天神神社は岐阜県瑞穂市居倉にある神社である。旧社格は郷社。倭姫命が滞在した「伊久良河宮(いくらがわのみや)」の跡とされ、元伊勢の一つとなっている。正史『日本書記』や『倭姫命(やまとひめのみこと)世紀』等に次のように書かれている。
「垂仁天皇の時、倭姫命に命ぜられ、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」
垂仁天皇から命を受けた娘の倭姫命が天照大神を祀る地を探し、この地にたどり着いたという。それがいつの時代なのか正確には分からないが、その痕跡はあるのだろうか。『岐阜県の歴史』(2000年)を開いても、それらしいことは何も書かれていない。しかし、周辺地図を確認してみると、方八町程度の正方形の土地の北辺中央に伊久良河宮跡が位置し、南辺を古代官道が通っていた。宮殿らしきものがあってもおかしくないロケーションである。
その跡地に、高皇産霊神・神皇産霊神の天神御二柱を祭神として斉き祀ることから、社号を「天津神神社」と古書に記されている。本来、天神とは学問の神様・菅原道真のことではなく、神代の時代に活躍した天津神のことなのである。相殿に誉田別命、外27柱を合祀する。 神社境内の奥には、神が宿る御船代石(みふなしろいし)と呼ばれる石が2つ安置されている。その北側に天照大神、西側には倭姫命が祀られている。東側の境内社は愛知県や岐阜県などに多い白山神社のようだ。また付近からは神獣鏡の破片(福富茂直宮司所蔵)が出土しており、古い時代の痕跡を確かに残しているようだ。
伊久良河宮跡は、伊勢神宮のふるさととして伊勢神宮から尊崇されており、今でもお使いの方が参拝にいらっしゃるという。
<歴史>
『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇10年、倭姫命が天照大神の御霊代を祀る地を探し、淡海国坂田宮より美濃国伊久良河の地にたどり着き、この地に4年滞在したと伝えるが、当神社はこの時伊久良河宮としてこの地に宮殿が造られたのが始まりと伝えられ、また本殿右にある御船代石(みふなしろいし)はその時に天照大神の神輿を安置した跡とも伝える。ちなみにその後、倭姫命は生津から2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、中島宮に滞在することとなる(『世記』)。
社伝によれば、社殿建立以前は一帯が禁足地とされ、御船代石を憑代に祭祀が行われていたというが、御船代石の周囲からは神獣文鏡6面や硬玉製を始めとする30個余りの勾玉が出土しており、古代の祭祀遺跡であると見られている。
江戸時代には旗本の青木氏の崇敬を受け、現在の本殿は元禄年間(1688年ー1704年)の造替である。明治以前は「伊久良河宮 天神宮」や「天津神神社」とも呼ばれていたが、明治6年(1873年)、「天神神社」に改称して郷社に列した。
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残暑どころか猛暑続きの日々。神社巡りも厳しい季節だ。今年初めて茅の輪を作り、輪抜け様を行った高知市神田の三所神社。神社通の方ならこの神社名で熊野系の神社ではないかとイメージできるのではないか。
鳥居横の掲示板に御祭神が書かれている。伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、速玉之男大神(はやだまのおのおおかみ)、事解之男大神(ことさかのおのおおかみ)。間違いなく紀州熊野三山の三神が祀られているようだ。三柱の神様を祀ることから三所神社と呼ばれるのだろう。
高知県には多くの熊野神社があり、高知市内にも次のような熊野系神社が目につく。
高知市鷹匠町2-4-26 熊野神社(山内神社境内社)
鳥居横の掲示板に御祭神が書かれている。伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、速玉之男大神(はやだまのおのおおかみ)、事解之男大神(ことさかのおのおおかみ)。間違いなく紀州熊野三山の三神が祀られているようだ。三柱の神様を祀ることから三所神社と呼ばれるのだろう。
高知県には多くの熊野神社があり、高知市内にも次のような熊野系神社が目につく。
高知市鷹匠町2-4-26 熊野神社(山内神社境内社)
高知市比島町2丁目 四社神社・熊野神社
高知市鏡上的渕違野 熊野神社
高知市鏡去坂 熊野十二所神社
高知市鏡的渕 熊野神社
これらに加えて、高知市神田の三所神社も熊野系ということになるだろう。なぜ、熊野神社が多いのか。いつ頃、どういう経緯で高知県に入ってくることになったのか。興味は尽きないが、また回を改めて書いてみたい。
これらに加えて、高知市神田の三所神社も熊野系ということになるだろう。なぜ、熊野神社が多いのか。いつ頃、どういう経緯で高知県に入ってくることになったのか。興味は尽きないが、また回を改めて書いてみたい。
2023年、今年も6月30日がやって来た。この日は高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日である。一般的には「夏越の大祓」などと呼ばれる。県外ではどうなのかと気になっていたところ、愛媛県松山市では同じく6月30日に開催しているとのこと。しかし本来は陰暦の6月30日に行う行事であり、伝統を重んじて陽暦の7月に執り行っているところもある。
今年の注目は何と言っても初登場、高知市神田の三所神社だろう。地域住民の声もあり新たに「輪抜け様」の輪に加わることになった。その意気込みはポスターのクオリティーにも表れている。氏子の人も「三所神社始まって以来初めての輪抜け様」と語る。メダカすくいをはじめとする屋台を準備しているかたわら、フライングして輪抜けをして参拝させてもらった。
今年は気持ちも新たに、いつもと違う輪抜け様となったが、輪抜け様の日によく雨が降るというジンクスもコロナ禍前のことを思い出す。参考までに夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧を紹介しておく。年々グレードアップしてきており、正確でないところもあるかもしれないが、役立ててもらえたら幸いである。
夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧
<神社名> <現住所>
土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮 高知市石立町54
出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29
潮江天満宮 高知市天神町19-20
多賀神社 高知市宝永町8-36
小津神社 高知市幸町9-1
郡頭神社 高知市鴨部上町5−8
三所神社 高知市神田358−1 <new>
三所神社 高知市神田358−1 <new>
高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮 高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社 高知市仁井田3514
大川上美良布神社 香美市香北町韮生野243
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社 高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮 高知市長浜6600
愛宕神社 高知市愛宕山121-1
薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社 高知市大津乙3199
清川神社 高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮 高知市福井町917
本宮神社 高知市本宮町94
多賀神社 高知市宝永町8−36
掛川神社 高知市薊野中町8-30
六條八幡宮 高知市春野町西分3522
仁井田神社 高知市北秦泉寺
熊野神社 南国市久礼田2213
剱尾神社 南国市浜改田2465
椙本神社 吾川郡いの町大国町
三島神社 土佐市高岡丁天神
久礼八幡宮 高岡郡中土佐町久礼
不破八幡宮 四万十市不破
常栄神社 四万十市具同8712番
「古代に真実を求めて」シリーズの最新刊が6月、明石書店から発刊された。タイトルは古田史学論集第二十六集『九州王朝の興亡』(古田史学会編、2023年)だ。執筆陣が関西に片寄っていることは近年の傾向であるが、大和朝廷に先立つ九州王朝ありきの多元史観を知ることのできる1冊である。
天孫降臨から大和朝廷への王朝交替までを綿密かつ簡潔に綴った「倭国(九州王朝)略史」。古代中国史料批判の新視点を提起する 「古代日中交流史研究と『多元史観』」など、古田学派の九州王朝研究の到達点を示す論集となっている。
個人的には満田正賢氏の「『群書類従』に収録された古代逸年号に関する考察」に興味を持った。古代逸年号史料にも大きくは2つの系列があることを分類整理しているからだ。現在、調査中の九州年号史料を研究する上で、大いに参考になりそうだ。
特集は「九州王朝の興亡」。大和朝廷以前の日本の代表王朝「倭国」は九州王朝と唱えた古田武彦氏の九州王朝説を受け継ぎ、研鑽を重ねてアップグレードさせた最新の研究精華を収録する。「倭国(九州王朝)略史」「古代日中交流史研究と『多元史観』」など。
◆目次
はじめに
巻頭言 覚悟を決めた第二著『失われた九州王朝』[古田史学の会代表 古賀達也]
特集 九州王朝の興亡
倭国(九州王朝)略史[正木裕]
古代日中交流史研究と「多元史観」―五世紀〜七世紀の東アジア国際交流史の基本問題―[谷本茂]
九州年号の証明―白鳳は白雉の美称にあらず―[服部静尚]
『群書類従』に収録された古代逸年号に関する考察[満田正賢]
倭国律令以前の税体制の一考察[服部静尚]
多利思北孤の「東方遷居」[正木裕]
太宰府出土須恵器杯Bと律令官制―九州王朝史と須恵器の進化―[古賀達也]
「壬申の乱」の本質と、「二つの東国」[正木裕]
柿本人麿が詠った両京制―大王の遠の朝庭と難波京―[古賀達也]
『後漢書』「倭國之極南界也」の再検討[谷本茂]
「多賀城碑」の解読―それは「道標」だった―[正木裕]
七世紀の須恵器・瓦編年についての提起[服部静尚]
コラム① 蹴鞠ではなく打毬用の木球
コラム② 年縞博物館と丹後王国
高知市春野町西分の旧春野町庁舎跡などで 2023 年 6 月 4 日(日)、「第 35 回はるのあじさいまつり」が開かれた。水路沿いに植えられた約2万本のアジサイを見るために多くの人が集まった。6月中旬頃まで楽しめる予定だ。
まつりのメインとなる「あじさいウォーク」では「あじさい街道」と呼ばれる水路沿いの道を歩く。ふと、この道が古代官道のルートと関係していないだろうかとの考えが浮かんだ。奈良時代以前の古代官道は道幅が広すぎる。コストパフォーマンスが悪くて維持費がかかりすぎた。平安時代以降には道幅も狭められ、道が削られて畑に変わったところもある。
「あじさい街道」は道に沿って水路があり、遊歩道があって、あじさいが植えられている。車道+水路+遊歩道。古代官道の道幅を復元するには十分な感じがする。
一方、『長宗我部地検帳』によると春野町には「大道」地名が連なっている。それを復元して地図上にマッピングした図が『春野町史』に掲載されている。正確な位置が判断しずらいところもあるが、比較してみると「あじさい街道」よりは南を通っていたようだ。おそらく横川末吉氏の研究の成果であろう。
ただし、『長宗我部地検帳』の「大道」がそのまま古代官道と重なるとは限らない。あくまでも長宗我部時代の幹線道路を示すものであり、古代までさかのぼることができるかどうかは別の論証が必要なのだ。
718年以前においては伊予―土佐をつなぐ古代官道が存在したと推測されているが、それがどこを通っていたかについての発掘による手がかりなどは、この方面に関しては見つかっていない。ただし、郡家や古代寺院、一宮・二宮・三宮などの位置関係が推測のヒントになる。そして春野町に残された「大道」地名のライン。これは春野町西分の大寺廃寺と土佐市高岡町の野田廃寺をほぼ一直線に結ぶルート上に並んでいる。この2つの古代寺院跡から出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、7世紀頃の創建とされる。
県下で最古級とされる2つの白鳳寺院を古代官道が結んでいた可能性は少なからずありそうだ。「あじさいウォーク」では折り返し地点となる仁淀川の近くはかつて渡し場があった場所でもある。仁淀川を渡って南西に数百メートル行けば野田廃寺跡。さらに詳しく調べてみる必要がありそうだ。
「あじさい街道」は道に沿って水路があり、遊歩道があって、あじさいが植えられている。車道+水路+遊歩道。古代官道の道幅を復元するには十分な感じがする。
一方、『長宗我部地検帳』によると春野町には「大道」地名が連なっている。それを復元して地図上にマッピングした図が『春野町史』に掲載されている。正確な位置が判断しずらいところもあるが、比較してみると「あじさい街道」よりは南を通っていたようだ。おそらく横川末吉氏の研究の成果であろう。
ただし、『長宗我部地検帳』の「大道」がそのまま古代官道と重なるとは限らない。あくまでも長宗我部時代の幹線道路を示すものであり、古代までさかのぼることができるかどうかは別の論証が必要なのだ。
718年以前においては伊予―土佐をつなぐ古代官道が存在したと推測されているが、それがどこを通っていたかについての発掘による手がかりなどは、この方面に関しては見つかっていない。ただし、郡家や古代寺院、一宮・二宮・三宮などの位置関係が推測のヒントになる。そして春野町に残された「大道」地名のライン。これは春野町西分の大寺廃寺と土佐市高岡町の野田廃寺をほぼ一直線に結ぶルート上に並んでいる。この2つの古代寺院跡から出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、7世紀頃の創建とされる。
県下で最古級とされる2つの白鳳寺院を古代官道が結んでいた可能性は少なからずありそうだ。「あじさいウォーク」では折り返し地点となる仁淀川の近くはかつて渡し場があった場所でもある。仁淀川を渡って南西に数百メートル行けば野田廃寺跡。さらに詳しく調べてみる必要がありそうだ。
連続テレビ小説『らんまん』で、主人公・槙野万太郎が幼少期の頃、裏山の神社の境内で天狗の坂本龍馬と会う。ドラマで描かれているのは、慶応3年(西暦1867年)3月の土佐・佐川だ。この頃、史実では下関に滞在していたとされ、第3回では迎えに来た別の侍が「何やりゆうがですか、下関におることになっちゅうがですき」と龍馬を諫めるシーンも盛り込まれている。
「龍馬は作り話ですけんど、天狗のほうは本当に居りました」と、牧野富太郎の生家を案内する地元の観光ガイドは語っていた。生家の近くにある龍淵山・青源寺十三世「愚仲(ぐちゅう)和尚」のことのようだ。明治初頭の苛酷な廃仏毀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。裏山で遊ぶ富太郎らに、目玉をくらわせたこともあり、幼い頃の牧野博士に影響を与えた人物とされる。
その舞台となった肝心の裏山の神社とは? 生家の脇から登る階段があった。久しぶりの山登りで境内に上がるまでに完全に息が切れてしまった。身体の弱かった富太郎を鍛えてくれた場所でもあったようだ。
高岡郡佐川町甲の金峰神社(伊奘冉命、外三神)の境内には「文化十三年丙子(1816年)」の年号が刻まれた灯籠も残されている。江戸時代は「午王宮」「産土神社」などと呼ばれていたらしい。「私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土神社のある山に登ってよく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている」と『牧野富太郎自叙伝』にも記されている。
『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(2020年12月)に続いて『中世土佐国 長宗我部氏に関する論文集』を著した朝倉慶景氏が、『土佐史談282号』(土佐史談会、2023年3月)で「番匠」について書いている。「長宗我部地検帳にみる職種の人(20)ーー番匠・屋番匠ーー」と題する論考である。この「長宗我部地検帳にみる職種の人」シリーズも、本にまとめて出版してほしいとの要望が多数寄せられているという。
さて、長野県に多数の番匠地名が見られることから、古代の番匠制度に由来する地名であるとする説(「科野・『神科条里』① ―『条里』と『番匠』編―」)を吉村八洲男氏が発表している。この番匠地名は上田市周辺で60程度、江戸期の検地帳に見られるものだという。
これに対し、高知県ではおなじみの『長宗我部地検帳』は戦国末期(16世紀末)であるから、少し古い時代になる。その中には職業名としての「番匠」が数多く見られる。適当に開いただけで、わりとすぐに「番匠〇〇」という形で、主に名請人の場所に記載されている。後ろに人名が続くことから、多くは無姓者に冠した職業名であると考えられる。姓の可能性がないわけではないが、「舟番匠」といった例もあり、また「番匠 岡野源四良給」(幡多郡山田郷平田村地検帳)と有姓者にも冠されている事例を見ても、職業名とすることに、ほぼ異論はない。
「番匠には有姓・無姓を問わなかったようで、その番匠とはどのような職種の人だろうか。それは番の工匠の意味で、『番』とは一週間または十日間で交替して、領主に奉公する中世の人間を本位とした集団を意味しており、その中の手工業者を指し、さらに主として建築職人とみてよかろう。即ち番匠は中世の建築工で、現在の建築大工に相当する」と朝倉慶景氏はまとめている。
では、近世(江戸期)の検地帳に「番匠免」「番匠田」などと書かれている地名は何を表すのだろうか。中世における「番匠」の使用例を見ている研究者から見れば、中世の職業「番匠」に関連した給地または居住地域などが地名化したものと考えるのが自然である。このような観点を退けて、古代の番匠制度に結びつけるには、かなり高いハードルがあるように感じる。
ただし、「番匠」という語は古代から使用されており、中世における「番匠」とは多少違った意味での古代の番匠制度が存在していたようである。古代における「番匠」とは「王朝時代に諸国から京都に交代勤務した木工の称」と説明されている。愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』に、次の記事があることを正木裕氏が指摘している。
「三十七代孝徳天王位。番匠を初む。常色二(六四八)戊申」
この記録を信頼するなら、その始まりは7世紀半ばということになる。しかし、古代における「番匠」の使用例は少ない。阿部周一氏が「『古記』と『番匠』と『難波宮』」(『古田史学会報No.143』)で古代番匠制度に相当する記述があることを指摘している。ただし、大和朝廷内では「番匠」という表現は使用されなかったかのようにも映る。
はたして、長野県における「番匠免」「番匠田」などの地名は、古代あるいは中世、どちらの「番匠」に由来するものだろうか。隣りの岐阜県不破郡表佐村に「苅屋免」「番匠免」「大領免」などの地名がある。「免」は免田で、免税の田のことを表す。古代の郡司職に関連すると思われる「大領免」があることから、もしかしたら「番匠免」も古代由来かも、という連想は考えられなくもない。研究を深めていったら面白そうだが、いずれにしても、しっかりとした根拠に基づく論証が求められそうだ。
いの町といえば映画『竜とそばかすの姫』の舞台にもなったJR伊野駅。そこから徒歩15分ほど行った仁淀川の近くに、歴史ある椙本神社が鎮座する。2023年2月12日(日)は、「いの大黒さま」と親しまれる椙本神社の春の大祭が行われていた。
テレビニュースでも祭の様子が報道されていたようで、「福銭はもらってきた?」と聞かれたが、持ち帰ったのは屋台で買った大判焼き。抹茶、チーズベーコンなどの変わり種の餡入り。
「福銭」というのは、神楽「大国主の舞」で稲穂や小づちを担いだ2体の神が五穀豊穣や一家の円満を願って舞い踊った後に配布するもの。訪れた人たちが向こう一年幸せに暮らせるようにと、祈願した小銭が入った袋のことらしい。
小銭は逃してしまったが大判ゲットで良しとすべきか。
しばらく引きこもりがちであったが、久しぶりに出かけてみると、道沿いに屋台が立ち並んでいる。「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、何か神様から呼ばれたような感覚だった。
毎年2月に行われる椙本神社の春の大祭は土佐三大祭りにも数えられている。笹の枝に絵馬や小さな俵をくくりつけた福笹が名物で、朝から地元の人たちが去年の福笹を手に次々と訪れ、奉納しては新しい福笹を買い求める。
参拝者は古くから伝えられている福俵を手に、福をいただきその年の幸せを祈願する。7段飾りの雛人形を背景に福を呼び込む神楽「大国主の舞」は、すでに奉納された後であったが、夕方訪れたときには獅子舞を観ることができた。
毎年2月に行われる椙本神社の春の大祭は土佐三大祭りにも数えられている。笹の枝に絵馬や小さな俵をくくりつけた福笹が名物で、朝から地元の人たちが去年の福笹を手に次々と訪れ、奉納しては新しい福笹を買い求める。
参拝者は古くから伝えられている福俵を手に、福をいただきその年の幸せを祈願する。7段飾りの雛人形を背景に福を呼び込む神楽「大国主の舞」は、すでに奉納された後であったが、夕方訪れたときには獅子舞を観ることができた。
テレビニュースでも祭の様子が報道されていたようで、「福銭はもらってきた?」と聞かれたが、持ち帰ったのは屋台で買った大判焼き。抹茶、チーズベーコンなどの変わり種の餡入り。
「福銭」というのは、神楽「大国主の舞」で稲穂や小づちを担いだ2体の神が五穀豊穣や一家の円満を願って舞い踊った後に配布するもの。訪れた人たちが向こう一年幸せに暮らせるようにと、祈願した小銭が入った袋のことらしい。
小銭は逃してしまったが大判ゲットで良しとすべきか。
遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
長良川の堤防から初日の出を見ながら、白髭(しらひげ)神社(岐阜県大垣市墨俣町)で2023年元旦の初詣。岐阜県長良川沿いには複数の白髭神社が鎮座しているようです。案内板には次のように説明してあります。
▲大垣市墨俣町・白髭神社
長良川の堤防から初日の出を見ながら、白髭(しらひげ)神社(岐阜県大垣市墨俣町)で2023年元旦の初詣。岐阜県長良川沿いには複数の白髭神社が鎮座しているようです。案内板には次のように説明してあります。
白髭神社
(祭神) 猿田彦命もとは白髭大明神と言い、社家今村氏が代々務めていたという。寛文七年(一六六七年)と天和二年(一六八二年)の文書に大明神とあって、明治七年(一八七四年)に白髭社として届け、 明治一二年(一八七九年)に村社となった。続いて明治一三年 (一八八〇)には白髭神社として神社明細帳に記された。 白髭神社は舟運の無事を祈って建てられた神社であって、長良川沿いには多い。
▲大垣市墨俣町・白髭神社
ここは美濃国安八郡式内社の荒方神社(荒方明神)の論社の一つです。元々の位置は現在の犀川河川敷であり、本巣郡と安八郡の境に存在したといいます。墨俣城の北に位置し、境内は一夜城址公園の一部となっています。元日のこの日、公園内で羽根突きをしている姿が見られました。
東隣りにある境内社は豊国神社。これは墨俣城の模擬天守閣(大垣市墨俣歴史資料館)が築かれた際、大阪城公園の豊國神社から分祀したそうです。なお、大阪の豊國神社の祭神は豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長ですが、豊国神社に分祀された祭神は豊臣秀吉のみとのこと。
初日の出に集まった人々に、地元の方が2023年の干支である兎のストラップを配っていました。新年早々、福を分けていただき、有難い一年のスタートとなりました。
初日の出に集まった人々に、地元の方が2023年の干支である兎のストラップを配っていました。新年早々、福を分けていただき、有難い一年のスタートとなりました。
前回紹介した徳島県との県境の町、香美市物部町(旧物部村)は平家伝承が残る地域であり、延喜式内社・小松神社もあることから、古代にさかのぼる歴史を持っていることは確かだ。折しも11月23日は小松神社のお祭りで、小松姓の方もしくは小松と縁のある方達が毎年集まり、先祖を祀る行事を行っている。
高知県の小松姓を名乗る者、ほとんどが平家の落人の子孫と言われたりするが、藤原氏や橘氏とする異説もある。物部川源流域に住む人々のルーツについては、家系図や伝承以上の確かな根拠についてはよく知らない。
土佐物部氏についても、これまでは平家伝承の類と同様に根拠不明瞭なものと思い込んでいて、足を踏み込めずにいた。その先入観を打ち砕いたのが『物部氏の伝承と土佐物部氏』(末久儀運著、1998年)という本であった。土佐史談会の在庫処分の際、安く売り出されていたのだが、私が買いに行った時はすでに売り切れ。この本の価値を熟知しておられる方が多かったと見える。
さて、物部川の東に香宗川が流れている。この川をさかのぼる香美郡の広域にかつて大忍庄が存在していた。この中世荘園に関わる土佐物部氏について『物部氏の伝承と土佐物部氏』は、物部清藤氏・物部末延氏をはじめとして、その他に末久・末清・正延・国弘・国末・正弘・延清・延吉(信吉)・国吉・国包・包吉・包石・常石等がある、としている。その根拠として『安芸文書』や『土佐国蠧簡集(とかんしゅう)』等の史料を用いており、そこには「物部〇〇」と署名した書状が残されているのだ。
彼らはそれぞれの土地における名主として、地名を名字として名乗った。例えば清藤名の名主職に清藤物部守助が任命された永和弐年(1376)の下知状などが紹介されている。「この他にも物部氏ではないかと考えられる名主達があるが、これらには残された文書等がないので言及しえなかった」と末久儀運氏は慎重を期している。
先に列挙した氏族は住み着いた土地の名を名字としながら、現代にも血脈をつなげつつ、過去にさかのぼれば古代の土佐物部氏に端を発していると考えてよさそうだ。よって、現代の高知県において物部姓は約10人と少数であっても、実際には土佐物部氏の後孫はかなりの数、存在しているという事実が明らかとなったのである。
「本姓と名字は異なっている場合が多い」――このシンプルな命題は、古代氏族を研究する上で忘れてはならない重要なポイントとなりそうだ。
高知県の小松姓を名乗る者、ほとんどが平家の落人の子孫と言われたりするが、藤原氏や橘氏とする異説もある。物部川源流域に住む人々のルーツについては、家系図や伝承以上の確かな根拠についてはよく知らない。
土佐物部氏についても、これまでは平家伝承の類と同様に根拠不明瞭なものと思い込んでいて、足を踏み込めずにいた。その先入観を打ち砕いたのが『物部氏の伝承と土佐物部氏』(末久儀運著、1998年)という本であった。土佐史談会の在庫処分の際、安く売り出されていたのだが、私が買いに行った時はすでに売り切れ。この本の価値を熟知しておられる方が多かったと見える。
さて、物部川の東に香宗川が流れている。この川をさかのぼる香美郡の広域にかつて大忍庄が存在していた。この中世荘園に関わる土佐物部氏について『物部氏の伝承と土佐物部氏』は、物部清藤氏・物部末延氏をはじめとして、その他に末久・末清・正延・国弘・国末・正弘・延清・延吉(信吉)・国吉・国包・包吉・包石・常石等がある、としている。その根拠として『安芸文書』や『土佐国蠧簡集(とかんしゅう)』等の史料を用いており、そこには「物部〇〇」と署名した書状が残されているのだ。
彼らはそれぞれの土地における名主として、地名を名字として名乗った。例えば清藤名の名主職に清藤物部守助が任命された永和弐年(1376)の下知状などが紹介されている。「この他にも物部氏ではないかと考えられる名主達があるが、これらには残された文書等がないので言及しえなかった」と末久儀運氏は慎重を期している。
先に列挙した氏族は住み着いた土地の名を名字としながら、現代にも血脈をつなげつつ、過去にさかのぼれば古代の土佐物部氏に端を発していると考えてよさそうだ。よって、現代の高知県において物部姓は約10人と少数であっても、実際には土佐物部氏の後孫はかなりの数、存在しているという事実が明らかとなったのである。
「本姓と名字は異なっている場合が多い」――このシンプルな命題は、古代氏族を研究する上で忘れてはならない重要なポイントとなりそうだ。
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将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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