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 「侏儒国」に関する本がないかと図書館で検索したら『「古代四国王朝(シュジュコク)の謎」殺人事件』(吉岡道夫著、1994年)という書き下ろし長編推理小説がヒットした。学術的な本ではないが、どのような説を背景として描いているかという興味もあったので、とりあえず読んでみることにした。

 表紙の扉に次のような「著者のことば」が書かれている。
 千数百年の昔、四国に繁栄をきわめた古代王朝があったことは、中国の史書にも片鱗が記されています。この国の民は黒潮に乗って中国大陸はもとより、遠く中南米にまで航路をのばしていたようです。羅針盤もなしに大海を渡る古代人にとって、足摺岬はまたとないランドマークだったのではないでしょうか。

 あらすじは本の裏表紙に出ている。以下のような内容だ。


 フリーライター・叶雅之が解読依頼を受けた奇妙な古文書。依頼主・秋月久子は、自殺した伯父・田代嘉吉からこの古文書に莫大な価値があると教えられていた。だが、直後に久子が奇怪な姿で殺害される。嘉吉の自殺にも不審な点が浮かび、久子殺害の陰に古文書の謎があると叶は確信。はたして、古文書に係わる人間が次々に惨殺される。古文書解読の結果、日本古代史を揺るがす大きな発見を知った叶は、足摺岬へ。そこでは十一年前から連綿と続く巧妙な犯罪が待ち受けていた…。古代四国に存在した侏儒国とは。冷酷な犯罪構図と歴史推理との絶妙な融合。

 確かに推理小説ではあるが、ストーリーの背景には学術的根拠も読み取れる。作品中に次のような話が出ている。

 『なかでも私は魏志倭人傳のなかに記されている[侏儒國]という小国に強い興味をそそられました。なぜならこの侏儒国は、私見によるとわが郷土、高知のほかにはないと考えたからであります……』
 そこで嘉吉はその推論を一年がかりで論文にまとめあげて、著名な歴史学者である大学教授に送り、礼を尽くして披見を仰いだのである。
 ……(中略)……
 ここで肝腎なのは[魏志倭人傳]では女王『卑彌呼』が統治していた国は[邪馬壹国(やまいちこく)]と記されていることだ。
 これを『ヤマタイコク』とはどうしても読めない。『ヤマイチコク』としか読みようがない。
 ……(中略)……
 ――女王國の東、海を渡る千餘里、復(ま)た國有り、皆倭種なり。又侏儒国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去る四千餘里。
 ……(中略)……たしかに[魏志倭人傳]の旅程をたどれば『侏儒國』は現在の高知県だと考えるのは、あたらずといえども遠からずだということになる。
 なぜなら[魏志倭人傳]の『侏儒國』の記述の後に、
 ――又裸國・黒齒國有り。復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。
とあるからだ。
 ……(中略)……それらの国は中南米の諸国、または南米のエクアドル、ペルー、チリあたりではなかろうか……。
 そうなると、日本からの船出の基地は、南九州の突端、薩摩半島か大隅半島。もしくは南四国の足摺岬か、室戸岬ということになってくる。

 原文尊重の「邪馬壹国」および「侏儒国を足摺岬付近に比定」する考えなど、明らかに古田武彦説に影響を受けたと思われる内容である。巻末の参考文献と著者のコメントを読んで、その印象が間違いなかったことが確かめられた。
『参考文献』
[足摺岬に古代大文明圏]古田武彦著 THIS IS 読売・一九九三年七月号掲載

 尚、この作品を書くにあたり古田武彦氏の論文を参考にさせて頂いたことに謝意を述べさせていただきます。     著者

遺跡案内
 古田武彦氏は1993年に土佐清水市の協力を得て、足摺岬周辺の巨大遺構ーー唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする調査を行っている。その時の実験によって、鏡岩と呼ばれる巨石が縄文時代の灯台としての役割を果たし得ていたであろうことが確認された。
 唐人駄場遺跡は四国南西部において縄文時代の石鏃出土が最多であることを地元の考古学者・木村剛男氏も言及しておられた。また、現在はキャンプ場となっている遺跡南方の公園は、かつては世界最大級のストーンサークルであったことが分かっている。
 さらに幡多地方には高知県で唯一の前方後円墳とされる平田曽我山古墳(宿毛市平田町戸内)が存在する。後の歴史でも太平洋航海の拠点であったことは、補陀落渡海の出発地となり、鎌倉時代に船所職(ふなどころしき)が置かれたことなどからも推測できる。
 推理小説『「古代四国王朝の謎」殺人事件』のラストは侏儒国王の墳墓にたどり着くことになるのだが、現実にはどこに侏儒国を見出すことができるだろうか?



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 四国別格二十霊場第五番札所、四国三十三観音霊場第十四番札所で、「二つ石大師」や「ぼけ封じ観音」として信仰されている大善寺(高知県須崎市西町1丁目2−1)は、高野山真言宗の寺院。平安時代前期の弘仁6年(815年)、空海(弘法大師)による開基と伝承されている。須崎市街地の南西端にある丘陵に位置する。丘陵の下の街中の道路脇に大師堂、階段を登った丘陵上に鐘楼、本堂がある。納経所は大師堂から東に回り込んだ本坊の中にある。毎年8月のお大師様の夏祭りには竜踊りが行われている。

 この寺院の名は、土佐藩の豪商・美濃屋の武藤致和が江戸時代後期の文化12年(1815年)に編纂した『南路志』に記録されている。元々、寺院の名称は八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられている。当時の本尊は阿弥陀如来で、元来は現在地より東寄りの古市町にあった。しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、城山の麓に移ったとされている。地震以前は末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
 城山の一角、森の上には金刀比羅宮が、西の麓にはひっそりと隠れたように白王神社が鎮座する。

大善寺略縁起

 南路志によれば、大善寺は八幡山明星院大善寺といい、和州長谷寺小池坊の末寺で弘法大師が開いたという。
 本尊は阿弥陀如来(現在不明)で、恵信作、宝永4年(1707年)の大変までは須崎市古市町にあり、八幡神社の別当寺として寺運を続けていたが、津波に流されたため、古城山のふもとに移ったものらしい。
 後に明治の廃仏毀釈により廃寺(明治27年)となり、明治29年(1896年)大師の霊跡を惜しむ里人の手で再興され現在地に移転し再建を計って今日に至っている。
 昔は末寺もたくさんあったようで寺地境内に六反十二畝三歩寺は三間に二十四間だったという記録がある。
 天保年間、同寺の庭に、臥龍の梅という梅の名木があり町内の俳人たちはこれに翁塚という芭蕉の句碑を立てていたが、廃寺の時円龍寺の庭に移したとされている。
 明治35年近郷の仏教信徒が相談して、四国八十八ヶ所の遙拝碑を建立し、石碑に順番と本尊仏のお姿を刻みこんである。巡拝は、大善寺に始まり長竹の元亨院、大間の観音寺、野見の江雲寺を経て鍛冶町の発生寺で終っている。

二ツ石大師略縁起

 昔、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬となっていた。ここにあった「波の二ツ石」と呼ばれた二つの大きな波石は現在は土の中にうまって見えなくなっている。当時山越しに行くのを常としたが、干潮のときはこの二ツ石岬の端を廻って行くことができた。ところが、同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ波にさらわれて海の藻屑となるもの多く、そのうえ同地点は伊予石鎚山の末端に当るので身に不浄ある者は時々怪異に出会うといって恐れられた。平安時代の初期(千百年以上の昔)弘法大師は、四国八十八ヶ所開創の霊場開創の砌りここを通りかかり、そのことをきいて、海岸に立つ二つの岩の上で海難横死者の菩提のため、海上安全の為に発願されたのが、今の大師堂開基の基源である。その後、「二つ石のお大師さん」と誰れ言うとなくいわれ、今日に至っている。

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 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも
       (『古今和歌集』巻九)
(意味)天の原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私のふるさとの春日にある三笠の山の上に出る月と同じなんだよなぁ。 

(解説)作者の阿倍仲麻呂が、留学で渡った唐から日本に帰るときに詠んだ歌です。船の乗り場であちらの国の人が、仲麻呂の送別会をして別れを惜しんで、漢詩を作ったりしていました。それに飽き足らなかったのでしょうか、彼らは満月が出るまでそこに留まりました。月は海から出てきたのですが、この海を天の原とたとえ、上った月の情景を表現した歌です。
春日なる:春日にある。春日とは、今の奈良県奈良市
三笠の山:奈良市にある山

 古典の教科書などでは上記のような説明がなされており、学校で教えられたことだから正しいと思っている人がいかに多いことか。
 この有名な歌は紀貫之の書いた『土佐日記』にも引用されている。 少し長くなるが関連する部分を引用する。
二十日の夜の月出でにけり。
山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。
かうやうなるを見てや、昔、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土にわたりて、帰り来ける時に、船に乗るべきところにて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩(からうた)作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月の出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
これをみてぞ仲麻呂のぬし、「わが国に、かかる歌をなむ、神代より神もよん給(た)び、今は上、中、下の人も、かうやうに、別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ」とて、よめりける歌、
「青海原(あをうなばら)ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」
とぞよめりける。
 『土佐日記』の紀貫之の証言をどのように受け止めるべきだろうか。唐から帰る時、船乗り場で、海から昇った月を見た仲麻呂は、「私の国では、このような歌を神代から神様もお詠みになり、今日では、上中下いずれの人でも、このように別れを惜しんだり、嬉しい時も、悲しいことがある時も詠むのです」と言って例の有名な歌を詠んだというのだ。
 作者は阿倍仲麻呂だと教えられてきたのに、実際は神代から詠み継がれてきた有名な歌を阿倍仲麻呂は唐で披露したに過ぎない……。素直に読むとそういうことになる。なぜ「天の原」でなく「青海原(あをうなばら)」となっているのかという疑問もあるかもしれないが、本歌は「天の原」という場所で詠まれたが、異なる場所で海から昇った月を詠んだので、場に則した形で詠み変えたものと考えられる。
 また、通説では「春日なる三笠の山」が奈良県にある山とされてきたが、奈良県の御蓋(みかさ)山は標高約283mと低すぎて、この歌にふさわしくないことは、当地でも早くから問題視されていた。これに対して福岡県の三笠山(宝満山、標高869m)であれば、近くに春日市もあり、壱岐の天の原遺跡辺りから月が昇る東方に見ることができて、地理的位置関係や自然地形上からも問題はない。
 延喜五年(九〇五)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされている。残念ながらいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。
 一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、一一五七年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に(ヽ)」と書いた横に「ヲ(ヽ)」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を(ヽ)」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に(ヽ)」と記されている流布本(貞応二年、一二二三年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。
 原型が「みかさの山を出でし月」であれば、周囲の山々より低い奈良県の御蓋山にはますます似つかわしくないことになる。「神代より」とあるのだから、舞台は天孫降臨の地“筑紫の日向(福岡県の日向峠)”を中心とする領域である。近年、福岡県や佐賀県から弥生時代の硯(すずり)が発見され、まさに神代より歌が詠まれてきたという話が真実味を帯びてきた。
 歴史教科書のみならず、「もう一つの古典教科書問題」を提起しなければならなくなったようだ。

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筑紫神社は高知県にもあった①
筑紫神社は高知県にもあった②

 上記の過去のブログを読まれた方はご存知かもしれないが、長野県に高良玉垂命を祀る筑紫神社が存在したという情報に触発されて、高知県にも旧東津野村(現津野町)に高良神を祀る筑紫神社が存在していたことを紹介した。

 しかし、その筑紫神社が現在どこにあるのか、ずっと分からずにいた。それがやっと手掛かりがつかめたので報告しておきたい。『高知県神社明細帳』に次のように記されていた。

高岡郡北川村字菅ノ谷

 村社 大元神社 
一、祭神 古老伝説ニ云延喜年間ニ天御中主尊ヲ祭リシニ慶長年間ニ至リ其躰を伊勢ノ国ニ求シニ天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大明神ノ三神像キタリシヨリコレヲ崇祭スト 其真否未詳。
一、合祭神社五社
 八王子宮 六拾余社 拾二社
 筑紫神社 六拾余社

筑紫神社
一、祭神 高良神
一、由緒 勧請年月縁起沿革等未詳
或云「寛文十戌年勧請スト」古来ヨリ当村ノ内宮谷部落ノ崇敬神ニテ字東ノ越ニ鎮座シ筑紫大権現ト称ス 明治元年辰三月達ニヨリ筑紫神社ト改称シ三年爰ニ合祭ス

 高岡郡津野町北川の宮谷地区はその名のごとく、かつては20ほどの神社があったという。筑紫神社もその一つで、明治元年の達しにより、北川菅ノ谷の大元神社に合祭されていたのだ。高岡郡は高知県でも高良神社の空白地帯と思われていたが、これで高良玉垂命を祀る神社は郡内で3社(他に高岡郡佐川町の鯨坂八幡宮土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命)あったことになる。
 その大元神社(祭神:天御中主尊、天照大神外二神)については、HP『高知の河川』(http://river.nomaki.jp/index.html)によると、延喜14年(914)に津野の家臣藤原時景という武士が、宮谷の山の上穴神山の宕(ほら)の上に、奉祭したのが始まりといわれている。その後上谷に移行してお祭りをしていた。嘉永6年(1853)に菅ヶ谷の八王子神社があった現地へ、合祀したものである。秋の大祭は、毎年11月18日に行われ、五穀豊穣、無病息災などを祈願して津野山古式神楽の「山探し」と「花米」などの舞が奉納される。
 ところで「大元(本)神社」は県内に44社ほどあり、多くは天御中主尊を祭神とする。また「星神社(旧妙見)」も主に天御中主尊を祭神とし、県内に約61社存在する。他県と比較したことはないが、かなり多い方ではないかと推測する。そして、高知県内で最も古い部類となる津野山古式神楽が津野町や梼原町で古くから伝えられてきたことは、何か歴史の重みを感じさせる。

津野山古式神楽

 津野山古式神楽は、延喜13年(西暦913年)藤原経高が京より津野山郷に来国したときに、神話を劇化したものを神楽として伝えたことが始まりとされている。『宮入り』から『四天の舞』まで全部で17の舞がありすべての舞を舞い納めるには8時間ほどかかる。秋祭りに氏子が五穀豊穣、無病息災を祈願して神社へ奉納するがその他、氏子が願ほどきに奉納することもある。

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 令和元年の初詣や福袋の販売など、巷では令和ブームに乗っかろうという風潮があちらこちらに見られる。オーテピア高知図書館でも、新元号「令和」の出典となった万葉集の江戸時代の写本が展示されていた。郷土史関係の本が並ぶ同館3階の「高知資料コーナー」奥にある展示室で、6月23日まで常設展示されているようだ。.


 『万葉集』は7世紀後半から8世紀前半にかけて編まれた、日本にのこる最古の和歌集。編者は不明だが、最終的には大伴家持によって、全20巻にまとめられたという説が有力だ。天平宝字3(759)年までの約130年間の歌が収められている。一万首の歌が収められているから万葉集かと思いきや、実際は約4500首で、そのうち約320首が筑紫国で詠まれたもの。量もさることながら優れた作が多く、「筑紫歌壇」という言葉さえ付けられている。
 新年号「令和」は万葉集「巻五 梅花歌三十二首并(ならびに)序」からの引用。これは天平2(730)年に太宰府の大伴旅人(家持の父)邸の梅園で催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首を集めたもので、その序文にある「于時初春令月気淑風和 梅披鏡前粉蘭薫珮後香」から採ったものだ。

 「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」
「折しも初春の佳き月で、空気は清く澄み渡り、風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている」という意味だ。
 ところで「筑紫万葉の大きな空白 倭国=九州王朝論・傍証」と題して、福岡市のいき一郎氏は次のような内容を論じている。

 『万葉集』の歌枕のない地方は筑後国、肥前南部、肥後北部であって、南北七十キロ、東西百キロにおよぶ。しかも、この地域は、杷木(はき)、帯隈山、おつぼ山、高良山、女山(ぞやま)という五神籠石群をふくんでいる。また、壁画古墳の密集する地域である。いまの地理でいえば、筑後川から有明海(筑紫海)、雲仙、阿蘇をつつみこむ。風光明眉な地方である。

 養老4(720)年、隼人の反乱の報告を受け、征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人は反乱の鎮圧にあたる。しかし、隼人の反乱というのは大和朝廷の大義名分であって、実質は九州南部へ逃れた九州王朝の残存勢力の討伐戦、いわば明治維新の際の戊辰戦争の如きものではなかったか。いき一郎氏は「万葉集の空白地帯=旧倭国の本陣のあった地域」と傍証している。
 その10年後、大宰帥であった大伴旅人邸(現在の太宰府市、坂本八幡宮)に九州全土(大隅・薩摩を含む)の官人を集め、「梅花の宴」を催していることから、九州王朝が完全に滅び、大和朝廷の天下になったと考えられる。多くの犠牲の上に新たな時代を迎えたのだった。『万葉集』巻五は、次の歌(七九三)で始まる。
大宰帥大伴卿の凶問に報(こた)へる歌一首
世の中は 空(むな)しきものと 知る時し
  いよよますます かなしかりけり

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▲白雲(霧)のかかる辺りに白雲神社が鎮座する

 高岡郡津野町の東部を占める旧葉山村は、1956年(昭和31年)下半山(しもはやま)、上半山の2村が合併して成立。2005年(平成17)東津野村と合併して、津野町となった。中央部を新荘(しんじょう)川が東流し、坂本龍馬脱藩の道としても知られる。「葉山」地名は早馬(ハユマ)に通じ、古代官道の駅家関連地名とも言われる。

 古くは半山(はやま)郷とよばれ、中世、津野荘一帯に広く勢力を有した津野氏が、姫野々に城を構えていた。姫野々の中央に鎮座する白雲神社は、その築城に際し四方固めの神社として勧請したものという。


 中世土佐の名族津野氏は、家譜によれば913年(延喜13年)土佐に入国、津野荘を開拓したとするが、案内板にもあるように、地元では元仁元年(1224年)入国説を採用しているようだ。家系図の代数から、10世紀までさかのぼるには無理があるとの考え方が強いためだろう。津野氏は本姓藤原氏、鎌倉期には在地領主として台頭、この荘名を姓としていたことが1333年(元弘3年)には確認できる(潮崎稜威主文書)。五山文学の双璧と称される義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)はともに津野氏の一族で、船戸の出身と伝える。


 津野氏はなぜ姫野々の中央、城の守りの要所に白雲神社を祀ったのだろうか。白雲神社とはありそうで、あまり聞かない社名である。有名なところでは京都に一社。京都市上京区京都御苑内に白雲(しらくも)神社がある。藤原北家閑院の一流・旧西園寺家の鎮守社で、厳島神社・宗像神社と並んで、京都御苑にある3つの神社のひとつ。由緒書によれば、鎌倉中期の元仁元年(1224年)、太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね)が北山殿(現在の金閣寺の地)の造営に当たった際、第一に建立した妙音堂に由来するとされる。元仁元年といえば、津野氏の土佐入国と機を一にしている。何かつながりがあるのだろうか。なお、祭神の市杵島姫命は妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)と称えられて、琵琶を家職とする西園寺家の楽神(音楽の神)として崇められたそうだ。

 ところが、高知県の白雲神社の祭神は異なる。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると木花咲耶姫命と石長姫。『高知県神社誌』(竹崎五郎著、昭和6年)では「祭神未詳。或云木花咲耶姫命。往昔津野氏半山城鎮護の為め勧請と伝ふ。合祭社白山神社外四社あり」としている。
 津野家没落後神社は破壊してしまったが、正徳元年(1711年)村民が再興。当部落の産土神として白雲権現と称していたが、明治元年に白雲神社と改称した。長い遊歩道を登った城山公園の一角に鎮座。さらに登ると標高193メートルの頂上に城跡がある。

 また、似たような名称では岡山県にこのみ教白雲大宮(笠岡市応神山宮地)や白雲山普光寺(久米郡美咲町)などがある。寺院としての白雲寺(はくうんじ、びゃくうんじ)であれば、富山県に3か所、氷見市・射水市・中新川郡立山町にある。他に愛知県丹羽郡扶桑町と大阪市東住吉区に各1か所。
 ルーツをたどれば、中国の五台山の影響であろうか。平安時代から鎌倉時代の入唐僧や入宋僧の多くは、天台山とともに五台山を訪れた。山西省の白雲寺については、唐代(618~907年)に五台山に建設され、宋代(960~1270年)に最盛期を迎えている。
 中国文化にも通じた五山文学を代表する学問僧、義堂周信と絶海中津の存在が「白雲神社」の社名に反映されていると見るのは考えすぎであろうか。


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 新元号「令和」発表の記者会見で、「1400年近い日本の歴史」と安倍首相は語っていた。645年大化の改新からの計算であろう。

 しかし、大和朝廷における建元(元号の始まり)は701年の大宝元年であり、大化ではない。700年以前に白鳳や朱鳥もあるが、連続性がなく、大和朝廷による年号とするには疑問がある。もし、大化から始まったとすれば、大宝は改元と表現されなければならない。
 平成27年賀詞交換会における新年講演会で古田武彦氏は次のように「九州年号はリアルである」という内容を語っていた。

【古田先生講演概要】

 本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。昨年十一月に長野県の松本深志高校で講演したばかりなので、それと同じ内容になるのかと思っておりましたが、新たなテーマが続出しましたので、それをお話ししたいと思います。
 まず九州年号の問題ですが、『二中歴』に載っている九州年号が画期的であると思っています。『二中歴』では九州年号が七〇〇年に終わり、七〇一年に文武天皇の年号(大宝)に続いていますが、この七〇一年こそ、「評」が終わり「郡」に変わった年であり、これは偶然の一致ではなく、『二中歴』が示した内容が真実であり、九州年号は歴史事実である。従って、九州年号を制定した九州王朝もリアルである。これは確定論証である。九州王朝が存在しなかったことにしている『古事記』『日本書紀』こそ間違っていたことになる。……(以下略)

  当然ながら、「平成」から「令和」は改元である。連続性があるからである。逆に『日本書紀』で大宝建元とされているということは王朝の交代があったことを意味する。大和朝廷以前に年号を持っていた倭国の中心王朝が別に存在していたのだ。

 いわゆる「九州年号」については『二中歴』や『海東諸国紀』に連続的に記録されている。また寺社の縁起など、全国的に使用されていた形跡がある。高知県でも"小村神社の始鎮は「勝照二年(586年)」"と伝承されていた。わが国の年号の始まりについては通説を鵜呑みにせず、しっかりと検証していく必要があるだろう。


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  『広辞苑 第七版』(岩波書店、2018年)に新たに収録された言葉の一つに「むちゃぶり」がある。

むちゃ‐ぶり【無茶振り】

漫才などで、返事に困る無茶な話題を振ること。転じて、無茶な仕事などを振り当てること。

 ここで唐突に『隋書』俀国伝に書かれている俀国王・多利思北孤(たりしほこ)の太子の名前「利歌彌多弗利(りかみたふり)」の話題を持ち出すのは、"むちゃぶり"であろうか。多利思北孤については日本史の教科書では「日出ずる処の天子」を自称し対等外交を試みた聖徳太子とされてきたが、摂政が天子を名乗るのはとんでもないことであり、妻がいることから推古天皇にも当てはまらない。あくまでも近畿天皇家とは直接関係のない九州王朝の王なのである。

 九州王朝の倭王が中国風一字名称を名乗ったことは、『宋書』における倭の五王「讃・珍・済・興・武」に例がある。さらに邪馬壹国の女王壹與の「與」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などもその可能性があるという。そうなると、倭国・九州王朝では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたことになる。
 そして『隋書』に見える多利思北孤の太子・利歌弥多弗利についても、「利」が中国風一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを古田武彦氏が発表している。「利歌彌多弗利」を「利、上塔(かみとう)の利」、すなわち「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解したのだ。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではない。
 古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったとされ、この問題をクリアする上で古田説は最有力である。しかし、シンプルな読みを捨て、「上塔」地名と結びつけたことで、不利になった点もあることを知る必要がある。新たに問題点として浮上するのは次のような疑問である。
①文法・用例的に成立する読みか。
②上塔の地が倭国の太子と縁のある地であるのか。
③北部九州は言素論から見ると「脊振(せふり)」「加布里(かふり)」など「〜ふり」地名が存在する。それとの関連性を断ち切る読み方で良いのか。

 とりわけ③については、戦国時代に龍造寺氏を苦しめたという山内の鷲・神代勝利(くましろかつとし)が活躍した佐賀県の脊振山系を眺めながら、ふとひらめいた。そういえば大学時代、週末によく加布里(福岡県糸島市)に行ったよなー。「せふり」と「かふり」、そこからむちゃぶりの「りかみたふり」となったわけだが、別に古田説に反旗を翻すつもりはない。仮説が正しいとされるためには、総合的な観点から整合性があってこそである。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に 出(い)でし月かも

 糸島市加布里付近の港から出航して、壱岐「天の原遺跡」あたりで「ふりさけ見れば」、東方に脊振山系をはじめとし、春日(福岡県春日市近辺)なる三笠の山(宝満山)が見える。「ふり」地名に囲まれた九州北部一帯こそ「利歌彌多弗利(りかみたふり)」の生まれ育った地なのではないかと思えるのだが……。古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は本当に無かったのだろうか?

           

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 ホームページ『新古代学の扉』を見ていたら、懐かしい名前が飛び込んできた。いつの間に掲載されていたのか、もう明日の事である。

(関西)古田史学講演会 案内 ・報告を仮設置
4月26日(金)18時45分~20時15分、誰も知らなかった古代史での細川隆雄氏講演案内

誰も知らなかった古代史の会
 第37回講演
鯨から日本の古代を探る
-- 神武歌謡『くぢら障る』歌と万葉集『調使首のイサナトリ』歌を中心に
講師 細川隆雄(愛媛大学名誉教授)
2019年 4月26日 18時45分~20時15分
参加費は500円
会場はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)3階第3会議室
交通はJR大阪環状線及び大阪メトロ森ノ宮駅、西に徒歩10分(中央線谷町4丁目から東に10分)難波宮跡の東隣り

 「ほっそん先生」こと細川隆雄氏にお会いしたのは昨年のことだったろうか。愛媛大学農学部名誉教授で専門はソ連の農林水産業であるが、いつしかクジラ博士と呼ばれるようになつた。『鯨塚からみえてくる日本人の心』シリーズや『ほっそん先生鯨に恋をする』など、鯨に関する著作も多い。
 私自身も高岡郡佐川町の鯨坂八幡宮のルーツ(鯨坂八幡宮との関係ーー安芸郡の田野八幡宮)を追いかけて、古くから鯨漁が盛んであった安芸郡調査に乗り出し、鯨塚の存在も知るようになった。細川先生からは色々と教えを請いたいところである。
 勝手ながら講演会のPRを兼ねて紹介させていただいた。神武歌謡と万葉集を中心材料として、日本の古代の謎にアプローチする、めったに聞けない鯨と古代日本人の密接な関係を知る内容となりそうだ。



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 最新の『古代に真実を求めて第22集 倭国古伝ーー姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史』(古田史学の会編、2019年)がついに出版された。目次は次の通り。

  目 次

003 巻頭言 勝者の歴史と敗者の伝承[古賀達也]
005 古代伝承を「多元史観」で読み解く理由[西村秀己]
特集 倭国古伝――姫と英雄と神々の古代史
 I  姫たちの古代史
012 太宰府に来たペルシアの姫[正木裕]
024 大宮姫と倭姫王・薩末比売[正木裕]
053 肥前の「與止姫」伝承と女王壹與[古賀達也]
063 糸島の奈留多姫命伝承と「日向三代」の陵墓[正木裕]
072 駿河国宇戸ノ濱の羽衣伝承[正木裕]
081 常陸と筑紫を結ぶ謡曲「桜川」と「木花開耶姫」[正木裕]
  II  英雄たちの古代史
092 讃岐「讃留霊王」伝説の多元史観的考察[西村秀己]
101 丹波赤渕神社縁起の表米宿禰伝承[古賀達也]
114 六十三代目が祀る捕鳥部萬の墓[久冨直子]
119 関東の日本武尊[藤井政昭]
129 筑後と肥後の「あまの長者」伝承[古賀達也]
133 天の長者伝説と狂心の渠[古賀達也]
138 コラム1 肥前・肥後の「聖徳太子」伝承 古賀達也
140 コラム2 湖国の「聖徳太子」伝承 古賀達也
 III  神々の古代史
144 縄文にいたイザナギ・イザナミ[大原重雄]
152 「天孫降臨」と「神武東征」の史実と虚構[正木裕]
175 恩智と玉祖―河内に社領をもらった周防の神さま[服部静尚]
185 安曇野に伝わる八面大王説話[橘高*修]
189 甲斐の「姥塚」深訪[井上肇]
193 荒覇吐神社の現地報告―和田家文書から見た風景[原廣通]
165 コラム3 天孫族に討たれたあらぶる神 服部静尚
168 コラム4 「国譲り」と「天孫降臨」 橘高*修
173 コラム5 紀国の鎮西将軍伝承 古賀達也
184 コラム6 日本海側の「悪王子」「鬼」伝承 古賀達也
199 コラム7 羽黒山修験道と九州王朝 古賀達也
   一般論文
202 一般論文 「実証」と「論証」について[茂山憲史]
   フォーラム
210 『東日流外三郡誌』と永田富智先生[合田洋一]
216 倭国溶暗と信濃[鈴岡潤一]
  付録
228 ○古田史学の会・会則
230 ○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
233 ○編集後記 服部静尚


 私が特に注目している記事は、以前ブログで紹介した"佐賀県「與止姫伝説」の分析"の元ネタとなる【肥前の「與止姫」伝承と女王壹與[古賀達也]】と題する論稿である。
 それと最近ブログで紹介した"長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布"に関連して、【安曇野に伝わる八面大王説話[橘高*修]】【倭国溶暗と信濃[鈴岡潤一]】の2つの論稿。「高良神社の謎」シリーズにも深くリンクしてくる内容であり、高知県の「八面神社」や「八つに分かれる面」など、長野県とのつながりを研究する必要が出てきたようだ。

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『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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