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 徳島県三好市山城町は高良神社の密集地帯である。『山城谷村史』(山城町史編集委員会、昭和34年)に記載された村内の神社一覧表には、高良神社が5社も書かれていた。その調査は3年前(2018年)の夏に行って、山城町内の相川・末貞・佐連・瀬貝西の4社までは現地を実見することができた。だが、最後の尾又地区だけはいくら探しても見つけることができなかった。今回はその再チャレンジ編である。

<徳島県の高良神社の密集地帯>
徳島県の高良神社①ーー三好市山城町相川
徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞
徳島県の高良神社③ーー三好市山城町佐連
徳島県の高良神社④ーー三好市山城町瀬貝西
徳島県の高良神社⑤ーー三好市山城町尾又
徳島県の高良神社⑥ーー美馬市脇町の脇人神社境内社
徳島県の高良神社⑦ーー鴨神社の境内社・国瑞彦神社に合祀されていた

 今年も全国的に連日の集中豪雨であるが、山城町の白川谷川沿いは3年前の西日本豪雨でも相当の被害を被っている。がけ崩れの起きた山肌はコンクリートで固められたところもあるが、当面は緑の森が戻ることはない。そのような災害の傷跡を横目に見ながら尾又地区へと山道を登っていく。

 やはり簡単には見つかりそうにない。集落の最上部まで登っていっても神社の鳥居さえ見かけないので、地元の人に尋ねてみたが高良神社については全く知らない様子。高い場所からのぞき込むように集落を見下ろしてみたが、それらしき建物も見えない。大豊町桃原(高知県)の集落も急な斜面を切り拓いて、よくこのような場所に生活しているものだと感心したものだが、山城町尾又(徳島県)はさらに急な斜面を開墾しており、道路のふちに立つと断崖絶壁のような恐怖すら感じる。地元の人からの情報も得られず、本当に高良神社があるのだろうかと疑いが湧いてきた。

 八方ふさがりとなり、日も傾いてきた状況で、ふとグーグルマップ上に「神社」と出ている場所を思い出した。3年前にも、高良神社の鎮座地ではないかと予想した所だ。一度は下から登ろうと試みたが途中で道が途絶え、たどり着くことができなかった。
 今回は新たなインスピレーションがあった。集落の上方から道がつながっているのではないかという推理である。第一候補の道に入るも、すぐに柵で道が閉じられている。やむを得ず、もう一つ上の道から進んでいった。人が住んでいないような民家の前を横切りながら、目的の場所には近づいている感覚はある。だが、民家を過ぎると道は消え、目の前には森林が横たわる。よく見ると森を下っていく石段があった。日没前であったが、光が差し込まず暗闇へと続く階段である。ここを降りていくしかない。

 足元に気を付けながら進んでいくと、暗闇の中に突然、鳥居と社殿らしきものが現れた。扁額に書かれていたのは「高良神社」である。3年越しの宿題をついに解決することができた。尾又にも高良神社が実在したのである。これで三好市山城町の高良神社5社をコンプリート。かつての相川名・末貞名・佐連名・瀬貝名・尾又名(〜名は古い行政単位のようなもの)に各一社ずつ。「一名(みょう)一高良」といった様相を示していたことが分かる。

 山城町尾又の高良神社の祭神は高良玉垂命や武内宿禰などではなく、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)――「海幸山幸」の神話に登場する山幸彦である。神社そのものを隠すだけでは足らず、祭神すらも隠そうとしているかのようだ。わずか十数名の集落でありながら、神社自体の手入れはなされているように見えた。
 高良神社の鎮座地として2つのタイプがあることを以前言及したことがある。①河口津・川津に付随するような場所(海彦型)と、②平家の落ち武者伝承でもありそうな山中(山彦型)の2種類である。前回紹介した大豊町桃原の高羅大夫社や山城町の高良神社群は②のタイプに分類される。

 さて、帰り道が第一候補の道とつながっているか確認してみた。やはり、こちらが本来の参道となる道のようだが、二重の柵でふさがれていることが分かった。「御用のない者、通しゃせぬー♪」のようである。闇に包まれた高良神社の存在に何かしら畏敬の念すら覚えつつ、夕暮れの尾又を後にした。

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 東京オリンピックも無事閉幕となり、修正前のカレンダーで「山の日」になっていた8月11日には山に登る予定にしていた。3年前の調査で発見することのできなかった長岡郡大豊町桃原の高羅大夫社を確認しておこうと思ったのだ。高羅大夫社を実見すれば、高知県内の高良神社はコンプリート(完全踏破)である。
 国道439号線から大豊町桃原へ入っていく登り口を、うかつにも通り過ぎでしまって、32号線に入って引き返すように山道へ進入していった。先日の台風の影響だろうか。道のいたるところに木の枝が散乱している。本当ならば通行止めになっていて、車数台が停められ作業中の道を何とか通らせてもらうことになった。本来のルートへ合流する部分は路肩が崩れ、細くなっていた。冷汗ものである。

    
 集落の最上部まで登ってきて、道の広い場所に駐車し、徒歩で周辺を調べる。前回同様、若宮八幡宮はすぐに見つかるのだが、その東方にあるはずの高羅大夫社への道が分からない。事前に地図上の位置は把握しているつもりだったが、標高差のある山の斜面なので勝手が違うようだ。私道なのではないかと思えるような道から入っていくのが正解だった。柿の木に半分隠れた鳥居とそれらしき社殿が見えてきた。
 鳥居の扁額には確かに「高羅大夫社」とある。祭神不明であり高良神社と表記が異なるところに若干の疑問は残るが、四万十市蕨岡の高良神社の祭神がかつては「大夫天皇」または「大武天皇」と呼ばれていた。また高良神社の密集地帯である徳島県三好市山城町と隣接し、山道で繋がれている。高麗系の氏族との関連も考えられないことはないが、現段階では高良神社の一つと判断する。

 “長岡郡大豊町桃原には上村姓がいっぱい”で紹介したが、この地区のほとんどは上村さんばかりである。高羅大夫社の建立願主も上村茂仁と刻まれている。さらによく見ると社殿の屋根に描かれている紋は「三階菱」――豊永氏(清和源氏小笠原氏流)の家紋であろうか。
 大豊町は大杉と豊永の名前を合わせたものであり、桃原はかつての豊永郷に含まれる。小笠原備中守豊永の末裔で、豊永の姓は肥前松浦郡豊永庄に由来していると記録にある。現在も熊本県玉名郡に豊永という地域があり、球磨郡にもかつては豊永郷があった(相良家文書、平河家文書)。そうなると桃原の上村氏も人吉相良氏初代相良長頼の四男頼村を祖とする上村氏に関係があるのではないかとの可能性も見えてくる。
 天御中主尊を祭神とする妙見社は明治になって星神社に名称変更されているが、高知県下約60社中の13社が大豊町に集中している。熊本県の八代神社(妙見宮)をはじめとする九州方面からの妙見信仰が高知県内で最初に根付いたところが大豊町(旧豊永郷)だったようである。
 同時代史料ではないにしても、660年の創建を伝える大豊町桃原の参大妙見社の棟札(“長岡郡大豊町に斉明6年棟札があった①”)の存在や、大宝二年(702年)棟札(熊野十二所神社所蔵)に上村姓が見えることから、この上村一族が大豊町桃原の地で、古くから妙見社および熊野十二所神社、さらには高羅大夫社を祀ってきたのではないかと推測できる。隣接する徳島県三好市山城町の高良神社群との対比も視野に入れて検討する必要がありそうだ。


 

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 岐阜県(濃尾平野)を東西に移動してみると、木曽川、長良川、揖斐川およびその支流も含め、やたら川が多いことに気付く。今でこそ立派な橋が架かっているので、苦にならず移動できるが、古代や中世において川を渡る苦労はいかばかりであっただろうか。古代官道である東山道が、のちに整備された中山道よりも山寄りの北のルートをとっていたことは、渡河の労力を減らし、河川の氾濫を避ける意味合いもあったのだろう。川沿いや低湿地は古代官道にはそぐわないとされている。
 以前、瑞穂市を自転車で移動していたら、五六川という川に遭遇し、その名前に興味を持った。高知県民ならば、語源はあれだろうと予想がつきそうだが、一応調べてみることにした。
 五六川(ごろくがわ)は、岐阜県本巣市と瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている(美江寺宿は実際には55番目の宿場町)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 55番目の宿場町なのに「五六川」とはこれいかに。ウィキペディアは信頼できる記事も多くなっているが、この名称由来には明確な根拠があるのだろうか。ちょっと疑問である。

▲岐阜県瑞穂市を流れる五六川

 高知県では「ゴロ」「ゴーロ」「ゴロク(五六)」は木の丸太に関連する言葉で、山林で伐採した材木を下流域で集積する場所などに見られる地名である。昔は丸太を筏のように組んで川に流して運んでいたようだ。「筏津」といった地名も見られる。
 このような知識がいくらかでもあったので、「五六川」という地名を見た時に、真っ先にイメージしたのが「上流で伐採した丸太を運搬するのに利用した川」に由来する河川名なのではないかということである。地図を開くと瑞穂市内には熊沢材木店・ヤマガタヤ産業(株) 西濃店・谷川木材といった材木店がいくつもある。古くから木材関係の産業があったものと見える。古来、岐阜県は最も良質の木材供給地であったとされる。しかし、岐阜県民でもない私は土地勘がないに等しいので、一つの説として提起しつつ、地元の研究者の判断を仰ぎたい。



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 愛媛県最南端に鎮座する高良神社の話題で3回シリーズになるとは、自分でも予想していなかった。現地を踏むことによってインスピレーションを与えられたのかもしれない。意外にも、南宇和郡愛南町は高知県との縁が深いようだ。

▲左から御荘八幡神社、高良神社、八坂神社

 承平年中(931~938年)に作られたとされる『倭名類聚抄』によると、土佐国7郡で郷名43が記載されている。そのうち幡多郡には大方郷・鯨野郷・山田郷・枚田郷・宇和郷の5つの郷があった。これらの郷が現在のどこを指しているかは諸説あるが、宇和郷について、①愛媛県南宇和郡一帯という説と、②旧中村町全域(中村、不破、右山、角崎)と、後川を隔てた対岸一帯(現四万十市)とみる説とがある。愛媛県民に忖度(そんたく)しているのか、①の説は高知県の研究者もあまり強く主張してこなかった。

 実はこの説には有力な根拠が存在する。平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、比叡山延暦寺の三大門跡の一つである青蓮院の荘園が南宇和の地にあり、「御荘」という地名はそこに由来する。御荘八幡神社の東方約400mの場所には四国八十八ヶ所・第40番札所である平城山薬師院観自在寺があり、愛媛県最初の霊場とされる。この観自在寺について、青蓮院門跡の尊円親王(1298~1356年)が編纂した青蓮院の寺務記録『門葉記』には「壱所土佐国観自在寺」(6巻139頁)と記されている。寛喜元年(1229年 )8月11日の記録である。

 古代における幡多郡は現在の高知県幡多郡の郡域よりもっと広かったとされている。高岡郡の西半分をも含み、愛媛県南宇和郡まで含んでいた可能性すら出てきた。それは波多国造が治めた領域の延長上にあり、藤原氏の支配を経て九条家、一条家の荘園「幡多荘」へと連なっていく。この幡多荘の中に宇和郷に相当する地名が見当たらないことから、幡多五郷のうち宇和郷が比叡山延暦寺末寺である青蓮院の荘園となったと推測される。
 16世紀末には完全に伊予国に属しているようだが、『門葉記』の記録を信頼すると、古くは土佐国幡多郡と同一文化圏に南宇和郡愛南町付近が含まれていたと考えることができるのである。つまり、御荘八幡神社境内社・高良神社は伊予国最南端に孤立して鎮座していたわけではなく、高良神社の密集地帯である幡多郡の同一信仰圏に含まれていたとするのが理性的な判断ではなかろうか。
 もう一つ付け加えるならば、高知県唯一の単立の高良神社は四万十市蕨岡に鎮座する。この蕨岡村を出自とするかは不明だが、中世において幡多荘の領主・一条家の家臣団の中に蕨岡氏が名を連ねている。のちに蕨岡家といえば南宇和郡愛南町正木の庄屋が有名になった。そのつながりは明確でないが、愛南町正木も古くは土佐国に含まれていたとすれば、県境を跨(また)ぐという矛盾は解消されるわけで、これらの間に有機的な関連性が見いだせるような気がする。
 土佐国と伊予国の境界線がいつ、どのようないきさつで変化したのかは今後の研究課題であるが、江戸時代前期にも土予国境論争が起きており、歴史的にも境界線の変動が何度かあったようである。正しい史実に基づいて正しい歴史観を構築していく必要がありそうだ。


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 前回の“愛媛県の高良神社⑦前編ーー御荘八幡神社 境内社”において書ききれなかった内容を補っていきたい。まずは境内に見当たらなかった日吉神社について。愛媛県神社庁のホームページには御荘八幡神社境内社として高良神社と日吉神社の2社が並び掲載されている。

神社主祭神

大鞆和気命(おほともわけのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)

神社境内社

高良神社(高良玉垂命)
日吉神社(大山咋命)
 『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、昭和49年)で確認したところ、「〔飛地境内神社〕日吉神社(大山咋命) 御荘町平城馬場」(P602)とあることから、別の場所に鎮座していることが判明した。実際に高良神社と並び鎮座している境内社は八坂神社である。この並びは、“徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞”で紹介した高良神社の脇宮として八坂神社が鎮座していた形態とよく似ている。ブログ『御朱印のじかん』によると、この八坂神社は「大雀命(仁徳天皇)を祀る」「八坂神社の祭神が仁徳天皇とは珍しいですね! もしかしたら。スサノオの間違いかも」とコメントされていた。神社通ならば当然の反応であろう。

▲左が高良神社、右が八坂神社

 境内社・八坂神社についての説明が見当たらなかったので、私もてってきり祭神はスサノオまたは牛頭天皇あたりかと思い込んでいた。だが、仁徳天皇を祀っていたと知って逆に納得する部分もある。南宇和地方は若宮神社(祭神:仁徳天皇)の密集地帯(”南宇和郡の若宮神社の祭神は全て仁徳天皇であった”)なのである。
 若宮神社は本宮に対して御子神を奉斎する宮の意である。本宮の御分霊を奉斎する宮は本宮に対して今宮、又は新宮と称える。
 県内には若宮神社は六八社(うち境内社四五社)。住吉若宮(八幡浜)・鎮守若宮(松山)・橘若宮(松山)・若宮護国(宇摩)神社の如く称えて、御祭神等を表示した神社もある。御祭神は四五種類以上を数えられるが、仁徳天皇(大雀命)を奉斎した神社が最も多く、二四社に及ぶ。そのうち南宇和一五社は全部大雀命を奉斎している。これは京都の石清水八幡宮にならったものと思われる。(『愛媛県神社誌』P17)
 愛媛県における若宮神社は68社。そのうち仁徳天皇を祀る27社中15社が南宇和地方に集中する。しかも、この15社には境内社などは含まれず、全て単立の若宮神社であることからしても、南宇和の特異性が感じ取れる。僭越ながら『愛媛県神社誌』の評価には疑問がありそうだ。
 これは高知県でも見られた現象であるが、江戸時代の「若宮インフレーション」(“江戸時代の若宮八幡は先祖を祀っていた”)により、先祖神を祀る神社が若宮と呼ばれ、多く祀られるようになった。愛媛県でも実質は先祖神など仁徳天皇以外を祀る神社のほうがずっと多い。そして、仁徳天皇を祀る若宮神社27社の過半数が南宇和地方に鎮座するという偏在性 を示しているのだ。
 すなわち、仁徳天皇を祭神とする若宮神社こそ、本来は高良神社とセットなのであり、「京都の石清水八幡宮にならった」とするのは推測にすぎない。多くの場合、高良神社と若宮神社は八幡神社の脇宮として本殿の左右に対となって鎮座する。御荘八幡神社の2つの境内社も元来は高良玉垂命と仁徳天皇のセットだったと推測され、どういう理由からか、若宮神社が八坂神社に置き換わっていたことになる。
 愛媛県には斉明天皇などに関して「故有りて牛頭天皇と号す」との『無量寺文書』の記述が存在する。牛頭天皇はすなわち八坂神社の御祭神でもある。若宮神社についての考察は、高良神社の謎の御祭神・高良玉垂命が何者であるかを探求する一つの手がかりともなる。さらに踏み込んだ研究が求められそうだ。

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 高良神社研究を始めた頃、愛媛県は高良神社の空白地帯のように映り、それゆえ疑問に思っていた。「高良神社あるところに九州王朝の影あり」――この仮説に基づいて考察すれば、愛媛県には単立の高良神社は一社もなく、九州王朝とは関係が薄いことになってしまう。
 邪馬壹国時代には倭種の国と『魏志倭人伝』に記録され、白村江の戦いでは一軍を派兵した親九州王朝の国が越智国をはじめとする伊予の国々であった。本来ならば多数の高良神社が祀られていてよさそうなものである。根気よく調べていくと、確かに存在していたのである。“愛媛県の高良神社①”ですでに紹介してきたように、その多くは八幡神社の境内社として祀られていたのだ。
 東京オリンピックの開会式をよそに、愛媛県南宇和郡の高良神社を確認するため、単身乗り込んだ。愛南町御荘に鎮座する八幡神社(愛南町平城1534-1)の境内社として高良神社が存在することは数年前から調べはついていた。どうしても見てみたい場所でもあった。

 国道56号線沿いに立派な赤い鳥居が見えてきた。鳥居には夏越祭の案内も貼られている。高知県では通常6月30日に輪抜け様として行われるものであるが、ここでは7月30日のようだ。『神社だより』第26号に、今年も新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、「大祓(輪ぬけ夏越祭)の昇段参拝は中止とします」と書かれている。ただし、7月25日~30日の期間、茅の輪の設置はあるとのこと。
 さて、境内地からは土器、石器等が発見されており、古くから町指定遺跡とされている。創立未詳だが、永仁3年(1295年)3月に再興の棟札がある。そんな歴史ある八幡神社に境内社として高良神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座していたのである。境内社とはいえ、高知県の小さな祠のごときものとは比較にならないほど立派な神社である。
 どのようないきさつで境内社となったものか。明治時代末の神社整理令によるものか、それともそれ以前から境内社だったのか。さらに隣の境内社が八坂神社の扁額をかけているのだが、愛媛県神社庁の説明ではもう一つの境内社を「日吉神社(大山咋命)」としている。単なる間違いなのか、それとも一緒に祀られているのだろうか。
 また愛媛県の中心地から遠く離れた最も南(南宇和)に位置する意味をどう考えるかなど、考察すべきことはいくつかある。愛媛県の高良神社を紹介するのは久しぶりになるので、その他については、“愛媛県に高良神社は何社あるか?”の記事を参考にしてほしい。




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 2021年、今年も6月30日がやって来た。ハーフタイム・デイ、一年間の折り返し地点となる日である。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日でもある。近年は初詣(はつもうで)をもじった夏詣(なつもうで)といった言い方も出回っているようだ。
 昨年は土佐市高岡町丁天神の三島神社(祭神:大山祇神)でも輪抜け様が行われていたことや四万十市不破の不破八幡宮で輪抜け様が復活したという報道を紹介した。さらに輪抜け様を実施する神社を新たに開拓しようと思っていたところ、有力な情報を得ることができた。不破八幡宮以外にも四万十市で輪抜け様を実施している神社があるというのだ。

▲土佐市高岡町丁天神の三島神社
 それが四万十市具同の常栄(つねえ)神社である。解説板によると御祭神は木之花開耶姫・石長姫であり、ブログ「すてまわり」さんは「浅間神社の系列なのでしょうか?」と推測している。『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、「永正年中(一五〇四~二一)一条家の臣某三名が、京都産土神で高辻通り室町の西繁昌之社を勧請した産土神で、元は磐石大明神と称した」と説明している。ところが、京都の繁昌社(はんじょうしゃ)の祭神は宗像三女神、田心姫命(たぎりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)であるという。祭神が一致していない。ここでもまた謎を残しながら、再び輪抜け様の話題に戻そう。
 昨年から「輪抜け様」を一日集中にならないように、数日間にわたって実施するところが増えた。高知八幡宮でも7月7日まで実施しているとの報道もあった。身近な人に聞いたところ、①潮江天満宮 ②土佐神社 ③高知八幡宮などが毎年よく行くベスト3という印象である。新型コロナウイルスに始まった負のスパイラルの輪を早く抜け出したいものである。

夏越の祓「輪抜けさま」実施神社一覧

<神社名>  <現住所>
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮  高知市石立町54
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
潮江天満宮  高知市天神町19-20
小津神社  高知市幸町9-1
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮  高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社  高知市仁井田3514
八王子宮  香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社  高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮  高知市長浜6600
愛宕神社  高知県高知市愛宕山121-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
掛川神社  高知市薊野中町8-30
六條八幡宮  高知市春野町西分3522
仁井田神社 高知市北秦泉寺
椙本神社  吾川郡いの町大国町
三島神社  土佐市高岡丁天神
不破八幡宮  四万十市不破
常栄神社  四万十市具同8712番

※ 今年の実施状況については不正確なところがあるかもしれません。



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 ‘転生モノといったら昔は『女神転生』くらいであったが、37歳の会社員が通り魔に刺されてスライムに生まれ変わる『転生したらスライムだった件』、女子高生が爆破に巻き込まれファンタジー世界の蜘蛛に転生する『蜘蛛ですが、なにか?』。そのほかにも『Re:ゼロから始める異世界生活』や『無職転生 -異世界行ったら本気だす-』 など、転生モノが一世を風靡している。韓国ドラマでも『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』に代表される転生を扱ったストーリーが目白押しだ。
 NHK大河ドラマ『青天を衝け』ではないが、幕末土佐でも「てんせい」ブームが巻き起こっていた。神峯神社(安芸郡安田町神峯山)の石灯籠をはじめとして県下13か所以上で見つかっている「天晴(てんせい)」年号(“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”)がそれである。
 天晴元年は慶応三年(1867年)に相当し、中でも高知市春野町西諸木には2か所あるとの情報だ。簡単に見つかるだろうとタカをくくっていたが、意外にも地図情報なしで、前を通らなければ、ほぼ見つからないような場所であった。それが前回紹介した“「天政」年号を刻んだ手水鉢――春野町西諸木の森神社”だったのだ。
 神道の考え方からすると、人の住む世界と神様の住む世界は別であり、居住地と社地は川などを隔てて分けられていることが多い。ところがこの森神社は住居が立ち並ぶど真ん中にあり、鎮守の森も無きに等しい。森神社で私年号「天政元卯年九月吉日」が刻まれた手水鉢を発見することができたのは幸運であった。
 この森神社については『春野町の神社』(吾川郡春野町神社総代会、平成10年)を見ても祭神未詳とされている。森もないのに森神社とはこれいかに?――正体不明といったところだが、ある仮説は浮かんでいる。
 しかし、まずはもう一つの「天晴」年号があるとされる「御山所宮」を見つけることだ。その名前から連想されるのは山を御神体とするか、山に祀られている神社ではないかといったイメージである。周囲のに見える山々を調査すべきだろうか。
 まずは森神社の周辺を歩いてみることにした。まだ青々とした水田に太陽の日差しがエネルギーを注ぎ続けている。ふと木の間から鳥居が見えた気がしたが、畑に阻まれて道がない。反対側の道に回ったものの、参道らしき道はない。行きつ戻りつしたが、舗装されていない民家へ続くと思われる小径しかない。「ここはどこの細道じゃー♪」――たどり着いた先の鳥居の扁額を見たら「御山所神社」とある。さらに奥の建物には「御山所宮拝殿」と書かれていた。間違いなさそうである。

 結果的には森神社の南東20~30mほどの平地のど真ん中にあった。「天晴元卯九月令日」と刻まれた御山所宮の狛犬も発見できた。山がないのに御山所宮(神社)とはこれいかに? ここの祭神は大山祇命とされているがしっくりこない。まるで周囲から見つからないように祀られているような印象さえ受ける。それに、どちらも西諸木内であり、これほど近場で「天政」「天晴」の漢字の違いが生じたのはなぜだろうか。

 いくつかの疑問を残したまま、春野町西諸木における「天政」「天晴」年号の確認はできた。あっぱれとまでは言えないが、「歴史は足にて知るものなり」である。

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 南海道土佐国における古代官道がどこを通っていたかは、いくつかの説があるものの、まだ明確にはなっていない。ただ、一つ有力視されているものとして、古代官道がのちの四国八十八カ所遍路道に連なっているとの考え方である。
 高知市春野町西諸木にも雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう遍路道が通っている。町内を通る遍路道は狭く、駐車警告の張り紙もある。一見、こんな細道がかつての古代官道とはとても思えない。だが、まったく可能性がないわけではない。全国的に見てもかつての古代官道の道幅が広すぎるため、後代に道を狭められたというケースが多々ある。ここ西諸木の遍路道も水路や歩道に一部が変えられているが、かつては3m以上の道幅があったのではないかと思わされるような場所もある。
 それはさておき、“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”で紹介したように、高知県内には、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」という私年号が刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。
▲「天政」年号を刻んだ手水鉢(春野町西諸木の森神社)
 その一つが春野町西諸木526の森神社にあるということで、現地を見てみたいと調査に乗り出した。ところがグーグルマップにも登場せず、神社を紹介する本などにも、この森神社の記載はない。探すのにかなり手間取った。神社巡りを生業としている人にとっては、地図や風景を見ただけで、ある程度そこに神社がありそうだという予想がつく。
 ①鎮守の森、②(通常は南北に)まっすぐ伸びた参道、③目印の鳥居ーーなど、これらの特徴が地図や地形から読み取れるものだ。だが、森神社に関しては①鎮守の森も②参道も見当たらない。かろうじて③鳥居はあるものの、遠くからは目立たない。まるで目立たないように隠しているかのようである。
 けれども前を通り過ぎようとしたとき、これだというインスピレーションがあった。「森神社」と書かれた扁額などもない。それでも、すぐに私年号を刻んだ手水鉢を発見することができた。「奉献 天政元卯歳 九月吉日 惣中」――間違いなさそうである。広く使用された「天晴」ではなく「天政」という漢字一字違いの年号である。同じ西諸木にある御山所神社(御山所宮)の狛犬には「天晴元卯九月令日 氏子中」とあり、すぐ近くで漢字表記が異なるのは不思議である。どのような事情・背景があったのだろうか。

 私年号「天政(晴)元年」に当たるのは慶応三(1867)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。ということは、ほぼ1年先取りして独自の改元をしたことになる。高知県人の県民性を表すものとして「いられ」という言葉がある。熊本県では「あせがり」といった言葉が対応するだろうか。とにかく待っていられない。思い立ったらすぐ行動する。坂本龍馬だけではないがぜよ。などと書くと、「ぜよぜよ龍馬は言わんぜよ」と怒られそうである。

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 2021年6月21日、夏至の日である。夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至二分という。春分・夏至・秋分・冬至――このうち人類が最も古くから意識していた日はいずれであろうか?
 夏至の日はともすれば、父の日と同様、あまり気付かれないままに過ぎ去っていく。それに対して春分の日や秋分の日は国民の祝日であり、また彼岸の中日ということもあって、わりと馴染み深い。「昼と夜の長さが等しくなる日」「太陽が真東から昇り真西に沈む」といった定義は現代人には明確で分かりやすいと感じるかもしれないが、古代の人々にとってはどうだったのだろうか。
 時計がなく方位磁針もない時代に、昼と夜の時間や真東・真西というものをどう認識するのだろうか。逆に太陽や星座の観測を通してそれらを知ろうとしたことが、古代の遺跡などを調べることによって推し量ることができる。
 とりわけ三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など縄文時代の遺跡の多くは冬至や夏至の日を意識して造られているように見える(“縄文人はカレンダーを持っていたか?”)。方位磁針があっても真東や真西は正確には見つけにくい。磁北そのものが真北とは一致していないからである。それに比べると、日の出や日の入りが最も南寄りになる冬至の日は長期間にわたって日々の観測を怠らなければ、わりと正確に割り出せることだろう。

 それは夏至の日でも条件は同じと思われるかもしれない。日の出・日の入りが最も北寄りになる日を見つければよいわけである。しかし、6月は梅雨シーズンである。雨の日が多ければ日の出・日の入りの観測は難しくなる。よって夏至の日よりは雨が少ない12月の冬至の日のほうが観測にはより適していると言えるだろう。
 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。
 さて、一年を2つに分ける際に、①春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年とした。②冬至から夏至、夏至から冬至をそれぞれ1年とした。ーー他にも可能性はあるだろうが、大きくはこの2説に分けられるのではなかろうか。どちらが実態に即しているだろうか。
 ブログ<sanmaoの暦歴徒然草>では、次のように言及している。私も②なのではないかと考えてきたので、この意見には大いに同意するところがある。
 ただ一つ、私見を述べれば「春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である」という見解には同意できません。「暦法」は長い間、太陽年(回帰年)を「冬至から次の冬至までの日数」としてきました。それは観測方法が簡単で間違い難いからです。冬至から夏至までを「春年」、夏至から冬至までを「秋年」とした、これが私の見解です。『魏略』の「春耕秋収」によって春・秋を出発点とする考えには同意できません(文献と天文学・暦部のどちらをとるかという観点から)。
 三内丸山遺跡や大湯環状列石など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い。その点から考察しても、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリとなる。
 また、春分・秋分の日とお彼岸・お墓参りが関連付けられるのは、仏教伝来以降と考えられることから、それ以前、悠久なる縄文時代においては、やはり春分・秋分の日よりも冬至・夏至の日、とりわけ冬至の日が一年の変わり目として意識されていたのではなかろうか。西洋のクリスマスでさえ、元来は冬至の祭りに上書きされたものとの話もあるように、洋の東西を問わず、冬至の日が一年の変わり目となっていた可能性が高い。その対極にあって二倍年暦のもう一方の起点になっていたのが夏至の日だったと考えるが、いかがであろうか。





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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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