松山市内には現在私が知るところでは、3つの高良神社がある。伊佐爾波神社(桜谷町173)、生石八幡神社(高岡町917)、そして高家八幡神社(北斎院町295)のいずれも境内社である。
岩子山緑地の松山市考古館の南方に朝山高家八幡神社が鎮座している。地名の斎院は「さや」と読み、伝承によると、天暦元年(947年)に、山城国上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた”一色式部大輔氏勝”(いっしき しきぶのたいふ うじかつ)が、この地に”賀茂神社”と”八幡神社”を勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したことから”斎院”となったという。
なお”斎院”(さいいん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した”斎王”のことである。
朝山高家八幡神社の祭神は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。三女神とは宗像三女神のことであろう。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。
5つの境内社と1つ境外社あり。
素鵞神社(建速須佐之男命)
奈良原神社(保食神)
生目八幡神社
高津神社
高良神社
境外社:忽那社(通称:オヘイべエ様)
鳥居は素鷲神社のもので、その左手にあるのが高良神社のようである。打ち付けられた板を見ると、高津神社の横に消えかかっているものの、確かに「高良神社」との字が読み取れる。
高津神社・高良神社を祀るから「高家」かと思っていたら、久米山部高家(くべやまべのたかいえ)が現在の弁天山トンネルの東側入口付近に住み、この山林を高家山と言っていたことによるものらしい。
かつては久米評と呼ばれた松山市一帯が、古来より栄えた三津港を拠点とし、九州王朝と深いつながりがあったことを偲ばせる。
愛媛県神社庁がホームページで紹介している神社由緒を以下に引用する。
健磐龍命の後裔が伊予に来て、健磐龍命を祀り、阿蘇宮と称した。また、社記によれば、健磐龍命の第三男子の健岩古命が伊予の賊を征伐し、伊予に住み(岩古山)、久米部山部小楯の遠祖となるという。
朱雀天皇(在位930~947年)の御宇、楠戸根千代は阿蘇宮を深く尊崇し、藤原純友の征伐を祈り、朝山宮と改称した。征伐後、社殿を改築し、神田を献じて凱旋の式を挙げた。天慶5年(942年)、宇和島五太夫越智通季は神田を献じ祭祀を厚くした。
天暦元年(947年)、山城国の加茂の斎院に仕えた一色式部太輔氏勝は、当地に来て高家山(烏山)に八幡大神、加茂大神を勧請した。その後、地名の三院に斎院の文字を用いるようになった。
正治2年(1200年)、高家山の八幡宮は火災焼失し、朝山宮に相殿となり、朝山高家八幡宮と称したが、いつしか高家八幡宮とのみ称えるようになった。
康永元年(1342年)、河野新三郎が社殿を改築し、元禄6年(1693年)には藩主が修復した。その後、岡田長房等の改築が数度あった。
岩子山緑地の松山市考古館の南方に朝山高家八幡神社が鎮座している。地名の斎院は「さや」と読み、伝承によると、天暦元年(947年)に、山城国上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた”一色式部大輔氏勝”(いっしき しきぶのたいふ うじかつ)が、この地に”賀茂神社”と”八幡神社”を勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したことから”斎院”となったという。
なお”斎院”(さいいん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した”斎王”のことである。
朝山高家八幡神社の祭神は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。三女神とは宗像三女神のことであろう。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。
5つの境内社と1つ境外社あり。
素鵞神社(建速須佐之男命)
奈良原神社(保食神)
生目八幡神社
高津神社
高良神社
境外社:忽那社(通称:オヘイべエ様)
鳥居は素鷲神社のもので、その左手にあるのが高良神社のようである。打ち付けられた板を見ると、高津神社の横に消えかかっているものの、確かに「高良神社」との字が読み取れる。
高津神社・高良神社を祀るから「高家」かと思っていたら、久米山部高家(くべやまべのたかいえ)が現在の弁天山トンネルの東側入口付近に住み、この山林を高家山と言っていたことによるものらしい。
かつては久米評と呼ばれた松山市一帯が、古来より栄えた三津港を拠点とし、九州王朝と深いつながりがあったことを偲ばせる。
愛媛県神社庁がホームページで紹介している神社由緒を以下に引用する。
神社由緒
神武天皇(在位紀元前660~紀元前585年)の第二皇子神八井耳尊の御子を健磐龍命と申し奉る。健磐龍命の後裔が伊予に来て、健磐龍命を祀り、阿蘇宮と称した。また、社記によれば、健磐龍命の第三男子の健岩古命が伊予の賊を征伐し、伊予に住み(岩古山)、久米部山部小楯の遠祖となるという。
朱雀天皇(在位930~947年)の御宇、楠戸根千代は阿蘇宮を深く尊崇し、藤原純友の征伐を祈り、朝山宮と改称した。征伐後、社殿を改築し、神田を献じて凱旋の式を挙げた。天慶5年(942年)、宇和島五太夫越智通季は神田を献じ祭祀を厚くした。
天暦元年(947年)、山城国の加茂の斎院に仕えた一色式部太輔氏勝は、当地に来て高家山(烏山)に八幡大神、加茂大神を勧請した。その後、地名の三院に斎院の文字を用いるようになった。
正治2年(1200年)、高家山の八幡宮は火災焼失し、朝山宮に相殿となり、朝山高家八幡宮と称したが、いつしか高家八幡宮とのみ称えるようになった。
康永元年(1342年)、河野新三郎が社殿を改築し、元禄6年(1693年)には藩主が修復した。その後、岡田長房等の改築が数度あった。
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HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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