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聖徳太子が行なったこと
 第2回統一模試社会の問題で「聖徳太子が行なったこととして正しくないものを一つ選べ」という出題があった。選択肢は次の4つ。
ア 冠位十二階を定め、家柄ではなく個人の才能や手柄で役人を採用した。
イ 役人の心得として、十七条の憲法を定めた。
ウ 小野妹子を遣隋使として中国に送った。
エ 中国にならい、大宝律令というわが国初の法律を定めた。

 さて、あなたならどれを選択するだろうか? 多少でも日本史を勉強した人ならすぐにエが正解だと分かるはずだ。しかし、さらに深く歴史を研究した人なら、ウも相当怪しいと考えるのではないか。隋書俀国伝に記されている「日出ずる処の天子」とは「多利思北孤」のことであって、聖徳太子のことではない。「阿蘇山あり」とあることから九州王朝の王であるとするのが客観的な見方であろう。

 一方、日本書紀には「大唐に送る」とはあっても隋という国名は出てこない。この点については、西高の日本史の先生も疑問を発しておられたようだ。
 だからといってテストの出題に問題ありと言いたい訳ではない。現行の教科書には聖徳太子の業績として書かれていることであり、私自らも生徒たちには「聖徳太子のやったことは3つ覚えるように。①冠位十二階、②十七条の憲法、③遣隋使」と不本意ながらも教えている。
 もう一つの歴史教科書問題(従来の歴史教科書問題とはいわゆる自虐史観か愛国史観かといった議論)として私が提起したいのはこの点である。すなわち大和朝廷一元主義史観か多元主義史観かの議論である。未来の歴史教科書がより真実の日本古代史を反映していることを願いながら、今日はここで筆を置きたい。

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【2011/11/24 15:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
大和朝廷の関東支配
 大和朝廷が関東まで勢力を伸ばしたのは何世紀のことか? 小学校あるいは中学校の社会で、時々出題される問題だ。個別指導をしている時、よく質問される内容であり、どう答えるべきか最も迷う問題でもある。
 教科書には「5世紀になると、大和朝廷の支配はさらに広がり、九州から関東までの豪族を従えるようになりました」とある。その根拠となるのは、江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄刀と稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣。写真入りでいずれもワカタケル大王の文字が刻まれているという。資料を掲載したことは評価に値するが、本当にそう読んでいいのか疑問である。
 一方、中学校の教科書には「5世紀に入ると、大和朝廷の大王は、中国に何度もつかいを送り、中国の皇帝の権威を借りて、朝鮮北部の高句麗に対抗し、朝鮮との関係を保とうとしました」とある。いわゆる倭の五王の外交政策のことだ。中国史書に名前を残す、讃・珍・済・興・武の5人の倭王たちが、誰に相当するのかは様々に議論されてはきたが、歴代天皇の中に結びつける説は全て矛盾だらけ。そろそろ大和朝廷一元主義から脱却して新しい視点で考えてみてもいいのではないか。

 大和王権に先行する九州王朝や出雲王朝、さらには関東に大王ありと。それが今後歴史教科書を書きかえていく基本的なコンセプトとなる多元史観の考え方である。ちなみに大和朝廷が日本の中心王朝となるのは701年の大宝律令を前後する頃ではないかと考えている。


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【2011/11/16 09:20 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
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