「古代に真実を求めて」シリーズの最新刊が6月、明石書店から発刊された。タイトルは古田史学論集第二十六集『九州王朝の興亡』(古田史学会編、2023年)だ。執筆陣が関西に片寄っていることは近年の傾向であるが、大和朝廷に先立つ九州王朝ありきの多元史観を知ることのできる1冊である。 天孫降臨から大和朝廷への王朝交替までを綿密かつ簡潔に綴った「倭国(九州王朝)略史」。古代中国史料批判の新視点を提起する 「古代日中交流史研究と『多元史観』」など、古田学派の九州王朝研究の到達点を示す論集となっている。 個人的には満田正賢氏の「『群書類従』に収録された古代逸年号に関する考察」に興味を持った。古代逸年号史料にも大きくは2つの系列があることを分類整理しているからだ。現在、調査中の九州年号史料を研究する上で、大いに参考になりそうだ。 特集は「九州王朝の興亡」。大和朝廷以前の日本の代表王朝「倭国」は九州王朝と唱えた古田武彦氏の九州王朝説を受け継ぎ、研鑽を重ねてアップグレードさせた最新の研究精華を収録する。「倭国(九州王朝)略史」「古代日中交流史研究と『多元史観』」など。 ◆目次 はじめに 巻頭言 覚悟を決めた第二著『失われた九州王朝』[古田史学の会代表 古賀達也] 特集 九州王朝の興亡 倭国(九州王朝)略史[正木裕] 古代日中交流史研究と「多元史観」―五世紀〜七世紀の東アジア国際交流史の基本問題―[谷本茂] 九州年号の証明―白鳳は白雉の美称にあらず―[服部静尚] 『群書類従』に収録された古代逸年号に関する考察[満田正賢] 倭国律令以前の税体制の一考察[服部静尚] 多利思北孤の「東方遷居」[正木裕] 太宰府出土須恵器杯Bと律令官制―九州王朝史と須恵器の進化―[古賀達也] 「壬申の乱」の本質と、「二つの東国」[正木裕] 柿本人麿が詠った両京制―大王の遠の朝庭と難波京―[古賀達也] 『後漢書』「倭國之極南界也」の再検討[谷本茂] 「多賀城碑」の解読―それは「道標」だった―[正木裕] 七世紀の須恵器・瓦編年についての提起[服部静尚] コラム① 蹴鞠ではなく打毬用の木球 コラム② 年縞博物館と丹後王国 PR |
「地方史を多元史観で読み解く」――これは簡単なことではない。とりわけ土佐国(高知県)において中世以前にさかのぼれる史料は少なく、古代についてはなおさら希少である。多くの県でかかえている悩みでもあろう。そんな中でも長野県における吉村八洲男氏の研究は、古田史学をベースとした多元的地方史研究の方法論として、大いに参考にさせてもらっている。ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に「科野からの便り」シリーズと題して連載されているので、ご参照いただきたい。 さて、小村神社(高岡郡日高村下分小村1794)の始鎮「勝照二年」という九州年号の存在は、土佐国古代史を多元史観で読み解く上で嚆矢(こうし)となる発見(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1~4”)であった。これに対して、「近畿天皇家以外に年号なし」という一元史観の立場から疑問視する向きもあろう。それだけに、その年号が書かれている「貞和三年(1347年)棟札」の文面を実際に見てみたいと思っていた。この棟札は現存する県内棟札最古の「仁治元年(1240年)棟札」に次いで2番目に古いとされる。もちろんそこには、同時代性が疑問視されている「斉明六年棟札」「大宝二年棟札」などは含まれていない。 そんな折、その棟札の写真が偶然にも『伊野史談50号』(伊野史談会、平成12年3月)に掲載されていたのである。墨書は摩滅が著しく、岡本健児氏は赤外線照射によって棟札に記された文字を確認したとある。「小村神社の仁治・貞和の棟札」と題する論考で、次のように紹介されている。 「上棟正一位二宮小村大天神造営 番匠左兵衛尉藤原弘次 鍛冶権守掃部員氏 當天神者去勝寶二年當國御影向之後天平寶字三年被始行御船遊……(中略)…… 右意趣者生金輪聖王天長地久國吏安穏并将軍家繁昌家門泰平万民快楽乃國法界平等利益 貞和三年丁亥 十一月十五日」 岡本氏は大意についても、次のように説明している。
これを読む限りでは「勝照」年号など、どこにも見当たらない。『土佐国群書類従 巻一』『高岡郡日高村資料調査報告書』など、岡本氏と同様に「當天神者去勝寶二年當國御影向」と記載している活字本も多い。これに対して「當天神者去勝照二年~」というように「勝照二年」と書かれている文書もある。『高知県神社明細帳』および『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)などである。 おそらく原文は「勝照二年」の形であろう。中間的な形態として、「勝照二年」の「照」の字の右横に(宝カ)と註書きしてる文献も存在することから、「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。しかも初出で「天平」を省略した「勝宝」と表記し、2番目の「天平宝字」年号は省略なしという書き方には矛盾がある。 写真を見る限りでは、確かに「勝照」か「勝寶」か判断がつかない。とりわけ2文字目はほとんど見えていないようだ。そのため岡本氏は『土佐国蠹簡集木屑』(寛政初年―同六年の間の編)・『南路志』(文化十年編)の同棟札文も参照したと書かれている。どちらも「勝宝」と書かれている文献である。 しかし、より古い段階では文字が判別できていたはずであり、その意味でも江戸時代前期の儒者・谷重遠(号は秦山、1663~1718年)の『土佐遺語』における「勝照」表記のほうが信頼できると言えるだろう。彼の「小村社造替勧縁疏」では「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國」と考察されており、「勝照二年=用明天皇二年(587年)」説をとっている。原文が「(天平)勝寶二年」だったとしたら、孝謙天皇の治世なので全くのナンセンスである。 これが根拠となって小村神社の縁起等も用明天皇二年(587年)創建という立場をとっているようだ。けれども九州年号としての「勝照二年」であれば実際は586年であり、1年のずれが生じている。原文が「勝照二年」であることの確認と、その上での正しい歴史像を形成していく必要があるだろう。 現在、社殿前にある神社の案内板には「用命帝の2年」と誤字が放置されたままになっている。暗に「用明天皇などではない」との気概が込められているのかもしれないが、訂正される際には「勝照二年(586年)」と正しい伝承を伝えてほしいと願う。 |
これまで『皆山集』(高知県立図書館発行:原本は明治時代、高知県庁で高知県史料などの編さんに従事していた松野尾章行が集録した史料集)をメインに、いわゆる「九州年号」を発見してきた。一方、1815年(文化十ニ年)高知城下朝倉町、武藤到和・平道父子が中心となり編纂された『南路志』には「九州年号」はないだろうと思っていた。もちろん『日本書紀』からの引用としての「白鳳」などは随所に見られるが、それはものの数には入れられない。同様に「天武天皇朱鳥元年八月丁丑、為天皇體不豫、祈于神祇」(『南路志 第1巻』P167)なども、『日本書紀』の引用としての「朱鳥元年」であるからノーカウントだ。
ところが、それに続いて「同書曰 持統天皇朱鳥三年七月辛未、流偽兵衛、河内國澁川郡人、柏原廣山、于土左國」とある。配流に関する記事だ。この「朱鳥三年」とは何なのだろうか。 現在の『日本書紀』によるならば、天武天皇十五年(686年)に朱鳥元年となっており、朱鳥の元号はこの年限りで、翌年からは持統天皇元年になる。しかし、『万葉集』左注が引用した日本紀の記述に持統天皇の時代の記事に対してまで、朱鳥の元号(朱鳥四年、六~八年)が用いられているのである。 万葉集に引用された日本紀は、現存日本書紀そのものではなく、寧ろ年の干支や朱鳥の年号などが書かれてあった本ではなかったのか。あるいはまだ一部に整理整頓の残されていた未完成な草稿本のようなものであったのかもしれない。(並木宏衛氏 「万葉集巻雑歌と日本書紀」より)これに対し、『南路志』では「持統天皇朱鳥三年」として持統天皇三年の記事をそのまま引用していることから、編者は「朱鳥三年=持統天皇三年」つまり朱鳥は持統天皇の年号のようにとらえていることが判断できる。これは江戸時代における尊皇派の儒者の思想によるものだろうか。土佐南学派の谷秦山(重遠)が「勝照二年=用明天皇二年」と考えたこと(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1~4”)と背景が似ている。すなわち、「天皇家以外に年号なし」という一元史観に基づく歴史認識である。 だが、問題はそれだけにとどまらない。“朱鳥二年の天満宮の宝刀はいずこへ①~③”で紹介したように、潮江天満宮の宝刀に「朱鳥二年」が刻まれていることが『皆山集①』に記録されている。
これが本物であれば金石文扱いの一級史料となるが、仮に偽造されたものであったとしても、それが製造された時点で朱鳥年号が元年だけではないという認識があったことになる。『南路志』の「持統天皇朱鳥三年」についても同様のことが言える。すなわち、朱鳥年号は元年のみでなく、複数年続いたという認識である。 『日本書紀』編者は隠そうと試みたかもしれないが、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』などいくつかの文献にその痕跡が残っており、抹消することはできなかったようである。近畿天皇家に先行する九州王朝による「九州年号」の痕跡を……。持統天皇、文武天皇は改元を行わず、通説では「大宝」建元(701年)までの15年にわたって元号は断絶したことになっている。 |
朝廷によって定められた正規の年号に対し、寺院や地方の権力者によって用いられた偽の年号のことを「私年号」と呼ぶ。私年号は中央の権威の弱体化した中世に多く出現したが、近世にも僅かに例が認められる。例えば「福徳」「弥勒」「命禄」など仏教や福徳を願ったものが多かった。 そしてその数少ない事例の一つが高知県にもあった。幕末に使用された私年号「天晴(てんせい)」である。『土佐史談』190号(土佐史談会、平成4年9月)に広谷喜十郎氏の「『天晴』私年号と幕末の世直し意識」と題する論考がある。私年号「天晴」が記録された石灯籠などの一覧が以下のように紹介されている。 (一)安芸郡安田町神峯山 神峰神社の石灯籠これらの記録から、天晴元年が慶応三年であることが判明する。「一夜空しき(1867年)江戸幕府」――大政奉還<慶応3年10月14日(1867年11月9日)>の年である。明治元年に改元されたのは、慶応四年9月8日のことであるから、一年以上さかのぼった前年5月から「天晴」という年号を使用していたことになる。坂本龍馬のみならず、土佐の民衆は日本の夜明けを予見し「慶応」年号をやめて、先取りして「天晴」の年号を勝手に使用していたようである。 慶応から明治に移る間に天晴という年号が使われていたことたは「田口家の神祭帳」「須江高野家文書」などにも記録があることから間違いなさそうである。高知市広報『あかるいまち』2008年9月号で、次のように紹介されている。
日本の元号は「一世一元の制度」が定まる明治以前は、天皇の即位や政情不安の際、人心機運の一新のため度々改元されてきた。天皇が定めた公的な年号に対し、地方で私的に使われた年号が「私年号」であるが、その性格として、①単発的に使用され連続性がない。②一地方あるいは特定集団内で用いられ汎用性がない。――などの点があげられる。 土佐の「天晴」年号の使用例は13以上あるとはいえ一時的なもので、「天政」「天成」「天星」など異なる漢字表記もあって統一性に欠ける。県外にも一部発見されているが、一地域性を脱することはできず、私年号といってよいだろう。 久保常晴著『日本私年号の研究』では「私年号」第一類として、「大化」以前の年号のなかった時代における「非公年号」を「古代年号」と呼んでいる。「令和」改元をきっかけとして年号に関する書籍が出版され、数多くの報道もなされた。ところが、「古代年号」に関してはアンタッチャブルとされているのか、誰も触れようとしないように見える。いわゆる「九州年号」と呼ばれる年号群である。
これら一連の年号群には連続性があり、広範囲に使用されているなど、「私年号」の性格を満たしていない。当然の帰結として、年号制定の主体として国家主権の存在を考えざるを得ない。そのような意味で「九州年号」の存在は、大和朝廷に先行する九州王朝の実在の根拠の一つとなっている。 |
「朱鳥」は『日本書紀』にも書かれているから九州年号などではなく、れっきとした大和朝廷の年号だと主張する人がいるかもしれない。 「朱鳥元年(686年)秋七月己亥朔(中略)戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮」(天武紀朱鳥元年七月条) 天武天皇十五年に突然、改元されて「朱鳥」に年号が変わったと書かれている。『日本書紀』の記述を絶対視するなら、朱鳥は元年のみで、翌年から持統天皇の治世になる。 多少なりとも『日本書紀』の知識がある後世の人物であれば、「朱鳥二年」といった架空と思える年号を刀剣に刻むはずがない。にも関わらず、『皆山集①』によると潮江天満宮の宝刀には「朱鳥二年八月北」と刻まれていたのである。 一方、九州年号を記録した史料『二中歴』では、686〜694年まで九年間「朱鳥」が続いている。また、『万葉集』の中には「日本紀に曰く」という形でいくつか引用があり、それによれば「朱鳥」年号は少なくとも「七年」までは続いていたと考えられる。 そのほか「朱鳥」年号は『一代要記 』『會津正統記』など、複数の史料に確認されることから、その実在性は高いとされる。そうなると、潮江天満宮の宝刀に刻まれた「朱鳥二年」の銘はますます同時代性を帯びてくる。 似たような事例として、「鬼室集斯の墓碑」問題がある。滋賀県大津に鬼室集斯(「白村江の戦い」前後に活躍した百済の将軍「鬼室福信」の子息で、日本に亡命)の墓にも「朱鳥三年戊子十一月八日」という年号が彫られているという。 いや待てよ。『万葉集』では「右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋」(巻一雑歌作三十四の左注)と書きながら、『日本書紀』の方に「朱鳥七年」は無いんですけど……。この矛盾どうするの? 当然の疑問である。『日本紀』=『日本書紀』かどうかは諸説あるようだが、書物というものは版を重ねるごとに間違いが訂正されたり、表現が洗練されたりするものである。『日本紀』の段階で朱鳥年号が実際に数年間用いられていたものが、『日本書紀』として校正される段階で、大和朝廷の正史として「九州年号」を用いるのはイデオロギーに合わないとし、カットされたと考えれば理解できる。 ではなぜ「朱鳥元年」だけ残されたのだろうか。直前に出された「徳政令」(借金の利息と元金とを免除する詔勅)の発布と朱鳥改元がセットだったからとする古賀達也氏の指摘(「朱鳥改元の史料批判」;古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集、二〇〇一年)がある。「白鳳大地震」による被災者を救済するための「徳政令」を政権が変わったからと言って、なかったことにはできない。九州王朝の後を引き継いだ大和朝廷の政策上、消すことのできなかった「大化」「白雉」「朱鳥」は残さざるを得なかったというのだ。 潮江天満宮の宝刀には歴史の謎を切り開く力が隠されていた。果たして、「朱鳥二年の天満宮宝刀」はいずこへ行ったのか。 |
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行(『皆山集①』P358) 装剣備考ニ云 万宝全書銘盡ニ神息上元明天皇御宇和銅の比豊前国宇佐宮社僧と云々鍛冶備考ニハ大同中と云「大同ハ平城天皇の御宇なり」又豊後国高田に文明比戯れに二字銘打しありと古刀銘集録に見ゆ ここには『装剣備考』『古刀銘集録』など、江戸期の文献が見える。簡単に要約すると、『万宝全書銘盡』に「神息」というのは和銅年間(708〜715年)頃の豊前国宇佐八幡宮の社僧だといい、『鍛冶備考』には大同年間(806〜810年)頃の刀工とある。豊後高田に文明年間(1469〜1487年)頃、戯れに「神息」の二字を銘打したものがあると『古刀銘集録』に見える。 「ああ、やっぱり戦国時代頃に伝説上の刀工を模して偽造された物だったのか」と落胆されたかもしれない。しかし、即断するのは待ってほしい。
シュミレーションゲーム『刀剣乱舞』の流行により、世はまさに刀剣ブーム到来を告げ、「刀剣女子」という流行語まで生み出した。刀剣を展示するイベントも様々な場所で開催された。また、失われた名刀を復活させる事業にも多くの寄付金が寄せられたという。 だが、一般的に知られていることはある。「平身作り」というのは、平面で鎬(しのぎ)筋のない平造りのことだろうか。「直刀」とは、刀身に反りのない真っ直ぐな形のもので、平安時代中期以前のものはこの形となり、それ以降の刀身には鎬があり反りをもった形状になる。
そうなると、朱鳥二年(687年)という年代に合致する。『皆山集①』の記述によると、潮江天満宮の宝刀は、古墳時代から平安初期にかけて造られていた刀剣と同じ形式だったのである。 |
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『皆山集①』潮江村の天満宮(現在の潮江天満宮、高知市天神町19-20)の項に次のような記述がある。「朱鳥二年(687年)」という九州年号が刻まれているというのだ。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356) 「天満宮ノ宝刀 神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358) この宝刀については、以前当ブログでも紹介し、潮江天満宮の宮司さんにも直接質問したことがある。菅原道真の遺品を長男高視に届けるために土佐国へ来たという白太夫(渡会春彦)について研究発表もされている方であったが、宝刀に関しては全くご存知ないようであった。てっきり潮江天満宮の御神体とばかり思い込んでいたが、勘違いだったのだろうか。『皆山集』に記載されている旨はお伝えしておいた。 潮江天満宮の宮司は代々宮地家が継承してきたが、今の宮司さんは宮地姓ではない。『皆山集』の編者・松野尾章行氏に宝刀を見せたという宮地堅磐(みやぢかきわ、1852-1904年)氏は当時の潮江天満宮の神主であり、神仙界で見聞したことを『異境備忘録』として記録している。 父・宮地常磐(みやぢときわ、1819―1890年)氏もまた潮江天満宮の神主を務め、鹿持雅澄の鹿門十哲の一人でもあり、数々の著作を残している。件の宝刀は宮司世襲家の宮地家に伝承されていた物であろうか。 宮地家については、ブログの大先輩であるひまわり乳業「今日のにっこりひまわり」から、関連する内容を少し引用させていただく。 太宰府で菅原道真公が失意のうちに亡くなり、その遺品を、白太夫さんが土佐まで運んできました。土佐に左遷されちょった嫡男、菅原高視さんに届けるべく。しかし、大津までやって来たところで急死。遺品は、高視さんのもとへ届けられました。
疑問とされる部分がないこともないが、宮地家は歴史的に由緒ある家柄のようである。幕末に宮司を務めた宮地常磐氏は、お告げにより手箱山(筒上山)に大山祇神社をはじめ十三社を鎮祀したそうで、潮江天満宮の境内社としても大山祇神社が祀られている。 さらにその先祖とされる宮地信勝が山城国から土佐へ移住したのが白雉年間(7世紀)であれば、ほぼ同時代の「朱鳥二年」に造られた宝刀があったとしても、つじつまは合う。 しかし、家系図だけでは根拠としては不十分である。違った角度からの検証が必要となってくるだろう。 |
「斎明六年棟札」問題に踏み込んでみようと思ったのは、『大豊史談第13号』(大豊史談会、昭和60年)に掲載されていた「棟札・大豊町を中心に」と題する松岡司氏の論考を目にしたことがきっかけであった。「上桃原の熊野十二所神社に、斉明云々と大宝二年の記載が見られる棟札がある。その記載どおりの時代のものなら大変だが、これは疑問が多すぎる」としていた。 その一方で、高岡郡日高村の小村神社の棟札について、次のように紹介している。 小村神社・仁治元年(1240)の棟札 234、7cm小村神社には「勝照二年(586)」という九州年号を伝える貞和三年(1347)の棟札が存在する。当ブログでも4回シリーズで“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1、その2、その3、その4”と紹介した。土佐国の歴史を多元史観によって再構築する嚆矢(こうし)となった渾身の研究であった。同神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀が伝世されており、年に一度しか公開されないが、レプリカであれば日高村の道の駅に展示されている。 話を棟札に戻そう。この時代頃までは、単に造替えの年代を記すだけでなく、創建年代をも伝える棟札がいくつか見られる。 「斉明6年棟札」には意味不明な語句などがあり、棟札の文面が形式化する前の段階のようであり、サイズも小村神社の物に近い大型タイプである。斎明六年棟札の銘文をもう一度見ておこう。
「元福嶋守定大都」とあり、福嶋姓は中世に見られる有力な氏族でもある。「定大都」は一見「大都を定む」といった意味にも取れそうだが、文脈および周辺の状況を鑑みると、「定福寺大僧都」の省略形であろうか。最後の行は不明だらけであり、いつ書かれたものか時代比定が難しいのもよく分かる。炭素年代測定法など、科学的な手法を取り入れて調査する必要があるかもしれない。 もしも高知県最古の棟札と判定されれば、高知県の古代史を揺るがす大発見ということになる。そうでなかったとしても、後世において創建にまつわる記録を書き写した可能性もあり、史料的な価値がなくなるわけではない。とりわけ斉明六年(660)と大宝二年(702)というONライン(九州王朝と大和朝廷の政権交代)を前後する2つの年号をそれぞれ記す2枚の棟札が、長岡郡大豊町桃原の熊野十二所神社に存在するということは大変興味深いところである。今後の調査・研究を待ちたい。 |
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前回までに「長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①、②」と発表したところ、タイムリーなことに、ブログ“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”でも、斉明天皇が四国・愛媛県にいたという合田洋一説を紹介するようになった。ぜひ参考にしてほしい。 もう一度、斎明六年棟札の銘文を見ておこう。
山本大氏は自ら判断しかねて、考古家沼田頼輔氏に教えを請い、「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし」との結論を出している。今回はこの批判について考えてみよう。 そもそも「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるもの」とした根拠が不明である。妙見信仰が日本に伝わったのは意外と古く、『日本霊異記』には称徳天皇の時代(764~769年)に妙見菩薩に灯明を献じた寺があったという記述があり、妙見信仰は奈良時代末期にはすでに民間に広まっていたことが分かる。 また、熊本県八代市の八代神社については、妙見上宮創建を延暦14年(795年)とするが、その淵源は推古19年(611年)琳聖太子(りんしょうたいし)が肥後の白木山に来て、妙見菩薩を伝えたのが妙見尊最古の霊跡(神宮寺)である(『密教占星法 上巻』)と伝えられる。
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前回「長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①」と題して、高知県に存在する「斎明六年棟札」を紹介した。文面は次のような内容である。
斉明六年といえば660年のことであり、そんなに古い棟札など存在するはずがない。普通ならば、後世の偽作であろうと考えるのが理性的な判断であろう。だが、本当に信頼すべき何ものも無いのだろうか。指摘された問題点について検証してみたい。 まず「斎明六年棟札」があった長岡郡大豊町の位置を確認しておこう。大豊町は愛媛県および徳島県の両方と境を接している高知県北部山間地域の町である。 平野部に立地する高知県の寺社のほとんどは、津波や戦乱などにより、古い史料が失わてしまっている。古代史を探求する者にとってはいつも残念に思うところである。山間部だからこそ古い棟札が残されていたといえるかもしれない。 ところで、伊予国(愛媛県)には斉明天皇に関する遺構や伝承が数多く残っている。『葬られた驚愕の古代史 越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや』(合田洋一著、2018年)によると、九州王朝の天子・斉明の行宮伝承地が越智国内に5か所、隣の宇摩国(現四国中央市)には「長津宮」跡(村山神社)がある。 そして大豊町は宇摩国と法皇山脈を隔てて隣接する場所なのである。ロケーションとしては申し分ない。「斎明六年棟札」はあるべくしてあったと言うべきか。一見、険しい四国山脈を越えて交流することは難しいという印象を持つかもしれない。しかし、縄文時代には香川県のサヌカイトが太平洋側へを運ばれ、弥生時代には瀬戸内の塩が高知へ運ばれた形跡がある。大豊町には古くから山越えの道があり、交通・交易の要所であったといえる。 最大の問題点は次の点である。 斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、 斉明天皇(594~661年)は『日本書紀』によると第37代天皇(在位655~661年)の漢風諡号(しごう)で、和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」。第35代皇極天皇の重祚(ちようそ)とされる。すなわち、「斉明」は後に贈られたもので、同時代に年号として使用されるはずはないとの指摘である。 この矛盾点に関しても、『葬られた驚愕の古代史』に解決のヒントが書かれていた。「『紀』は後世の漢風諡号とされた近畿の舒明・斉明天皇として九州王朝の天子名をそのまま盗用し、はめ込んでしまった」というのだ。つまり「斉明」は皇極と同一人物ではなく九州王朝の天子であり、漢風諡号ではないとする。 この説については賛否両論あるかもしれないが、最大のハードルをクリアできる可能姓は見つかった。「斎明六年棟札」が全くの荒唐無稽という批判は回避できそうである。しかし、まだ問題点は多い。引き続き検証を重ねていきたい。 |
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