忍者ブログ
 清少納言の『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」において、「香炉峰の雪」に関する有名なくだりがある。一条天皇の正室である中宮定子は才色兼備の人で、あるとき「香炉峰の雪いかならむ(どんなであろう)」と仰せになった。お仕えしていた清少納言は、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、定子はお笑いになった――という話だ。白楽天の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き/香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」の詩句を知った上で、中宮様の謎かけに即興で応対した。今風に言えば、とっさの神対応に周囲は「いいね」の評価をしたという。
 清少納言は平安中期の女流作家で、この一件は10世紀末頃であるから、あまり参考にならないかもしれないが、当時の日本の知識層は当然ながら中国文学から学んでおり、その影響を受けていることが分かる。8世紀、『日本書紀』の編者についても似たようなことが言えるのではないだろうかというのが、今回のメインテーマである。
 始まりは9年前。『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を橘高修氏が『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表した。さらに論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」(『東京古田会ニュース』189号)においては、信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介した。

 『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見される。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事がある。
 『日本書紀』岩波版の注は、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、……群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。つまり、『日本書紀』の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説しているわけだが、これだけでは「鼠=九州王朝」とすることはできない。
 橘高氏は『日本書紀』中に表記された「鼠」記述については「九州王朝を揶揄した表現ではないか」とし、「鼠」とは「八面大王」のことか、とも指摘している。これに対し、吉村八洲男氏は一志茂樹博士の説を紹介しながら、「鼠」は「ネズミ(不寝見)」であるとし「寝ることなしに、煙火を監視した、軍事組織(システム)」の存在を想定した。いずれにしても新王朝が旧王朝を悪しざまに言うことは、歴史上繰り返されてきたことで、ある面そこに『日本書紀』編纂上のイデオロギーが表れているとも言える。
 ここでもう一度原点に立ち返ってみよう。『日本書紀』の編者が参考にしたのは、主に中国の文献であり、中国古典において「鼠」が何を象徴していたかを知ることができれば、その影響を受けたであろう『日本書紀』の「鼠」が指し示すものがより明確になるかもしれない。

 碩鼠(魏風)

 碩鼠碩鼠  碩鼠(せきそ) 碩鼠
 無食我黍  我が黍(きび)を食う無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫(つか)へしに
 莫我肯顧  我を肯(あ)へて顧(かえりみ)みる莫(な)し
 逝將去女  逝(ゆ)きて將(まさ)に女を去りて
 適彼樂土  彼(か)の楽土に適(ゆ)かん
 樂土樂土  楽土 楽土
 爰得我所  爰(ここ)に我が所を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我麥  我が麦を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫へしに
 莫我肯德  我を肯へて德する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂國  彼の楽国に適かん
 樂國樂國  楽国 楽国
 爰得我直  爰に我が直を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我苗  我が苗を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫えしに
 莫我肯勞  我を肯へて労(ろう)する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂郊  彼の楽郊に適かん
 樂郊樂郊  楽郊 楽郊
 誰之永號  誰か之(もつ)て永号(さけ)ばんや
 ここに引用した『詩経』「魏風」の碩鼠は”重税に苦しむ人民の詩”として有名だ。「碩鼠すなわち”大きなねずみ”は、為政者を表している」といった説明が後漢時代の学者・鄭玄によって出されている。ここで風刺されている「為政者」は、トップの権力者のことでもあり、その権力を支える支配機構を指すとも言える。大和朝廷以前(700年以前)に倭国を支配した九州王朝という旧権力の存在に対して、中国古典の表現に倣って「鼠」を当てたと解釈するのはどうであろうか。

拍手[2回]

PR
 「仁淀ブルー」の異名で知られる“奇跡の清流”仁淀川。その西岸(右岸)をドライブしていると、何やら見たことのある光景が飛び込んできた。もしかして能津(のうづ)小学校だろうか? まだ見ぬ映画『竜とそばかすの姫』では、廃校を使った集落活動センターのモデルとなった小学校である。
 実際は17名ほどの生徒がおり、現在も開校している。能津第一小学校、能津第二小学校、鴨地小学校の3校が、校舎設備の老朽化と過疎化による児童数減の問題により、昭和50年度に統合されて日高村立能津小学校(高知県高岡郡日高村本村8)となった。

 たまたま子ども連れのお母さん方が遊びに来られていて、お話を聞くこともできた。親切なことに、山中さんという女性から「もう少し先に行ったところで『竜とそばかすの姫』の内輪がもらえますよ」と、2021年4月にオープンした日高村能津集落活動センター「ミライエ」(日高村本村226-1 屋形船仁淀川敷地内)を紹介していただいた。

 さっそくミライエキッチンに行くと『竜とそばかすの姫』とコラボした高知アイスの「ゆずシャーベット」と「天日塩ジェラート」とテイクアウト。内輪やステッカーなどもいただくことができた。ちょうど、映画『竜とそばかすの姫』公開1周年を記念して、Instagramでハッシュタグ「#舞台のモデル高知巡り」をつけて映画のモデル地を投稿するキャンペーンを実施しているところだという。
 期間が2022年7月8日(金)~11月30日(水)になっているところを見ると、本来は7月8日の金曜ロードショー『竜とそばかすの姫』テレビ放映がその幕開けとなるはずだった。それが9月23日に延期されたことは、高知県の地域おこしにとっては大打撃となったはずである。ささやかながら、弊ブログがその応援PRの一端を担えたらと紹介させていただいた。
 仁淀川流域には映画『竜とそばかすの姫』の舞台となったモデル地が他にもたくさん存在する。ぜひ聖地巡礼を楽しみつつ、土佐の歴史にも想いを馳せてほしい。

 やっと本題に入る。日高村立能津小学校およびミライエの所在地はいずれも高知県高岡郡日高村本村となっている。地名に「村」が二重に入って重複しているじゃないかと変に思われるかもしれない。「本村」とは古代における中心集落につけられる地名とされる。
 一例を挙げれば、熊本県の天草諸島、天草下島に存在していた本村(ほんむら)。1889年、町村制の施行に伴い、本村、新休村、下河内村が合併し成立。1954年、本村が本渡町、櫨宇土村、志柿村、下浦村、楠浦村、亀場村、佐伊津村と合併して本渡市が発足。その後、天草市となった現在まで、ほぼ一貫して天草地方の中心地であり続けている。
 中世においては「中村(なかむら)」地名がこれにとって変わる。高知県では四万十市の前身である中村市が良い例である。中村とは、「多くが中心となる村、もしくは分村に対する本村を意味する地名。そのため全国各地に中村地名がみられる。姓氏・地名研究家の丹羽基二によると中村地名は大字、小字までの集計でも日本全国で200件を超え、日本で一番多い地名となるという」と地名辞典に説明されている。
 さて、中山間地域で緑豊かな日高村本村の場合は、古代における中心集落であったとは、現在の姿からはとても想像しにくい。しかし、周囲を調べてみるとその片鱗が見えてくる。
 まず小学校名にもなっている「能津」。現在は地名として残っていないが、元々は「能津村」という独立した村で、旧日下村と合併後に日高村となった。 旧能津村の名越屋・宮ノ谷・鴨地・長畑・本村・大花・柱谷の7つの集落を合わせて、現在も愛着を込めて「能津地区」と呼んでいるようだ。「津」とは渡し場、船着き場を表す地名であり、仁淀川における河川交通の要所であったことがうかがえる。
 能津地区は日高村の北側、仁淀川の南側に位置する地区で、戦国時代には仁淀川の自然を利用した要害の地形を活かし、能津(細川)左兵衛の居城である能津城が築かれていた。そこから南下する道がどこにつながっているかとドライブを続けたところ、かつて火野正平さんも自転車で通ったことのある、小村神社の横の道に出てきた。これまでにも何度か言及したが、小村神社は高知県でも唯一、九州年号「勝照二年(586年)」と書かれた棟札が存在する伝統ある神社である。やはり、日高村「本村」は古代における中心集落であったようだ。
 ちなみに高岡郡日高村は、高知市の西方約16㎞の県のほぼ中央部に位置し、南は土佐市に、東と北は仁淀川を隔てて、いの町及び越知町に、西は佐川町にそれぞれ隣接している。村域は東西約8㎞、南北約9㎞、総面積は44.88平方㎞。

拍手[1回]

 『はるの暦』(春野地区町内会連合会)の7月の予定を見て、「あきさみよー」「ありえん」と、朝ドラ『ちむどんどん』風の驚きを覚えた。なんと毎日が夏祭りではないか。今日7月17日は、「弘岡上八幡宮夏祭り」「秋山春日神社夏季大祭」「諸木八幡宮夏祭り」と3社で行われている。むしろ祭りのない日が珍しい。強いて言うなら土曜日が少ない? これって、まさかユダヤ教の安息日に仕事をしてはいけないという伝統の影響なのではと、ふと頭をよぎった。

▲2022年7月の『はるの暦』

 いまだコロナ禍にあって、夜店などの出店はほとんど見られないものの、神事を欠かさず行っているとしたら、さぞかし宮司さんも大忙しだろう。近年は10社以上を兼任される方も多いと聞く。
 さて、『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると、中世における高知県内の「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」と言及している。
 八幡社がこのように多いことについて、宮地直一氏の『八幡宮の研究』では、次のような理由を列挙している。
一 宇佐・男山・鶴岡等の社領に各別宮を設けしこと。なかんずく男山最も広く散布せし結果、その別宮の数最も多かりき。
ニ 源氏の分布に従ひ、各地に八幡を設けしこと。
三 八幡宮の時めきし結果、あらぬ社をも八幡宮と変更せしこと。
四 豊後の諸八幡宮が大友氏に対して執りし政策の如く、一時の権宜より出でしこと。
五 応神寺の血脈の神は、八幡と号するに至りしこと。
六 寺の鎮守は、その祭神を問はず、八幡と号せしこと。
七 武神となりし結果、武家が各地にこれを奉じ、又その居城の鎮守となしたこと。
 『はるの暦』にあった「弘岡上八幡宮夏祭り」を見ておこうと思い立って、さてどちらの八幡宮だろうと考えた。吉良城近くの小山に祀られている八幡宮かと思って、竹林の小道を登っていくと、道は整備されていたものの、そこには誰もいなかった。もしかして前に紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈(かまど)神社⑨――春野町弘岡上の八幡宮境内社”なのではないかと思い、再度足を運ぶことにした。それほど近くに、複数の八幡宮が鎮座しているのである。
 夕方5時頃に着いてみると、すでに八幡宮夏祭りは終了して、片付けが行われているところだった。帰ろうとする人に「ここには鳥居が3つ並んでいますね」と話しかけると、「氏神様(八幡宮)と竈神社とお伊勢様(神明宮)です」と教えてくださった。竈神社を中心に西側に八幡宮、東側に神明宮という配置については先にも触れたが、どうも大和朝廷が定めた「二所宗廟」に由来するのではないかと思えてきた。
 宇佐神宮と聖武天皇との関わりはもっと古く、725年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、法蓮という雑密僧が境内に弥勒禅院を建立し、738年には聖武天皇の援助を受け豪華な金堂・講堂が建てられました。仏教と習合した八幡神は八幡大菩薩と呼ばれるようになります。
 その宇佐神宮を、京都の裏鬼門の守護として西南の男山に勧請したのも、大安寺の僧行教という空海の弟子です。やがて、王城守護鎮護の神、王権・水運の神として朝廷から崇敬されるようになり、伊勢神宮と並び「二所宗廟」と称されました。応神天皇由来の武の神であることから、源頼義により源氏の氏神とされ、武士の世になると鎌倉から全国に拡がりました。今約8万ある神社のうち、最多は稲荷社で2番が八幡社です。(『サンデー世界日報』より)
 つまり、平安時代に朝廷が八幡宮と伊勢神宮に「二所宗廟」という位置づけを与えた。その二社が地方の神社にも勧請されたというわけだ。九州王朝時代においては、八幡宮の前身として、高良大社ないしは竈門神社が国家の宗廟としての役割を担っていたのではないかと推測している。まず竈神社ありきで、そこに「二所宗廟」としての八幡宮と神明宮が勧請された……。旧郷社でもある高知市春野町弘岡上の八幡宮の祭祀形態がこの仮説を後押ししているかのようだ。



拍手[2回]

 吾峠呼世晴氏による漫画『鬼滅の刃』が映画化され、テレビアニメ版では「無限列車編」「遊郭編」までが放映された。大正時代の日本を舞台に鬼に家族を殺された少年・竈門炭治郎(かまどたんじろう)と鬼にされてしまった妹・禰豆子(ねずこ)の兄妹が、家族を殺した鬼を倒すため旅に出る冒険物語は絶大な人気を巻き起こした。
 主人公の苗字である「竈門(かまど)」と名のつく神社が聖地化され、ファンが多く訪れるなど社会現象となった。全国的にも関連するスポットに注目が集まっており、長野県の竈神社(長野県大町市大町4718)もその一つとしてクローズアップされた。近隣の白馬村には『ねずこの森』という遊歩道があったり、鬼無里村には鬼女伝説があったり。長野県には「ねずみ」関連地名が多く存在することが指摘されている。一説には動物の鼠ではなく、古代官道上に設置された軍事組織「不寝見(ねずみ)」――寝ずの見張りに由来する地名とも考えられている。

 
さて、今回紹介する高知県の竈土神社(高知市長浜1870)は高知競馬場の南、新川川の北岸に鎮座している。高知県の場合は「竈門」でなく「竈戸」が標準的な表記であり、次いで「竈」が多い。「土」を使う「竈土」の表記は珍しいが、実はブログで紹介するのは2例目である。

 以前紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈土(かまど)神社③――横浜新町”は高知競馬場の北側にあって、まさに高知競馬場を南北に挟んで、2つの竈土神社が子午線(子の方角と午の方角を結ぶ南北線)上に鎮座していることになる。なぜ「土」がついているのかは想像でしかないが、大土御祖神を祭神としていることから「土」の字を用いたのではないだろうか。
 勝負ごとに「土」がつくのは縁起でもないが、地に足をつけて走る馬であれば問題ないかもしれない。高知競馬のハルウララ(生涯戦績113戦0勝)はむしろ、土をつけすぎて超人気になったくらいだ。当時を知らない世代でも、『ウマ娘 プリティーダービー』でブームが再燃している。


 別に縁起を担ぐわけではないが、平安時代中期に編纂された『延喜式』には「鎭竈鳴祭」「御竈祭」などの祭りの名が記されており、竈神のルーツは古く、宮中と関連を持っていたことが分かる。中世、神仏習合の時代には「三宝荒神」として祀られるようになり、明治維新の際の神仏分離政策により、高知県では「三宝荒神」「荒神宮」などに対して、一律「竈戸神社」への名称変更の達しがなされた。
 長野県大町市の「竈神社」について見ても、高知県と事情は似通っている。そのルーツは少なくとも鎌倉時代まではさかのぼることができ、当初は三宝荒神社と呼ばれ、地域の人々にも荒神様として親しまれていたようだ。明治に入り新政府により神仏分離令が発せられると、信濃大町の「三宝荒神社」は神道色の強い「竈神社」に名称が改められ、現在に至ったとのこと。
 祭神が「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」「奥津彦(おくつひこ)神」「奥津姫(おくつひめ)神」とされているところは、最も標準的といえる。ある面、『古事記』『日本書紀』の神話体系に合わせたような一元的な祭神について、廣江清氏は『長宗我部地検帳の神々』(昭和58年)で、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」と指摘している。むしろ、今回紹介した「竈土神社」の大土御祖神という祭神は「竈の神」としてはマイナーであり、右へ倣いをしておらず、かえって真実味を帯びている。
 はたして、竈門(竈戸、竈、竈土)神社の祭神「火の神」とはどのような存在なのだろうか。アニメ版『鬼滅の刃』第19話では、竈門家に「ヒノカミ神楽」が伝承されていたことが描かれている。2021年9月に地上波で初放送された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で「ヒノカミ」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。はやく続編が放映されることを期待しつつ、さらなる調査を進めていきたい。

拍手[1回]

 2022年、今年も6月30日がやって来た。この日は高知市内における学習塾の授業出席率が最も低くなる日とされてきた。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日だからである。近年はコロナの影響で出店も少なくなり、塾を休んでまで祭りに行こうという生徒は減ってきた。
 主に高知市内を中心とする主だった神社で行われ、市外でもいくつかの神社で開催されている。香南市野市町の人にリサーチしたところ「高知市内に出てきて初めて知った」とのこと。県外では7月に実施するところもあるようだ。
 ところが、今年は多くの神社で屋台が復活すると予想されている。アンパンマンミュージアムに近い大川上美良布神社(香美市香北町韮生野243)では、輪抜け様の夜に「おつまみ神社2022」が3年ぶり開催されるとのこと。前回は2019年の第2回目「川上さまが『ひろめ市場』になった夜!」以来、待望の出店となる。
 今年は「よさこい祭り」も復活する。輪抜け様2022はその前哨戦になりそうな気配である。屋台が並ぶ潮江天満宮、土佐神社などでも参詣客が多くなりそうだ。
 ここでなぞかけ。「輪抜け様とかけて『エヴァンゲリオン』と解く。その心は?」――「本来の主人公はシンジ(神事)でしょう」。どうもシンジ君以外の人気がすごいですね。

 今年は塾の出席率も再び低下する恐れが出てきた。早速、事前欠席の連絡も入っている。高知八幡宮のように、密集を避けて数日間にわたって実施するところも増えているので、当日行けなくてもチャンスはある。穴場を狙って人の集まりにくい神社に行く予定だという人もいた。参考までに夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧を紹介しておく。年々グレードアップしてきており、正確でないところもあるかもしれないが、役立ててもらえたら幸いである。

夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧

<神社名>  <現住所>
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮  高知市石立町54
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
潮江天満宮  高知市天神町19-20
多賀神社  高知市宝永町8-36
小津神社  高知市幸町9-1
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮  高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社  高知市仁井田3514
大川上美良布神社  香美市香北町韮生野243
八王子宮  香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社  高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮  高知市長浜6600
愛宕神社  高知市愛宕山121-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
掛川神社  高知市薊野中町8-30
六條八幡宮  高知市春野町西分3522
仁井田神社  高知市北秦泉寺
熊野神社  南国市久礼田2213
剱尾神社  南国市浜改田2465
椙本神社  吾川郡いの町大国町
三島神社  土佐市高岡丁天神
久礼八幡宮  高岡郡中土佐町久礼
不破八幡宮  四万十市不破
常栄神社  四万十市具同8712番

拍手[1回]

 水質日本一を何度も獲得している“奇跡の清流”仁淀川。映画『竜とそばかすの姫』では、主人公すずが通学で通る橋のモデルとなった「浅尾(あそう)の沈下橋」、重要シーンで登場した広い河原と橋のモデルとなった「波川公園」など、仁淀ブルーの魅力の数々が垣間見られる。
▲仁淀川にかかる名越屋(なごや)沈下橋

 その仁淀川下流左岸の堤防と用水路に挟まれた高知市春野町の一画に、鳥居が3つ横に並んでいる場所がある。西から順番に旧郷社、川窪の八幡宮(高知市春野町弘岡上3413-ロ)、境内社の竈神社と神明宮が鎮座する。八幡宮の祭神は応神天皇であり、大山祇命(山神社)ほか3神<(少童命(海津見神社)・天忍穂耳命(王子神社)・木花咲耶姫(大山神社)>を合祭している。
▲左が竈神社、右は神明宮

 明治時代末の神社合祀については、アニメ『刀使ノ巫女(とじノみこ)』でも触れられているが、村社や無格社などの小社が地域の中心的な郷社に合祭され、一村一社を目指して整理されていった。八幡宮に合祭されている4社はその時の政策によるものだろうか。

 しかし、境内社2社については、もっと歴史が古そうな印象を受ける。最も小さな祠ながら竈神社は3つ並びのセンターに位置している。鳥居もほぼ並列で格の違いを感じさせない。あたかも大分県の宇佐神宮において、応神天皇でなく比売大神が中央(二之御殿)に祀られていることを連想させる。

 『高知県神社誌』(竹崎五郎著、昭和6年)によると、高知県内の竈戸神社の総数は260社を超える。一部が村社で大半は無格社であったが、その数の多さに驚かされる。もちろん昭和初期の資料なので、数が減っていることは十分考えられるが、県内どこの市町村に行っても一定数の竈戸神社が存在しており、かなり高い割合で残されているようだ。
 神社数の多さは歴史の古さとも相関関係がありそうだ。「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふ事になって居る」(『神道史』清原貞雄著、1941年)とあるように、竈戸神社は奥津日子神・奥津比売神の二神を祭神としているところが多い。古く、朝廷では春と秋に、かまどの神をまつる神事として竈祭りを行ったことが「延喜式」(平安時代中期に編纂)にも記録されている。単なる民間信仰ではなかったことが分かるだろう。もしかしたら平安時代以前にルーツを持つ可能性すら見えてくる。
 『鬼滅の刃』三大聖地である九州の竈門神社<①宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)、②溝口竈門神社(福岡県筑後市)、③八幡竈門神社(大分県別府市)>など、他県の事例とも比較検討しながら、より深く竈神について考察していく必要があるかもしれない。


拍手[2回]

 延喜式に筑前国(福岡県)の竈門神社のルビが「トマト」になっていたという報告(「竈門神社」は蕃茄の神社?―「延喜式」によれば―)を受け、『国史大系』延喜式を開いて調べてみた。「カマト」「カマカト」となっており、実際には濁点をつけて読むのかもしれないが、「トマト」というルビはなかった。写本による違いであろうか。あるいは原文改定がなされたものだろうか。

 それはさておき、ふと竈門神社の上段を見たら、筑後国(福岡県)の高良玉垂命神社の記載がある。ルビを確認して驚いた。現代の「こうら」読みに近く主流と考えてきた「カワラ」以外に、「タカラ」「タカワラ」「タカンラ」などもあるではないか。”高良神社余話①~③ーーどう読む? 「こうら」 or 「たから」”問題が再浮上してきた。

 これまでは故なしと思ってきた「タカラ」読みに、意外にも文献的根拠が存在していたのである。「タカンラ」という読み方も、いかにもありそうだ。「〇〇ン〇〇」の「ン」は所有格の「の」が促音化したもので、「ラ」は神様を表す接尾語と考えれば「高(タカ)の神」といったニュアンスになる。
 『伊勢神宮の向こう側』(室伏志畔著、1997年)の中でも、高良大社や月読神社が「タカガミさん」と呼ばれていることが紹介されており、現地の伝承とも通じる内容がある。もしかしたら古くは「たから」読みが存在していたという可能性も否定できなくなってきた。仮にそれが間違いであったとしても、そのような写本が存在していたという事実は尊重しなければならない。

 当たり前と思っていたことが、必ずしも根拠が確かなものとは限らない。「壹」は「臺」の誤りなりと決めつけてきた「邪馬台国」論争がそうであった。思い込みや先入観を廃して、常に謙虚に真理を探求する姿勢を持ちたいものである。


拍手[3回]

 中1生の皆さん、もうすぐ中学校に入ってから最初の中間テストになります。テスト対策は早目に計画的にやっておきましょう。
 1学期といえば、理科では「花のつくりとはたらき」について学んでいると思います。
 花には、おしべ、めしべ、花弁、がくがあり、めしべの先端部を柱頭、下のふくらんでいる部分を子房と言います。子房の中には胚珠という小さな粒が見られます。おしべの先端部には葯(やく)という小さな袋があり、その中に花粉が入っています。花弁は、花によって色や形がさまざまで、アブラナのように花弁が1枚1枚はなれている花を「離弁花」、ツツジのように花弁がひとつにくっついている花を「合弁花」といいます。

▲ツツジの花は合弁花、ユリは単子葉類

 花を咲かせ、種をつくる植物をまとめて種子植物と言います。そのうち、胚珠が子房に包まれている植物を「被子植物」、子房がなく胚珠がむき出しになっている植物を「裸子植物」といいます。この分類は知っているかもしれませんが、念のため覚え方を教えておきます。

 「生存競争で種子植物のなかまは必死らしい」
             被子(ひし)裸子(らし)
 子孫を残すためには、めしべの柱頭に花粉がつく(受粉する)必要があります。受粉すると、胚珠が種子となり、子房がふくらんで果実ができます。この辺りはテストにもよく出されますので、しっかり覚えましょう。
 どっちがどっちだったか忘れたときには、しりとりをしてみましょう。
 「はいしゅ→しゅし→しぼう→う、う、う……熟れた果実」
 アブラナやツツジのように大きな花はさきませんが、マツにも花がさきます。マツの花には雌花と雄花があり、花弁やがくはありません。雌花は子房がなく胚珠はむき出しになっており、雄花の花粉が雌花の胚珠につくと、胚珠は種子となりますが、子房がないので果実はできません。コブクロの曲『桜』の歌詞に「実のならない花も……♪」とあります。あれは実は裸子植物のことを歌っていたんですね。裸子植物のなかまにはマツ以外にもスギやイチョウ、ソテツなどがあります。

拍手[1回]

 南国市篠原の埋蔵文化財センターで、弥生時代の硯(方形板石硯)6点が期間限定で公開された。「百聞は一見に如かず」――本当に硯として使われたのか、直接見てみることにした。

 第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。
 従来は刃物を研ぐ砥石(といし)と考えられてきた出土物(石の破片)が、弥生時代の硯と再評価される事例が九州北部を中心に相次いでいる。砥石でなく硯と判断した根拠はどこにあるのだろうか。福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡 「下原遺跡」 で見つかった石の破片に関しては、次の3つの理由が示されている。
 ①漢時代の硯と似た形――中国の漢の時代に使われていた古代の硯は現代の硯と違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代の硯と形がよく似ている。
 ②黒い付着物――石の側面に黒い付着物が付いていた。これを表面から垂れた墨と見なした。
 ③表面のくぼみ―― 刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカー ブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。

 国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。

 方形板石硯が出土した遺跡

 (1) 古津賀遺跡群(四万十市)
 古津賀遺跡群は後川左岸に広がる沖積低地 丘陵部に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。弥生時代の集落跡、古墳時代後期の祭祀跡等が確認されている。また、古津賀古墳が築造されること、大規模な水辺の祭祀跡がみつかっていることなど当地域が古墳時代に政治的な拠点を形成していた。
 方形板石硯が確認された東ナルザキ地区は、丘陵尾根の先端部に位置し、弥生時代中期末〜後期初頭にかけての竪穴建物跡5棟が検出され、弥生土器(甕・高杯)、石鏃、砥石等が出土している。 方形 板石硯は、いずれも竪穴建物跡 (竪穴住居1) から出土している。 (『古津賀遺跡群』 2006年 四万十市教育委員会)
 (2) 祈年遺跡(南国市)
 祈年遺跡は南国市の長岡台地西端部に立地する縄文時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代後期~古墳時代初頭の集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構等が確認されている。 国分川を挟んだ北側には土佐国衙跡・国分寺等の古代における中枢地域に隣接する。
 弥生時代後期後半から古墳時代初頭の竪穴建物跡が34棟検出されている。方形板石硯は弥生時代後期末の竪穴建物跡(VII区ST10)から出土している。この遺構からは他に弥生土器(壺・甕・鉢・台付鉢・高杯)、土製支脚、線刻土器、土製円盤、磨石が出土している。(『祈年遺跡Ⅲ』2012年(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター)
 (3)伏原遺跡(香美市)
 伏原遺跡は香美市の長岡台地に立地する弥生時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代中期末〜古墳時代前期にかけての集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構が確認されている。 遺跡に近接して県内最大規模の方墳である伏原大塚古墳が築かれている。
 弥生時代中期末から古墳時代初頭にかけての竪穴建物跡が31検出されている。方形板石硯は弥生時代後期後半〜古墳時代初頭の土坑 (SK-13) から出土している。この遺構からは他に弥生土器 (甕・高杯)が出土している。(『伏原遺跡Ⅰ』2010年 文化財団文化財センター)
 高知県内で弥生時代の方形板石硯が確認されたのは今回が初めてだ。とりわけ古津賀遺跡群(四万十市)出土の方形板石が最古と見られ、最多の4点が見つかったことから、「弥生時代の後期の初め頃(紀元前後)高知県の一部の地域で文字を理解していた人がいた可能性」について公式発表した。また、祈年遺跡と伏原遺跡から各一点見つかっており、「弥生時代後期末(3世紀後半)には高知県の中央部の2ヵ所の遺跡で方形板石が確認され、後期の初め頃よりも文字が浸透していた可能性」についても言及している。
 『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」について、古田説では足摺岬付近としている。縄文時代においては、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心に石鏃(せきぞく)等の遺物が数多く出土していることから、その妥当性は高いであろう。けれども、弥生時代の遺跡の分布は四万十川流域に集中していることから、その時代における中心は四万十川流域に移っていると考えられる。
 『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。
 「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」
 諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。
 今回発見された弥生時代の硯(方形板石硯)は現在、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示中である。


拍手[3回]

 源頼朝の弟といえば、まず真っ先に思い浮かべるのが義経ではないだろうか。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さん演じる義経が、神戸・一ノ谷の合戦で「逆落とし」の奇襲作戦で手柄を挙げるシーンが登場した。戦場は「須磨」ではなく「鵯越(ひよどりごえ)」との説もあるが、近年は地元の郷土史家の間でも新たな説が出されているようだ。
 それはさておき、ドラマの中で一ノ谷が鉢伏山の麓にあることに気づいた。高知県にも鉢伏山があり、その麓には源頼朝の弟の墓所と伝えられる場所がある。高知市介良乙の源希義神社だ。

 平治元年(1159年)の平治の乱後、源頼朝の同母弟の希義は土佐国介良(けら)庄に配流された。治承四年(1180年)、頼朝が挙兵すると希義も呼応すべく、夜須七郎行家(行宗)を頼り、夜須荘(現・香南市夜須町)に向かったが、平氏方によって年越山(現・南国市)で討ち取られてしまう。
 平氏の威光を恐れ、そのまま放置されていた希義の遺骸を介良の琳猷(りんゆう)上人が手厚く葬り、頼朝から寺領を与えられ、西養寺(真言宗)を創建し、長く法灯を伝えた。正徳三年(1713年)に焼失後衰え、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は当時の石垣の一部を残すのみ。傍らの山林の中に建つ無縫塔が源希義の墓と伝えられている。ちなみに希義の法名は「西養寺殿円照大禅定門」である。

 悲運の若武者 源 希義

  平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源氏の棟梁、源義朝は尾張国内海の長田荘司忠致に入浴中だまし討ちにあい、源氏一族の命運は尽きたかに見えましたが、平清盛の継母、池禅尼の計らいで助命され、頼朝(当時十三才)は、伊豆国、蛭ヶ小島へ配流され、牛若(後の義経、当時一才)は、京の鞍馬へ押しこめられます。
 兄頼朝と同じ父(源義朝)、母(熱田神宮藤原季範三女、由良御前)の元に生まれた実弟、当時三才の希義も源氏の本拠、東国を目指し乳人に連れられ、落ち行く途上香貫(かぬき)(沼津市内)にて、平家方追補の手にかかり、ここ介良に配流されます。介良における希義は厳しい平家方監視の中、仇と思う平清盛への憎しみ、命の恩人とも思う池禅尼への感謝の心の葛藤を胸に秘め、隠忍の日々を強いられます。
 土佐における平家方有力武将、平田太郎俊遠の妹とも、また俊遠の娘ともいわれていますが、平家方有力武将ゆかりの娘を嫁に貰います。希義は、仇と思う平家また愛したであろう妻は、平家方武将の娘、その心中たるや察するに余りあります。
 栄耀栄華を極めたさすがの平家も人心離反し、落日の如き平家の威光の下、土佐における数少ない源氏方武将、夜須七郎行家と打倒平家の夢を描いたであろう希義は、平家方の知るところとなり、先手を打った平家軍の前敗走したのでしょう。

  東の夜須氏をひいてはまだ見ぬ兄、頼朝の居わす鎌倉目指し、東走するも夜須氏率いる救援軍は間に合わず、現南国市鳶ヶ池中学校正門付近で首討たれます。時は寿永元年(1182)九月二十五日のことでした。
 時に希義には陸盛、希望という二子、また「希望」一子という説があります。
 平家の威光を恐れず放置されたままの希義の遺骸から遺髪をとり、荼毘(だび)に伏し手厚く葬った僧琳猷(りんゆう)は、頼朝が天下を治めた後、希義が一子希望を鎌倉へ引きつれ遺髪を献上すると、頼朝は「亡魂再来」と涙したといわれます。
 征夷大将軍・源頼朝の庇護を受けた希義が一子源希望は、現春野弘岡の地で基盤を固め、後の戦国時代の七守護の一人「吉良(きら)氏(ここ介良は元々気良(きら)」へと続くも、吉良宣直(のぶなお)は天文九年(1540)平家八木氏の末裔といわれる本山梅渓に、仁淀川で鵜飼のおり、攻撃を受け自刃に追いやられます。
 しかし、吉良宣直の父、吉良伊予守宣経は、天文年間(1532~1555)周防の大内氏の元から流浪の南村梅軒を招き、儒学の一派「南学」(海南朱子学)の発祥、普及しその行動的な教えは幕末勤皇志士の思相(想?)基盤を形成しました。
 源希義の威光は、今日まで我国の隅々迄照らしたもうているのである。
  平成七年(1995)九月二十五日 没後八一三年
 源希義公を顕彰する会
 源義経を総大将とした瀬戸内海における平家討伐戦とは別に、もう一つの源平合戦が太平洋に面する土佐国でも展開していたようだ。無念にも平家方に撃たれてしまった源希義の戦いは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも描かれることはないだろう。パンドラの箱さながらに、あとには一子希望が残された。
 現・高知市春野町弘岡(旧吾川郡)の地で基盤を固め、後の戦国時代の土佐七守護の一人とされる「吉良氏」の系譜が源希望につながるとしているのはロマンあふれる話ではあるが、『吉良物語』の創作かもしれない。けれども、『吾妻鏡』には「時に家綱俊遠ら吾河郡年越山に追到して希義を誅し訖(おわ)んぬ」と、希義終焉の地を吾川郡と記録しており、原文を尊重するなら、一考の余地はあるだろう。

▲源希義神社は右手奥。その背後が鉢伏山。

 地元の高校生に
源希義神社の場所を尋ねても、まったく知らない様子。地図で探してやっと入り口の路地を見つけたものの、山中に入ってから道案内がなく、無事たどり着けたのは幸運であった。現地にはいくつかの掲示板があったが、一つははがれたままになっていた。このまま人々の記憶から消えていくのではないかと案ずるのは杞憂であろうか。


 

拍手[1回]

カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
最新CM
[10/12 服部静尚]
[04/18 菅野 拓]
[11/01 霜]
[08/15 上城 誠]
[08/11 上城 誠]
最新TB
プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者アナライズ
忍者ブログ [PR]
Copyright(C) もう一つの歴史教科書問題 All Rights Reserved