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秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
天智天皇(1番)『後撰集』秋中・302 天智天皇(てんじてんのう。626~671) 舒明(じょめい)天皇の皇子で即位前の名前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。藤原鎌足とともに蘇我氏を撃ち、大化改新をなしとげ、天皇に即位しました。その後、飛鳥から近江に都を移しています。 天智天皇は平安時代には、歴代天皇の祖として非常に尊敬されていました。この歌は元々、万葉集の詠み人知らずの歌でしたが、そういうイメージから、口伝で伝えられるうちに、天智天皇作とされるようになったようです。
『ちょっと差がつく百人一首講座』から引用させてもらいました。 天智天皇が歴代天皇の祖として非常に尊敬されていたということは、百人一首の第一番に「秋の田の~」の歌が採用されていることからもうかがえる。 古田史学の会でも正木裕氏の主張する近江朝の問題が話題になっているが、政権交代の礎を築いた立役者は何と言っても天智天皇かもしれない。天智天皇の不改常典が大宝律令の元になっているとすると、貴い宝「大宝」とは、まさに天智天皇のことをさしていたのではないだろうか? 何を根拠にと思われる人もいるだろう。九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代における大宝年間の祭神置き換え問題。全国的に大宝天皇になった所がいくつか存在する。「コウラ」という場所に建つ八坂神社がかつては大宝天皇であった。また、高知県吾川郡いの町中ノ川の大森神社も明治維新前は大宝天皇と呼ばれていた。そして祭神は天智天皇であったというのだ。
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