次に目指したのは山城町末貞の高良神社。地図に示された場所はかなり山の上。いつもながら細い山道が気にかかる。 途中、大歳神社に出くわし、昨日、美馬市の天都賀佐彦神社で見た五角柱と同じ物を発見した。社日(しゃにち)といい、五柱の神名を刻んだ石碑で、出雲の神社に多く見られるという。合格祈願で神社興しに役立つのではないかとのアイデアも浮かぶ。 後で知ることになるが、この大歳神社(と寄木神社)は高良神社と共に昭和27年、同町に鎮座する伊邪那岐神社(山城町下川東449)の飛び地境内社とされている。 集落を上へ上へと登る。目的の神社が見つからない時は思い悩むが、発見した時の喜びはひとしお。「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ」(箴言13・12)である。 この日、2つ目の高良神社(末貞字的場242)を発見。鳥居をくぐる前から虻(あぶ)に付きまとわれ、歓迎されていないのではないかとの思いになる。 右手側に摂社らしきものがあるが、何も書かれていない。近所の人の話によると右隣りは八坂神社で、京都から御札をもらってきているとのこと。 ふと、高知市鏡の「コウラ」という場所に建つ八坂神社のことを思い出した。一体、高良神社と八坂神社が置き替わるなどということがあり得るのだろうか? 当初は半信半疑であったが、今目の前に、いわれの分からない高良神社と、京都から勧請された八坂神社とが並んでいる。この二社の位置づけが、将来どうなっているか分からない。 昭和34年発行の『山城谷村史』によると「享保8年3月1日の創建にかかり聖午王と称した。明治5年2月3日改称」、旧午王が高良神社(祭神・武内宿禰)となった。 牛頭天王(スサノオノミコト)と高良神社は直接的な関係はなさそうだから、高良大明神(同町内、他の三社は旧高良大明神)が祀られていた所に、牛頭天王が江戸時代に勧請されたと考えるべきか。 明治維新による神仏分離および名称変更の際、高知市鏡梅ノ木の事例とは逆のコースをたどったようである。喩えは悪いが「軒先貸して母屋取られる」とはならなずに済んだと思われる。この辺りはもう少し調査が必要かもしれない。 PR |
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