『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)によると、阿蘇神社の分霊をお祀りした神社は、全国に約500社あるという。内訳としては熊本県に461社、大分県に32社、福岡県に8社、宮崎県に5社、長崎県に4社と九州に大半が集中する。その他、青森県を北限とし本州に13社、そして四国では愛媛県に1社が鎮座している。 そしてこの1社がどこかというと、愛媛県松山市に九州阿蘇系の神社があることを既に過去のブログで取り上げていた。「愛媛県の高良神社⑤ーー高家八幡神社 境内社」で紹介した高家八幡神社(松山市北斎院町295)である。祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。 高家八幡神社を訪れるまでは、恥ずかしながら阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神が健磐龍命(たけいわたつのみこと)であることを知らなかった。そもそも四国では他に健磐龍命を祀っているところを聞かない。それもそのはず、『鯰考現学』では四国で1社だけとなっている。 阿蘇山には何度も登り、熊本地震の前も後も阿蘇神社の前を通過した。けれどもその重要性に気付かず素通りしてしまっていた。『隋書俀国伝』にも「阿蘇山あり」と書かれているように、「日出ずる処の天子」を自称した阿毎多利思北孤(あまたりしほこ、聖徳太子ではない)の治める国は阿蘇山と深い関係がある。 健磐龍命は阿蘇神社が奉斎する阿蘇山の神としての性格を持つほか、阿蘇神社では神八井耳命(神武天皇の子)の子と伝える。その阿蘇神社と愛媛県松山市の高家八幡神社(旧阿蘇宮)とどのようなつながりがあったのだろうか。 松山市には古代において「久米評」があった。かつて「郡評論争」と呼ばれる議論があり、結論として、大宝律令の施行(701年)以前に「郡」に先立つ「評」という行政単位が存在していたことが立証された。大和朝廷が評制を制定したという記録はないなので、一元史観の学者たちは評の存在を認めたくなかったが、700年以前の「〜評」と記された木簡が出土しており、701年以後は「〜郡」に変わる。「評」は大和朝廷以前の王朝、すなわち九州王朝によって制定された行政単位だったと考えられる。 熊本県には球磨郡久米郷(現・多良木町)があり、愛媛県にも久米評(現・松山市)が存在していた。「久米評」と刻まれた6×7cm前後の須恵器の破片が発見され、評衙が松山平野に存在していたことが明らかとなったのである。伝承によると健磐龍命の第3子、健岩古命が伊予国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったと言われている。 PR |
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