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一元史観に刺さった矢
 熊本県天草郡苓北町ーー市町村合併の手を振り払い天草市に加わらずに存続している我が故郷の町である。以前、帰省した際に富岡城趾にあるビジターセンターに連れていってもらった時、地元の学芸員に「天草という地名はいつ頃からあるんですか?」と、長年の疑問をぶつけてみた。「万葉の時代からあります。鴻臚館から出土した木片に天草の名が書かれたものがあります」とのこと。
   調べてみると「肥後国天草郡志記里□」という木簡が見つかっている。志記というのは現在の苓北町志岐のことであろう。また、『国造本記』にも天草の名が見える。かなり古い時代まで遡ることのできる地名であることが分かる。
   それはさておき、福岡県の鴻臚館跡からは約70点の木簡が出土しており、西海道諸国(九州地方)からの貢納物の付札が多い。しかし、次のような木簡も出土している。「讃岐国三木郡□□六斗」南海道(四国地方など)に属する国からのものだ。『木簡<古代からのメッセージ>』の中で著者も大いに疑問を呈している点であり、大和朝廷一元史観では説明に困るところだ。これが正に一元史観に刺さった矢の一つと言えよう。
   けれども、当時の倭国の中心が九州の太宰府周辺であったとしたらどうか?  古代官道の研究からも、少なくとも西海道においては「全ての道は太宰府に通ずる」と言っても過言でないほど太宰府を起点とした交通網が整備され、水城や神籠石式山城の配置も倭国の中心部を防衛しているようである。とすれば太宰府は単に大和朝廷の出先機関ではなかったのではないだろうか?


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【2017/07/11 10:51 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
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