「母の守り神は聖姫大神でした。その名前や柔らかい話し方からして、てっきり女性神と思っていました。~聖姫大神に『あなたは男性だったのですか?』と尋ねたところ、『そうです』という答えが返ってきて、驚いたことがありました」。
今回は学問的な話ではないので、楽に聞いて下さい。最近発売された『死んだらわかるけど、それでは遅い』(北谷真雄著)という本を「先に読んでみて」と妻に言われ、読み始めました。
すると、冒頭の体験談です。丁度、ブログ「ひぼろぎ逍遙」で姫大神は男性神という話題を目にしていたところだったので、不思議な引き合わせを感じたのです。
父親の事故をきっかけに、霊通するようになったお母さん。自宅を神道の教会にして人助けし、著者自身も小学生のころから霊的な体験を重ねてきた、そのいきさつなどが書かれていました。
今回は学問的な話ではないので、楽に聞いて下さい。最近発売された『死んだらわかるけど、それでは遅い』(北谷真雄著)という本を「先に読んでみて」と妻に言われ、読み始めました。
すると、冒頭の体験談です。丁度、ブログ「ひぼろぎ逍遙」で姫大神は男性神という話題を目にしていたところだったので、不思議な引き合わせを感じたのです。
父親の事故をきっかけに、霊通するようになったお母さん。自宅を神道の教会にして人助けし、著者自身も小学生のころから霊的な体験を重ねてきた、そのいきさつなどが書かれていました。
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高岡郡佐川町庄田、古来深尾領佐川郷総鎮守。『八幡荘伝承記』によれば、高北開拓の元祖別府経基が承平2(932)年、別府の本領安芸郡鯨坂八幡を勧請したという。年次不詳火災焼失、明治34年再建。大鳥居は昭和46年に撤去されたという。
この鯨坂八幡宮は「本宮に品陀別命(応神天皇)を祀り、左右二社に息長帯日売命(神功后皇) 高良玉多礼日子命(竹内宿禰)の三神を祀り」と『土佐太平記』(明神健太郎著)に書かれている。それが本当なら、高知県における高良神社の空白地帯であった高岡郡に風穴があくことなる。
現在の祭神は一般には応神天皇とのみ紹介されている。神功皇后と高良玉垂命はどうなったのだろうか?
右側に摂社らしきものが2つあるので、 行ってみると「橘姓楠氏 正勝公奥城」と記された石碑が……。先ほどの『土佐太平記』には「父正勝は学問にふかく、才智に秀れた信仰の人だったので、中山信政は河間代官河添宗綱を尾川郷の代官として改めた後に、正勝を河間、中野郷の代官とし、鯨坂八幡宮の宮司を兼職させ、子の正顕も下代官兼書留役とした。そしてここに橘(たちばな)氏を名乗るようになった」と楠木父子が代官橘氏となったいきさつが紹介されている。
さて、本領安芸郡にあったとされる鯨坂八幡宮は現存しないとされているが、もしかしたらと思うところが1つある。“安芸郡田野町淌涛にある八幡宮”である。その昔、大野豊前守が勧請したとされ、応神天皇、神功皇后、高良玉垂命の三神が祭られている。佐川町の鯨坂八幡宮と同じタイプなのだ。
東の端、安芸郡は高知県における“高良神社の密集地”でもある。摂社として高良神社が祭られている八幡宮がいくつか存在する。それらについてはまた、別の機会に。
この鯨坂八幡宮は「本宮に品陀別命(応神天皇)を祀り、左右二社に息長帯日売命(神功后皇) 高良玉多礼日子命(竹内宿禰)の三神を祀り」と『土佐太平記』(明神健太郎著)に書かれている。それが本当なら、高知県における高良神社の空白地帯であった高岡郡に風穴があくことなる。
現在の祭神は一般には応神天皇とのみ紹介されている。神功皇后と高良玉垂命はどうなったのだろうか?
右側に摂社らしきものが2つあるので、 行ってみると「橘姓楠氏 正勝公奥城」と記された石碑が……。先ほどの『土佐太平記』には「父正勝は学問にふかく、才智に秀れた信仰の人だったので、中山信政は河間代官河添宗綱を尾川郷の代官として改めた後に、正勝を河間、中野郷の代官とし、鯨坂八幡宮の宮司を兼職させ、子の正顕も下代官兼書留役とした。そしてここに橘(たちばな)氏を名乗るようになった」と楠木父子が代官橘氏となったいきさつが紹介されている。
さて、本領安芸郡にあったとされる鯨坂八幡宮は現存しないとされているが、もしかしたらと思うところが1つある。“安芸郡田野町淌涛にある八幡宮”である。その昔、大野豊前守が勧請したとされ、応神天皇、神功皇后、高良玉垂命の三神が祭られている。佐川町の鯨坂八幡宮と同じタイプなのだ。
東の端、安芸郡は高知県における“高良神社の密集地”でもある。摂社として高良神社が祭られている八幡宮がいくつか存在する。それらについてはまた、別の機会に。
「大坊(宝)天王社、梅木村に在り」
『土佐州郡志』という分厚い本に書かれた江戸時代の記述(読み下し)である。この梅木村とは、かつての鏡村梅木。現在は市町村合併によって高知市に取り込まれた。
明治維新の際、神仏分離と名称変更の通達が出され、大宝天王社は八坂神社になった。名称変更には具体的な指示があり、その一例が「牛頭天王→八坂神社」である。大宝天王もこれに倣ったと思われる。
ところで大宝天王とは何だろうか? 滋賀県栗東市に大宝神社(旧:大宝天王宮)というところがある。701年の勧請で、元々は追来(オフキ)神社であったところに主祭神が置き換えられ、地主神は若宮として境内社の位置付けになったと推測されている。
高知市鏡の八坂神社も戦国時代までは確実にさかのぼる歴史がある。もしかしたら大宝年間(701~704年)に勧請されたので、大宝天王と呼ばれていたのかも知れない。
実はこの場所、「コウラ」という地名で地元の人もそう呼んでいたことを秋の大祭の時に聞いてきた。『高知県神社明細帳』には、一説には「コウラ天王」という記載があり、本来は高良神社が祭られていた可能性が非常に高いということが分かってきた。それに加え、大宝年間の祭神置き換えが事実であったとしたら、701年の九州王朝から大和朝廷への政権交代を裏付けるものとなりそうだ。
四万十市蕨岡の高良神社。まずはここから始めよう。鳥居横の案内板に謎めいた記述がある。「祭神は大夫天皇、武内宿祢命」「天皇という小字、瓦が菊の紋」など。土御門天皇の御在所説まで出てきている。
『中村市史 続編』によると「もと大武天皇 明治元年改称」とある。大正3年天満宮を合祭、他に厳島神社・神母神社・稲荷神社・高知神社・竈戸神社5社を合祀している。
さて、この大夫(大武)天皇とは何者なのだろうか? 大阪府豊能郡豊能町に天武天皇宮と呼ばれる場所があり柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。「大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日」と刻された石灯籠もある。天武→大武→大婦と変化したというのだ。
それとも、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮とのつながりを考えるべきだろうか?
可能性としては無いわけではないが、いずれにしても決め手に欠ける。行き詰まり、悩んでいたところ、高知市鏡の八坂神社を調べた際に新たな仮説が浮かび上がってきた……。
可能性としては無いわけではないが、いずれにしても決め手に欠ける。行き詰まり、悩んでいたところ、高知市鏡の八坂神社を調べた際に新たな仮説が浮かび上がってきた……。
高知県の高良神社を調べていて、ずっと確認したいところがあった。香南市香我美町徳王子の高良神社だ。古い文献には登場するが、現存するかどうかは定かでない。実際に行って見なければ……。
思った通りであった。近くの八幡宮の境内社になっていた。「神社に関するお問い合わせはこちらまで」という貼り紙があり、宮司さんに電話してみると、30~40年前に大将軍神社と共に高良神社も境内社として合祀されたとのこと。
八幡宮境内社となった高良神社としては高知県内では比較的新しい部類だと思われる。その高良神社は八幡宮拝殿の左手奥にあり、最初にお参りした際には不覚にも気付かず、立ち去ってしまった。
元々祭られていた場所は、八幡宮の右手方の鎮守の森があるところだという。その付近はコウラ谷と呼ばれていることも確認できた。
『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著, 1972.3)には、高知県内の様々な神社が紹介されているが、高良(こうら)神社のことについては全く触れられていない。
四万十市蕨岡の高良神社は、県内では唯一の単立(摂社ではない)の神社であるが、この蕨岡は、県全域を網羅する『長宗我部地検帳』がただ一か所だけ欠落している場所でもある。この偶然ゆえに、人々に広く知られず、謎に包まれてきたとも言える。ある郷土史の大家でも聞き慣れない様子であった。
「高良神社の謎」を探求する旅は、ブログ「ひぼろぎ逍遙」(久留米地名研究会、古川清久氏)の中で四万十市蕨岡の高良神社が紹介されていたことに始まる。
熊本県天草郡苓北町ーー市町村合併の手を振り払い天草市に加わらずに存続している我が故郷の町である。以前、帰省した際に富岡城趾にあるビジターセンターに連れていってもらった時、地元の学芸員に「天草という地名はいつ頃からあるんですか?」と、長年の疑問をぶつけてみた。「万葉の時代からあります。鴻臚館から出土した木片に天草の名が書かれたものがあります」とのこと。
調べてみると「肥後国天草郡志記里□」という木簡が見つかっている。志記というのは現在の苓北町志岐のことであろう。また、『国造本記』にも天草の名が見える。かなり古い時代まで遡ることのできる地名であることが分かる。
それはさておき、福岡県の鴻臚館跡からは約70点の木簡が出土しており、西海道諸国(九州地方)からの貢納物の付札が多い。しかし、次のような木簡も出土している。「讃岐国三木郡□□六斗」南海道(四国地方など)に属する国からのものだ。『木簡<古代からのメッセージ>』の中で著者も大いに疑問を呈している点であり、大和朝廷一元史観では説明に困るところだ。これが正に一元史観に刺さった矢の一つと言えよう。
けれども、当時の倭国の中心が九州の太宰府周辺であったとしたらどうか? 古代官道の研究からも、少なくとも西海道においては「全ての道は太宰府に通ずる」と言っても過言でないほど太宰府を起点とした交通網が整備され、水城や神籠石式山城の配置も倭国の中心部を防衛しているようである。とすれば太宰府は単に大和朝廷の出先機関ではなかったのではないだろうか?
調べてみると「肥後国天草郡志記里□」という木簡が見つかっている。志記というのは現在の苓北町志岐のことであろう。また、『国造本記』にも天草の名が見える。かなり古い時代まで遡ることのできる地名であることが分かる。
それはさておき、福岡県の鴻臚館跡からは約70点の木簡が出土しており、西海道諸国(九州地方)からの貢納物の付札が多い。しかし、次のような木簡も出土している。「讃岐国三木郡□□六斗」南海道(四国地方など)に属する国からのものだ。『木簡<古代からのメッセージ>』の中で著者も大いに疑問を呈している点であり、大和朝廷一元史観では説明に困るところだ。これが正に一元史観に刺さった矢の一つと言えよう。
けれども、当時の倭国の中心が九州の太宰府周辺であったとしたらどうか? 古代官道の研究からも、少なくとも西海道においては「全ての道は太宰府に通ずる」と言っても過言でないほど太宰府を起点とした交通網が整備され、水城や神籠石式山城の配置も倭国の中心部を防衛しているようである。とすれば太宰府は単に大和朝廷の出先機関ではなかったのではないだろうか?
ボナンザが佐藤天彦名人に2連勝した。AI将棋が人類代表に勝利した瞬間であった。
AIは今や将棋以外の様々な分野でその能力を発揮しつつある。それに恐れを抱く人々もいるだろう。しかし、AIが登場したことによって、良心的な人は非常に本質的なことに気付きつつある。それは人間がいかに先入観に囚われすぎていたかということだ。「自分が正しい」という囚われーー経験や学識、伝聞などに拠るものもあるかもしれないーーそれがいかに真実を見つめる目を曇らせていたことか?
歴史を省みればAIの登場に匹敵するようなことは何度かあった。日本人にとっては黒船来航がよい例かもしれない。そこで直面した事実を謙虚に受け止めた者たち(坂本龍馬もその一人になるだろうか?)が新しい歴史を切り開いていったように思える。
将棋界でも早速AIを勉強に取り入れた藤井聡太四段。14才という若さゆえに、先入観や囚われも少なかったかもしれない。前人未到の29連勝を達成し、これからもイチロー並みに記録を塗り替えていくことだろう。
AIは今や将棋以外の様々な分野でその能力を発揮しつつある。それに恐れを抱く人々もいるだろう。しかし、AIが登場したことによって、良心的な人は非常に本質的なことに気付きつつある。それは人間がいかに先入観に囚われすぎていたかということだ。「自分が正しい」という囚われーー経験や学識、伝聞などに拠るものもあるかもしれないーーそれがいかに真実を見つめる目を曇らせていたことか?
歴史を省みればAIの登場に匹敵するようなことは何度かあった。日本人にとっては黒船来航がよい例かもしれない。そこで直面した事実を謙虚に受け止めた者たち(坂本龍馬もその一人になるだろうか?)が新しい歴史を切り開いていったように思える。
将棋界でも早速AIを勉強に取り入れた藤井聡太四段。14才という若さゆえに、先入観や囚われも少なかったかもしれない。前人未到の29連勝を達成し、これからもイチロー並みに記録を塗り替えていくことだろう。
スポーツ好きの人なら、「ONライン」といえばコースギリギリに入って得点が決まること。昔の巨人ファンにとっては、王貞治~長嶋茂雄のことを連想する方もいるだろう。だが、現代人の感覚ではインターネットでつながることや、ONラインゲームといったイメージが強いかも知れない。
前置きが長くなってしまったが、古代史において「ONライン」とは何か? 古田史学を学ぶ者でなければ、あまり聞き慣れないと思うが、701年旧王朝(old)と新王朝(new)の政権交代の画期のことを指す。そんなことは歴史の授業で習ったことはないと言うかも知れない。その通り。学校では教えていないことである。それでも701年の大宝律令のことくらいは聞いたことがあるだろう。これをもって律令制度の始まりとされるが、ここからが中心王朝としての実質的な畿内大和朝廷のスタートだというのだ。
ならば、それ以前の旧王朝とは何のことか? ズバリ九州王朝のことである。その首都が太宰府であったことも分かってきている。詳しい論証は避けるが、九州年号の存在や評制度など、大和朝廷以前に制定されている事柄が多く知られてきている。その九州王朝も700年で完全に終焉したというわけではなさそうだ。百済(ペクチェ)が滅亡した後もしばらく復興勢力が存続したように、8世紀に入っても九州王朝の制度が一部残されていたらしい。
話は変わるが、ある私立中高一貫校では中学からの持ち上がり組をOP(old power)、高校からの入学組をNP(new power)と呼んだりする。この2者の間にもONラインなるものが存在する。既に中学で高校1年までの学習を済ませたOPと、後追いで高校の内容を学ぶNP。その差を埋めるのは並大抵のことではないが、時としてウサギと亀のような逆転劇が起こるから、「事実は小説よりも奇なり」である。古代史の隠された事実が陽の目を見る逆転劇もそう遠くないことを祈る。
前置きが長くなってしまったが、古代史において「ONライン」とは何か? 古田史学を学ぶ者でなければ、あまり聞き慣れないと思うが、701年旧王朝(old)と新王朝(new)の政権交代の画期のことを指す。そんなことは歴史の授業で習ったことはないと言うかも知れない。その通り。学校では教えていないことである。それでも701年の大宝律令のことくらいは聞いたことがあるだろう。これをもって律令制度の始まりとされるが、ここからが中心王朝としての実質的な畿内大和朝廷のスタートだというのだ。
ならば、それ以前の旧王朝とは何のことか? ズバリ九州王朝のことである。その首都が太宰府であったことも分かってきている。詳しい論証は避けるが、九州年号の存在や評制度など、大和朝廷以前に制定されている事柄が多く知られてきている。その九州王朝も700年で完全に終焉したというわけではなさそうだ。百済(ペクチェ)が滅亡した後もしばらく復興勢力が存続したように、8世紀に入っても九州王朝の制度が一部残されていたらしい。
話は変わるが、ある私立中高一貫校では中学からの持ち上がり組をOP(old power)、高校からの入学組をNP(new power)と呼んだりする。この2者の間にもONラインなるものが存在する。既に中学で高校1年までの学習を済ませたOPと、後追いで高校の内容を学ぶNP。その差を埋めるのは並大抵のことではないが、時としてウサギと亀のような逆転劇が起こるから、「事実は小説よりも奇なり」である。古代史の隠された事実が陽の目を見る逆転劇もそう遠くないことを祈る。
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(仁淀川歴史会、2024年7月)
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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