大和朝廷が関東まで勢力を伸ばしたのは何世紀のことか? 小学校あるいは中学校の社会で、時々出題される問題だ。個別指導をしている時、よく質問される内容であり、どう答えるべきか最も迷う問題でもある。 教科書には「5世紀になると、大和朝廷の支配はさらに広がり、九州から関東までの豪族を従えるようになりました」とある。その根拠となるのは、江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄刀と稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣。写真入りでいずれもワカタケル大王の文字が刻まれているという。資料を掲載したことは評価に値するが、本当にそう読んでいいのか疑問である。 一方、中学校の教科書には「5世紀に入ると、大和朝廷の大王は、中国に何度もつかいを送り、中国の皇帝の権威を借りて、朝鮮北部の高句麗に対抗し、朝鮮との関係を保とうとしました」とある。いわゆる倭の五王の外交政策のことだ。中国史書に名前を残す、讃・珍・済・興・武の5人の倭王たちが、誰に相当するのかは様々に議論されてはきたが、歴代天皇の中に結びつける説は全て矛盾だらけ。そろそろ大和朝廷一元主義から脱却して新しい視点で考えてみてもいいのではないか。 大和王権に先行する九州王朝や出雲王朝、さらには関東に大王ありと。それが今後歴史教科書を書きかえていく基本的なコンセプトとなる多元史観の考え方である。ちなみに大和朝廷が日本の中心王朝となるのは701年の大宝律令を前後する頃ではないかと考えている。 PR |
|