高知県の歴史や民俗などに関する優れた研究をたたえる「平尾学術奨励賞」の第39回受賞者が、仏教大学研究員の大利(おおり)恵子さん(63)=高知県南国市緑ケ丘1丁目=に決まり、公益財団法人高知新聞厚生文化事業団(宮田速雄理事長)が27日発表した。大利さんは、中世の土佐西南部に存在した荘園「幡多荘」の実態について史料から再検証。荘園の範囲や一条家との関係について新説を提示した。どのような研究内容なのか、気になっていて調べてみると論文が閲覧できた。その一部を紹介したい。幡多地方を研究する上で参考になることも多そうだ。
九条家領土佐国「幡多郡」の伝領とその特質大利恵子はじめに九条家領土佐国「幡多郡」は、建長二年(一二五〇)、九条道家が家領を子女に分配した際に、四男実経に分与した四十一ヶ所の内の一所である。処分状に載る家領の中では唯一郡名で挙げられる所領であり、土佐国「幡多郡」という記載に続き本庄、大方庄、山田庄、以南村、加納久礼別符の五ヶ所の荘園名が記されている。幡多郡は国造時代の波多国で波多・畑とも書かれ、大化改新によって成立した土佐国に併合されて幡多郡になったと言われ、東西に長い土佐国の西南部約四分の一を占める平野の少ない広大な地域であって、土佐七郡の中では国府があった長岡郡から最も遠い。そのような地に九条家領が形成された要因は何であろうか。
(中略)②その「幡多郡」については、支証となる文書の類が見い出せないにも拘わらず、九条家一門の間では鎌倉幕府からの支給地であると認識され続けてきた。幕府が一郡を支給するという形で考えられるのは郡地頭職であるが、一方で道家の惣処分状には五ヶ所の荘園名が追記されて幕府給恩の預所の存在が知らされ、この家領の性質が国衙領であるのか荘園であるのか客観的に理解し難い。また惣処分状で追記された五ヶ所の荘園は幡多郡を五分割する単位ではなく、そのうち一ヶ所は高岡郡にあったと考えられる。このことから家領「幡多郡」は幡多郡の郡域と同一ではなく、荘園とその他を含み、加えて高岡郡の一部をも抱え込んだ範囲であり、それは漠然とした、且つ多分に「観念的」な認識であった可能性が高い。