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 かつて宇和島領(南宇和郡愛南町)に若宮神社が集中していたことを紹介した。仁徳天皇陵と若宮神社”を参照してほしい。江戸時代初期の寺社政策により、村ごとの産土神の成立に伴い、先祖を祀る若宮神社のインフレーション現象(“江戸時代の若宮八幡は先祖を祀っていたがあったと考えられる。とりわけ南宇和郡愛南町に密集する若宮神社の祭神が仁徳天皇(大雀命)なのか、それとも先祖神なのかについて愛媛県側の資料を調べなくてはと思っていた。

 お盆休みに入って、久しぶりに橘洞門を越えて愛媛県へ足をのばした。台風10号が通過する前日のことであった。既に雨も降り始めていたが、砥部町立図書館で『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、1974年)に目を通すことができた。「若宮社」に関する記述は予想をはるかに上回る驚愕の内容であった。

若宮社

 若宮神社は本宮(もとみや)に対して御子神を奉斎する宮の意である。本宮の御分霊を奉斎する宮は本宮に対して今宮、又は新宮と称える。
 県内には若宮神社は六八社(うち境内社四五社)。住吉若宮(八幡浜)・鎮守若宮(松山)・橘若宮(松山)・八幡若宮(松山)・若宮護国(宇摩)神社の如く称えて、御祭神等を表示した神社もある。
 御祭神は四五種以上を数えられるが、仁徳天皇(大雀命)を奉斎した神社が最も多く、二四社に及ぶ。そのうち南宇和一五社は全部大雀命を奉斎している。これは京都の石清水八幡宮の若宮にならったものと思われる。
(『愛媛県神社誌』より)

 愛媛県の若宮神社は68社(うち境内社45社)御祭神は45種以上を数えるというから、先祖神を祀るところが多いようである。そんな中で仁徳天皇(大雀命)を祭神としている神社が24社。そのうち南宇和15社は全て大雀命を奉斎しているというのだ。由緒までは知ることができなかったものの、
南宇和郡愛南町の若宮神社の祭神は全て仁徳天皇であった。
 明治初年時点では伊予国宇和郡のうち現在の南宇和郡の全域が宇和島藩領であった。『旧高旧領取調帳』に記載されている村浦は15村6浦で以下の通り。
柏村、菊川村、内海浦、長洲村、平城村、和口村、長月村、城辺村、緑村、僧都村、広見村、増田村、正木村、小山村、中川村、満倉村、外海浦、鵜来島、母島浦、久保浦、小矢野浦

 一方、愛媛県社寺関係古文書「宇和島領中神社員数当用授書」(宝暦十年、1760年)に記録されている若宮神社の鎮座地は次の17村浦。
緑村、和口村、僧津村、正木村、板尾村、長洲村、久良浦、越田浦、小浦、船越浦、久家浦、内海浦、福浦、中浦、洲之川浦、平磐浦、家串浦
 異なるところもあるが、かなり重なっており、村浦ごとに若宮神社が各一社、すなわち「一村浦一若宮」しかも仁徳天皇を祭神としていることから、この地域が愛媛県の中でも特殊な性格を持つ場所であったことが推測される。
 愛媛県でありながら、南宇和郡は高知県幡多郡に隣接しており、縄文時代から幡多地方と同一文化圏とされてきた。そのことは大分姫島産の黒曜石が四国南西部に分布していることからも分かる。豊後水道は満ち潮なら南から北へ、引き潮なら北から南へと海流ができる。縄文時代の丸木舟でもこの潮の流れを利用すれば豊後水道を渡ることができたのだろう(“縄文人は豊後水道を渡った”)。船を生業とする一族は九州とのつながりを持っていたであろうし、そのことが南予地方の海岸集落に白王神社や若宮神社が祀られていることと何か関連がありそうだ。さらに踏み込んだ調査が必要なようである。


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 令和を迎えてすでに4か月。「九州年号見つけた!」シリーズを充実させようと思いつつ、月日が過ぎてしまった。そんな中、ブームに乗っかろうとしたのか分からないが、『辞典 日本の年号』(小倉慈司著、2019年)という本が7月に出版されていた。

 「大宝」については次のように書かれている。
 『続日本紀』大宝元年(七〇一)三月甲午(二一日)条に「対馬嶋、金を貢ぐ、元を建てて大宝元年としたもう」と記されており、対馬からの貢金がきっかけとなって大宝の年号が定められた。
 「元を建て」と表現されていることから、「大宝元年」は実質的な意味で大和朝廷の「建元」と考えられる。はしがきで著者も述べているように、年号を建ててはじめの年を定めることを「建元」、年号を変えてはじめの年を改めることを「改元」と言う。
 けれども矛盾したことに、この本では「大宝」以前に「大化」「法興」「白雉」「朱鳥」などの年号が使用されていたことが紹介されている。まず「大化」については「倭国で初めて公的に使用された年号」とされ、その訓みについては次のような興味深いことが出ている。
 「大化」が当時、何と訓まれていたかは未詳であるが、『日本書紀』巻二五の現存最古写本である北野天満宮所蔵本(院政時代初期写、付訓も同時期と推定されている)では大化元年七月丁卯朔条に「タイクワ」との傍訓が振られている。
 「か」を「くわ」のように発音するのは熊本弁の特徴である。「大化」が熊本を拠点とする九州王朝の年号であったとしたら、当然ながら「タイクワ」と訓まれていたであろう。昔は「か」「くわ」の発音の違いによって肥後国に潜入した間者(スパイ)をあぶり出していたという話を聞いたことがある。
 「法興」に関しては、九州年号とも大和朝廷の年号ともはっきり分からない年号である。『釈日本紀』巻一四所引伊予国風土記逸文に引かれる湯岡側碑文に「法興六年十月、歳在丙辰」と見え、越知国の紫宸殿(合田洋一著『葬られた驚愕の古代史』参照)との関連が想定される年号のようにも思われる。いくつかの仮説は出されているが、今後の研究課題である。
 「朱鳥」については「白雉同様、同時代の金石文や木簡に朱鳥年号が記されたものは確認されておらず、干支表記が用いられている」と著者は述べているが、実は土佐に「朱鳥二年」(687年)と銘打たれた刀剣があったと『皆山集①』に記録されている。詳しくは“九州年号見つけた②ーー菅原道真の刀剣に刻まれた「朱鳥」”を読んでほしい。

 九州年号の痕跡は日本全国いたる所に見られる。もはや九州年号の存在を無視して古代史を構築することには無理がある。また九州王朝説を主張する側も九州年号に対する理解をさらに深め、九州年号についての啓蒙やデータ収集を進めていく必要があるだろう。

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 授業前に生徒たちが夏休みの課題「読書感想文」の話題で盛り上がっていた。そこでつい「良い読書感想文を書くには」講座が始まった。
 「まず、良い読書感想文は本選びで8割が決まります……」
 これは読書感想文に限ったことではなく、「ボーリングは自分に合ったボール選びが8割」とか、「良い授業は教材選びと段取りで8割決まる」など。8割決定論はいろいろな分野で応用がきく。
 さて、物語文は主人公「誰々が何をする物語」というように要約することができる。例えば『ハリー・ポッター』であれば、主人公ハリーがヴォルデモートと戦う物語とでもまとめることができる。しかしそれはあくまでも外面的なストーリーである。物語にはこの外面的なストーリーと並行して内面的なストーリーが展開する。『ハリー・ポッター』の本質は、主人公ハリーが周囲の人々との関係性を通して内面的に成長していく物語なのである。著者は外面的なストーリーを描くのが目的ではなく、内面のストーリー展開を通じて自身の主張したいテーマを表現していくものなのだ。当然ながら良い読書感想文はその内面のストーリーに言及しているものである。
 そして、良い本選びとはその物語の内面のストーリーが読者自身の通過してきた心情の世界とオーバーラップする本を選ぶということである。そのようなベストマッチな本と出逢えれば8割方良い感想文が書けるものなのだ。もちろん残り2割は書き手の資質にもよる。
 実は『ハリー・ポッター』で読書感想文を書くのは、ちょっと難しさもある。それは『ハリー・ポッター』シリーズの中心テーマが聖書と関連しているからである。キリスト教のバックグラウンドがほとんどない日本人にとっては、理解しがたいかもしれなが、作者J・K・ローリングの作意をくみ取ると、そう思えて仕方がない。
 著者は喫茶店にコーヒー1杯でこもりながら、まず最終章第7巻のエンディングをイメージして執筆を始めたという。推察するに「死なんとする者は生きる」(マルコによる福音書8章35節)というイエスが語った聖書の中心的なメッセージが第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』という作品に描かれていることから、そこに著者の主題が込められていると考えていいだろう。
 そして、第1~3巻に込められた「愛・信仰・希望」というテーマ。間違いなく彼女は1巻ごとに聖書的なメッセージを盛り込んでいる。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」(コリント第一の手紙第13章13節)

 第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』では両親がいないことに寂しさを感じるハリーであったが、最終的に親から愛されていたということに気づき、試練を乗り越えていく。
 第2巻『ハリー・ポッターと秘密の部屋』ではピンチに陥った時にダンブルドア校長を信じることで強力な武器を取りだすことに成功し、危機を切り抜ける。
 第3巻『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』では、活力を吸い取ってしまう吸魂鬼(ディメンター) に取り囲まれ、希望を見出すことができないような絶望的な状況下で希望を持ち続け、守護霊の呪文を成功させて未来を切り開く。
 これまでに果たして『ハリー・ポッター』シリーズがキリスト教文学だと評論する人がいたであろうか? 私が書評を書くとしたら、声を大にして言いたい。『ハリー・ポッター』は最高のキリスト教文学であると。そして著者J・K・ローリングの純粋な動機を神様が良しとしたからこそ、これほどまでに全世界的にヒットしたのではないかという気がしてならない。



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 「咲いたコスモス、コスモス咲いた」
 sin(α+β)=sinα cosβ+cosα sinβ
 『ドラゴン桜』などにも紹介された三角関数の加法定理の覚え方である。「おもしろ授業」風に始めてしまったが、実はコスモスは財田(さいた)町の町の花なのだという。
 古くは「たからだ」と読んた例もあるようだが、現在の地名としては「さいた」と読む。簡単そうで県外の人には読みにくい地名である。

 香川県における高良神社の密集地帯として、前回までに財田川水系4つの高良神社について紹介した。次の表を参照してほしい。
<財田川水系に集中する高良神社>
 香川県の高良神社①――財田西の高良神社
 香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社
 香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社
 香川県の高良神社④ーー本山の高良神社
 香川県三豊市財田町にはもう一つの高良神社がある。財田町財田上2336に鎮座する鉾八幡宮の境内末社である。鉾八幡宮のホームページより引用する。

鉾八幡宮

 奉祀(ほうし)祭神
 ☆大鞆別命(おおともわけのみこと)(応神天皇)
 ☆息長足媛命(ながたらしひめのみこと)(神功皇后)
 ☆玉依媛命(たまよりひめのみこと)(女性神)
 鎮  座 天正6年(1578)橘城主大平伊賀守国秀建立
 由  緒 財田三郷の御神体の鉾を祀る
 鉾の由来 古事記より「天の沼矛」の記・・・生成発展の根源
 神  宝 銅鉾:3剣、木造狛犬:1対(邪気除け・守護)
 社  殿 神明造り(銅板屋根)
 鳥  居 八幡鳥居
 例  祭 10月第一土、日曜
 境内末社 高良社 宝田宮社 稲荷社
 境 内 地  49,940㎡(15,040坪)
御鎮座の由緒
 財田三郷とよばれていた財田上、財田中、財田西にはそれぞれ御神体として鉾がお祀り(まつり)されていた。
 天正六年(1578)時の橘城主大平伊賀守国秀が、現在の七尾山に社殿を建立。財田郷鎮護の神として、この三郷の鉾を合わせ祀り、伊予国三島宮神主 宮崎大和守を祀官として迎え、以来財田郷総氏神として祭事を継承現在に至る。
鉾の由来
 鉾は矛・鋒・或いは穂木(ほこ)等の字で現されている。古くは武器であったものが、平安時代以降、皇宮祭儀の儀仗、或は神事芸能の(執)物として使われて来たものである。神代の昔、天神は伊邪那岐、伊邪那美の二神に「天の沼矛」を授けて国作りを命じられ、二神はその矛の先よりしたたり落ちる潮が凝り固まりて出来た島に降り立ち国生みがなされた(古事記)即ち、矛は生成発展の根源を成すものであり、神と人、人と人との仲をとり結ぶ絆として尊び、時として神の宿る御神体として祀り、或は神宝として神前に飾り「まつり」の御道具として用いられている。財田郷総氏神は郷土の安泰と生成発展の願いをこめて、鉾を御信宝として祀られている。
 財田三郷にはそれぞれ御神体として鉾が祀られていたというのだが、それらはどこにあったのだろうか。鉾八幡宮の鎮座は天正六年(1578年)であるが、境内末社である高良社(こうらしゃ、祭神:竹内宿禰)の鎮座は文亀2年(1502年)となっている。鉾八幡宮が鎮座する以前に高良社があったことになる。このような事例は他県にも見られ、高良神社の鎮座地に八幡宮が建てられた例がある。栃木県の友沼八幡宮(下都賀郡野木町友沼912)の由緒には、八幡宮の創建に先立って既に高良神社が鎮座していたことが書かれている。
 そうなると御神体の鉾も高良社に伝世されていたものではないかとの推定ができそうである。根拠はどこにあるのか。鉾はそれぞれ財田三郷とよばれていた財田上、財田中、財田西に祀られていたとされる。「香川県の高良神社①――財田西の高良神社」で、すでに言及しているように高良神社は財田西に一社存在する。ところが『西讃府誌』には「中之村」の記述中に「高良大明神 宮坂ニアリ」と出てくる。現在の財田中である。そして今回紹介した財田上……財田三郷の財田上・財田中・財田西の3つのピースが見事に合わさった。アニメ『ワンピース』も隠された歴史がストーリーの背景にあるようだが、今回の発見は「高良神社の謎」に迫る重要なカギを握っているといえよう。
 かつて九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏があった。銅鐸圏の国々を東鯷国や狗奴国に比定する説もあるが、いずれにしても香川県西部は銅剣・銅矛文化圏の東限にあたり、邪馬壹国連合の最前線に相当する地域であったと考えられる。観音寺市や三豊市周辺は古墳地帯になっていることからも、この一帯は瀬戸内海交通の重要拠点であったようだ。そのために財田川水系が水軍の拠点とされたのであろう。
 神社合祀令によるものか、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもので、多く九州系の神々が含まれている。

 当然ながら、高良社については明治末の神社整理によるものではない。宝物庫の左、石積みの上に建てられた神明造りの高良社は格式高く、あたかも宝物を守っているかのようである。由緒でも「天正六年(1578)三村に鎮座していた神社を七尾山に社殿を建立し合祀した。御神体は鉾なので鉾八幡宮と称した。文亀三年(1503)以前の御神体の鉾、天正六年詫間村浪打八幡宮より治められた鉾二口は現在も宝物として保存している。旧社地はいずれも鉾の宮といい、今なおこの称がある」とされている。
 「鉾の宮」と呼ばれる旧社地がどこなのか、地元の人の教えを請いたいところである。高良神社の社領は淡路島では神代(くましろ)、徳島県の高良神社密集地帯では山城(やましろ)と呼ばれたのではないか。そして香川県最多の高良神社地帯における高良神社の社領「高良田」が訓読みされて「たから田」、さらに「財田」という二字の好字に置き換えられ「さいた」と音読みされた……。これは勝手な想像であるから軽く聞き流してほしいところだが、三豊地区にこれだけ高良神社が集中していることをことを考えると荒唐無稽ともいえないのではないか。
 香川県西部の高良神社はこれだけではない。まだ紹介できていないところがあるので、追って取り上げていきたい。


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 香川県最大の高良神社といえば、やはり四国八十八ヶ所70番札所本山寺(三豊市豊中町本山甲1445)に隣接する高良神社であろう。ここもまた財田川流域の要衝の地である。四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4か所だけという五重塔が目印。大同2年(807年)平城天皇の勅願により、弘法大師が70番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残る。天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれる。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。その後、「本山寺」と名を改めた。

 近隣の神社などについては案内板に描かれているが、隣接する高良神社については何も見あたらない。本山寺境内はお参りや五重の塔を撮影したりする参詣客でにぎわっていたが、塀を1枚隔てた高良神社を訪れる者は誰もいなかった。もともと寺家村の氏神とされているわけだから、よそ者が来ることを歓迎していないようでもある。

 しかし古い史料では高良神社が大きく描かれていた時期もあり、長福寺(本山寺)は高良神社の神宮寺という位置づけだったのかもしれない。秋の大祭では盛大に神輿が出るということを近所の人からも聞いた。

 静謐(せいひつ)な境内には「高良神社のクスノキ」と呼ばれる香川県の保存木も存在する。勧請元である久留米の高良大社にもクスノキ(県指定天然記念物)があり、高良大社縁起書『高良記』によれば、「クスの木は神木として、御社殿等の用材としても一切使用しないという秘伝がある」と述べられている。

 拝殿の中には武内宿禰と見られる人物を中心に5枚の絵が飾られていた。『西讃府誌』では「高良大明神 祭神武内大臣 祭禮八月十七日」としているが、『豊中町誌』(豊中町誌編纂委員会、昭和54年)を見ると、少し違う解釈もあるようだ。

高良神社(旧村社)

豊中町大字本山甲一四四八番地一
玉垂命(一説に猿田彦命)
 「社伝」によると、貞観十四年(八七二)、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山から勧請して当地の岡本村(寺家・岡本・本大村)の氏神として奉斉したと伝えられている。その後衰頽していたが、宝暦十二年(一七六三)、 本大、岡本、本ノ大村の三か村の人々によって再興され、八幡宮とともに総氏神として祭祀した。明治五年神社社格改訂の折、寺家村の氏神として祭祀を行うことになった。『西讃府誌』に「祭神武内大臣…社地四段四畝、神田六石六斗」と記されている。

 さて、社伝によると872年、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山(高良大社)から勧請したとされている。
 田井式部についてはっきりしたことは分からないが、田井姓については『
日本姓氏語源辞典』によると「①香川県高松市上田井町・下田井町発祥。平安時代に『田中』と呼称した地名。同地に分布あり」と書かれている。小豆島にも田井地名があり、徳島県海部郡美波町田井や高知県にも土佐郡土佐町田井という地名が存在している。また、武内宿禰の後裔とされる玉井姓や田口姓とも一字を共有していることが気になるところだ。
 田井式部と聞いてすぐに思い出したのは、大学時代に読んで感動した『対馬物語 日韓善隣外交に尽力した雨森芳洲』(田井友季子著、1991年)の著者であったが、歴史学者の
御主人は東京出身のようである。
 ちなみに高知県には土佐雨森氏(武家)の後孫となる雨森姓がいる。ルーツをたどると藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。この雨森良高はもと三左衛門良治といったが、父高良より自分の子の証明として与えられた薬籠(名香三種)に橘の紋が付せられていた。これを雨森氏の紋としたとの伝承がある。藤原北家の流れでありながら橘紋というのも不思議だが、あたかも「高良」の名を継承するかのように見えるのは偶然であろうか。

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 高知県土佐市に家俊という小集落がある。初めて聞いた時から地名というより人名のような印象を受けていたことは、まんざら筋違いでもなかったようだ。「家俊之村」は中世織豊期にみえる村名で、天正17年(1589年)の戸波地検帳に戸波郷の小村として記され、かつて家俊名があった。土佐市役所は高岡町にあるが、家俊は西部地域(戸波)の中心をなしている。この家俊に天草のジャコメ大矢野又十郎家俊が定住し開発したというキリシタン伝承がある。
 天正年間、天草から土佐に移住したキリシタン大矢野又十郎家俊のことは、高岡郡須崎町(現須崎市)矢野家文書の中に見えるという。

矢野家文書

大矢野民部大夫種保氏ニ三男子有リ
第一男子大矢野内蔵之丞種基ト称ス
第二男子大矢野喜十郎種存ト称ス
第三男子大矢野又十郎種家ト称ス
右三兄弟ハ蒙古大軍三拾余万人ヲ海底ニ落シ軍船数千ヲ打チ破レ武勇ノ軍行ニ因リ鎌倉殿下北条氏ヨリ御誉ニ預カリ領地沢山ニ益ス事有リ
右三男又十郎種家ヨリ数代ノ後チニ又十郎家俊成ル者深ク耶蘇衆信シ邪法(マホウ)諸人ニ行フト有リテ天正年間天草島立チ退ヲ命セラル附言ス又十郎家俊領地天草島ヲ立チ退キノ場合耶蘇衆秘伝を森惣意軒ニ伝授致シ候由後徳川家光公ノ時代二天草島一駅(揆)起リ天下ヲ駕シタル老将ハ此ノ森惣意軒ノ耶蘇衆ノ邪法ノ軍略也以下略ス
右大矢野又十郎家俊ハ四国地ヘ渡リ土佐国高岡郡戸波村ニ居住シ大ノ一字ヲ取リ除ケ矢野ヲノ二字ヲ頭名字ト直ス此レ即チ矢野氏ノ名初元也因テ高岡郡南部ノ矢野家ハ大矢野ノ血別レナリ
 すなわち、先祖は蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)のとき、肥後の菊池武房や竹崎季長らと出陣した大矢野種保・種村兄弟につながるという。兄弟の活躍は『蒙古襲来絵詞』にも描かれており、種保・種村兄弟は種能の子孫とみられる。また、絵詞には種保・種村兄弟らが桐の紋を打った旗を掲げて異国の敵に打ちかかっている様子が描かれている。
「五七の桐」の画像検索結果
▲大矢野氏の紋 「丸に五七の桐」

 この矢野家文書に書かれている事はどこまで信頼できるのだろうか。熊本県の大矢野島にはキリシタンに関する報告はたくさん残っているが、天正年間にキリシタンが土佐国に追放されたといった事例は見当たらないようだ。

 文書によると、島原・天草一揆の指導者であった森惣(宗)意軒は又十郎家俊からキリスト教の秘伝を伝授されたとある。小西行長にも仕え、大坂の陣では真田信繁の軍について戦うが落城し、肥後国天草島へ落ちのび、天草四郎の右腕となった人物だ。熊本県上天草市大矢野町中柳地区には森宗意軒神社もあり、「五三桐紋」が掲げられている。
 ルイス・フロイスの『日本年報』のオオヤノドノ(殿)ジャコメの欄には、天草領主ドン・ジョアン天草種元の甥であると報ぜられている。この人物が土佐へやって来たのだろうか。

 又十郎家俊は「キリスト教に深く帰依し邪法(マホウ)を諸人に行う」というのが彼の天草立ち退きを命ぜられた理由である。天正15年秀吉の宣教師追放令が発布され、天草の会堂が破壊されても天草はかえってキリシタンの盛時を迎え、キリシタン人口は3万人にも達した。キリシタン大名小西行長の支配となったこともあり、キリスト教の取締りは不徹底に終わった。

 一方、土佐ではキリシタンとなった幡多郡の一条氏は長宗我部氏に滅ぼされ、江戸時代になって山内家の治めるところとなったが、とりわけ島原・天草一揆以降はキリシタンに対する取り締まりはさらに厳しくなった。
 そのような中にあって一揆の首謀者との関係を示すような文書が矢野家に存在しているということは非常に危険なことである。ずっと後代ならばまだしも、迫害の厳しい時代にそのような文書を偽作するとは到底考え難い。
 問題は別にある。大矢野又十郎家俊が土佐に移り住んだのが天正15年(1587年)以降だとすれば、検地の時点と近すぎるのである。『長宗我部地検帳』には「家俊之村」とあるが、他国から来て1、2年程度ですぐに地名に反映し、「因テ戸波村ニハ家俊ト称ス小部落有リ」としているのはこじつけのように思える。
 『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する論考の最後に、尾崎糺氏は「戸波の小字『家俊』の地名の由来は『家俊大良衛門』という姓によったもので『ジャコメ大矢野又十郎家俊』の名前に由来するのではないと考える」と付け加えておられる。移動の時期が間違っていなければ、もっともな推論である。地検帳に複数見られる矢野氏の大元の先祖とはなり得ず、一家系の先祖にすぎないことになるだろう。家俊小学校の卒業生名簿を見ても、約5分の1程度が矢野姓である。
 しかし、「土佐の豪族片岡氏のルーツは平氏か源氏か?」で言及したように、伝承より事実はもっと古かったということもあり得る。公の歴史に現れない家伝が、有名な表の歴史によって付け足され、補強されることがあるからである。もしかしたら、キリシタン云々を抜きにして、さらに古い時代に土佐へ入国した矢野氏の祖となる大矢野氏がいたのではないだろうか。「戸波の家俊は、キリシタン伝承の話題となっているが、宗教的な遺跡はまだ発見されていない」と『増補版・土佐とキリシタン』(石川潤郎著、2002年)は述べている。

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 「土佐市戸波の宮原村①」を書いた時点では旧宮原村の正確な場所をつかみきれていなかったが、新たな調査で分かったことを追記して紹介したい。
 よさこい祭りの前夜祭が行われる日、会場となる高知市内とは逆向きに車を走らせた。土佐市民図書館戸波分館――以前訪ねたときは閉館で、この日も図書館の担当職員不在で残念ながら閉まっていた。けれども2度目ということもあってか、対応して下さった男性が図書館のカギをあけてくれたのだ。臨機応変な対処に感謝である。
 郷土史関係の書籍としてはそれほどでもなかったが、宮原村を知るための資料が準備されていた。『学びの庭 戸波小学校100周年記念誌』(戸波小学校100周年記念事業実行委員会、2000年)に宮原尋常小学校のことが書かれていたのである。やはり地元のことは地元で調べてみるに限る。「戸波小の生い立ち」についてまとめられたページの明治時代、戸波村では五校時代から二校時代を経て、一村一校へと統合されていったことが書かれている。ここまでは以前紹介した通りである。

明治時代

 戸波村史によると、室町末期迄の記録は定かでないものの教育機関としては、寺院であり、僧侶により読書き、算盤を習っていたようであり古くから戸波は教育熱心なところがあったのが伺える。その後現在の戸波小学校の前身となる五校時代(資料1)を経、明治21年(1888年)二校時代(資料2)となった。さらにこの2校を合併する機運が徐々に高まり、明治31年(1898年)10月4日両校合同して戸波尋常小学校と命名するが、当初は宮原の一部の学年を家俊に移すのみで両校において存続されていた。明治32年新校舎建設に着手し同33年(1900年)6月18日、新校舎落成し、両校の職員・児童が新校舎に集い入校の式典を盛大に行い名実共に一村一校(資料3)となりこの日を開校記念と定められた。又、同(1909年)42年10月1日には現在の校章が制定された。


 とりわけ二校時代(明治21~31年)の資料2に学校の位置まで示してあった。宮原尋常小学校の住所は本村宮ヶ原911ノ2~3番地。もう一つの家俊尋常小学校は家俊窪田1282~5番地となっている。卒業生名簿を見ると毎学年約5分の1の割合で矢野姓が占めており、戸波校区において最も多いことがわかる。また校舎の所在地に関連すると思われる久保田姓は見られるが、宮原姓は見つからなかった。宮原姓は高知県では激レアなのである。ちなみに「宮原」姓については福岡県が最も多く、次いで東京都、長野県の順となっている。

 さて、現地を訪ねてみると宮原小学校の跡地が見つかった。今は民家もわずかであるが、かつては旧道に沿って飲み屋が立ち並ぶ繁華街もあったという。

 急な階段を登った鉄砲辻の上が宗像神社が鎮座する宮本。そのすぐ南がかつて宮原小学校があった宮ヶ原。そして宮原村としては波介川の対岸も含んだもう少し広範囲な地域であったようである。かつて宮ノ原には神に仕え、神楽を舞う佾(いち)が住んでいた。宮ノ原とは本来は祭祀が行なわれるような場所ではなかったのだろうか。
 少し不思議なのは、宗像神社が現在は北向き鎮座なのである。ほとんどの神社は南向きに鎮座しているもので、安芸市赤野の大元神社などを含め北向き鎮座は少ないはず。元々は宮ノ原を見下ろす南向きではなかったのだろうかと想像する。




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 高知市の西、土佐市家俊に有限会社天草工業という建設会社があるのを見かけて驚いたことがある。なぜかというと、私の兄弟は熊本県の天草工業高校を卒業しているからだ。きっとここの社長さんも天草出身で、天草工業高校の卒業生なのではないかと想像が膨らんだ。
 その確認は出来ていないが、『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する尾崎糺氏の論考が気になった。次のような内容が紹介されている。

大矢野又十郎家俊

 肥後国(熊本県)天草に石高四万余を領する大矢野城主大矢野民部大夫種保が居り三人の男子が居た、この兄弟は蒙古襲来のとき大手柄を挙げ、鎌倉の北条氏により領地の加増を受ける。
 この大矢野又十郎家俊なる者は耶蘇教を信仰し、諸人に広めた。此の事により、天正年間(一五七三~一五九一)豊臣秀吉により天草島立ち退きを命じられ四国へ渡り土佐国高岡郡戸波村に居住して、大の一字を取り除いて「矢野」の二字を名字とした。高岡郡南部の矢野氏は大矢野の一族である。
 戸波から南へトンネルを抜けて海岸に至る山の中腹に「大矢野」と呼ばれる矢野氏が今も存在する。又、蓮池村茶円にもその一族があり長宗我部地検帳に給地の表示が残っているのでその一部を書き出して見る。
 ……(中略)……

おわりに

 戸波の小字「家俊」の地名の由来は「家俊大良衛門」という姓によったもので「ジャコメ大矢野又十郎家俊」の名前に由来するのではないと考える。

 豊臣秀吉は、初めキリスト教の布教を認めていたが、1587(天正15)年、九州平定におもむき、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることを知って、まず大名らのキリスト教入信を許可制にし、その直後バテレン(宣教師)追放令を出して宣教師の国外追放を命じた。

 秀吉がキリスト教に対して強硬な態度を取るようになったいきさつについては、土佐国も無関係ではない。
 1596(慶長元)年、土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が、スペインが領土拡張に宣教師を利用していると証言したことから(サン=フェリペ号事件)、秀吉は宣教師・信者26名を捕えて長崎で処刑した(26聖人殉教)。その背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立もあったとされる。

 大矢野島は現在上天草市となっているが、江戸時代初期に島原・天草一揆(1637年)の火種となったところである。バテレン追放令後も大矢野一族は信仰を守り続け、大矢野島は天草におけるキリスト教信仰の中心地として栄えた。この大矢野氏の庇護があってこそ、天草(益田)四郎時貞が神の使者として出現し、宣教師が残した預言の成就を人々に印象付けることとなった。

 その大矢野一族の一人である大矢野又十郎家俊なる人物が、
豊臣秀吉により天草島立ち退きを命じられ、四国へ渡り、土佐国高岡郡戸波村にやってきたというのだ。
 尾崎糺氏も「遠い肥後の天草より戸波村家俊に流れてきたキリシタン、『ジャコメ大矢野又十郎家俊』が長宗我部軍団の一員となりカタバミの旗の下で戦国の世を生き抜く姿はロマン漂う」と述べているように、これが歴史的事実であるとは一見信じがたい。
 はたして熊本と高知との歴史的なつながりはありやなしや? 大矢野又十郎家俊が肥後から土佐へやって来たとする根拠はどこにあるのか。それを事実と肯定するに足る整合性は存在するのか。「論理の赴くところへ行こうではないか。たとえそれがどこであろうとも」――後編ではそれらについて、深く掘り下げて考えてみたい。(後編に続く)


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 "ストーリー記憶術①「豪華客船で仮面舞踏会」編"に続く第二弾。お待ちかね「マーガリンを二重に乗っけると…」編です。
 皆さん、朝食はご飯派ですか、食パン派ですか? 食パンにはマーガリンを塗りますよね。「いや、ジャムを塗ります」なんて言わんといて下さい。ところで、食パンにマーガリンを二重に乗っけると付加価値が付いて高価になるという話を聞いたことがありますか?



マーガリンを二重に乗っけると
    二重結合 ニッケル触媒
付加価値が付いて高価になる。
水素付加   硬化油

 二重結合を持つ脂肪油に、ニッケルを触媒として高温で水素を付加させると、常温で固体の油脂に変化します。このようにしたものを硬化油といいます。硬化油はせっけんやマーガリンの原料に使われます。




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 歴史の研究においては、自然科学のように明快な解答が出ることは少ない。土佐国高岡・吾川両郡の北部地方に中世、勢力を伸ばした豪族片岡氏の出自と土佐入国の時期については大きく2説に分かれる。

平氏説(八幡荘伝承記・片岡物語等)

 桓武天皇の三代目高望(八八九年)平氏を賜り、その十一代目の経繁は上野国(群馬県)中野荘片岡城主で、坂東太郎と名乗り平清盛の家人であった。

源氏説(高吾地方の片岡氏家系図等)

 桓武天皇より百余年後、宇多天皇の二代目雅信(九二〇年)源氏姓を賜るものと、醍醐天皇の子高明(九二〇年)第一源氏姓を賜るものとあり、この両者を始祖として数代続いた後、忠綱より以後は同一となり上野国片岡郡に食すとある。



 源氏説では応永十八年(一四一一年)十二月、片岡左衛門大夫直綱のとき土佐の新居浜(現土佐市)に上陸し、仁淀川を遡上し、徳光村(現越知町片岡)に落ち着く。また別家の系図には、足利義政に仕え、応仁の乱の忠勤により地頭職として文明年間の初め(一四七〇年頃)土佐に入国し、吾川郡小川郷徳光村に住むというものもある。
 平氏説、源氏説ともに直綱以後は同一であり、それから七代続き、光政が九州大分の戸次川の戦で戦死したため豪族としては絶えた。

 問題はこの応永十八年(一四一一年)土佐入国説なのだが、『佐川史談 霧生関38号』(佐川史談会、平成14年)に「豪族片岡氏の土佐入国の考察」という中山半氏の論考がある。
 片岡氏によって創建されたとされる天忠寺に関して、中山氏は明徳四年(一三九三年)土佐国吾川郡波川(現いの町)に生まれた僧・義天玄詔との関わりに注目した。天忠寺の創建年月について「義天の記録から推測して南北朝時代末期、少なくとも応永年間以前であることは否定できない」とし、「源氏説の直綱の土佐入国以前に天忠寺があり、それに肩入れした豪族片岡氏が存在したことは明らかである。従って源氏説にいう片岡直綱が初めて土佐に入国したということはあり得なかった」と中山氏は結論づけている。

 調べてみると、伝承よりも事実はより古かったということは他でも聞いたことがある。「応永十八年直綱の土佐入国説」も何らかの事実を反映した内容があるかもしれないが、土佐の片岡氏の歴史はもっと古くから連綿と引き継がれていたと考えるべきだろうか。
 最後に『越知町史』(越知町史編纂委員会、昭和59年)の見解として「片岡氏の系譜について」(P296)と題する内容を引用しておく。

片岡氏の系譜について

 片岡氏に関しての史料は歴史学的に確認されるものは何もない。ただ「八幡荘伝承記」、「片岡物語」と「片岡盛衰記」、各地の片岡家に所蔵する「系図」くらいのものである。
 八幡荘伝承記や片岡物語はその原書の実態の明分しない「幻の文書」とされてその真価が問われず文字通り伝承の域を出ない。片岡盛衰記も部分的なもので、いつ、誰の筆になったものかも分からない。各地に散在する系図にいたっては、各種、各様で、一定せず、何れとも判断はできない。
 もっとも大きな疑問とするところは、すでに記したように、前期片岡(直綱以前)と後期片岡(直綱以後)の関連の有無だが、前期片岡に関するものとしては、「伝承記」、「物語」のほかには一枚の文書も、棟札の一つもない。河間光綱はじめ、斗賀野・佐河・越智・三宮・近藤・麻生など高北各氏の登場する佐伯文書の中にも片岡の名は出てこない。だがこのことをもって前期片岡の存在を否定することはできない。片岡氏にかぎらず、そのころ(応永以前)の棟札をのこしている社寺はこの地方にはほとんど無く、また佐伯文書の時代にしても、片岡氏には他族ほどの南北攻防に積極性はなかったかも知れない。要するに伝承記や片岡物語が語る河間対片岡の執拗な争剋が虚構とは考えられない。
 また、系譜としては、谷秦山の著「土佐遺語」や奥宮正明の「土佐国蠧簡集」などにある片岡系譜が史料として引用されているが、これらにしても編者が、片岡家の系図を史料としただろうが、それぞれ相違している。後年では寺石正路の「土佐名家系譜」、高木孫四郎の「片岡城」などがあるけれどもこれらも前者と同じくまちまちである。
 伝承記や片岡物語では平家の出自となっているが、各地にある片岡系譜は源氏の出自とし、なお宇多源氏、醍醐源氏などの異説となっている。
 

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『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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