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 長引くコロナ禍にあって、県や地域を越えた研究協力がより一層必要と痛感させられるこの頃である。そのような中にあって、弊ブログ『もう一つの歴史教科書問題』をご覧になった読者から、メッセージや情報提供などをいただくことは何よりも有り難く、研究の糧にもつながっている。直接、返信できない方々も多いので、この場を借りて感謝の意を表したい。
 九州と科野のつながりを研究されている上田市の吉村八洲男氏によると、長野県には高良神社(合祀や境内社など含む)が23社見つかっている。一方、現在分かっている範囲で、滋賀県には6社、大阪府にも5社といった分布を示しており、「九州王朝系近江朝説」や「前期難波宮九州王朝副都説」との相関関係があるかどうかは今後の研究課題である。
 高良神社の密集地帯である長野県と滋賀県に挟まれた岐阜県ではどうなのだろうかと疑問を持ったのがきっかけであった。壬申の乱(672年)では伊勢国や美濃国など東国の支援を受けた大海人皇子(のちの天武天皇)が、大友皇子の軍を破って勝利し、政権の座に就くことになる。天武天皇をバックアップした勢力が九州王朝系なのか、それとも反九州王朝勢力なのか。高良神社の有無が一つの目安になるのではないかと考えたのだ。
 当初、美濃国は高良神社の空白地帯(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と思われていた。ところが犬塚幹夫氏のご指摘のように、不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社(“岐阜県の高良神社②ーー不破郡垂井町の勝神社(前編)”)があったのだ。この地域の軍隊が先んじて不破の関を押さえたことが、壬申の乱の勝因にもつながっており、その勢力の背景は天武天皇政権のアイデンティティーにも関わる意味を持つ。

 室伏志畔氏は著書『伊勢神宮の向こう側』(1997年)で、伊勢神宮の「二十年式年祭」のルーツを壬申の乱から20年後となる持統天皇の692年の伊勢行幸に求めている。信州の穂高神社にも同じ「二十年式年祭」があり興味深いところであるが、さらに注目すべきは伊勢神宮にまつられている天照大神が、岐阜県瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座していたとの伝承である。
 『日本書記』や『倭姫命(やまとひめのみこと)世紀』等に、次のように書かれている。「垂仁天皇の時、倭姫命に命ぜられ、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」――瑞穂市の伊久良河宮跡は、いわゆる「元伊勢(もといせ)」と呼ばれている。その瑞穂市は「倭王(松野連)系図」に記載されている十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、倭王の流れを汲む後孫らしき松野姓の濃密分布地となっている。
 また、古田史学の会・東海の竹内強会長は『東海の古代』第120号(2010年8月)「伊勢湾・三河湾への海人族の伝播(5世紀後半から6世紀)」の中で、①横穴式石室の分布 ②済州島の海女の風習 ③製塩土器などについて考察し、「こうしたいくつかの実証的例はこの地域(伊勢湾岸・三河湾岸)が5世紀頃から北部九州・玄界灘・朝鮮半島南岸と直接深く関わっていたことを証明している」と論じている。

 『伊勢物語』で知られる在原業平が880年美濃権守に任じられ、美濃国府(現・垂井町府中)に赴任した際に、2kmほど離れた垂井町表佐に館を建立したと言われている。業平が亡くなったあと、天皇の勅願により館跡に開創された業平寺(現在の在原山薬師寺)は、「筑後玉垂命」を祀る勝神社のすぐ南の地にあった。


ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれないに 水くくるとは
          在原業平朝臣




 紀貫之は『古今和歌集ー仮名序』において「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし」と評した。蕨(わらび)灯籠の立ち並ぶ勝神社境内の紅葉は、5月だというのに唐紅(からくれない)に染まっていた。しぼめる花(九州王朝)の色なくてにほひ(痕跡)残れるがごとしと言うべきか。歴史の真実を伝えたい心情のみが先立って、正しく理解してもらうための論理や表現の不足を感じる。


 

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 「高良神社の謎」シリーズも県外へ足を延ばし、四国を出て関西・中部地方まで情報網を広げるようになった。そんな矢先、新型コロナウイルスの蔓延により、複数の都道府県で緊急事態宣言が出される状況になり、現地を訪れる機会はめっきり減ってしまった。
 先ごろ(2020年)、岐阜県で高良玉垂命を祀る神社は朝浦八幡宮のみ(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と拙ブログで紹介したところ、すぐさま福岡県の犬塚幹夫氏より情報提供があった。「実はもう一社、勝神社という神社があります」とのこと。情報をもとに調べてみると、確かにその通りであった。

 不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社があったのだ。表向きは高良神社ではないので、岐阜県神社庁のサイトの検索にかからず、祭神としても高良玉垂命でもなく武内宿祢でもない。筑後玉垂命として祀られる例はこれまで見聞きしたことがなかったのだが、高良大社(福岡県久留米市御井町1)が筑後国一宮であることから考えても、高良神社の祭神として間違いなさそうである。
 これに対して、美濃国一宮は金山彦を祭神とする南宮大社(不破郡垂井町宮代1734-1)である。古くは仲山金山彦神社と呼ばれたが、美濃国府の南に位置するところから南宮神社と称するようになった。ここには古代官道の駅制に使われた駅鈴が保管されており、毎年11月3日には公開されている。
 その東隣りに大領神社があり、祭神は壬申の乱で功績のあった大領宮勝木実(みやすぐりこのみ)とされている。この宮勝氏について『岐阜県史 通史編・古代』(岐阜県、1971年)では、『新撰姓氏録』の「不破勝氏 百済国人渟武止等(ぬむしと)之後也。不破連氏 百済国都慕(つぼ)王之後毗有(びゆう)王ヨリイヅル也。」を引用し、不破勝氏・不破連氏ともに、「おなじ不破郡に定着した百済系の先進的な文化氏族とであったとしておくあたりが、一応穏当なのではなかろうか」(P189)との見解を示している。
 百済系渡来人が何の後ろ盾もなく、他国へ移り住むということは通常は考えにくい。倭国九州王朝は百済と同盟を結んでおり、古代寺院建設など技術を持った集団を九州王朝の中枢にいた有力者が用いたとすれば、話は理解できる。現に大領神社付近に宮代廃寺跡がある。
 さらに東へ1km余りの場所に鎮座しているのが、今回注目している勝神社なのである。『新修垂井町史通史編』(垂井町、1996年)に次のような記載がある。
 「従四位下勝氏明神 垂井町表佐字四番屋敷一七二九番地鎮座 (旧村社) 勝神社  祭神 勝氏明神 (相殿)受鬘命・筑後玉垂命・諏訪住吉 」
 正直なところ、この勝神社の位置づけをどう理解すべきか思案し続け、一年近く経ってしまった。この神社の本殿の北側には前方後円墳があり、鳥居前に立てられた古墳の説明板には次のような記載がある。
垂井町指定史跡
  勝宮古墳
        昭和三十五年一月二十六日指定
 この古墳は、全長三〇メートルの前方後円墳で、勝神社本殿の北に接しており、東側を流れる相川の氾濫のため周囲の地形が著しく改変されていて、現在は後円部と思われる部分のみ残っている。かつて、古墳の周囲の地中三~五メートル付近から、粘土に混じって須恵器や土師器の破片が出土したと伝えられている。勝神社の祭神、筑後玉垂命(武内宿禰)の墓として信仰されている。
   平成二十九年五月   垂井町教育委員会

 相川をはさんだ北側にも直径40mの大形円墳である綾戸古墳(垂井町綾戸907)があり、須恵器の三足壺が出土。こちらも武内宿禰の墓との伝承が伝わる。高良玉垂命を武内宿禰に比定する説もあるが、勝神社が「筑後玉垂命」という名前を伝えているということは、大和朝廷の臣下などではなく、九州の筑後から直接来た神様であるとの主張が感じられる。
 以前紹介した朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神は飛騨国に、勝神社の筑後玉垂命は美濃国の中心部に祀られていたことが分かる。高良神社の空白地帯と思われていた岐阜県にも、かつて九州王朝の影響が及んでいたことを示しているのではないだろうか。もう少し深く掘り下げて調べる必要がありそうだ。


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 先日4月30日が図書館記念日だったということには気付かずに、オーテピア高知図書館に足を運んでいた。


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 「犬も歩けば棒に当たる」である。3階で“<企画展>『高知県神社明細帳』と土佐の『式内社』”を開催中であった。欲を言えば展示解説を聞きたいところであったが、日程が合わなかったようだ。PRを兼ねて案内文を引用しておこう。




 高知県立図書館の貴重資料の一つに『高知県神社明細帳』があります。


 『高知県神社明細帳』は、第二次世界大戦直後まで、国、県によって管理、運用されてきた高知県の神社の公的帳簿でした。


 今回の展示では、『高知県神社明細帳』の内容や来歴を紹介します。併せて、この資料に掲載されている古い神社の一群として、土佐の『式内社』21社も紹介します。


 『式内社』とは、西暦927年に朝廷が編纂した『延喜式神名帳』に名前が載る神社で、いずれも1000年以上の歴史を誇ります。


 この機会に、魅力的な資料や土佐の神社に親しんでいただけたらと考えています。



○開催期間


 2021年4月27日(火)~7月18日(日)



○展示場所


 オーテピア高知図書館 3階 展示室(猫の看板を目印にお越しください。)



○展示解説


 2021年4月29日(木・祝)、5月5日(水・祝)、22日(土)


 をはじめ、期間中の土日祝に合計7~8回開催します。
いずれも、13:30~(30分程度)


 <参加無料、申込不要>



 高知県の歴史を紐解く上で、『高知県神社明細帳』には私も随分お世話になった。閲覧のたびに申請書を書かなければならないのは手間であるが、資料の性格上やむを得ないことは承知している。
 ブログでも紹介して来たが、高知県には21の延喜式内社があり、土佐国七郡中で高岡郡には式内社が全く存在しない。九州年号「勝照二年(586年)」創建とされる小村神社(土佐国二宮あるいは三宮)でさえ、式内社としては記載されていないのだ。
 それはさて置き、今春発刊となった「古代に真実を求めて」シリーズの古田史学論集第二十四集『俾弥呼と邪馬壹国』(古田史学の会 編、2021/03/30)がオーテピアに置いてあるかどうか気になった。古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年を記念して制作された本であり、古田史学のエキスを知る上では恰好の一冊となっている。
 利用者数日本一を記録したオーテピア高知図書館であるが、県立図書館時代には目立つ位置に並んでいた古田武彦氏の著作シリーズ(主にミネルヴァ書房)が、高知市図書館と移転合併リニューアルに伴い、広くなったにも関わらず、大半が書庫にしまい込まれてしまったのだ。残念な限りである。
 備え付けのパソコンから「古田武彦」で検索してみた結果……。あった。しかも「NEW」マーク付である。探そうと思ったが、既に貸出中。情報にさとい古田ファンがいたものだ。

 実は高知県立図書館が閉館となる最終日、地元テレビ局のインタビューを受けたことがある。マスコミは自局の求めるコメントを引き出そうとするものである。その誘導を感じつつ、利用しやすくなることを期待する旨コメントしたつもりだ。
 学習室もできて、利用層は広がったかもしれない。しかし、研究者にとっては必要な書籍の多くが、毎回書庫から取り出してもらわないといけないことが多くなったようにも感じる。それと県外の『県史』や『神社史』関連の本が少ないようである。
 私の求める本がマイナーなためだろうか。この日借りた本3冊とも、書庫から出してもらったものであった。



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 香南市野市町といえば、日本一の人気を博した高知県立のいち動物公園(香南市野市町大谷738)があることで知られる。その東方1kmほどの場所に『三代実録』に記録された国史現在社・宗我神社(香南市野市町中ノ村534)が鎮座する。

 当初は香美郡に「コウラ」地名(“香美郡に「コウラ」地名が存在していた”)があることを確認するために現地に足を運び、そのすぐ近くに宗我神社があることを知った。その時点ではまだ、この社の存在する意味をよく分からずにいた。
 最近、安芸市の古代史を調査していくにつれて、蘇我氏とミヤケおよび条里制との関連性が見えてきた(“安芸市の条里制水田に九州王朝系蘇我氏が関与”)。そして安芸郡家近くには蘇我神社が祀られていたのだ。
 安芸市の事例を見た時に、もう一つのよく似た事例があることを思い出した。それが野市町の宗我神社周辺の状況である。香南市野市町は高知平野の東の端にあって東偏13度の条里制遺構が残る場所である。これは国府周辺の香長平野に広がる東偏12度の条里制地割とほぼ一致している。
 看板には宗我神社の説明が次のように書かれている。

 『三代実録』に記載される国史現在社。大正三年北方500mの曽我から現在地に移転。天正神社を合祭した。拝殿前左側に「古代寺院の礎石」円形二重柱座造出は町有形文化財考古資料。かつて御神宝として兎田八幡宮と同型の銅剣があったという。
 北方500mの場所には「ミヤケ」という地名遺称があり、付近一帯には曽我遺跡が広がる。漢字表記は「曽我」「宗我」であるが、安芸市と同様、蘇我氏との関連を考えてもよさそうだ。通説では大和国高市郡曽我を蘇我氏の出身地とし、『新抄格勅符抄』に「宗我の神」(806年)、『延喜式神名帳』に大和国高市郡に「宗我坐宗我都比古神社二座」などとある。野市町曽我の地に祀られた宗我神社は、むしろ本来の字形を残しているとも言える。屯倉(ミヤケ)の管理運営に関わった蘇我氏は崇仏派でもあり、「古代寺院の礎石」があることも納得がいく。
 不思議なことに蘇我一族は稲目の代から突然、近畿天皇家の重臣として台頭したように見える。その先祖の系図は「韓子」「高麗」など朝鮮半島に関連深い名前であり、造作であると主張する学者も多い。「蘇我氏は九州王朝から派遣された目付役」といった説が登場するゆえんである。蘇我氏の先祖が朝鮮半島との関わりをもって活動してきたということは、地政学上、九州北部に拠点を持たずしてはあり得ない。そのルーツを九州に求めることは的外れではないだろう。神宝の銅剣や近隣の「コウラ」地名が九州とのつながりを推測させる。

 最後に『万葉集』で地名「宗我」が登場する数少ない例を紹介しておく。
ま菅よし 宗我の河原に 鳴く千鳥
間なし我が背子 我が恋ふらくは
(『万葉集』巻十二、3087番)

原文:真菅吉宗我乃河原尓鳴千鳥間無吾背子吾戀良苦者

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 よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。

 壬申の乱(六七二)で左大臣蘇我赤兄が土佐国安芸に配流されたということが、伝説のままに昔からあまねく知られている。……(中略)……吉野に隠遁した大海人を警戒し蘇我赤兄、中臣金が兵備を整えていたのを中傷するものがあり、大海人はこれに激して大伴吹負や河内の国司などの応援を得て兵を挙げ、吉野を出て伊勢、美濃の兵を募り不破の一線で天皇の兵を撃破、天皇は瀬田に敗れて山崎で崩御、大海人が皇位を継いだ。これが天武天皇である。大海人に抵抗した中臣金は斬に処せられ、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢巨比は流刑になったが、この時赤兄が流されたのが土佐国だと伝えられたのである。
 蘇我赤兄の土佐流謫は国史に明記されたものでなく、あくまでも伝説であるが、この伝説の因となったものは安芸家系図(土佐国名家系譜所蔵)である。すなわち赤兄について「左大臣、天武天皇白鳳元年八月土佐国に配流さる。裔孫是より代々安芸に住み、安芸一円並びに夜須大忍庄を領す」とあるのがそれであって、そのことが後代にあまねく伝えられたものらしい。(P14~15)
 ここに登場する安芸家とは、戦国時代に長宗我部元親と覇権を争って敗れた安芸国虎の家系(“ 橘系安芸氏と蘇我氏との関係”参照)である。居城とした安芸城は、今注目されている瓜尻遺跡の東方にある。蘇我氏を先祖とする安芸氏に関する伝承があることは知っていたが、これまであえて触れることはしなかった。家系図や伝承といった類は史料としては信頼度が低く、それを論証の中心に据えることは危険なのである。

 だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。
 蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。
 屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。
 蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
▲安芸城跡から安芸平野を臨む

 安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。

 蘇我氏は崇仏派であり、古代寺院の存在と後に延喜式内社として記載されるような歴史の古い神社が安芸市にないことも理解できる。渡来人の技術集団による条里制水田の開発と屯倉の管理。『平家物語』にも「ここに土佐の国の住人安芸郡を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて、およそ30人が力頭たる大力の剛の者、われに劣らぬつわもの一人具したりける、弟の次郎も普通には勝れたるもののふなり」とあるように、安芸郡家の大領が蘇我氏を先祖とする有力豪族の流れを汲んでいたとすることは理にかなっている。
 ところで、「倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)」と日本史の教科書にもあるように、蘇我氏は『日本書紀』では悪役として描かれている。
 『日本書紀』は大和朝廷の正当性を主張する性格の歴史書でもあるので、大和朝廷と対峙・敵対する勢力について悪く描かれることが随所に見られる。
倭とは当時九州を中心とした国家であり、多元史観の研究者からは蘇我氏は九州王朝の重臣であったとする指摘がなされている。これまでの考察から、安芸条里を開拓した九州王朝系の勢力こそが蘇我氏一族の流れを汲むものであった。
 安芸川左岸の郡衙比定地の北には蘇我神社が鎮座する。付近の安芸市川北小字横田には「厩尻」という地名も残っていて、須恵器・土師器・勾玉・杭列などを多く発見する遺物包蔵地でもある。また、安芸川上流の畑山地区には「水波女命 、敏達天皇 、蘇我赤兄 、蘇我乙麻呂」を祭神とする水ロ神社も存在し、古くから雨乞いの神として信仰されている。
 家系図や伝承のみを根拠とするのは危険であると言ったが、周囲の遺物・遺構の出土状況と歴史的経緯などを踏まえると、それらが荒唐無稽ではなかったことが判明してくる。いやむしろ、九州王朝系蘇我氏の安芸地方への進出は、蘇我赤兄よりも古かったのではないかとの印象さえ受ける。公式的な見解よりもかなり先走った内容を発表しているので、さらに今後の研究の積み重ねが必要となってきそうだ。



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 高知県立埋蔵文化センターによる令和3年度の発掘速報展「高田遺跡」が開催される。高知竜馬空港の東方、物部川東岸の弥生時代集落と古代官道跡の発見が注目されている遺跡である。当ブログでも数回にわたって紹介してきた。

香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?
高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m
古代官道(南海道)における道幅の謎
 
 折しも4月25日(日)~7月4日(日)の日程で、発掘速報展「高田遺跡」が開催されることを知り、期待を膨らませているところだ。高知県内の遺跡調査で見つかった出土品や調査記録などを通して、郷土への歴史理解を深めることを目的としたもので、発掘速報展では、高田遺跡の発掘調査成果についての展示を行うとのこと。
 果たして、高知県立埋蔵文化センターではこれらの発掘の成果をどのように捉え、位置づけているのか。このブログで提起した「古代官道(南海道)における道幅の謎」に対する合理的な解答を持ち合わせているのか等。
 以下に発掘速報展の概要を紹介しておく。

開催概要

 物部川東岸に位置する高田遺跡では、国土交通省の計画する南国安芸道路の建設に伴う発掘調査により、弥生時代の集落跡や古代の道路遺構などの多くの発見がありました。本展では高田遺跡の発掘調査成果についての展示を行います。

<関連イベント>

ギャラリートーク

日程 2021年04月25日(日)
時間 10:00〜10:30、14:00〜14:30
場所 埋蔵文化財センター
定員 定員なし
申し込み 不要

展示報告会

「発掘された高田遺跡」担当者:当埋蔵文化財センター職員
日程 2021年05月05日(水)
時間 14:00〜15:30
場所 埋蔵文化財センター
定員 30名
申し込み 必須
申込開始日 2021年04月05日


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 南海道土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする指摘は、701年のONラインの実在を大きく印象づけるものであった。
香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?
 2018年に香南市野市町の高田遺跡で発見された推定古代官道跡は、南国市の土佐国府から安芸郡方面へ伸びていることから、当然ながら大和朝廷主導で敷設された阿波国を経る古代官道(養老官道)と考えられている。私も当初そのように考えていたが、一つ矛盾する点がある。高田遺跡で見つかった古代官道の幅が10.35mであったことだ。
高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m
 当時は深く考えず、むしろ高知新聞の記者が高麗尺を持ち出したことに批判的であった。ところが、『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)に次のように書かれていた。
 「地方では諸道の駅路が七世紀のものが10メートルから11メートル、奈良時代には12メートル・9メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は6メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も6メートルになることが多い」(P6~7)。
 木下良氏の記述に従えば、幅10.35mの古代官道は10~11mに納まるので、7世紀代に建設されたことになる。これは九州王朝時代の規格なのではないか。もし奈良時代に敷設されたのであれば、大和朝廷主導の12メートルないしは9メートル幅の規格になるはずだ。
 高田遺跡周辺には弥生時代から古代(奈良・平安時代)にかけて営まれた遺跡が所在している。ところが、古代のあとに続く中世(鎌倉・室町・戦国時代)の遺構や遺物はほとんど確認されていない。このことは796(延暦十五)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に官道(延暦官道)が変更されたことと対応しているようだ。
 だが、始まりが8世紀代とは言い切れない。高田遺跡からは、「平成27〜28年度の調査の結果、弥生時代の竪穴建物跡8軒と土器棺墓6基、古代の掘立柱建物跡24棟のほか、土坑や溝跡などが確認されました。遺物は弥生時代の土器や石器、古代の須恵器や土師器・土師質土器の他、金属製品や円面硯(えんめんけん)、緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器などが出土しました」との報告がある。
 一方、安芸市僧津の瓜尻遺跡が7世紀のものとされ、最大級の古代井戸跡も発見されている。少なくとも7世紀には土佐国府と安芸郡衙(評衙?)を繋ぐ古代官道が存在していたのではないだろうか。ただし、安芸郡と阿波国を結ぶ古代官道はまだなかったようだ。
 「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。

 このことは大和朝廷一元論では不思議とされてきたことであるが、九州王朝を起点とした古代官道は伊予ー讃岐ー阿波と通じており、一方で伊予ー土佐ルートもあったので、必ずしも土佐から阿波へと連結している必要性はなかったと言える。
 土佐国府から阿波国へ、全くのゼロから古代官道を新設するとなれば一大事業であり、莫大な費用もかかることだろう。今後の研究・調査が待たれるところではあるが、今回の帰結が正しいとすれば、「道ありき」「ローマは一日にして成らず」だったということである。



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 高知県安芸市僧津の瓜尻遺跡で、一辺約23メートルの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されたことは、当ブログでもすでに報告した(“安芸市僧津の瓜尻遺跡で古代寺院と官衙跡”、“安芸市僧津の瓜尻遺跡の古代瓦はコゴロク廃寺とは別タイプ”参照)。溝から出土した須恵器の年代から、方形区画遺構は7世紀前半くらいに整備が始まったとみられる。「厳重な造りから豪族が利用していた施設と考えられるが、役所にしては規模が小さく、居館にしては生活用具の出土がない。流路や入り江状の遺構が近接していることから水運に関わる港のような機能を持った場所の可能性がある」と考えられているようだ。溝からは木簡のようなものも発見されており、文字資料がないか調べる。
 さらに注目を集めることになったのは、遺構の中に直径約9.5mの井戸遺構が見つかったことだ。その規模は古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさ(平城京では約6.6m)だという。井戸遺構は内側に足場のある2段構造になっていて、中心部分に一辺約70センチの木製の井戸枠があった。特殊な構造であることや、近くに川があり井戸を作る必要性が考えにくいことから、安芸市教育委員会は「神聖な行事のための水として使われていたのでは」と推測している。

<国内最大級の古代井戸 直径9.5メートルも 高知・瓜尻遺跡>
https://www.youtube.com/watch?v=VXW_0Au5NEA

 報道の内容を整理しながら、いくつかの疑問点が沸き上がってきた。
①地方の郡になぜ国内最大級の井戸が?
②本当に宗教的な施設なのか?
③郡家や条里制との関係は?
 はっきりしたことが分からない段階で、何か結論じみたことを明言することは危険であるが、現段階の報道内容では不満を感じる人も多いだろう。見当違いもあるかもしれないが、少し踏み込んだことまで言及してみたい。
 まずは安芸市の地政学的位置づけについて。土佐国(高知県)には安芸・香美・長岡・土佐・吾川・高岡・幡多の7郡あり、最も東に位置する。43郷中8郷が安芸郡に属し、うち5郷が現在の安芸市に含まれていたとされることから、古代土佐国において人口が集中する重要拠点であったと考えられる。にもかかわらず、「安芸市内には延喜式内社が存在しないことが不思議だ」と広谷喜十郎氏は指摘する。また、安岡大六氏の説に「キ族とは海洋民族のことで、安芸には水主、すなわち航海業者が比較的に多かった。安芸の語源かと考える」とある。
 川北の江川から銅鉾、伊尾木の切畑で銅鐸が発見されており、安芸市は銅鉾文化圏と銅鐸文化圏の接点に位置する。銅鐸文化圏に銅鉾文化圏の勢力が侵入したと見るべきだろうか。その後、時代的な隔たりはあるだろうが、安芸川右岸には条里制水田が営まれたであろう。安芸市の条里制地割の北辺にあるのが、このほど発掘調査が行われた瓜尻遺跡なのである。その西側に「井ノ口甲一ノ宮」地名とともに一宮神社や一ノ宮古墳が存在する。

 また、古代寺院跡の存在を示す軒丸瓦も出土していることから、この付近が宗教的中心地であったとし、井戸は宗教的儀式に用いられたとの考えは一理ある。しかし古代において政教分離という縛りはない。水路跡も単に護岸施設というよりは、条里制水田の灌漑施設に関係しているのではないかとのアイデアが浮かんできた。現在でも安芸川の栃ノ木堰から取水して、安芸平野を灌漑しているとのこと。昔は5か所から用水路を引き込み、安芸川の氾濫にも悩まされ、治水に苦労したという。

 つまり、僧津の瓜尻遺跡の位置づけとしては、7世紀当時は宗教的中心地であり、港であり、さらには安芸条里を管理する複合的施設なのではなかったか。そして、単なる地方の一豪族が広大な安芸条里を一括管理するには荷が重すぎる。遺跡は7世紀、すなわちONライン(701年)以前と年代比定されており、多元史観によれば九州王朝系の勢力による条里制の施行という可能性が見えてくる。「国内最大級の古代井戸」からは、そのような意味が読み取れるのではないだろうか。

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 「古代に真実を求めて」シリーズの古田史学論集第二十四集が今春、ついに明石書店から出版された。タイトルは『俾弥呼と邪馬壹国―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年』(古田史学の会 編、2021/03/30)である。

 題名にはルビを振ってあり、『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』と素人でも分かるようにしてくれている。それでも、身近な大学生に見せたところ、しっかり「ひみことやまたいこく」と読んでいた。義務教育で使用される歴史教科書の影響は絶大である。
 邪馬台国論争における古田武彦説を知らない一般人がこの本のタイトルを見たら、まず「漢字を間違えているのではないか」「読み方が異なっている」などの第一印象を受けることだろう。学校で習った教科書には「卑弥呼(ひみこ)」「邪馬台国(やまたいこく)」と書かれていたはずである。
 それでもあえてこのようなタイトルにしているのは、そこに古田史学の研究の成果・蓄積があるからである。『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』という題名にこそ古田説の本質が集約されている。ここでは詳細には踏み込まないので、古田武彦氏の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)などをはじめとする著作やホームページ『新・古代学の扉』などで勉強してほしい。当ブログでも古田説のポイントをいろいろな形で紹介してきたつもりである。
 また今回発刊された古田史学論集第二十四集が古田説を世に知らしめるツールとなればと願うものである。その内容を紹介する上で、本の内容説明および目次を以下に引用しておく。

<内容説明>
 古代史界に衝撃を与えた古田武彦『「邪馬台国」はなかった』の刊行から50年。その歴史観、学問方法論を受け継ぐ執筆陣による「邪馬壹国説」「短里説」「博多湾岸説」「二倍年暦説」「倭人が太平洋を渡った説」などの諸仮説をめぐる最新の研究成果を集める。
<目次>
巻頭言 読者の運命が変わる瞬間[古賀達也]
『「邪馬台国」はなかった』のすすめ[古賀達也]
特集俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年―
【総括】
魏志倭人伝の画期的解読の衝撃とその余波―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―[谷本茂]
改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」[正木裕]
 コラム① 古田武彦氏『海賦』読解の衝撃
 コラム② 日本の歴史の怖い話
【各論】
周王朝から邪馬壹国そして現代へ[正木裕]
女王国論[野田利郎]
東鯷人・投馬国・狗奴国の位置の再検討[谷本茂]
「女王国より以北」の論理[野田利郎]
 コラム③ 長沙走馬楼呉簡の研究―「都市」は官職名―
 コラム④ 不彌国の所在地を考察する―弥生の硯出土の論理性―
メガーズ説と縄文土器―海を渡る人類[大原重雄]
 コラム⑤ バルディビア土器はどこから伝播したか―ベティー・J・メガーズ博士の想い出―
裸国・黒歯国の伝承は失われたのか?―侏儒国と少彦名と補陀落渡海―[別役政光]
二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学―周代の百歳と漢代の五十歳―[古賀達也]
箸墓古墳の本当の姿について[大原重雄]
 コラム⑥ 箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈
 コラム⑦ 曹操墓と日田市から出土した金銀象嵌鏡
特別寄稿
『日本書紀』推古・舒明紀の遣隋使・遣唐使―天群と地群―[谷川清隆]
一般論文
「防」無き所に「防人」無し―「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)」にあらず―[山田春廣]
太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する[服部静尚]
古代の疫病と倭国(九州王朝)の対外戦争―天然痘は多利思北孤の全国統治をもたらした―[正木裕]
九州王朝官道の終着点―山道と海道の論理―[古賀達也]
『書紀』中国人述作説を検証する―雄略紀および孝徳紀の倭習―[服部静尚]
 コラム⑧ 関東の木花開耶姫(このはなさくやひめ)
付録古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
編集後記


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 はじめに断っておくが、安芸郡といっても広島県の話ではない。土佐国安芸郡の郡衙がどこにあったかという問題である。郡衙の位置を正確に比定することは、古代官道がどこを通っていたかを復元することにもつながる。ここでは次の3つの説を紹介する。
①安芸郡奈半利町コゴロク説

②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説

③安芸市安芸川左岸の川北説
①安芸郡奈半利町コゴロク説
 まずは、①安芸郡奈半利町コゴロク説から。『土佐日記』に「十日けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と書かれており、土佐国司の任を終えた紀貫之は京への帰途、承平5年(935年)1月10日に奈半利に立ち寄っている。原田英祐氏は次のように説明している。

 「なはのとまり」の現在地は、奈半利川の川尻に近い安芸郡奈半利町字ミナトの奈半利中学校から、さらに奈半利川を1kmあまり遡上したところに「コゴロク」の地名があり、弥生~奈良時代にかけての濃密な遺跡が発掘されている。郡衙に付随した古代寺院(コゴロク廃寺=のち北川村和田に再建された妙楽寺)の瓦も、発掘確認されている。この付近に土佐日記時代の「泊まり=宿泊施設」が推定できる。
 コゴロクの上流域・中里地区にある多気神社と坂本神社はともに延喜式内社で、コゴロクの郡衙に付随したものだろう。
(『土佐日記・歴史と地理探訪』東洋町資料集・第六集P130)
②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説
 次に、②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説。佐賀大学の日野尚志氏(地理学専攻)は条里余剰帯を根拠に、南国市比江の国衙跡から東西に伸びる古代官道を推定している。官道に沿った駅家(うまや)比定地として、土左国では大影(吾川郡)・池川(吾川郡)・広瀬(吾川郡)・柏原(吾川郡)・鴨部(土左郡)・国府(長岡郡)・夜須(香美郡)・安芸(安芸郡)・奈半利(安芸郡)・室戸(安芸郡)・佐喜浜(安芸郡)・甲浦(安芸郡)を挙げている。安芸駅と奈半利駅については次のような註釈を加えている。

 ▼日野尚志氏の駅路比定には修正すべき点が存在する
(61)安芸郡家は玉造の「寿正院」か、その西南三町には「ミヤケダ」の小字名もある。なお、川北の小字「横田」を通称「厩尻」といい、散布地であるが、あるいは駅祉であろうか。その他「馬越」地名もある。
(62)奈良時代の創建とみられるコゴログ廃寺祉がある。
(「南海道の駅路――阿波・讃岐・伊予・土左四国の場合――」より)
 これを受けて、岡本健児氏は『土佐史談』160号(土佐史談会、昭和57年)「地名から見た安芸郡衙」の中で、「城領田」は少領田、すなわち郡司の「スケ(次官)」である少領から変化した地名として、古代安芸郡衙の所在を「城領田」「ソヲリ」「東トノダ」「西トノダ」の存する地域であると推定。「郡衙は現在の安芸市の土居と東浜の境界付近である」と言及した。すなわち安芸条里の広がる安芸川右岸、「ミヤケダ」付近に比定したのである。
 最近話題となった瓜尻遺跡からはかなり南方に離れているが、ジョウマン遺跡には近い場所となっている。

③安芸市安芸川左岸の川北説

 最後に、③安芸市安芸川左岸の川北説である。『土佐史談』234号(土佐史談会、2007年)「土佐国安芸郡家についての歴史地理学的考察」で、朝倉慶景氏は安芸川左岸にある川北地区の「カヂウ」地名に注目している。これを衙中(がちゅう)の変化した地名とした。「駅家(うまや)」の跡地と考えられる「厩尻(うまやのしり)」地名が安芸川左岸にあり、駅家と衙中が非常に近距離であることから郡家の条件に合致するとしている。
 ①~③いずれの説も根拠を持ち合わせており、捨てがたいものがある。整合性があって、より確度の高いものはどれであろうか。周辺の状況なども踏まえて、さらに検討を加えていきたい。


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朱儒国民
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非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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