはなく不明とされ、「聖徳(聖聴・正徳・聴徳・宗朝・聖暦)<己丑・舒明一・六二九>六年間」など表記もまちまちである。「聴徳三年」(長吏由来之記)の年号と同系列の史料と思われるが、異なる部分もあるようなので、写本の類縁関係を調べる上では役立つのではないだろうか。九州年号というより、古代逸年号と言うべきか? 合田洋一氏は新刊『葬られ驚愕の古代史』の中で「舒明天皇は九州王朝の天子」としており、年号改元と即位年が一致していることは整合性があると言えるかもしれない。 『白山信仰の謎と被差別部落』49ページ(第3章の「山哉が発見した三国長吏由来記」)に引用されている。信州埴科郡戸倉村の旧長吏小頭宅で菊池山哉が筆写した『三国長吏家系図』という巻物に書かれており、「一、安楽経ニ曰ク~」以下の文中に登場する。 「舒明天皇ノ御宇、聴徳三辛卯季十月二十八日丑ノ尅ニ、和塵シテ之主・聖武天皇ノ御子出生シ給フ」(『三国長吏家系図』より) |
3月に発売された『古代に真実を求めて 古田史学論集第21集』の中に服部静尚氏の「『倭国(九州)年号』と『評』から見た九州王朝の勢力範囲」とする論稿が掲載されていた。
それによると高知県は九州年号がゼロになっている。ということは九州王朝の勢力圏ではなかったということか? そんなはずはない。魏志倭人伝の時代から侏儒国(高知県西部付近か?)は邪馬壹国と関係の深い倭種として記録されている。そこで「九州年号(倭国年号)見つけた」シリーズーー①月山神社の「白鳳」、②菅原道真の刀剣に刻まれた「朱鳥」で高知県における九州年号の存在を発表した。しかし「白鳳」「朱鳥」は正史にも見え、明らかな九州年号とは言い難いとのこと。実は本が出版される前に、もう1つの重要な九州年号の存在を実証することができた。それに関しては、また改めて言及したい。 一方、評については「1」となっているが、こちらは「□岡評」木簡の欠字が「長」と読めそうだという推定によるもの。長岡郡は土佐国の国府が置かれた場所であり、国衙付近に「内裏」地名があることからも、評督がいた可能性は高い。 |
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月山神社の勧請「白鳳持統年中」と松野尾章行(1836-1903)の『皆山集①』に書かれている。月山神社は四国八十八か所番外霊場にもなっており観光の名所でもある。看板にも開基は「白鳳の世」と出ている。
九州年号探しを始める時に、ある人から「白鳳くらいはすぐに見つかるんじゃないの」と言われた。もちろん、白鳳地震(684年)についての記録及び伝承は実に多い。けれども、『日本書紀』『続日本紀』など正史に記録されたものはノーカウントである。 看板に記された月山神社の略縁起を以下に転載する。「古傳旧記等数度天変に逢い不残散失し事跡明詳ならす」とのこと。九州年号(倭国年号)発見と言える? 言えない? 月山神社略縁起 当神社は、月夜見尊、倉稲魂尊を祭神とし、表筒男、中筒男、底筒男の三神と事代主尊を合祀し、もと月山霊場守月山月光院南照寺と称せられ、両部習合の霊場であったが、明治元年より月山神社と改称して今日に至る。伝承によれば、遠く白鳳の世、後世修験道の開祖といわれる役小角が始めてこの山に入り月影の霊石を発見し、月夜見尊、倉稲魂尊を奉斎したのが開基といわれる。 後僧空海がこの霊石の前に、廿三夜月待の密供を行い、それより陰暦1月23日を例祭日とされた。 由来諸人の崇敬厚く、家内繁栄、海上安全、大漁を祈願する者、跡を断たない、また、四国八十八箇所番外札所として善男善女の詣ずるものも多い。 昭和33年大月町有形文化財として指定された。 大月町 ☆月山神社☆ 住所:高知県幡多郡大月町才角1444番 |
「肥沼さんの夢ブログ」は時々読ませてもらっています。古代史研究のアプローチや分析もさることながら、教育に携わる者としても、大いに参考にさせていただいています。 さて、高知県にも九州年号(倭国年号)は存在するか? 以前、肥沼さんが「九州年号を探そう!」と提起されたことに連動して検討してみたいと思います。近いうちに研究発表できたらと思います。 以下は「肥沼さんの夢ブログ」からの引用です。
歴史上「九州年号」と呼ばれる古代の年号群がある。6世紀前半から8世紀初頭にかけて作られたもので,主に神社や寺の縁起などに登場する。 干支で並べると隙間なく並べることができるので,統一権力による年号と考えるのが正当な評価だと思う。(明治以降,私年号や偽年号といった差別的な扱いを受けたが,江戸時代にはそうではなかったとのこと。どちらが学問的か) 古代史研究というと,何か難しいことのように思えるが,この九州年号が寺社縁起に登場するかどうか探すという方法で,古代史研究を楽しむというやり方もあると思う。縁起はたいていその寺社がいかに長い歴史を持つのかという観点で書かれているので,その冒頭に九州年号が使われることがあるのだ。 「続日本紀」によると,701年には大宝年号が建元される。つまり大和年号(近畿天皇家の作った年号)がここでスタートしたのだ。聖武天皇も詔勅の中で,「白鳳以来,朱雀以前」という形で,九州年号の存在を語ってくれている。 だから,それ以前に建てられた寺社は, 最後に,「九州年号の一覧」をどうぞ! 継体・・・517~521年(5年間) 師安・・・564年(1年間) 定居・・・611~617年(7年間) 大化・・・695~703年(9年間)◆ 日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,飛び石的に白雉や朱鳥があり,大宝(701)につながるというのだがおよそ年号というものは「すき間なく続いている」ことに意義があるのであり,それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。その点,日本書紀に出てくる3つの年号はそもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。 なお,712年という年号は「古事記」の作られた年だ。大和中心の歴史がまとめられた年に九州年号も終わる。 |