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 昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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 高知市朝倉と吾川郡いの町の境に咥内坂と呼ばれる、ゆるやかな坂道がある。古くは標高50メートル程の細長い峯で南と北は繋がっていて1つの山丘であった。国道施設のため切り取られ、今は標高20メートル前後の坂になっている。
 この付近に高良神社に関連する「コウラ」地名があるとにらんでいるのだが、正確な場所までは確定できていない。手掛かりは『長宗我部地検帳』に記録されているホノギ(小字)なのだが、「コウラ城ノ前道懸テ外池アリ」と記録されており、咥内坂を下った西浦、ウネ沢辺りはかつては湿田地帯であり、池があった可能性が見えてきた。


 では付近に城跡があるだろうか。琴平山の周囲には多くの石垣があり、もしかしたらかつて山城があったのではないかと想像させるが、地元の人に聞いても城跡ではないと言う。「コウラ」は東浦、西浦などと同様の「浦」地名に過ぎなかったのだろうか?

 一方「高良神社の分布と横穴式石室の分布が割合一致しているようだ」との指摘もある。特に愛媛県ではその傾向がよく見られる。高良神社は倭の五王との関係が深く、九州系の横穴式石室は年代的に倭の五王の活躍した時代に近い。そして琴平山南斜面には、1~3号墳の枝川古墳群があって、鉄鏃などが発見されている。

 結論を急がず、この問題はもう少し宿題としておこう。


枝川古墳群
琴平山の南斜面に築造された古墳群。

6世紀末~7世紀前半に築造された古墳3基が保存されている。1号墳は径10m前後の円墳で、両袖式の横穴式石室が南東に開口、人骨片のほか銀環や玉類、武具、須恵器などが出土している。2号墳・3号墳は墳形・規模不明。埋葬施設は1号墳と同じ両袖式の横穴式石室で、2号墳は南西、3号墳が南の方向に入口をもつ。出土遺物は鉄鏃や須恵器など。
町指定史跡。出土品も町の文化財に指定されている。

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  高知市を流れる鏡川。その南岸に鎮座する石立八幡宮(高知市石立町54)には武内大臣(武内宿禰:高良神社の祭神にされていることが多い)も祀られていた。高良神社としては見当たらないので、どこから合祀されたのかはっきりしたことは分からない。高知市から吾川郡·高岡郡にかけての県中央部は高良神社の空白地帯であるが、逆に「コウラ」地名遺称は数か所見つかっている。
 古代の海岸線(浦戸湾)はこの辺りまで入り込んでいたと考えられ、近くには弥生時代から中世にかけての遺跡も多く存在する。古くはこの付近に港があったとされる。

 説明板の文字が見えにくくなっているが、御祭神は以下の通り。

    応神天皇 人皇第15代
    神功皇后 応神天皇御母
    多岐理姫 大国主神の御妃
    水速女神 水の神
    玉依姫神 神武天皇の御母
    多岐都姫 恵美須神の御母
    金山彦神 金の神
    狭依姫神 宗像の神
    武内大臣 長寿?護の神
  先祖及び水子の祭壇


境内社:恵美須神社、竃戸神社、国津神社他
由緒:勧請年月は不明であるが、宇佐八幡宮からの勧請と思われる。
 『和漢三才図会巻79』に「正八幡宮在高知天正年中長宗我部元親建之」とあるが、おそらく再建であろう。
 地元で信仰を集めていた社であったが、戦国時代、長宗我部元親が岡豊城(おこうじょう)から大高坂山城(現高知城の山)に遷って来た際、この社が丁度大高坂城の裏鬼門(西南)に当たることから、居城鎮護の社として尊崇され、以来山内氏等の武士からも崇敬されるようになったと伝えられている。
 社殿は明治17年11月23日火災のため全焼、同18年再建したものである。村社西王子宮外十社を合祀。境内に竃戸神社、神母神社がある。

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 「輪抜け様 友の耳には イヤリング」

 かつて横浜中学校の生徒が詠んた俳句にとても感銘を受けた。毎年、6月30日には高知県下の主だった神社で輪抜け様というお祭りが行なわれる。境内に備えられた大きな茅(ちがや)の輪を左回り、右回り、左回り(女性は逆回り)とくぐり抜けて、半年間の穢れを祓いのけてもらうそうだ。
 これは古事記の上巻の天の御柱めぐりの段でイザナギの命は左より、イザナミの命は右から廻ったとの故事にならったとのこと。ただし、高知市内は男女とも左→右→左で統一しているようだ。

 輪抜け様の巨大な茅の輪と友の耳にぶら下がる小さな金属のイヤリングーーこのコントラストが絶妙だと思いませんか?
 さて、輪抜け様というのは高知県だけのことかと思っていたら「茅の輪神事」という名で、自らの罪穢れと社会の罪穢れを祓い去る大祓として、6月30日(夏越の大祓)と12月31日(年越の大祓)に全国の神社で斎行される行事で、歴史は古く、大宝元年(701)に撰修された大宝律令には正式な宮中の年中行事として定められている。
 現在でも宮中では、大祓の儀に先立ち、天皇御自ら「節折(よおり)の儀」により御身を清められるという。この儀式は、背丈をはじめ御身五か所の長さを測った9本の竹の節を折る、天皇ご自身のお祓いである。

高知市内の輪抜け様実施神社一覧

潮江天満宮  高知市天神町19-20

若宮八幡宮  高知市長浜6600
小津神社  高知市幸町9-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
石立八幡宮  高知市石立町54
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
仁井田神社  高知市仁井田3514
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8

 土佐市在住の人に聞くと、土佐市では輪抜け様はやっていないとのこと。高知市以外では以下の神社などで行なわれる。今年はあいにくの雨。

椙本神社 吾川郡いの町大国町
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2
新宮神社 南国市十市新宮山



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  毎年6月になると、「あじさいまつり」でにぎわう六條八幡宮(高知市春野町西分3522)は別名「あじさい神社」とも呼ばれる。春野町あじさい愛好会の方々が世話をして下さり、平成12年には境内に一株であったものが、挿し木や奉納で種類と株数を増やし、平成28年には約80種類約1400株にもなって、参拝者を楽しませてくれている。
さて、案内パンフレットを見ると御祭神は次のようになっている。

御祭神
品陀和気尊(第十五代天皇 応神天皇)

※外に明治初年、西分地区にあった小宮の神々を合祀しています。

倉稲魂命(うがのたまのみこと)   
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
天穂日命(あまのほひのみこと)   
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと) 
熊野久須毗命(くまのくすびみこと)
多紀理毘咩命(たぎりびめのみこと) 
市杵島毘咩命(いちきしまびめのみこと)
多紀津毘咩命(たぎつびめのみこと)


  天忍穂耳尊以下は五男三女神に相当し、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれたとされ、八王子神社(春野町弘岡下)の祭神でもある。ここでは明治初年の廃仏毀釈及び神社名変更の達しの際に、西分地区の小宮が整理され、合祀されたことが分かる。
 『高知懸神社誌』(竹崎五郎、昭和6年)によると神母神社外一社を合祭してあるということから、倉稲魂命は神母神社の祭神と思われる。

由緒
  当社は、応永9年(1402年)10月15日に、京都六條左女牛(さめがい)八幡宮から御分霊を遷し迎えた社であり、高知県高知市(旧吾川郡)春野町西分地区の総氏神であります。
  六條左女牛八幡宮は、第70代御冷泉天皇の勅願により天喜元年(1053年)10月15日に京都六條左女牛の地に創建され、六条八幡とも左女牛八幡とも称されました。歴代天皇のご尊崇は申すまでもなく、源頼朝は、建久元年(1190年)に臨時の大祭を行うなど、弟の義経も祖先に倣って社地の近くに居館を構え、常に崇敬の誠を捧げました。御社は、元左女牛西洞院(現本願寺地)にあり、社伝によると、源頼義がその邸内に祀った八幡の若宮であったと云われています。
  土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由としては、文治元年(1185年)にはすでに吾川郡は京都六條左女牛八幡宮の領地として、源頼朝から寄進されていたということであり、同宮の荘園となっていたと云われています。八幡信仰は源氏の氏神であり武家の守護神として中世以降大いに尊信されるに至り、当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなったと思われます。
  土佐「南路志」の中に、吾南(現高知市長浜、春野町周辺)の八幡宮が抽出されており、「西分・東諸木・仁ノ・弘岡下・弘岡中・弘岡上・芳原・秋山・森山」の中で、西分の八幡宮は、六條八幡宮としてその由来が明らかにされています。昔から文武の神として崇敬され、近世では地区の産業の発展・氏子の家内安全・商売繁盛はもとよりでありますが、時には和歌、俳諧などの詠進もあるなど吾南地区の産業・経済・文化面の守護神ともなっています。
  神社境内地及び付近一帯の字名を「大寺」と総称していますが、昔時壮大な寺院が有ったところで、慶長年間に退転したと伝えられています。境内地の山を大寺山と呼び、社地の字名を奥屋敷と称し、続いて中屋敷と呼ぶ地名もあり、寺院の規模も相当大きな伽藍が存在したことが想像されます。
(以上、パンフレットより引用)
 
 土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由として、源頼朝が、大江広元の弟・季厳阿闍梨を別当職に任じ、文治元年(1185年)土佐国吾川郡の地を京都六條左女牛八幡宮領の荘園として寄進したことを根拠として挙げている。『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、集中していると言えなくもないが、他より抜きんでているという程でもない。「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」との指摘、鎌倉幕府と八幡宮の関係についてはさらに調査したいところである。
 東には縄文時代からの西分増井遺跡があり、この界隈は広大な弥生集落も営まれている。さらに、この六條八幡宮の近くは大寺廃寺跡。出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、七世紀頃の創建とされる県下で最古の寺院と考えられている。

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 「古記云、春時祭田之日、謂国郡郷里毎村在社神。人夫集聚祭。若放祈年祭歟也。行郷飲酒礼、謂令其郷家設備也。一云毎村私置社官。名称社首。……」
 古記は大宝令の注釈書で738年(天平十)ごろの成立とされる。『令集解』所引古記が引用する一云によれば、村ごとに神社があり、社首(しゃのおびと)という祭祀者がいて、あたかも地方自治の一翼を担う行政機関のようである。大和朝廷の神祇令によると一般的には祝(はふり)であり、社首は他に見られない。もしかしたら九州王朝時代の制度が、のぞき見えているのかも知れない。
 この一村一社とも言うべき制度は、古代中国の社に遠源を持つのではないかとさえ思われる。『古代中国の社―土地神信仰成立史』(エドゥアール・シャヴァンヌ著、菊地章太訳注、2018年)を読むと、古代中国の社と日本の神社との類似性が見えてくる。

 周・漢の時代に家25軒で里とし、一社を置いている。日本の律令制ではその倍の五十戸を里(さと)としている。いわゆる産土(うぶすな)神とされる村社のルーツが、単に自然発生的なものではなく、行政的な色彩が少なくなかったように思われる。


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  『土佐国蠧簡集木屑』(柳瀬貞重編纂、一七九四年完成)で「勝照二年」の横に(宝カ)と添え書した記述および「勝寶」が見られる。この時点で「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。

 さて、「勝照」は敏達天皇および用明天皇の治世にまたがって使用された年号である。鶴峯戊申(一七八八~一八五九)著『襲国偽僭考』に登場する、いわゆる「九州年号」の一つである。『越智町史』の編者は大化以前の公称年号(一世一元制のことか?)と認識しており、敏達天皇二年(五七三年)と解釈した。一方、谷重遠は「民間の雑書(俗説を記した書)に継体天皇以下年号が見られるが誰が作ったか知らない。今昔の帝号に相当するとして用明二年(五八七年)とした」と考察し、後世に判断を委ねている。谷秦山の時代にはまだ『襲国偽僭考』は出ていなかったが、鶴峯が参照した資料等については知られていたのであろう。
 
 近年、全国的に九州年号が見つかっており、「勝照」についても山口県・長崎県・滋賀県等に見られる。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、二〇一七年)に紹介されている『二中歴』『海東諸国紀』等の研究など、現代の知見によると、「勝照」は五八五~五八八年の四年間使用されている。したがって、勝照二年は五八六年すなわち用明元年に相当する。
 江戸時代の漢学者・森本甎里(1743~1833)も貝原益軒の偽年号を参照し、同様の指摘をしている。
 「森本甎里曰考貝原損軒之偽年号考以敏達天皇十四年乙巳為勝照元年然則勝照二年當用明天皇元年丙午乎谷秦山所書勧縁疏曰用明天皇二年始鎮座當国云未知孰是」(『日高村史料(一)』三四頁)
 しかしながら、限られた資料を元に、谷秦山が「用明二年」としたことも当時の状況からすれば納得できる。谷秦山の宿題を1つ解決したと言ったら言い過ぎだろうか。
 結論として、土佐国(高知県)にも九州年号は実在した。小村神社の鎮座は「勝照二年」(五八六年)である。可能であれば、貞和三年の棟札についての科学的調査(X線解析等)により、あらためて文字の判読がなされることを希望する。
(終わり)





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 2017年末、県立図書館がリニューアル移転のため、半年間休館となる最後の日であった。しばらく見られなくなる『高知県神社明細帳』を閲覧させてもらうことにした。すると、小村神社の頁に、次のように記されている。
 「重遠按貞和棟札以為当社始鎮勝照二年、勝照之号不見史伝但民間雑書継体天皇以下有冗俗記号不知其誰作今姑以相当帝号易之為用明二年観者審之」

 重遠按ずるに貞和の棟札を以って当社の始鎮を勝照二年と為す。勝照之号史伝に見えず。但し民間の雑書に継体天皇以下冗俗紀号有るも、其の誰が作れるかを知らず。今姑の帝号に相当するを以って之を易(か)えるに用明二年と為す。観る者之を審(つまびらか)にせよ。(筆者、書き下し)
 同じ文章は『皆山集 第1巻』にも登場する。また、『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)にも「勝照二年」の形で書かれていた。
 「小村神社棟札二枚其一曰仁治元年庚子地頭以馬允藤原忠政其一曰貞和三年丁亥地頭藤原国藤記曰當天神勝照二年影向天平寶字三年被行御舩遊重遠謂勝照之號雑書或有之未知本據又按三代実録貞観十二年三月五日丁巳授土佐国従五位下小村神従五位上」

 おそらく、これが原文通りであろうという結論に達した。九州年号「勝照二年」はやはり存在していたのである。
(続く)



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 江戸時代の儒者・谷重遠(号は秦山、一六六三~一七一八)の「小村社造替勧縁疏」によれば「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國。孝謙天皇天平宝字三年、被行御船遊。清和天皇貞観十二年三月五日丁巳、勅授位階」(『南路志 第三巻』122頁)とある。小村神社には仁治元(一二四〇)年と貞和三(一三四七)年の棟札2枚が伝えられており、谷重遠の「小村社造替勧縁疏」は貞和三年の棟札を元に書かれたとされている。

 おそらく貞和三年の棟札に「勝照二年」と書かれていたに違いない。そう推察して、『高岡郡日高村資料調査報告書』を見て大変がっかりした。「当天神宮者去勝宝二年当国御影向之後天平宝字三年被始行御船遊」(『高岡郡日高村資料調査報告書』47頁)と活字化された文章が掲載されているが、「勝宝二年」となっている。勝宝は天平勝宝の省略で七四九年から七五七年までの年号であり、勝宝二年は七五〇年に相当する。しかし、初出で省略するのも変であるし、神社縁起などには一切引用されている形跡がない。当初は棟札の記載そのものと思っていたが、「現物は既に磨滅著しく満足に読むことはできない」と同報告書に但し書きしてあった。

 活字化されたものは「勝宝」あるいは「勝寶」(『土佐国群書類従 巻一』47頁)とするか、社記のように該当年号部分が省略された形になっている。また、『土佐幽考』(安養寺禾麿、一七三四年成立)の小村神の頁でも「用明天皇二年鎮座」と記されている。
 実在すると思われた九州年号「勝照二年」は幻だったのだろうか?
(続く)



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 2018年2月7日のことだった。市民図書館で史料を確認中に天啓があった。「やはりこれで間違いない」ーー土佐の九州年号(倭国すなわち九州王朝が使用していた年号)実在の論証が見えた瞬間であった。
  『越知町史』(越知町史編纂委員会、昭和五十九年)に「日下小村天神の社伝記には、敏達天皇の勝照二年(西暦五七三、大化以前の公称年号)に始まり、天平宝字三年(七五九)吾川郡神ノ谷杉ノ端より移るとの記録もある」とある。高知県高岡郡日高村にある小村(おむら)神社の鎮座が「勝照二年」であると社伝記に記録されているというのだ。

 社記には確かに「正一位二宮小村大天神者、天平宝字三年、吾河郡神谷杉ノ端より高岡郡日下村ニ御鎮座也」(『南路志 第三巻』123頁)とあるが、「勝照二年」という年号は見えない。

  小村神社の祭神は国常立尊であり、看板やパンフレットには用明天皇二年(五八七年)鎮座の国史現在社と紹介されている。国史現在社というのは、延喜式内社ではないが、『日本三代実録』貞観十二年(八七〇年)三月五日条の授位記事に「小村神従五位上」と見えることによる。小村神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀が伝世されており、周辺には古代~近世の掘建柱様式の建物跡(千本杉遺跡、宮の内遺跡等)が検出され、平成7年に境内から銅鉾が出土するなど、その歴史の古さを物語っている。
 ところで、用明天皇二年始鎮の根拠はどこにあるのだろうか。『越知町史』との齟齬(そご)をどう解釈すればいいのだろうか?
(続く)





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職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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