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 『古田史学論集第12集 古代に真実を求めて』(古田史学の会編、2009年)に古田武彦氏の研究論文「生涯最後の実験」が掲載されている。その中に研究実験上の先例として、高知県の土佐清水での実験「報告書」(土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書1995年土佐清水市教育委員会発行)のことが、次のように要約されている。
 第一、土佐清水市の足摺岬周辺には広汎な巨石遺構が存在する。三列石(鏡岩)、亀形巨石、男根型巨石、暦石型巨石、ストーン・サークル状巨石等である。
 第二、いずれも人工的、人為的形状をもち、到底大自然の中の自然分布とは認められぬ様態をもつ。
 第三、この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している。
 第四、従って右の巨石遺構は縄文時代における「構築物」と見なさざるをえない。
 第五、この地帯(足摺岬)は黒潮が北上し、この地帯の断崖(臼碆〈ウスバエ〉)に衝突する。日本列島と黒潮 唯一の“衝突の場”となっている。
 第六、もし黒潮に乗じた舟、あるいは筏がそのままこの断崖に衝突すれば、ただちに“こっぱみじん”となろう。
 第七、ところがその数十メートルないし数百メートル前に、「断崖の接近」を予知できれば、容易に黒潮の流れから“脱出”可能である。(黒潮の幅はそれほど広くはない。)
唐人駄馬
 第八、この点、断崖の並びないし奥に立地している「三列石」(鏡石)は、太陽や月の光を反射して、この「断崖の存在」を“知らせる”という用途をもっているのではないか。これがわたしの「研究上の仮説」で あった。
 第九、この仮説の当否を実証すべき実験、それがこのさいの研究実験の目的であった。現地(土佐清水市)の方々の手厚い支援やリコー(株)の研究所(研究開発本部・坂木泰三氏)やソニー(本社)等多くの方々の助力をえて実行された。
 この実験は足摺岬付近を『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定する古田説の妥当性を確認するような試みでもあった。調査されたのは、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心とする一帯で、「巨石遺構は縄文時代における『構築物』と見なさざるをえない」という見解を得ている。
 余談になるが、平均重量2.5トンというピラミッドの石をどのように運んだかについて、近年、「最古のパピルス」の発見により新たな理解が深まり、クフ王のピラミッドの建設期間が26、27年程度であったという説が出された。唐人駄馬遺跡の巨石は一辺4~7m程度もあり、ピラミッドの石に比べて数十倍の重さになるものもある。
 古田氏は「三列石」(鏡石)は太陽や月の光を反射して、危険な断崖の存在を知らせる縄文灯台としての役割を持つということを「研究上の仮説」としている。これは縄文人の大航海術を前提としたものであり、その役に立った可能性は否定できない。大分県姫島産の黒曜石が足摺岬付近に持ち込まれた際には、適当な目印になったであろう。しかし、より身近な視点に立てば、地元の縄文人が日々、海で漁をする場合に帰り道を示すランドマークとしての役目が大きかったのではないかと考える。
 それよりも検討しなければならないことは、「この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している」という第三に述べられている報告だ。縄文―弥生の不連続問題である。『魏志倭人伝』は弥生時代の倭国の様子を記述した文献であるから、そこに登場する「侏儒国」も弥生時代の国と考えるべきだろう。ところが、二倍年暦で1年(現代の暦では半年)かかって「裸国・黒歯国」に行けるとの内容は、縄文灯台を起点とする航海の経験則に基づく足摺岬付近の縄文人によるものとの印象を受ける。
 さて、先の研究実験は次のように実施され、その結果も報告された。
(A)一九九三年十一月三日、高知大学普喜満生助教授、YHP谷本茂氏、昭和薬科大教授古田が、CCDカメラ及び8ミリビデオ(望遠拡大装置つき)による岩石面の見え方測定を行った。海上及び陸上 (二ヶ所)からの測定である。
(B)銀紙(レフ)と唐人石断片(磨いたもの)との光度比較実験はリコー研究開発本部金子豊氏によって行われた。
(C)研究実験は予想を上回る成果をえた。
 その一 唐人駄場の北側に“集合する”唐人石は海上から(太陽や月の光を受けて輝いて見えていたことが確認された。
 その二 当初予想していた太陽光と同じく、或いはそれ以上に月光の反射が鮮やかである。この点予想以上であった(ただし、海上実験は昼間のみ)。
 その三 唐人石以外でも灘地区(大岩)に関しても同類の輝度観測を行った。
 その四 佐田山第二峰(Bサイト)列石群を軽気球より直上から撮影し、その「ストーン・サークル」状の実形を撮影した(群馬県・青高館の軽気球による)。
 以上の研究実験により、これら「足摺岬周辺の巨石遺構」が従来説のように“自然的分布"によるものでなく、「人為的分布」の性格をもっていることが証明されたのである。すなわち、「縄文文明の中の、注目すべき一大遺跡」だったのである。
 足摺岬付近の縄文人は弥生時代になってどこへ行ったのだろうか。弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。その一つが古津賀遺跡群(四万十市)である。ここは高知県最古(紀元約1世紀)の弥生時代の硯(すずり)が発見された場所だ。近くには古津賀古墳もある。近年の考古学的成果により、弥生時代における文字使用の可能性が議論されるようになってきた。高知県でも3つの遺跡から弥生時代の硯(方形板石硯)6点が発見されている。

 ある面、『魏志倭人伝』における「侏儒国」や「裸国・黒歯国」についての表現は、単に伝聞に基づくものであれば、かなり疑わしいと思える内容である。しかし、文書として記述された報告が邪馬壹国に届けられていたとしたら、魏の使者が信じ、記録するに値するのではないか。卑弥呼が外交文書に文字を使用したのであれば、国内文書に文字使用があっても不思議ではない。
 侏儒国はその中心を足摺岬付近から四万十川流域に移しながらも、縄文から弥生時代へと経験・知識・文化などを継承してきた国だったのではないだろうか。そうでなかったとすれば「裸国・黒歯国」についての記録が、中国の正史に記録されることはなかったかもしれない。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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