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 高知県には古代寺院が8つあったとされている。高知市を挟んで西の土佐市高岡町には野田廃寺。東の南国市篠原には野中廃寺があったとされる。ちょっと混乱しそうだが、野田廃寺は秦泉寺廃寺や大寺廃寺とともに廃寺トライアングル(“土佐国最古の廃寺トライアングルーー秦泉寺・大寺・野田廃寺”)をなす。旧土佐郡・吾川郡・高岡郡にまたがるものの、素弁蓮華文軒丸瓦の類似性から、共通の文化圏にあったことを推測させる。
 一方、今回とり上げる野中廃寺のほうは土佐国府跡の南方にあって、土佐国分寺や比江廃寺とともに南国市古代寺院トライアングルを形成している。この野中廃寺については江戸時代の文献にも国分尼寺ではないかと考察されていたが、平安時代に創建された寺院と年代比定されていたため、その説は退けられていた。
國分尼寺[古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。]  
按ニ、此鐘楼堂跡ハ古への國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出[国分寺よりも古瓦出る]、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、猶可考。 (『南路志 第2巻』郡郷の部(上)P345)
 個人的にはこの野中廃寺の年代が50年はさかのぼって奈良時代の創建ではないかと推測しており、国分尼寺の第一候補と考えていた。そんな矢先、今年7月までに発掘調査が行われており、驚くべき報告がなされている。遅ればせながら、記事を紹介しておく。

古代寺院の伽藍配置、高知県内で初特定 南国の野中廃寺

 高知県南国市の野中廃寺について、市教育委員会は9日、東に塔、西に金堂がある「法起寺式(ほっきじしき)」に近い伽藍(がらん)配置だったことが発掘調査でわかったと発表した。県内には野中廃寺を含む八つの古代寺院があったと伝えられ、伽藍配置を特定できたのは初めてという。
 住宅開発に伴い、昨年2月から始めた調査で、寺の中心的建物の基礎になる基壇が新たに二つ見つかった。存在が知られていた二つの基壇を含め、計四つの基壇の特徴から野中廃寺の塔、金堂、講堂、中門の配置が明らかになった。金堂の基壇は東西25・5メートル以上、南北18メートル以上で、塔の基壇は12メートル四方のほぼ正方形だった。

▲野中廃寺の伽藍配置図(南国市教育委員会)
 これまで野中廃寺は、8世紀末以降の平安時代の建立とされてきたが、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡で7世紀後半に建てられた役所と見られる建物跡が見つかっていることから、市教委の文化財係の油利崇(ゆりたかし)さんは「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話している。
 また、塔や金堂の北側に見つかった講堂の基壇の東側に、規則正しく並ぶ柱穴も確認された。僧侶などが暮らした僧坊跡(南北19・8メートル、東西6・3メートル)と見られる。(朝日新聞デジタル記事2021年7月10日)
 50年どころか100年以上も創建年代がさかのぼり、白鳳期の寺院であることが判明。土佐国分寺よりも古く、聖武天皇の詔(741年)よりも先に創建されていたことが分かってきたのである。そして何より、高知県内の古代寺院では初めて伽藍配置が明らかになったのだ。東に塔、西に金堂がある「法起寺式」に近い伽藍配置であった。
 法起寺式は九州から関東地方まで、地方に多い古代寺院の形式とされている。一元史観では奈良県の法起寺の伽藍配置の形式が地方に伝播したものとされるが、これについては多元史観の立場から機会を改めて、別の考察をしてみたいところである。今後、他の古代寺院についても発掘調査等を経て、伽藍配置が明らかにされることを期待する。

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 「先生、万有引力って何ですか?」
 キタ━(゚∀゚)━!
 高校2年の物理では万有引力について学習する。「万有」などという言葉は普段使うことがないので、その意味が捉えにくい。ここでどう答えるかが腕の見せどころである。言葉の意味を説明するのか。それとも公式を示してあげるべきか。
 私は物理学者アイザック・ニュートン(1642-1727年)の話から入ることにした。

 コロナ禍というわけではないが、ヨーロッパで感染症のペストが広まっていた頃、ニュートンは自宅にこもって考え事をしていたそうな。リンゴが木から落ちた時にニュートンは万有引力の法則を思いついたと言われている。なして? 「万有引力」というわけだから、万(よろず)の物が引っぱる力を有する。地球がリンゴを引っ張ったのでリンゴは地球に落ちた。それだけではない。リンゴも地球を引っ張っているのである。じゃあ、なぜ地球はリンゴに向かって落ちてこないのか。それは質量が桁違いに地球のほうが大きいので、目に見える移動は起きないのだ。
 さて、リンゴは木から落ちてきたのだが、その上空にはぽっかり月が浮かんでいたという。ニュートンは考えた。「なぜ月は落ちてこないのか」と。当時のヨーロッパでは重いものは下に落ちる性質があるとされ、地上の法則と天体などの運動に関する天上の法則は異なるものと考えられていた。ニュートンはその常識に疑問を呈したのである。「万有」と名づけるからには、月や星なども含めた概念となる。地球と月の間にも万有引力が働くはずである。どうして月はリンゴのように落ちてこないのか。現代では常識の範囲かもしれないが、月は地球の周りを公転しており、重力と遠心力がつり合っているからである。

 ある人は言った。「宇宙は回転するもので満ちている」と。まさに『自転しながら公転する』世界である。逆に言うと回転しないものは存在できなかったという理屈なのだ。すなわち宇宙のあらゆる存在は中心を求めて調和し、一体となって回転運動しているのである。


<万有引力の公式>
万有引力定数G = 6.67×10-11 N⋅m2/kg2

 ところで、万有引力の公式を見ると、力の大きさは距離の二乗に反比例することが分かります。距離が2倍、3倍……になると、力は2×2=4分の1倍、3×3=9分の1倍……というようにです。一説によると、学習効果も先生との距離の二乗に反比例するとも言われます。だから前に座ったほうがいいという話です。
 「一番後ろに座っている人、もっと前に来ませんか?」
 「いえ、大丈夫です。心の距離は近いですから……」

 

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 徳島県三好市山城町は高良神社の密集地帯である。『山城谷村史』(山城町史編集委員会、昭和34年)に記載された村内の神社一覧表には、高良神社が5社も書かれていた。その調査は3年前(2018年)の夏に行って、山城町内の相川・末貞・佐連・瀬貝西の4社までは現地を実見することができた。だが、最後の尾又地区だけはいくら探しても見つけることができなかった。今回はその再チャレンジ編である。

<徳島県の高良神社の密集地帯>
徳島県の高良神社①ーー三好市山城町相川
徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞
徳島県の高良神社③ーー三好市山城町佐連
徳島県の高良神社④ーー三好市山城町瀬貝西
徳島県の高良神社⑤ーー三好市山城町尾又
徳島県の高良神社⑥ーー美馬市脇町の脇人神社境内社
徳島県の高良神社⑦ーー鴨神社の境内社・国瑞彦神社に合祀されていた

 今年も全国的に連日の集中豪雨であるが、山城町の白川谷川沿いは3年前の西日本豪雨でも相当の被害を被っている。がけ崩れの起きた山肌はコンクリートで固められたところもあるが、当面は緑の森が戻ることはない。そのような災害の傷跡を横目に見ながら尾又地区へと山道を登っていく。

 やはり簡単には見つかりそうにない。集落の最上部まで登っていっても神社の鳥居さえ見かけないので、地元の人に尋ねてみたが高良神社については全く知らない様子。高い場所からのぞき込むように集落を見下ろしてみたが、それらしき建物も見えない。大豊町桃原(高知県)の集落も急な斜面を切り拓いて、よくこのような場所に生活しているものだと感心したものだが、山城町尾又(徳島県)はさらに急な斜面を開墾しており、道路のふちに立つと断崖絶壁のような恐怖すら感じる。地元の人からの情報も得られず、本当に高良神社があるのだろうかと疑いが湧いてきた。

 八方ふさがりとなり、日も傾いてきた状況で、ふとグーグルマップ上に「神社」と出ている場所を思い出した。3年前にも、高良神社の鎮座地ではないかと予想した所だ。一度は下から登ろうと試みたが途中で道が途絶え、たどり着くことができなかった。
 今回は新たなインスピレーションがあった。集落の上方から道がつながっているのではないかという推理である。第一候補の道に入るも、すぐに柵で道が閉じられている。やむを得ず、もう一つ上の道から進んでいった。人が住んでいないような民家の前を横切りながら、目的の場所には近づいている感覚はある。だが、民家を過ぎると道は消え、目の前には森林が横たわる。よく見ると森を下っていく石段があった。日没前であったが、光が差し込まず暗闇へと続く階段である。ここを降りていくしかない。

 足元に気を付けながら進んでいくと、暗闇の中に突然、鳥居と社殿らしきものが現れた。扁額に書かれていたのは「高良神社」である。3年越しの宿題をついに解決することができた。尾又にも高良神社が実在したのである。これで三好市山城町の高良神社5社をコンプリート。かつての相川名・末貞名・佐連名・瀬貝名・尾又名(〜名は古い行政単位のようなもの)に各一社ずつ。「一名(みょう)一高良」といった様相を示していたことが分かる。

 山城町尾又の高良神社の祭神は高良玉垂命や武内宿禰などではなく、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)――「海幸山幸」の神話に登場する山幸彦である。神社そのものを隠すだけでは足らず、祭神すらも隠そうとしているかのようだ。わずか十数名の集落でありながら、神社自体の手入れはなされているように見えた。
 高良神社の鎮座地として2つのタイプがあることを以前言及したことがある。①河口津・川津に付随するような場所(海彦型)と、②平家の落ち武者伝承でもありそうな山中(山彦型)の2種類である。前回紹介した大豊町桃原の高羅大夫社や山城町の高良神社群は②のタイプに分類される。

 さて、帰り道が第一候補の道とつながっているか確認してみた。やはり、こちらが本来の参道となる道のようだが、二重の柵でふさがれていることが分かった。「御用のない者、通しゃせぬー♪」のようである。闇に包まれた高良神社の存在に何かしら畏敬の念すら覚えつつ、夕暮れの尾又を後にした。

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 東京オリンピックも無事閉幕となり、修正前のカレンダーで「山の日」になっていた8月11日には山に登る予定にしていた。3年前の調査で発見することのできなかった長岡郡大豊町桃原の高羅大夫社を確認しておこうと思ったのだ。高羅大夫社を実見すれば、高知県内の高良神社はコンプリート(完全踏破)である。
 国道439号線から大豊町桃原へ入っていく登り口を、うかつにも通り過ぎでしまって、32号線に入って引き返すように山道へ進入していった。先日の台風の影響だろうか。道のいたるところに木の枝が散乱している。本当ならば通行止めになっていて、車数台が停められ作業中の道を何とか通らせてもらうことになった。本来のルートへ合流する部分は路肩が崩れ、細くなっていた。冷汗ものである。

    
 集落の最上部まで登ってきて、道の広い場所に駐車し、徒歩で周辺を調べる。前回同様、若宮八幡宮はすぐに見つかるのだが、その東方にあるはずの高羅大夫社への道が分からない。事前に地図上の位置は把握しているつもりだったが、標高差のある山の斜面なので勝手が違うようだ。私道なのではないかと思えるような道から入っていくのが正解だった。柿の木に半分隠れた鳥居とそれらしき社殿が見えてきた。
 鳥居の扁額には確かに「高羅大夫社」とある。祭神不明であり高良神社と表記が異なるところに若干の疑問は残るが、四万十市蕨岡の高良神社の祭神がかつては「大夫天皇」または「大武天皇」と呼ばれていた。また高良神社の密集地帯である徳島県三好市山城町と隣接し、山道で繋がれている。高麗系の氏族との関連も考えられないことはないが、現段階では高良神社の一つと判断する。

 “長岡郡大豊町桃原には上村姓がいっぱい”で紹介したが、この地区のほとんどは上村さんばかりである。高羅大夫社の建立願主も上村茂仁と刻まれている。さらによく見ると社殿の屋根に描かれている紋は「三階菱」――豊永氏(清和源氏小笠原氏流)の家紋であろうか。
 大豊町は大杉と豊永の名前を合わせたものであり、桃原はかつての豊永郷に含まれる。小笠原備中守豊永の末裔で、豊永の姓は肥前松浦郡豊永庄に由来していると記録にある。現在も熊本県玉名郡に豊永という地域があり、球磨郡にもかつては豊永郷があった(相良家文書、平河家文書)。そうなると桃原の上村氏も人吉相良氏初代相良長頼の四男頼村を祖とする上村氏に関係があるのではないかとの可能性も見えてくる。
 天御中主尊を祭神とする妙見社は明治になって星神社に名称変更されているが、高知県下約60社中の13社が大豊町に集中している。熊本県の八代神社(妙見宮)をはじめとする九州方面からの妙見信仰が高知県内で最初に根付いたところが大豊町(旧豊永郷)だったようである。
 同時代史料ではないにしても、660年の創建を伝える大豊町桃原の参大妙見社の棟札(“長岡郡大豊町に斉明6年棟札があった①”)の存在や、大宝二年(702年)棟札(熊野十二所神社所蔵)に上村姓が見えることから、この上村一族が大豊町桃原の地で、古くから妙見社および熊野十二所神社、さらには高羅大夫社を祀ってきたのではないかと推測できる。隣接する徳島県三好市山城町の高良神社群との対比も視野に入れて検討する必要がありそうだ。


 

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 岐阜県(濃尾平野)を東西に移動してみると、木曽川、長良川、揖斐川およびその支流も含め、やたら川が多いことに気付く。今でこそ立派な橋が架かっているので、苦にならず移動できるが、古代や中世において川を渡る苦労はいかばかりであっただろうか。古代官道である東山道が、のちに整備された中山道よりも山寄りの北のルートをとっていたことは、渡河の労力を減らし、河川の氾濫を避ける意味合いもあったのだろう。川沿いや低湿地は古代官道にはそぐわないとされている。
 以前、瑞穂市を自転車で移動していたら、五六川という川に遭遇し、その名前に興味を持った。高知県民ならば、語源はあれだろうと予想がつきそうだが、一応調べてみることにした。
 五六川(ごろくがわ)は、岐阜県本巣市と瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている(美江寺宿は実際には55番目の宿場町)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 55番目の宿場町なのに「五六川」とはこれいかに。ウィキペディアは信頼できる記事も多くなっているが、この名称由来には明確な根拠があるのだろうか。ちょっと疑問である。

▲岐阜県瑞穂市を流れる五六川

 高知県では「ゴロ」「ゴーロ」「ゴロク(五六)」は木の丸太に関連する言葉で、山林で伐採した材木を下流域で集積する場所などに見られる地名である。昔は丸太を筏のように組んで川に流して運んでいたようだ。「筏津」といった地名も見られる。
 このような知識がいくらかでもあったので、「五六川」という地名を見た時に、真っ先にイメージしたのが「上流で伐採した丸太を運搬するのに利用した川」に由来する河川名なのではないかということである。地図を開くと瑞穂市内には熊沢材木店・ヤマガタヤ産業(株) 西濃店・谷川木材といった材木店がいくつもある。古くから木材関係の産業があったものと見える。古来、岐阜県は最も良質の木材供給地であったとされる。しかし、岐阜県民でもない私は土地勘がないに等しいので、一つの説として提起しつつ、地元の研究者の判断を仰ぎたい。



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 愛媛県最南端に鎮座する高良神社の話題で3回シリーズになるとは、自分でも予想していなかった。現地を踏むことによってインスピレーションを与えられたのかもしれない。意外にも、南宇和郡愛南町は高知県との縁が深いようだ。

▲左から御荘八幡神社、高良神社、八坂神社

 承平年中(931~938年)に作られたとされる『倭名類聚抄』によると、土佐国7郡で郷名43が記載されている。そのうち幡多郡には大方郷・鯨野郷・山田郷・枚田郷・宇和郷の5つの郷があった。これらの郷が現在のどこを指しているかは諸説あるが、宇和郷について、①愛媛県南宇和郡一帯という説と、②旧中村町全域(中村、不破、右山、角崎)と、後川を隔てた対岸一帯(現四万十市)とみる説とがある。愛媛県民に忖度(そんたく)しているのか、①の説は高知県の研究者もあまり強く主張してこなかった。

 実はこの説には有力な根拠が存在する。平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、比叡山延暦寺の三大門跡の一つである青蓮院の荘園が南宇和の地にあり、「御荘」という地名はそこに由来する。御荘八幡神社の東方約400mの場所には四国八十八ヶ所・第40番札所である平城山薬師院観自在寺があり、愛媛県最初の霊場とされる。この観自在寺について、青蓮院門跡の尊円親王(1298~1356年)が編纂した青蓮院の寺務記録『門葉記』には「壱所土佐国観自在寺」(6巻139頁)と記されている。寛喜元年(1229年 )8月11日の記録である。

 古代における幡多郡は現在の高知県幡多郡の郡域よりもっと広かったとされている。高岡郡の西半分をも含み、愛媛県南宇和郡まで含んでいた可能性すら出てきた。それは波多国造が治めた領域の延長上にあり、藤原氏の支配を経て九条家、一条家の荘園「幡多荘」へと連なっていく。この幡多荘の中に宇和郷に相当する地名が見当たらないことから、幡多五郷のうち宇和郷が比叡山延暦寺末寺である青蓮院の荘園となったと推測される。
 16世紀末には完全に伊予国に属しているようだが、『門葉記』の記録を信頼すると、古くは土佐国幡多郡と同一文化圏に南宇和郡愛南町付近が含まれていたと考えることができるのである。つまり、御荘八幡神社境内社・高良神社は伊予国最南端に孤立して鎮座していたわけではなく、高良神社の密集地帯である幡多郡の同一信仰圏に含まれていたとするのが理性的な判断ではなかろうか。
 もう一つ付け加えるならば、高知県唯一の単立の高良神社は四万十市蕨岡に鎮座する。この蕨岡村を出自とするかは不明だが、中世において幡多荘の領主・一条家の家臣団の中に蕨岡氏が名を連ねている。のちに蕨岡家といえば南宇和郡愛南町正木の庄屋が有名になった。そのつながりは明確でないが、愛南町正木も古くは土佐国に含まれていたとすれば、県境を跨(また)ぐという矛盾は解消されるわけで、これらの間に有機的な関連性が見いだせるような気がする。
 土佐国と伊予国の境界線がいつ、どのようないきさつで変化したのかは今後の研究課題であるが、江戸時代前期にも土予国境論争が起きており、歴史的にも境界線の変動が何度かあったようである。正しい史実に基づいて正しい歴史観を構築していく必要がありそうだ。


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 前回の“愛媛県の高良神社⑦前編ーー御荘八幡神社 境内社”において書ききれなかった内容を補っていきたい。まずは境内に見当たらなかった日吉神社について。愛媛県神社庁のホームページには御荘八幡神社境内社として高良神社と日吉神社の2社が並び掲載されている。

神社主祭神

大鞆和気命(おほともわけのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)

神社境内社

高良神社(高良玉垂命)
日吉神社(大山咋命)
 『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、昭和49年)で確認したところ、「〔飛地境内神社〕日吉神社(大山咋命) 御荘町平城馬場」(P602)とあることから、別の場所に鎮座していることが判明した。実際に高良神社と並び鎮座している境内社は八坂神社である。この並びは、“徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞”で紹介した高良神社の脇宮として八坂神社が鎮座していた形態とよく似ている。ブログ『御朱印のじかん』によると、この八坂神社は「大雀命(仁徳天皇)を祀る」「八坂神社の祭神が仁徳天皇とは珍しいですね! もしかしたら。スサノオの間違いかも」とコメントされていた。神社通ならば当然の反応であろう。

▲左が高良神社、右が八坂神社

 境内社・八坂神社についての説明が見当たらなかったので、私もてってきり祭神はスサノオまたは牛頭天皇あたりかと思い込んでいた。だが、仁徳天皇を祀っていたと知って逆に納得する部分もある。南宇和地方は若宮神社(祭神:仁徳天皇)の密集地帯(”南宇和郡の若宮神社の祭神は全て仁徳天皇であった”)なのである。
 若宮神社は本宮に対して御子神を奉斎する宮の意である。本宮の御分霊を奉斎する宮は本宮に対して今宮、又は新宮と称える。
 県内には若宮神社は六八社(うち境内社四五社)。住吉若宮(八幡浜)・鎮守若宮(松山)・橘若宮(松山)・若宮護国(宇摩)神社の如く称えて、御祭神等を表示した神社もある。御祭神は四五種類以上を数えられるが、仁徳天皇(大雀命)を奉斎した神社が最も多く、二四社に及ぶ。そのうち南宇和一五社は全部大雀命を奉斎している。これは京都の石清水八幡宮にならったものと思われる。(『愛媛県神社誌』P17)
 愛媛県における若宮神社は68社。そのうち仁徳天皇を祀る27社中15社が南宇和地方に集中する。しかも、この15社には境内社などは含まれず、全て単立の若宮神社であることからしても、南宇和の特異性が感じ取れる。僭越ながら『愛媛県神社誌』の評価には疑問がありそうだ。
 これは高知県でも見られた現象であるが、江戸時代の「若宮インフレーション」(“江戸時代の若宮八幡は先祖を祀っていた”)により、先祖神を祀る神社が若宮と呼ばれ、多く祀られるようになった。愛媛県でも実質は先祖神など仁徳天皇以外を祀る神社のほうがずっと多い。そして、仁徳天皇を祀る若宮神社27社の過半数が南宇和地方に鎮座するという偏在性 を示しているのだ。
 すなわち、仁徳天皇を祭神とする若宮神社こそ、本来は高良神社とセットなのであり、「京都の石清水八幡宮にならった」とするのは推測にすぎない。多くの場合、高良神社と若宮神社は八幡神社の脇宮として本殿の左右に対となって鎮座する。御荘八幡神社の2つの境内社も元来は高良玉垂命と仁徳天皇のセットだったと推測され、どういう理由からか、若宮神社が八坂神社に置き換わっていたことになる。
 愛媛県には斉明天皇などに関して「故有りて牛頭天皇と号す」との『無量寺文書』の記述が存在する。牛頭天皇はすなわち八坂神社の御祭神でもある。若宮神社についての考察は、高良神社の謎の御祭神・高良玉垂命が何者であるかを探求する一つの手がかりともなる。さらに踏み込んだ研究が求められそうだ。

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 高良神社研究を始めた頃、愛媛県は高良神社の空白地帯のように映り、それゆえ疑問に思っていた。「高良神社あるところに九州王朝の影あり」――この仮説に基づいて考察すれば、愛媛県には単立の高良神社は一社もなく、九州王朝とは関係が薄いことになってしまう。
 邪馬壹国時代には倭種の国と『魏志倭人伝』に記録され、白村江の戦いでは一軍を派兵した親九州王朝の国が越智国をはじめとする伊予の国々であった。本来ならば多数の高良神社が祀られていてよさそうなものである。根気よく調べていくと、確かに存在していたのである。“愛媛県の高良神社①”ですでに紹介してきたように、その多くは八幡神社の境内社として祀られていたのだ。
 東京オリンピックの開会式をよそに、愛媛県南宇和郡の高良神社を確認するため、単身乗り込んだ。愛南町御荘に鎮座する八幡神社(愛南町平城1534-1)の境内社として高良神社が存在することは数年前から調べはついていた。どうしても見てみたい場所でもあった。

 国道56号線沿いに立派な赤い鳥居が見えてきた。鳥居には夏越祭の案内も貼られている。高知県では通常6月30日に輪抜け様として行われるものであるが、ここでは7月30日のようだ。『神社だより』第26号に、今年も新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、「大祓(輪ぬけ夏越祭)の昇段参拝は中止とします」と書かれている。ただし、7月25日~30日の期間、茅の輪の設置はあるとのこと。
 さて、境内地からは土器、石器等が発見されており、古くから町指定遺跡とされている。創立未詳だが、永仁3年(1295年)3月に再興の棟札がある。そんな歴史ある八幡神社に境内社として高良神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座していたのである。境内社とはいえ、高知県の小さな祠のごときものとは比較にならないほど立派な神社である。
 どのようないきさつで境内社となったものか。明治時代末の神社整理令によるものか、それともそれ以前から境内社だったのか。さらに隣の境内社が八坂神社の扁額をかけているのだが、愛媛県神社庁の説明ではもう一つの境内社を「日吉神社(大山咋命)」としている。単なる間違いなのか、それとも一緒に祀られているのだろうか。
 また愛媛県の中心地から遠く離れた最も南(南宇和)に位置する意味をどう考えるかなど、考察すべきことはいくつかある。愛媛県の高良神社を紹介するのは久しぶりになるので、その他については、“愛媛県に高良神社は何社あるか?”の記事を参考にしてほしい。




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 2021年、今年も6月30日がやって来た。ハーフタイム・デイ、一年間の折り返し地点となる日である。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日でもある。近年は初詣(はつもうで)をもじった夏詣(なつもうで)といった言い方も出回っているようだ。
 昨年は土佐市高岡町丁天神の三島神社(祭神:大山祇神)でも輪抜け様が行われていたことや四万十市不破の不破八幡宮で輪抜け様が復活したという報道を紹介した。さらに輪抜け様を実施する神社を新たに開拓しようと思っていたところ、有力な情報を得ることができた。不破八幡宮以外にも四万十市で輪抜け様を実施している神社があるというのだ。

▲土佐市高岡町丁天神の三島神社
 それが四万十市具同の常栄(つねえ)神社である。解説板によると御祭神は木之花開耶姫・石長姫であり、ブログ「すてまわり」さんは「浅間神社の系列なのでしょうか?」と推測している。『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、「永正年中(一五〇四~二一)一条家の臣某三名が、京都産土神で高辻通り室町の西繁昌之社を勧請した産土神で、元は磐石大明神と称した」と説明している。ところが、京都の繁昌社(はんじょうしゃ)の祭神は宗像三女神、田心姫命(たぎりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)であるという。祭神が一致していない。ここでもまた謎を残しながら、再び輪抜け様の話題に戻そう。
 昨年から「輪抜け様」を一日集中にならないように、数日間にわたって実施するところが増えた。高知八幡宮でも7月7日まで実施しているとの報道もあった。身近な人に聞いたところ、①潮江天満宮 ②土佐神社 ③高知八幡宮などが毎年よく行くベスト3という印象である。新型コロナウイルスに始まった負のスパイラルの輪を早く抜け出したいものである。

夏越の祓「輪抜けさま」実施神社一覧

<神社名>  <現住所>
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮  高知市石立町54
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
潮江天満宮  高知市天神町19-20
小津神社  高知市幸町9-1
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮  高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社  高知市仁井田3514
八王子宮  香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社  高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮  高知市長浜6600
愛宕神社  高知県高知市愛宕山121-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
掛川神社  高知市薊野中町8-30
六條八幡宮  高知市春野町西分3522
仁井田神社 高知市北秦泉寺
椙本神社  吾川郡いの町大国町
三島神社  土佐市高岡丁天神
不破八幡宮  四万十市不破
常栄神社  四万十市具同8712番

※ 今年の実施状況については不正確なところがあるかもしれません。



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 ‘転生モノといったら昔は『女神転生』くらいであったが、37歳の会社員が通り魔に刺されてスライムに生まれ変わる『転生したらスライムだった件』、女子高生が爆破に巻き込まれファンタジー世界の蜘蛛に転生する『蜘蛛ですが、なにか?』。そのほかにも『Re:ゼロから始める異世界生活』や『無職転生 -異世界行ったら本気だす-』 など、転生モノが一世を風靡している。韓国ドラマでも『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』に代表される転生を扱ったストーリーが目白押しだ。
 NHK大河ドラマ『青天を衝け』ではないが、幕末土佐でも「てんせい」ブームが巻き起こっていた。神峯神社(安芸郡安田町神峯山)の石灯籠をはじめとして県下13か所以上で見つかっている「天晴(てんせい)」年号(“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”)がそれである。
 天晴元年は慶応三年(1867年)に相当し、中でも高知市春野町西諸木には2か所あるとの情報だ。簡単に見つかるだろうとタカをくくっていたが、意外にも地図情報なしで、前を通らなければ、ほぼ見つからないような場所であった。それが前回紹介した“「天政」年号を刻んだ手水鉢――春野町西諸木の森神社”だったのだ。
 神道の考え方からすると、人の住む世界と神様の住む世界は別であり、居住地と社地は川などを隔てて分けられていることが多い。ところがこの森神社は住居が立ち並ぶど真ん中にあり、鎮守の森も無きに等しい。森神社で私年号「天政元卯年九月吉日」が刻まれた手水鉢を発見することができたのは幸運であった。
 この森神社については『春野町の神社』(吾川郡春野町神社総代会、平成10年)を見ても祭神未詳とされている。森もないのに森神社とはこれいかに?――正体不明といったところだが、ある仮説は浮かんでいる。
 しかし、まずはもう一つの「天晴」年号があるとされる「御山所宮」を見つけることだ。その名前から連想されるのは山を御神体とするか、山に祀られている神社ではないかといったイメージである。周囲のに見える山々を調査すべきだろうか。
 まずは森神社の周辺を歩いてみることにした。まだ青々とした水田に太陽の日差しがエネルギーを注ぎ続けている。ふと木の間から鳥居が見えた気がしたが、畑に阻まれて道がない。反対側の道に回ったものの、参道らしき道はない。行きつ戻りつしたが、舗装されていない民家へ続くと思われる小径しかない。「ここはどこの細道じゃー♪」――たどり着いた先の鳥居の扁額を見たら「御山所神社」とある。さらに奥の建物には「御山所宮拝殿」と書かれていた。間違いなさそうである。

 結果的には森神社の南東20~30mほどの平地のど真ん中にあった。「天晴元卯九月令日」と刻まれた御山所宮の狛犬も発見できた。山がないのに御山所宮(神社)とはこれいかに? ここの祭神は大山祇命とされているがしっくりこない。まるで周囲から見つからないように祀られているような印象さえ受ける。それに、どちらも西諸木内であり、これほど近場で「天政」「天晴」の漢字の違いが生じたのはなぜだろうか。

 いくつかの疑問を残したまま、春野町西諸木における「天政」「天晴」年号の確認はできた。あっぱれとまでは言えないが、「歴史は足にて知るものなり」である。

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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