以前、“土佐国最古の廃寺トライアングルーー秦泉寺・大寺・野田廃寺”について書いたことがあったが、最近の発掘調査で“南国市の古代寺院トライアングル”に注目が集まっている。土佐国府跡の北東部に位置する比江廃寺。西に隣接する土佐国分寺。国府から南方に伸びる古代官道東側にある野中廃寺の3寺院である。 ①野中廃寺(南国市元町) 前回紹介したように、南国市元町1丁目の野中廃寺について、高知県内の古代寺院では初めて伽藍配置が判明した。かつて、野中廃寺跡を探そうと思って現地を訪問したことがあったが、地元の人に尋ねても全く知らない様子であった。それが先月、新聞で大きく取り上げられたのである。
……古代寺院の伽藍が判明するのは県内初の事例。近くの「若宮ノ東遺跡」(篠原)で見つかった同時代の役所「評衙」跡との深いつながりが推測される。……寺域は150メートル四方におよび、ほかにも全国に類例のない独自模様の瓦や、県内では3遺跡目となる「二彩陶器」が出土したという。(高知新聞7月10日号より抜粋) 毎日新聞でも「出土物の須恵器や二彩陶器を分析し、寺の存続時期は白鳳期の7世紀後半から平安時代の10世紀ごろまでと推定」と年代比定の根拠を示していた。伽藍配置については、野田廃寺は東に塔、西に金堂がある「法起寺式」であった。 ②比江廃寺(南国市比江)他の古代寺院については伽藍配置は不明とされているものの、比江廃寺に関しては塔の心礎が残っており、東に金堂、西に塔がある「法隆寺式」と推定されている。出土した瓦については「7世紀代に遡り得る瓦も存在するものの、その多くは8世紀以降のものとみられ、創建当時の堂宇は金堂など限られていたのではなかろうか」とし、寺院の性格に関しては次のように考察されている。豪族の氏寺として創建された点については,特に異論は出されていないもののその後の性格についてはいくつかの考えが提示されている。一つは国府寺(国府付属寺院)に転用されたとするもの(岡本1959,廣田 1990)である。比江廃寺が土佐国府の丁度北東部,鬼門に位置することが大きな要因である。 「豪族の氏寺として創建された点については,特に異論は出されていない」としているが、土佐国府を太宰府の都府楼跡になぞらえた時、観世音寺の位置に相当するのが比江廃寺であることから、当初から国府寺的な意味合いで創建されたのではなかろうか。さらに出原惠三氏は「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」(「比江廃寺」『土佐史談189号』土佐史談会、平成4年3月)と指摘する。 ③土佐国分寺(南国市国分)もう一つの土佐国分寺についても、昨年までに大々的な発掘調査が行われた。2020年12月12日に「土佐国分寺の寺域3倍か 南国市 周辺に5棟の建物跡」との見出しで、金堂などの主要施設があった伽藍地の南西側で、8世紀前後とみられる建物群跡などが見つかったと新聞報道された。 土佐国分寺は、741年(聖武天皇の詔)以降に全国で建立された古代寺院の一つ。現在の国分寺を含む南北約136m、東西約150mが国の史跡に指定されている。2016年から寺域について調査し、古代の北門や、寺の主要施設を囲んでいた築地塀の痕跡、溝などを確認。塀に囲まれた伽藍地は南北約198m、東西約150mとなり、従来の伽藍配置の推定に変更が加えられそうだ。 整理すると、①野中廃寺と②比江廃寺がONライン(701年)以前の創建となり、③土佐国分寺がONライン以後の創建と考えられる。安芸郡奈半利町のコゴロク廃寺や安芸市僧津の瓜尻遺跡で確認された古代寺院なども含め、さらなる調査や検証が求められるところだ。 PR |
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