もう一つの歴史教科書問題
多元史観による真実の日本古代史を求めてーー現在進行形の謎解き歴史ノンフィクション! 地方史が変わる。日本史がくつがえる。
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『探訪―土左の歴史』
第19号 (仁淀川歴史会、2023年6月)
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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『芸西村史』に見る坂本神社の式内社論争
土佐国(高知県)に21社ある延喜式内社のうちの一つ、坂本神社については『芸西村史』(芸西村史編纂委員会編、昭和55年)によくまとめられている。坂本神社といっても南国市の坂本龍馬を祀る神社とは違うので、お間違えないように。
安政二年の丙辰の年和食村金岡上にある神社の再建の際、社殿の横梁の所に「奉造立坂本権現慶長十三年孟夏吉日大工小助」と誌されてあったので神主松本越前正純明がこれを見て大いに驚いたというのである。早速、彼は延喜式に見られる坂本神社がこれだとして藩当局に届けた所、藩庁もまたここに坂本神社を造営することを許可してくれた。このことにより、和食の金岡にある宇佐八幡宮の境内に、坂本神社が再建されたのである。この坂本神社にしても近世初頭に「坂本権現」として明記されたものが唯一の手がかりであり、これだけで古代の式内社がここに鎮座していたというのはどうであろうか。ただ、最初から多気神社と坂本神社とは併座していなかったことは、延喜式の「神名帳」をひもとくと別々に記載されていることでもわかる。それに、併座されていれば「何々神社二座」、「三座」などというように記載されているからである。「式内社」を考える場合には、その神社を祭っている有力豪族を併せて考える必要があると思う。そうなると、安芸郡東部に室津神社、中部に多気神社、それに西部に坂本神社があったと推測することの方が自然なのではなかろうか。
現在、坂本神社の祭神葛城襲津彦命は和食の東の小丘にある宇佐八幡宮内の西端に小さな祠に祭られている。「神社明細帳」に「往昔和食村住筒井氏者同村字権現谷ト云所ヨリ爰ニ奉移ト云々」といわれているように、もと和食内に権現谷という所にこの神社があったが、筒井氏が後に和食の金岡山に移したというのである。続けて「天正十七年己丑三月三十日和食郷本村地検帳ニ権現領凡壱町四拾代五歩余御直分ト有之」とも記されている。
安芸郡奈半利町乙中里に多気坂本神社(だけさかもとじんじゃ)があり、境内には多気神社と坂本神社の二社相殿の社殿がある。もともと別の神社で、いずれも延喜式内社に比定されているが、いつ合併されたのかは不詳。慶長9年(1604年)4月の棟札に「嶽大明神坂本大明神」とあることから、遅くとも江戸時代初期には今の状態だったという。
もともと近くにあったとする奈半利説では、六丁(約600m)ほど南から坂本社が移つたとする伝承があるが、式内社が二社近接して存在していたとするのは疑問との指摘もある。
和食村(現・芸西村)での「坂本権現」の墨書銘発見により、藩庁はこの権現社を式内社「坂本神社」と認定した。現在は芸西村和食の金岡山の宇佐八幡宮内の西端の小さな祠に祭られている。
『奈半利村史考』(安岡大六著、1953年)によると、「坂本神社は和食村鎮座となった」との藩庁の認定に伴つて御神体も奈半利村から和食村へ移され、憤慨した奈半利村の若者たちが取り返しに行く話まで出ている。明治四年(一八七一年)のことである。それから事の次第を詳細に届出て、先方より異議申立がなかったため、明治五年十一月七日、坂本神社は奈半利村へ取りきめになったと通知があった。だが、調査のため御神体を県庁へ差出し、後にかえってきたのは元と異なっていたと伝えられる。
式内社の坂本神社がどこに鎮座していたかは重要な問題であるが、坂本神社の祭神が、一元史観によって推定されている葛城襲津彦命で本当に良いのか? これがもう一つの坂本神社問題である。この件については、機会を改めて考察してみたい。
[1回]
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【2019/01/03 11:10 】
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坂本神社
初めまして。私の父方が奈半利の坂本氏で先祖は豪族だったそうです。紀姓坂本臣は讃岐の坂本郷に居たのですが、土佐へ移って来て開拓したようです。私は、讃岐守だった紀夏井が応天門の変(866年)に連座して土佐(香南市)に配流されたことで、力になろうとしたのではないかと考えています。坂本神社の最初の記録が確か同じ年でしたし、香南市と和食は近いので。(ちなみに龍馬も紀姓坂本臣で、墓石に紀直柔と諱が彫られています)。
そして何かをきっかけに(例えば同族の蘇我氏系の安芸氏が長曾我部に滅ぼされた後に)、多気神社を氏神とする同族の武内氏を頼って、奈半利の方へ移動したのではないでしょうか。奈半郷(北川村)には、武内宿禰の子孫の武内氏が居り、そこのお嬢さんが紀貫之との子を産んで紀氏と名前を変え、最近まで子孫の方が住んでおられました。
坂本臣の祖は根使主ですが、雄略天皇に殺され、一族は「袋担ぎ」の身分に落とされました。坂本権現とはその御霊なのかもしれません。ちなみに和食はフジと読めるため、布師氏と関係が深い地だったと想像できます。もともと布師氏がいたのかもしれません。
【2020/03/20 07:18】| |
キノ
#4042e6981e [
編集
]
Re:坂本神社
キノ様
初めまして。貴重な情報ありがとうございます。坂本神社についてはまだ十分な結論を出せていません。検討材料とさせていただきます。
紀夏井の配流地については、最近の『土佐史談』2019年11月号に新たな説が発表されています。
紀姓坂本臣、蘇我氏系の安芸氏、武内宿禰の子孫の武内氏など興味深いところですね。深く調べてみたいです。今後ともよろしくお願いします。
朱儒国民
【2020/03/20 09:47】
無題
『土佐史談』について情報をありがとうございます。さっそく取り寄せてみようと思います。
安岡大六著の『北川風土記』には「奈半郷は海の民であるキ族が開拓した」とあります。北川村の小島地区におられた武内氏(のち紀氏)に伝わる紀家古文書が、妙楽寺という所に保管されている可能性があるようです。現在は小さな地蔵堂が残るのみで、地域の方が持ち回りで清掃をされているようですが、北川村教育委員会に事前に連絡をすれば当番の方と会えるとの事です。私はなかなか行く機会がないのですが、ご参考までに。
【2020/03/20 20:01】| |
キノ
#4042e6981e [
編集
]
Re:無題
>安岡大六著の『北川風土記』には「奈半郷は海の民であるキ族が開拓した」とあります。
安芸郡のことを調べるうえで、安岡大六氏の著作はいくつか読みました。キ族のことも見た記憶がありますが、根拠とするところがよく分かりませんでした。色々と教えていただき、ありがとうございます。
【2020/03/20 22:26】
無題
確かに根拠とするところが分かりませんね。安岡氏の他の著書でも、安芸の「ア」は接頭語なので本来は「キ」なのだ、と書かれていました。カタカナで「キ族」としているのは、倭人や紀氏が呉の太伯(姫氏=キ氏)の子孫であるという説を意識してのことでしょうか。紀家古文書に何か書かれているのかもしれません。
ところで、江戸時代の『熱田旧記』に、紀氏は大国主の裔とあるように、武内宿禰や祖の孝元天皇は出雲系と思われます。同じく出雲系と思われる雀部が、神武天皇の皇子の神八井耳命から孝元天皇へ繋がる系図を持っています。神武天皇が人質として娶った媛蹈鞴五十鈴媛命(大物主神/事代主神の娘)が裏切って、出雲系の男系で皇統を繋ごうとしたのでしょう。敵の女性を人質として妃にするとよくある事です。神八井耳命の同母弟である綏靖天皇は安倍氏(恐らく出雲系)が立てたと東北の伝承にあります。皇統を奪い返したという事でしょう。
名草彦の紀ノ國造、葛城国造などの祖も出雲系だと思われますが、男系が滅ぼさたために、武内宿禰の息子達がそれぞれ婿養子に入ってあげたと考えられないでしょうか。彼らの子孫に姓を与えたのは天武天皇で、吉野の国栖(国主)族に匿われていたところを見ると、出雲系の天皇なのだと思います。他に、応神天皇、継体天皇、桓武天皇、南朝、明治天皇などが出雲系だと私は思っています。維新志士は、紀氏の龍馬・西郷さんをはじめ、長州藩にも出雲系氏族が多いのです。陰謀論者達がフルベッキ写真などを根拠に「明治維新は南朝すりかえだ」と怒っているのも、あながち間違えではないと思います。
【2020/03/21 09:41】| |
キノ
#4042e6981e [
編集
]
Re:無題
色々とお詳しいようですね。古代氏族との繋がりについては、まだ十分には踏み込めていません。勉強すべきことが多いです。
フルベッキ写真に西郷隆盛をはじめ幕末の志士が勢ぞろいしているというのは間違いであったことが指摘されているのを先日テレビで見ました。
【2020/03/22 09:08】
貴重なご意見の投稿
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