江戸時代の儒者・谷重遠(号は秦山、一六六三~一七一八)の「小村社造替勧縁疏」によれば「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國。孝謙天皇天平宝字三年、被行御船遊。清和天皇貞観十二年三月五日丁巳、勅授位階」(『南路志 第三巻』122頁)とある。小村神社には仁治元(一二四〇)年と貞和三(一三四七)年の棟札2枚が伝えられており、谷重遠の「小村社造替勧縁疏」は貞和三年の棟札を元に書かれたとされている。
おそらく貞和三年の棟札に「勝照二年」と書かれていたに違いない。そう推察して、『高岡郡日高村資料調査報告書』を見て大変がっかりした。「当天神宮者去勝宝二年当国御影向之後天平宝字三年被始行御船遊」(『高岡郡日高村資料調査報告書』47頁)と活字化された文章が掲載されているが、「勝宝二年」となっている。勝宝は天平勝宝の省略で七四九年から七五七年までの年号であり、勝宝二年は七五〇年に相当する。しかし、初出で省略するのも変であるし、神社縁起などには一切引用されている形跡がない。当初は棟札の記載そのものと思っていたが、「現物は既に磨滅著しく満足に読むことはできない」と同報告書に但し書きしてあった。
活字化されたものは「勝宝」あるいは「勝寶」(『土佐国群書類従 巻一』47頁)とするか、社記のように該当年号部分が省略された形になっている。また、『土佐幽考』(安養寺禾麿、一七三四年成立)の小村神の頁でも「用明天皇二年鎮座」と記されている。
実在すると思われた九州年号「勝照二年」は幻だったのだろうか?
(続く)
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