よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。
壬申の乱(六七二)で左大臣蘇我赤兄が土佐国安芸に配流されたということが、伝説のままに昔からあまねく知られている。……(中略)……吉野に隠遁した大海人を警戒し蘇我赤兄、中臣金が兵備を整えていたのを中傷するものがあり、大海人はこれに激して大伴吹負や河内の国司などの応援を得て兵を挙げ、吉野を出て伊勢、美濃の兵を募り不破の一線で天皇の兵を撃破、天皇は瀬田に敗れて山崎で崩御、大海人が皇位を継いだ。これが天武天皇である。大海人に抵抗した中臣金は斬に処せられ、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢巨比は流刑になったが、この時赤兄が流されたのが土佐国だと伝えられたのである。蘇我赤兄の土佐流謫は国史に明記されたものでなく、あくまでも伝説であるが、この伝説の因となったものは安芸家系図(土佐国名家系譜所蔵)である。すなわち赤兄について「左大臣、天武天皇白鳳元年八月土佐国に配流さる。裔孫是より代々安芸に住み、安芸一円並びに夜須大忍庄を領す」とあるのがそれであって、そのことが後代にあまねく伝えられたものらしい。(P14~15)
だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。
蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。
屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。
蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
▲安芸城跡から安芸平野を臨む |
安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。
蘇我氏は崇仏派であり、古代寺院の存在と後に延喜式内社として記載されるような歴史の古い神社が安芸市にないことも理解できる。渡来人の技術集団による条里制水田の開発と屯倉の管理。『平家物語』にも「ここに土佐の国の住人安芸郡を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて、およそ30人が力頭たる大力の剛の者、われに劣らぬつわもの一人具したりける、弟の次郎も普通には勝れたるもののふなり」とあるように、安芸郡家の大領が蘇我氏を先祖とする有力豪族の流れを汲んでいたとすることは理にかなっている。
ところで、「倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)」と日本史の教科書にもあるように、蘇我氏は『日本書紀』では悪役として描かれている。
『日本書紀』は大和朝廷の正当性を主張する性格の歴史書でもあるので、大和朝廷と対峙・敵対する勢力について悪く描かれることが随所に見られる。倭とは当時九州を中心とした国家であり、多元史観の研究者からは蘇我氏は九州王朝の重臣であったとする指摘がなされている。これまでの考察から、安芸条里を開拓した九州王朝系の勢力こそが蘇我氏一族の流れを汲むものであった。
安芸川左岸の郡衙比定地の北には蘇我神社が鎮座する。付近の安芸市川北小字横田には「厩尻」という地名も残っていて、須恵器・土師器・勾玉・杭列などを多く発見する遺物包蔵地でもある。また、安芸川上流の畑山地区には「水波女命 、敏達天皇 、蘇我赤兄 、蘇我乙麻呂」を祭神とする水ロ神社も存在し、古くから雨乞いの神として信仰されている。
家系図や伝承のみを根拠とするのは危険であると言ったが、周囲の遺物・遺構の出土状況と歴史的経緯などを踏まえると、それらが荒唐無稽ではなかったことが判明してくる。いやむしろ、九州王朝系蘇我氏の安芸地方への進出は、蘇我赤兄よりも古かったのではないかとの印象さえ受ける。公式的な見解よりもかなり先走った内容を発表しているので、さらに今後の研究の積み重ねが必要となってきそうだ。
香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か? |
高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m |
古代官道(南海道)における道幅の謎 |
以下に発掘速報展の概要を紹介しておく。
開催概要
ギャラリートーク
展示報告会
「発掘された高田遺跡」担当者:当埋蔵文化財センター職員“香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?”2018年に香南市野市町の高田遺跡で発見された推定古代官道跡は、南国市の土佐国府から安芸郡方面へ伸びていることから、当然ながら大和朝廷主導で敷設された阿波国を経る古代官道(養老官道)と考えられている。私も当初そのように考えていたが、一つ矛盾する点がある。高田遺跡で見つかった古代官道の幅が10.35mであったことだ。
“高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m”当時は深く考えず、むしろ高知新聞の記者が高麗尺を持ち出したことに批判的であった。ところが、『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)に次のように書かれていた。
木下良氏の記述に従えば、幅10.35mの古代官道は10~11mに納まるので、7世紀代に建設されたことになる。これは九州王朝時代の規格なのではないか。もし奈良時代に敷設されたのであれば、大和朝廷主導の12メートルないしは9メートル幅の規格になるはずだ。
だが、始まりが8世紀代とは言い切れない。高田遺跡からは、「平成27〜28年度の調査の結果、弥生時代の竪穴建物跡8軒と土器棺墓6基、古代の掘立柱建物跡24棟のほか、土坑や溝跡などが確認されました。遺物は弥生時代の土器や石器、古代の須恵器や土師器・土師質土器の他、金属製品や円面硯(えんめんけん)、緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器などが出土しました」との報告がある。
「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
このことは大和朝廷一元論では不思議とされてきたことであるが、九州王朝を起点とした古代官道は伊予ー讃岐ー阿波と通じており、一方で伊予ー土佐ルートもあったので、必ずしも土佐から阿波へと連結している必要性はなかったと言える。
https://www.youtube.com/watch?v=VXW_0Au5NEA
①地方の郡になぜ国内最大級の井戸が?
②本当に宗教的な施設なのか?
③郡家や条里制との関係は?
まずは安芸市の地政学的位置づけについて。土佐国(高知県)には安芸・香美・長岡・土佐・吾川・高岡・幡多の7郡あり、最も東に位置する。43郷中8郷が安芸郡に属し、うち5郷が現在の安芸市に含まれていたとされることから、古代土佐国において人口が集中する重要拠点であったと考えられる。にもかかわらず、「安芸市内には延喜式内社が存在しないことが不思議だ」と広谷喜十郎氏は指摘する。また、安岡大六氏の説に「キ族とは海洋民族のことで、安芸には水主、すなわち航海業者が比較的に多かった。安芸の語源かと考える」とある。
また、古代寺院跡の存在を示す軒丸瓦も出土していることから、この付近が宗教的中心地であったとし、井戸は宗教的儀式に用いられたとの考えは一理ある。しかし古代において政教分離という縛りはない。水路跡も単に護岸施設というよりは、条里制水田の灌漑施設に関係しているのではないかとのアイデアが浮かんできた。現在でも安芸川の栃ノ木堰から取水して、安芸平野を灌漑しているとのこと。昔は5か所から用水路を引き込み、安芸川の氾濫にも悩まされ、治水に苦労したという。
つまり、僧津の瓜尻遺跡の位置づけとしては、7世紀当時は宗教的中心地であり、港であり、さらには安芸条里を管理する複合的施設なのではなかったか。そして、単なる地方の一豪族が広大な安芸条里を一括管理するには荷が重すぎる。遺跡は7世紀頃、すなわちONライン(701年)以前と年代比定されており、多元史観によれば九州王朝系の勢力による条里制の施行という可能性が見えてくる。「国内最大級の古代井戸」からは、そのような意味が読み取れるのではないだろうか。
題名にはルビを振ってあり、『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』と素人でも分かるようにしてくれている。それでも、身近な大学生に見せたところ、しっかり「ひみことやまたいこく」と読んでいた。義務教育で使用される歴史教科書の影響は絶大である。
邪馬台国論争における古田武彦説を知らない一般人がこの本のタイトルを見たら、まず「漢字を間違えているのではないか」「読み方が異なっている」などの第一印象を受けることだろう。学校で習った教科書には「卑弥呼(ひみこ)」「邪馬台国(やまたいこく)」と書かれていたはずである。
それでもあえてこのようなタイトルにしているのは、そこに古田史学の研究の成果・蓄積があるからである。『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』という題名にこそ古田説の本質が集約されている。ここでは詳細には踏み込まないので、古田武彦氏の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)などをはじめとする著作やホームページ『新・古代学の扉』などで勉強してほしい。当ブログでも古田説のポイントをいろいろな形で紹介してきたつもりである。
また今回発刊された古田史学論集第二十四集が古田説を世に知らしめるツールとなればと願うものである。その内容を紹介する上で、本の内容説明および目次を以下に引用しておく。
コラム⑤ バルディビア土器はどこから伝播したか―ベティー・J・メガーズ博士の想い出―
①安芸郡奈半利町コゴロク説
②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説
③安芸市安芸川左岸の川北説
まずは、①安芸郡奈半利町コゴロク説から。『土佐日記』に「十日けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と書かれており、土佐国司の任を終えた紀貫之は京への帰途、承平5年(935年)1月10日に奈半利に立ち寄っている。原田英祐氏は次のように説明している。
「なはのとまり」の現在地は、奈半利川の川尻に近い安芸郡奈半利町字ミナトの奈半利中学校から、さらに奈半利川を1kmあまり遡上したところに「コゴロク」の地名があり、弥生~奈良時代にかけての濃密な遺跡が発掘されている。郡衙に付随した古代寺院(コゴロク廃寺=のち北川村和田に再建された妙楽寺)の瓦も、発掘確認されている。この付近に土佐日記時代の「泊まり=宿泊施設」が推定できる。コゴロクの上流域・中里地区にある多気神社と坂本神社はともに延喜式内社で、コゴロクの郡衙に付随したものだろう。(『土佐日記・歴史と地理探訪』東洋町資料集・第六集P130)
次に、②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説。佐賀大学の日野尚志氏(地理学専攻)は条里余剰帯を根拠に、南国市比江の国衙跡から東西に伸びる古代官道を推定している。官道に沿った駅家(うまや)比定地として、土左国では大影(吾川郡)・池川(吾川郡)・広瀬(吾川郡)・柏原(吾川郡)・鴨部(土左郡)・国府(長岡郡)・夜須(香美郡)・安芸(安芸郡)・奈半利(安芸郡)・室戸(安芸郡)・佐喜浜(安芸郡)・甲浦(安芸郡)を挙げている。安芸駅と奈半利駅については次のような註釈を加えている。
▼日野尚志氏の駅路比定には修正すべき点が存在する |
(61)安芸郡家は玉造の「寿正院」か、その西南三町には「ミヤケダ」の小字名もある。なお、川北の小字「横田」を通称「厩尻」といい、散布地であるが、あるいは駅祉であろうか。その他「馬越」地名もある。これを受けて、岡本健児氏は『土佐史談』160号(土佐史談会、昭和57年)「地名から見た安芸郡衙」の中で、「城領田」は少領田、すなわち郡司の「スケ(次官)」である少領から変化した地名として、古代安芸郡衙の所在を「城領田」「ソヲリ」「東トノダ」「西トノダ」の存する地域であると推定。「郡衙は現在の安芸市の土居と東浜の境界付近である」と言及した。すなわち安芸条里の広がる安芸川右岸、「ミヤケダ」付近に比定したのである。
(62)奈良時代の創建とみられるコゴログ廃寺祉がある。
(「南海道の駅路――阿波・讃岐・伊予・土左四国の場合――」より)
③安芸市安芸川左岸の川北説
『東洋町の神社と祭り』(東洋町資料集・第7集)で原田英祐氏が安芸郡東洋町大字河内字高良前に鎮座する高良神社(“甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(前編)”、“甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(後編)”)について『高知県神社明細帳』の記述を紹介するとともに、次のような興味深い注記を加えている。
注・全国的に著名な高良神社には①官弊大社・石清水八幡宮の摂社・高良明神社②国弊大社・筑後国の高良神社がある。高良はコウラと読み、武内宿祢の別名とされるが詳細不明。野根の高良神社は旧名竹内大明神と称し、奈半利多気神社と同系か? とすれば、コウラは野根のゴーロや奈半利のコゴロクと同義語・五六(林産物集積地〜加工所〜交易地)の意味にも結びつく。(第7集P21)まず、高良はコウラと読むことを明記している。これにはかつて神職でも「たから」と誤読する事例があったことを原田氏にお伝えしたことがあったので、配慮してくださったものであろう。だが、「コウラは野根のゴーロや奈半利のコゴロクと同義語・五六(林産物集積地〜加工所〜交易地)の意味にも結びつく」としたのはどうなのだろうか。
一八 強羅箱根山中の温泉で強羅という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwürdigになったものであることを知った。この地名の分布している区域は、相模足柄下郡宮城野村字強羅同 足柄上郡三保村大字中川字ゴウラ飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ越前坂井郡本郷村大字大谷字強楽丹波氷上郡上久下村大字畑内字中ゴラ備前赤磐郡軽部村大字東軽部字ゴウラ周防玖珂郡高根村大字大原字ゴウラ谷大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷等である。西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ。ゴウラはまた人によってゴウロと発音したかと思う。こちらの例はなかなかある。いずれも山中である。信濃北佐久郡芦田村大字渡字郷呂駿河安倍郡村大字渡字ゴウロ飛騨吉城郡坂下村大字小豆沢字林ゴロ美濃揖斐郡徳山村大字戸入字岩ゴロ但馬城崎郡余部村大字余部字水ゴロ美作苫田郡阿波村字郷路安芸高田郡北村字号呂石長門厚狭郡万倉村字信田丸小字黒五郎伊予新居郡大保木村村大字東野川山字郷路土佐吾川郡名野川村大字二ノ滝字ゴウロケ谷土佐にはことにゴウロという地名が多い。中国ことに長門にもたくさんあるから、かの地の人は地形を熟知しているであろう。
高知県は古代から岐阜県と並び良質な材木が採れるとされたことで、畿内の寺社の建替えなどに用いる木材の供給地(杣;そま)として、山から木を切り出し、川を下って河口付近に材木を集積し、畿内方面に運び出していた。そのような場所に「ゴウロ」地名が存在している。
そしてもう一つ、高良神社由来地名「コウラ」の存在も無視できない。調べてみると、柳田國男が収集した地名群の中にも、高良神社由来地名が混ざっている可能性すらある。「飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ」「大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷」——いずれも「宮地」すなわち神社の宮床を連想させる。そのような場所は神社名あるいは祭神名がそのまま地名となっているケースが大半である。高知県でも香南市香我美町徳王子の高良神社鎮座地にコウラ谷が存在する。
柳田國男の説を受け、筒井功氏も「ゴウラ、ゴウロ、コウラ、コウロ」などをひとくくりにしているが、これらは少なくとも3種類の語源が異なる地名に分類されそうである。①「岩石の露出している小区域」(主に山岳地帯)、②「材産物の集積地」(主に河川の下流域)、③「高良神社宮床」(高良神社鎮座地あるいは旧鎮座地)である。
地名研究は土地勘がないと難しい部分もある。今回紹介した「ゴウロ」などの類縁地名が身の回りにあれば、①〜③のどれに当てはまるか、検討してみてほしい。「師の説にななずみそ」ーー権威ある学者の説であっても鵜呑みにせず、しっかり検証して学問を進展させていくことが後進たちの責務なのかもしれない。
①芸西町和食の宇佐八幡宮境内社・高良神社②安田町安田の安田八幡宮境内摂社・若宮神社③安田町東島の城八幡宮④田野町淌涛の田野八幡宮⑤室戸市羽根町の羽根八幡宮境内社・高良玉垂神社⑥東洋町野根の野根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑦東洋町河内の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社
安田城(泉城)は安田川の東岸にあり、南西に伸びた尾根の先端頂部の城山に築かれている。築城年代は定かではないが、延文2年・正平12年(1357年)頃には安田城主として安田三河守信綱の名が残っている。安田氏は惟宗を祖とする。信綱の後は益信、七郎次、親信、鑑信と続き、安芸城主安芸氏に属していたが、永禄12年(1569年)長宗我部元親が侵攻するとこれに降った。鑑信の後は千熊丸、又兵衛、泰綱、弥次郎と続き、安田弥次郎は長宗我部盛親に従って関ヶ原合戦で戦功を挙げ、大坂の陣にも大坂方として参陣したが、大坂城が落城すると和泉へ逃れ、のちに剃髪して波斎と号した。
ナビを頼りに近くまで行くと案内板があって、安田城と大木戸古墳についての解説があった。「鎌倉時代永仁3年(1295年)佐河四郎左衛門盛信が、安田川流域を制圧して守護となった。……城山の最上段(詰の段)に今は城八幡宮があり阿弥陀如来が祀られている」ーー興味深い記述である。佐河四郎左衛門のことは平尾賞受賞者・原田英祐氏から教えてもらったことがあって、頭の片隅にあった。信頼度の高い『佐伯文書』にも見える名前であり、東の安芸郡安田町(および田野町)と西の高岡郡佐川町を結びつけるキーパーソンなのだ。
高岡郡佐川町庄田の鯨坂八幡宮には「本宮に品陀別命(応神天皇)を祀り、左右二社に息長帯日売命(神功后皇) 高良玉多礼日子命(竹内宿禰)の三神を祀り」と『土佐太平記』(明神健太郎著)に書かれ、安芸郡からの勧請と伝えられている。
6~7世紀の古墳としては高知県東部では珍しいものである。昭和29年赤土採取中に発見され、三基とも横穴式で中から須恵器などを発見し、町文化センター内に保管している。
なお室町時代に安田氏が建てた板碑や経筒は、現在県立歴史民俗資料館に飾られている。(現地の案内板より)
大木戸古墳群(安芸郡安田町東島大木戸)は『土佐の須恵器』(廣田典夫著、1991年)によると「高知県内では最も東に位置する古墳群」とされている。しかも、「横穴式石室古墳で3基」もあるのだ。お隣の安芸市が銅矛出土の東限という情報と組み合わせても、九州王朝勢力の安芸郡への進出が読み取れる。「高良神社の分布と横穴式石室古墳の分布が一致する」という指摘は、ここでも完全に成立しているようである。これには『ポケット・モンスター』の大木戸博士も、ダジャレの一つ出ないだろう。
安芸市僧津の瓜尻(うりじり)遺跡で、一辺約23メートルの正方形の建物跡が見つかったことが注目を集めている。とにかく現地を見てみなければという思いもあって、高知県東部の安芸市に向かった。車で高速道路を走りながら、悠久の時を隔てて、ほぼ古代官道に並行して進んでいることに想いを馳せた。
南国市から安芸市へ
https://youtu.be/5OyI32QnosI
遺跡の場所は安芸平野のほぼ中央、安芸条里の北端に位置する。一宮神社や岩崎弥太郎の生家がある場所から東に約500メートルの安芸川右岸に広がる田畑。東側には「安芸城跡」(中世~近世)、南側には「ジョウマン遺跡」(弥生時代~古代)や「シガ屋敷遺跡」(弥生時代~近世)、西側には「一ノ宮古墳」(古墳時代)、北側には「マテダ遺跡」(古墳時代~中世)がある。安芸郡家についてはまだ明確には分かっていないが、安芸川左岸、瓜尻遺跡よりは東方の川北地区に比定する説もある。
▲安芸城跡から瓜尻遺跡方面を臨む |
島根大学の大橋泰夫教授(考古学)は「寺院に隣接して官衙が見つかった点が重要」「郡衙にしては規模が小さく、郡内に複数設置された郡衙の支所『館(たち)』の可能性がある」などとコメントしている。古代寺院で使われる蓮華文軒丸瓦や多量の瓦片(布目や叩き目など)が出土した場所の小字は「高堂」。寺院跡らしき地名遺称であり、地元では「たかんどさん」と呼ばれていたそうだ。
安芸郡奈半利町の古代寺院であるコゴロク廃寺との関連も気になっていて、安芸市歴史民俗資料館で質問してみたところ、瓦の形式は異なると明言された。軒丸瓦の実物も見せてもったが、コゴロク廃寺跡の出土瓦は単弁および複弁蓮華文軒丸瓦である(“ココログ記事とコゴロク廃寺”参照)。瓜尻遺跡の古代寺院のほうがやや古いのではないかとの印象を受けた。
寺院跡と推定される場所に隣接する方形区画遺構からは7世紀の須恵器が出土。その南正面に広がる入江状遺構は護岸施設の可能性もあると考えられている。まさに「僧津」地名そのものを表す遺構なのではないか。
ほぼ時を同じくして、昨年(2020年)12月には南国市国分の土佐国分寺でも寺域が1.5倍に広がるとの発掘調査が報告されたばかりだ。多元的古代史を展開するピースは揃いつつある……。
718年以降に使用された古代官道(養老官道)が安芸平野のどこを通っていたのか? 安芸郡家はコゴロク廃寺のあった安芸郡奈半利町か、それとも安芸市内か? 解き明かすべき謎はまだ数多く残されているが、論理の指し示すところに向かって進んで行こうではないか。
去年(2020年2月22日)オープンしたばかりの土佐市複合文化施設「つなーで」で、2月6日(土)~2月23日(火祝)の期間、「土佐市の遺跡展」〈高知県立埋蔵文化財センター 主催〉が開催された。個人的に一番注目していたのは、野田廃寺の古代瓦の展示であった。写真だけでなく実物を見るという経験はやはり大切である。ドイツのシュタイナー学校でビデオ等の授業より、実体験の授業を重視する考え方もよく分かる。
実見したところ、野田廃寺の素弁八葉蓮華文軒丸瓦は春野町の大寺廃寺の瓦(高知市春野郷土資料館に「8世紀」と書かれ展示中)と同范ではないかもしれないが、同形式である。高知市秦泉寺廃寺の白鳳瓦とも同系列なのである。これらは7世紀とすべきであり、聖武天皇の詔との整合性が合わないからといって8世紀にずらし込むべきではない。展示では単に「古代」とだけ表記されていた。
土佐市高岡町丙野田の野田廃寺跡付近(よどやドラッグ土佐高岡店周辺か)には寺院関連の地名は見られないという。早くに退転したと考えられている。そして不思議なことに旧土佐市役所跡の地名が明官寺である。いかにも官寺があったことを連想させる。そして春野の大寺廃寺と野田廃寺を結ぶ古代官道が存在したのではないかといったことが今後の研究課題である。
土佐市の歴史は、西鴨地徳安地区で見つかった石器(尖頭器)により約1万2千年前の縄文時代草創期にまで遡ることが分かっている。これまで行われた発掘調査で、土佐市はもとより高知県の歴史においても重要な発見が数多くあり、今回の展示会では、こうした遺跡の調査から明らかになった土佐市の歴史が紹介された。
「ワークショップー勾玉づくりー」の影響もあってか、人気投票では「勾玉、小玉」(上ノ村遺跡)が断トツ1位。2位は青磁碗(天神遺跡)で、軒丸瓦(野田廃寺跡)と銅矛(天崎遺跡)が同率3位といったところだろうか。それらの陰に隠れてしまったが、今回の「土佐市の遺跡展」で本来、最も注目すべきは木胎漆器(居徳遺跡群)である。現代の漆職人が遠く及ばない漆の技術を縄文人は持っていたという。その証拠となるのが木胎漆器であり、最も目立つ位置に展示されていたところにも、その価値が読み取れる。残念ながら、よく見たら複製品と書かれていた。実物でなかったので、人気投票も振るわなかったのかもしれない。
古代史の解明は空想ではいけない。出土物との整合性があってこそ、信頼できる歴史像を描くことができる。多くのインスピレーションを与えてくれた今回の遺跡展でもあった。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。