高良神社の謎を解くには、筑後国一宮の高良大社(福岡県久留米市御井町1)について考える必要がある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。古代から筑後国の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰が見られる。 本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある両部鳥居は、神仏習合の名残とされ、四万十市蕨岡の高良神社もやはり両部鳥居であった。
以下、「ウィキペディア」から一部引用。 仁徳天皇55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる。『延喜式神名帳』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。 PR |
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