高知市春野町西分の旧春野町庁舎跡などで 2023 年 6 月 4 日(日)、「第 35 回はるのあじさいまつり」が開かれた。水路沿いに植えられた約2万本のアジサイを見るために多くの人が集まった。6月中旬頃まで楽しめる予定だ。
まつりのメインとなる「あじさいウォーク」では「あじさい街道」と呼ばれる水路沿いの道を歩く。ふと、この道が古代官道のルートと関係していないだろうかとの考えが浮かんだ。奈良時代以前の古代官道は道幅が広すぎる。コストパフォーマンスが悪くて維持費がかかりすぎた。平安時代以降には道幅も狭められ、道が削られて畑に変わったところもある。
「あじさい街道」は道に沿って水路があり、遊歩道があって、あじさいが植えられている。車道+水路+遊歩道。古代官道の道幅を復元するには十分な感じがする。
一方、『長宗我部地検帳』によると春野町には「大道」地名が連なっている。それを復元して地図上にマッピングした図が『春野町史』に掲載されている。正確な位置が判断しずらいところもあるが、比較してみると「あじさい街道」よりは南を通っていたようだ。おそらく横川末吉氏の研究の成果であろう。
ただし、『長宗我部地検帳』の「大道」がそのまま古代官道と重なるとは限らない。あくまでも長宗我部時代の幹線道路を示すものであり、古代までさかのぼることができるかどうかは別の論証が必要なのだ。
718年以前においては伊予―土佐をつなぐ古代官道が存在したと推測されているが、それがどこを通っていたかについての発掘による手がかりなどは、この方面に関しては見つかっていない。ただし、郡家や古代寺院、一宮・二宮・三宮などの位置関係が推測のヒントになる。そして春野町に残された「大道」地名のライン。これは春野町西分の大寺廃寺と土佐市高岡町の野田廃寺をほぼ一直線に結ぶルート上に並んでいる。この2つの古代寺院跡から出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、7世紀頃の創建とされる。
県下で最古級とされる2つの白鳳寺院を古代官道が結んでいた可能性は少なからずありそうだ。「あじさいウォーク」では折り返し地点となる仁淀川の近くはかつて渡し場があった場所でもある。仁淀川を渡って南西に数百メートル行けば野田廃寺跡。さらに詳しく調べてみる必要がありそうだ。
「あじさい街道」は道に沿って水路があり、遊歩道があって、あじさいが植えられている。車道+水路+遊歩道。古代官道の道幅を復元するには十分な感じがする。
一方、『長宗我部地検帳』によると春野町には「大道」地名が連なっている。それを復元して地図上にマッピングした図が『春野町史』に掲載されている。正確な位置が判断しずらいところもあるが、比較してみると「あじさい街道」よりは南を通っていたようだ。おそらく横川末吉氏の研究の成果であろう。
ただし、『長宗我部地検帳』の「大道」がそのまま古代官道と重なるとは限らない。あくまでも長宗我部時代の幹線道路を示すものであり、古代までさかのぼることができるかどうかは別の論証が必要なのだ。
718年以前においては伊予―土佐をつなぐ古代官道が存在したと推測されているが、それがどこを通っていたかについての発掘による手がかりなどは、この方面に関しては見つかっていない。ただし、郡家や古代寺院、一宮・二宮・三宮などの位置関係が推測のヒントになる。そして春野町に残された「大道」地名のライン。これは春野町西分の大寺廃寺と土佐市高岡町の野田廃寺をほぼ一直線に結ぶルート上に並んでいる。この2つの古代寺院跡から出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、7世紀頃の創建とされる。
県下で最古級とされる2つの白鳳寺院を古代官道が結んでいた可能性は少なからずありそうだ。「あじさいウォーク」では折り返し地点となる仁淀川の近くはかつて渡し場があった場所でもある。仁淀川を渡って南西に数百メートル行けば野田廃寺跡。さらに詳しく調べてみる必要がありそうだ。
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2022年4月24日から、「発掘速報展 西野々遺跡」(主催:高知県立埋蔵文化財センター)が始まった。西野々と聞いても、地元の人間ですらどこにあるかピンと来ないかもしれない。高知龍馬空港の北西、南国市立香長中学校の西にある丘陵の麓、物部川とその支流により形成された扇状地に立地している。
高知南国道路の建設に伴い、平成16〜19年度にかけて西野々遺跡の発掘調査が実施された。平成22年度までには、 発掘成果の整理作業を行い 『西野々遺跡Ⅰ〜Ⅲ』の報告書3冊が刊行されている。
ということは‘発掘速報展’と呼ぶには時間が経ち過ぎている。まあ、今までの慣例でタイトルをつけてしまったということだろうか。けれども初日のギャラリートークでは、新鮮な発見もあったので良しとしよう。
発掘調査では、弥生時代から中世にかけての竪穴建物跡や掘立柱建物跡、横列や溝、土坑、道路遺構、中世墓などを含めて約2万か所の遺構が確認されている。とりわけ注目したのは幅3~5mの道路遺構である。香長中学校付近で道路遺構が出ているという話は以前から耳にしていたが、詳細はあまり知らなかった。それもそのはず、遺跡名と結びつかなかったのだ。
古代の建物群と道
古代においては、調査区の東側を中心に奈良~平安時代前期にかけての約100棟の掘立柱建物跡が確認されています。掘立柱建物は方位を揃えた規格的な建物配置で、大型の建物跡も含まれることから官衙(役所)に関係した施設と考えられます。 出土遺物は、土師器の杯や皿、須恵器の杯や甕、壷、緑釉陶器、石帯などが出土しています。
建物群の西側には両側に側溝を持った幅3~5mの南北方向の道路遺構が確認されています。 道は少なくとも二時期の使用が確認され、その規模から主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性があります。
道路遺構の北の延長線上には土佐国府があり、南の方向には、土佐湾が存在することから、国府と浜辺を結ぶような道であったと考えられます。(パンフレットより引用)
南海道土佐国における古代官道の遺構といえば、「祈年遺跡」における幅6mの南北道。それと昨年の発掘速報展「高田遺跡」の幅10.4mの東西道が注目されている。実は西野々遺跡の道路遺構はそれらに先行して発掘されていたものだ。古代官道とするには道路の規格としてワンランク落ちるようであり、「主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性」と判断している点はうなずける。
周辺の遺跡群との関連からも、この遺跡が持つ意義は大きい。西野々遺跡の南には、里改田(さとかいだ)遺跡があり、字「道源寺」の地名遺称が残る。これは『続日本紀』天平勝宝八年(756年)、「土左国道原寺」の記載と関連すると考えられている。
東には、1000人規模ともいわれる弥生時代最大級の田村遺跡群があり、『土佐日記』に書かれた紀貫之の寄港地「おおみなと(大湊)」は物部川河口付近に比定される(緒説あり)。北上すれば、長岡評の評衙関連施設ではないかと注目されている若宮ノ東遺跡や法起寺式伽藍配置の野中廃寺跡、そして土佐国府推定地 (土佐国衙跡)に達する。
東には、1000人規模ともいわれる弥生時代最大級の田村遺跡群があり、『土佐日記』に書かれた紀貫之の寄港地「おおみなと(大湊)」は物部川河口付近に比定される(緒説あり)。北上すれば、長岡評の評衙関連施設ではないかと注目されている若宮ノ東遺跡や法起寺式伽藍配置の野中廃寺跡、そして土佐国府推定地 (土佐国衙跡)に達する。
遺跡名のインパクトの弱さのせいか、あまり注目されてこなかった「西野々遺跡」に再度目を向けさせた今回の発掘速報展。周辺での新たな発見が相次ぐ中、遅きに失したとはいえ、いいところにスポットを当てたタイムリーな企画だったかもしれない。
高知市朝倉の西に隣接する“土佐和紙”のメッカ吾川郡いの町。ここには古代官道の駅家(うまや)の存在をにおわせる「馬ヤノシリ」地名がある。アニメ映画『竜とそばかすの姫』の舞台として有名になったJR伊野駅の南西、早稲川西岸で伊野中学校の近くの場所だ。
岡本健児氏が「地検帳から見た土佐の郡衙」(『土佐史談159号』土佐史談会、昭和57年5月)の中で、吾川郡の郡家を伊野町(現いの町)に比定したのは『長宗我部地検帳』に見える「大リャウ(大領)」などの地名が根拠になっている。それを補足すべく、伊野村地籍図で「厩ノ尻」を確認した後、「大領は県立伊野商業高校北の小高い場所にあり、厩ノ尻は町立伊野中学校の近くである」と結んでいる。
「〇〇ノ尻」は〇〇跡を意味すると考えられ、「厩ノ尻」は「厩(うまや)跡」ないしは「駅家(うまや)跡」を示す地名遺称として、高知県下に数か所存在している。それが中世のものか、古代まで遡れるかについては慎重に議論すべきところだが、郡家比定地とセットで存在するケースがいくつか見られる。
▲おおよそ上が東、左が北 |
南海道の土佐国府に通じる古代官道に関しては、718年以降は阿波国経由。それ以前は伊予国経由であったと考えられている。古い段階の伊予国経由の官道がどこを通っていたかについては、いくつかの説があって、いの町に吾川郡家があり、「厩ノ尻」が古代官道の30里(約16km)ごとに配置された駅家跡であったとすれば、ルートを推定する上で重要な定点となる。
この経路が有力な点は、土佐神社(一宮)――朝倉神社(二宮)――小村神社(二宮;三宮とする説あり)という歴史ある延喜式内社および国史現在社を経る東西線上にあって、現在もJRや国道33号線が通る比較的直線的な交通路であることだ。小村神社の創建については「勝照二年(587年)」という九州年号で記録されている点は、これまで言及してきた通りである。
その一方で、古代寺院である大寺廃寺(春野町西分)や野田廃寺(土佐市高岡町丙)はそれよりも南方にある。ともに素弁蓮華文軒丸瓦が出土した7世紀に遡りうる寺院である。他県の事例でも、古代寺院は古代官道付近に建立されることが多く、大寺廃寺跡のさらに南方、春野町秋山に吾川郡家を比定する説も出されている。先の岡本氏自身も大寺廃寺跡付近に郡衙関連施設が発掘される可能性について言及している。
これらを状況証拠とするならば、高知市春野町(旧吾川郡)――土佐市を経由する南方ルートの可能性も見えてくる。四国八十八か所遍路道が春野町や土佐市を通っていることも、その有力な根拠と考えられる。すなわち古代官道の多くは、後の四国八十八か所遍路道に引き継がれていったという指摘である。
718年以前の伊予国経由の古代官道がどのようなルートを通っていたか。今後、発掘調査等で明らかになることが期待されるところだが、高知県における‘古代史の争点’の一つである。
この経路が有力な点は、土佐神社(一宮)――朝倉神社(二宮)――小村神社(二宮;三宮とする説あり)という歴史ある延喜式内社および国史現在社を経る東西線上にあって、現在もJRや国道33号線が通る比較的直線的な交通路であることだ。小村神社の創建については「勝照二年(587年)」という九州年号で記録されている点は、これまで言及してきた通りである。
その一方で、古代寺院である大寺廃寺(春野町西分)や野田廃寺(土佐市高岡町丙)はそれよりも南方にある。ともに素弁蓮華文軒丸瓦が出土した7世紀に遡りうる寺院である。他県の事例でも、古代寺院は古代官道付近に建立されることが多く、大寺廃寺跡のさらに南方、春野町秋山に吾川郡家を比定する説も出されている。先の岡本氏自身も大寺廃寺跡付近に郡衙関連施設が発掘される可能性について言及している。
これらを状況証拠とするならば、高知市春野町(旧吾川郡)――土佐市を経由する南方ルートの可能性も見えてくる。四国八十八か所遍路道が春野町や土佐市を通っていることも、その有力な根拠と考えられる。すなわち古代官道の多くは、後の四国八十八か所遍路道に引き継がれていったという指摘である。
718年以前の伊予国経由の古代官道がどのようなルートを通っていたか。今後、発掘調査等で明らかになることが期待されるところだが、高知県における‘古代史の争点’の一つである。
もう5年前になるだろうか。『古田史学会報136号』(2016年10月)に、西村秀己氏の論考「南海道の付け替え」が掲載された。九州王朝から大和朝廷への政権交代の画期を示すONライン(701年)の存在を強く印象付けるものであった。
土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国を経由するルートに変更された。これが九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする「南海道の付け替え」である。この718~796年におけるコース(養老官道)については、これまでいくつかの説が出されていたが、吉野川や那賀川沿いといった内陸部を通るルートはほぼ否定されている。
現段階では、徳島県の海岸部をたどり、室戸岬は避けて野根山街道を経由し、やはり高知県の太平洋岸に近いルートを通ると推測されている。その根拠としては、735(天平七)年の「阿波国那賀郡武芸駅(海部郡牟岐)」木簡、および高田遺跡(香南市野市町)における古代官道遺構の発見などがあげられる。
それだけに、同論考に添えられた「新・旧土佐への交通路」とする地図には、少し残念な思いがあった。掲載直後、西村氏には「阿波(徳島)ルートが違ってますよ」とご忠告申し上げておいた。同地図が『古田史学論集』にそのまま掲載されることを危惧し、間違い部分だけでも修正してほしかったからである。
厳密に言うと、伊予(愛媛)ルートも主流説ではない。代表的な説として、①ほぼ現在の国道33号が通る内陸路線(日野尚志説)や②海岸を大きく周回する路線(足利健亮説)などが出されている。通説が正しいとは限らないけれども、先行研究を無視したルートを示しても、既存の学者たちを納得させることはできない。
批判じみたことになるので、あまり言わずにおこうとも考えていたが、最近『市民古代史の会・京都』における「古代官道の研究」と題する講演会(下記ユーチューブ動画参照)で、先の地図がそのまま使用されていたようなので、僭越ながら多少なりとも注意を促しておきたい。
厳密に言うと、伊予(愛媛)ルートも主流説ではない。代表的な説として、①ほぼ現在の国道33号が通る内陸路線(日野尚志説)や②海岸を大きく周回する路線(足利健亮説)などが出されている。通説が正しいとは限らないけれども、先行研究を無視したルートを示しても、既存の学者たちを納得させることはできない。
批判じみたことになるので、あまり言わずにおこうとも考えていたが、最近『市民古代史の会・京都』における「古代官道の研究」と題する講演会(下記ユーチューブ動画参照)で、先の地図がそのまま使用されていたようなので、僭越ながら多少なりとも注意を促しておきたい。
主催:市民古代史の会・京都(代表:山口哲也)古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@29:01@DSCN9280
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国を経由するルートに変更された。これが九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする「南海道の付け替え」である。この718~796年におけるコース(養老官道)については、これまでいくつかの説が出されていたが、吉野川や那賀川沿いといった内陸部を通るルートはほぼ否定されている。
現段階では、徳島県の海岸部をたどり、室戸岬は避けて野根山街道を経由し、やはり高知県の太平洋岸に近いルートを通ると推測されている。その根拠としては、735(天平七)年の「阿波国那賀郡武芸駅(海部郡牟岐)」木簡、および高田遺跡(香南市野市町)における古代官道遺構の発見などがあげられる。
そして土佐国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されたのは796(延暦十五)年であり、これが延暦官道としてその後『延喜式』などにも記録されている。西村氏による「新・旧土佐への交通路」の地図は、具体的な距離の算定や九州王朝説を印象づける意味では分かりやすいものだが、実際の古代南海道ルートと誤解される恐れがある。使用される際には既存の説を理解した上での例示にとどめてほしい。
土佐国府から南方に伸びる古代官道の道幅は約6m。10年以上前(平成20年)に、祈年遺跡(旧:士島田遺跡)で道路の遺構が発見されたことから、古代南海道の姿が徐々に分かるようになってきた。当初は「士島田遺跡」(“士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?”)と呼んでいたはずなのに、いつの間にか「祈年遺跡」と名称が変わっていて不思議に思っていたのだが、その理由が分かった。本当の地名が「士島田」ではなく「土島田」が正しいということが判明したのだ。「過ちては改むるに憚ること勿れ」ーー古代史においても常にそのようにありたいものである。
それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
今風に言うと、古代官道は“コスパ最悪”。すなわち全盛期は幅12m以上の官道が大半だったが、建造費・維持費・運用費などがかかりすぎて、平安時代には駅路が6メートルに幅員減少することが多かった。コストパフォーマンス(費用対効果)が悪いことが古代官道衰退の大きな要因となっている。地方では諸道の駅路が七世紀のものが一〇メートルから一一メートル、奈良時代には一二メートル・九メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は六メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も六メートルになることが多い。(P6~7)
また、駅路とは別に郡家間を繋ぐ伝路と呼ばれる道は当初から6m幅の規格だったとされる。土佐国府から南に伸びる南北道が前者か後者かは、道幅6mだけでは判断がつかない。
▲埋め戻し前の柱穴跡(南国市元町1丁目の野中廃寺跡) |
従来は8世紀末以降の平安時代の建立とされてきた野中廃寺が、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡では7世紀後半の建物跡が見つかっている。道をはさんだ東西に7世紀の建物があるということから、この南北道も7世紀には伝路として建設されていたと考えるのが合理的である。さらに東偏12度(N12°E)の長岡条里に沿っているので、香長平野における条里制の設営も7世紀以前になりそうだ。
南国市教育委員会・文化財係の担当者は「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話しているようだが、この中央政権が近畿天皇家であるか、それとも倭国・九州王朝なのかは、評制の時代(700年以前)であったことも考慮して慎重に判断する必要がありそうだ。
高知県立埋蔵文化センターによる令和3年度の発掘速報展「高田遺跡」が開催される。高知竜馬空港の東方、物部川東岸の弥生時代集落と古代官道跡の発見が注目されている遺跡である。当ブログでも数回にわたって紹介してきた。
香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か? |
高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m |
古代官道(南海道)における道幅の謎 |
折しも4月25日(日)~7月4日(日)の日程で、発掘速報展「高田遺跡」が開催されることを知り、期待を膨らませているところだ。高知県内の遺跡調査で見つかった出土品や調査記録などを通して、郷土への歴史理解を深めることを目的としたもので、発掘速報展では、高田遺跡の発掘調査成果についての展示を行うとのこと。
果たして、高知県立埋蔵文化センターではこれらの発掘の成果をどのように捉え、位置づけているのか。このブログで提起した「古代官道(南海道)における道幅の謎」に対する合理的な解答を持ち合わせているのか等。
以下に発掘速報展の概要を紹介しておく。
以下に発掘速報展の概要を紹介しておく。
開催概要
物部川東岸に位置する高田遺跡では、国土交通省の計画する南国安芸道路の建設に伴う発掘調査により、弥生時代の集落跡や古代の道路遺構などの多くの発見がありました。本展では高田遺跡の発掘調査成果についての展示を行います。
<関連イベント>
ギャラリートーク
日程 2021年04月25日(日)
時間 10:00〜10:30、14:00〜14:30
場所 埋蔵文化財センター
定員 定員なし
申し込み 不要
展示報告会
「発掘された高田遺跡」担当者:当埋蔵文化財センター職員日程 2021年05月05日(水)
時間 14:00〜15:30
場所 埋蔵文化財センター
定員 30名
申し込み 必須
申込開始日 2021年04月05日
南海道土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする指摘は、701年のONラインの実在を大きく印象づけるものであった。
“香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?”2018年に香南市野市町の高田遺跡で発見された推定古代官道跡は、南国市の土佐国府から安芸郡方面へ伸びていることから、当然ながら大和朝廷主導で敷設された阿波国を経る古代官道(養老官道)と考えられている。私も当初そのように考えていたが、一つ矛盾する点がある。高田遺跡で見つかった古代官道の幅が10.35mであったことだ。
“高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m”当時は深く考えず、むしろ高知新聞の記者が高麗尺を持ち出したことに批判的であった。ところが、『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)に次のように書かれていた。
「地方では諸道の駅路が七世紀のものが10メートルから11メートル、奈良時代には12メートル・9メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は6メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も6メートルになることが多い」(P6~7)。
木下良氏の記述に従えば、幅10.35mの古代官道は10~11mに納まるので、7世紀代に建設されたことになる。これは九州王朝時代の規格なのではないか。もし奈良時代に敷設されたのであれば、大和朝廷主導の12メートルないしは9メートル幅の規格になるはずだ。
高田遺跡周辺には弥生時代から古代(奈良・平安時代)にかけて営まれた遺跡が所在している。ところが、古代のあとに続く中世(鎌倉・室町・戦国時代)の遺構や遺物はほとんど確認されていない。このことは796(延暦十五)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に官道(延暦官道)が変更されたことと対応しているようだ。木下良氏の記述に従えば、幅10.35mの古代官道は10~11mに納まるので、7世紀代に建設されたことになる。これは九州王朝時代の規格なのではないか。もし奈良時代に敷設されたのであれば、大和朝廷主導の12メートルないしは9メートル幅の規格になるはずだ。
だが、始まりが8世紀代とは言い切れない。高田遺跡からは、「平成27〜28年度の調査の結果、弥生時代の竪穴建物跡8軒と土器棺墓6基、古代の掘立柱建物跡24棟のほか、土坑や溝跡などが確認されました。遺物は弥生時代の土器や石器、古代の須恵器や土師器・土師質土器の他、金属製品や円面硯(えんめんけん)、緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器などが出土しました」との報告がある。
一方、安芸市僧津の瓜尻遺跡が7世紀のものとされ、最大級の古代井戸跡も発見されている。少なくとも7世紀には土佐国府と安芸郡衙(評衙?)を繋ぐ古代官道が存在していたのではないだろうか。ただし、安芸郡と阿波国を結ぶ古代官道はまだなかったようだ。
「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
このことは大和朝廷一元論では不思議とされてきたことであるが、九州王朝を起点とした古代官道は伊予ー讃岐ー阿波と通じており、一方で伊予ー土佐ルートもあったので、必ずしも土佐から阿波へと連結している必要性はなかったと言える。
「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
このことは大和朝廷一元論では不思議とされてきたことであるが、九州王朝を起点とした古代官道は伊予ー讃岐ー阿波と通じており、一方で伊予ー土佐ルートもあったので、必ずしも土佐から阿波へと連結している必要性はなかったと言える。
土佐国府から阿波国へ、全くのゼロから古代官道を新設するとなれば一大事業であり、莫大な費用もかかることだろう。今後の研究・調査が待たれるところではあるが、今回の帰結が正しいとすれば、「道ありき」「ローマは一日にして成らず」だったということである。
はじめに断っておくが、安芸郡といっても広島県の話ではない。土佐国安芸郡の郡衙がどこにあったかという問題である。郡衙の位置を正確に比定することは、古代官道がどこを通っていたかを復元することにもつながる。ここでは次の3つの説を紹介する。
①安芸郡奈半利町コゴロク説
②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説
③安芸市安芸川左岸の川北説
①安芸郡奈半利町コゴロク説
まずは、①安芸郡奈半利町コゴロク説から。『土佐日記』に「十日けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と書かれており、土佐国司の任を終えた紀貫之は京への帰途、承平5年(935年)1月10日に奈半利に立ち寄っている。原田英祐氏は次のように説明している。
まずは、①安芸郡奈半利町コゴロク説から。『土佐日記』に「十日けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と書かれており、土佐国司の任を終えた紀貫之は京への帰途、承平5年(935年)1月10日に奈半利に立ち寄っている。原田英祐氏は次のように説明している。
「なはのとまり」の現在地は、奈半利川の川尻に近い安芸郡奈半利町字ミナトの奈半利中学校から、さらに奈半利川を1kmあまり遡上したところに「コゴロク」の地名があり、弥生~奈良時代にかけての濃密な遺跡が発掘されている。郡衙に付随した古代寺院(コゴロク廃寺=のち北川村和田に再建された妙楽寺)の瓦も、発掘確認されている。この付近に土佐日記時代の「泊まり=宿泊施設」が推定できる。コゴロクの上流域・中里地区にある多気神社と坂本神社はともに延喜式内社で、コゴロクの郡衙に付随したものだろう。(『土佐日記・歴史と地理探訪』東洋町資料集・第六集P130)
②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説
次に、②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説。佐賀大学の日野尚志氏(地理学専攻)は条里余剰帯を根拠に、南国市比江の国衙跡から東西に伸びる古代官道を推定している。官道に沿った駅家(うまや)比定地として、土左国では大影(吾川郡)・池川(吾川郡)・広瀬(吾川郡)・柏原(吾川郡)・鴨部(土左郡)・国府(長岡郡)・夜須(香美郡)・安芸(安芸郡)・奈半利(安芸郡)・室戸(安芸郡)・佐喜浜(安芸郡)・甲浦(安芸郡)を挙げている。安芸駅と奈半利駅については次のような註釈を加えている。
次に、②安芸市安芸川右岸ミヤケダ説。佐賀大学の日野尚志氏(地理学専攻)は条里余剰帯を根拠に、南国市比江の国衙跡から東西に伸びる古代官道を推定している。官道に沿った駅家(うまや)比定地として、土左国では大影(吾川郡)・池川(吾川郡)・広瀬(吾川郡)・柏原(吾川郡)・鴨部(土左郡)・国府(長岡郡)・夜須(香美郡)・安芸(安芸郡)・奈半利(安芸郡)・室戸(安芸郡)・佐喜浜(安芸郡)・甲浦(安芸郡)を挙げている。安芸駅と奈半利駅については次のような註釈を加えている。
▼日野尚志氏の駅路比定には修正すべき点が存在する |
(61)安芸郡家は玉造の「寿正院」か、その西南三町には「ミヤケダ」の小字名もある。なお、川北の小字「横田」を通称「厩尻」といい、散布地であるが、あるいは駅祉であろうか。その他「馬越」地名もある。これを受けて、岡本健児氏は『土佐史談』160号(土佐史談会、昭和57年)「地名から見た安芸郡衙」の中で、「城領田」は少領田、すなわち郡司の「スケ(次官)」である少領から変化した地名として、古代安芸郡衙の所在を「城領田」「ソヲリ」「東トノダ」「西トノダ」の存する地域であると推定。「郡衙は現在の安芸市の土居と東浜の境界付近である」と言及した。すなわち安芸条里の広がる安芸川右岸、「ミヤケダ」付近に比定したのである。
(62)奈良時代の創建とみられるコゴログ廃寺祉がある。
(「南海道の駅路――阿波・讃岐・伊予・土左四国の場合――」より)
最近話題となった瓜尻遺跡からはかなり南方に離れているが、ジョウマン遺跡には近い場所となっている。
③安芸市安芸川左岸の川北説
③安芸市安芸川左岸の川北説
最後に、③安芸市安芸川左岸の川北説である。『土佐史談』234号(土佐史談会、2007年)「土佐国安芸郡家についての歴史地理学的考察」で、朝倉慶景氏は安芸川左岸にある川北地区の「カヂウ」地名に注目している。これを衙中(がちゅう)の変化した地名とした。「駅家(うまや)」の跡地と考えられる「厩尻(うまやのしり)」地名が安芸川左岸にあり、駅家と衙中が非常に近距離であることから郡家の条件に合致するとしている。
①~③いずれの説も根拠を持ち合わせており、捨てがたいものがある。整合性があって、より確度の高いものはどれであろうか。周辺の状況なども踏まえて、さらに検討を加えていきたい。
高知県安芸市僧津の瓜尻(うりじり)遺跡で官衙の一部とみられる柵と溝に囲まれた方形建物区画跡や古代の瓦などが見つかったことが、高知新聞(2021年1月16日)で報じられた。
瓜尻遺跡に古代役所
安芸市 大規模水路、倉庫群も統合中建設地
高知県安芸市僧津の統合中学校の建設予定地で昨年9月から発掘調査が行われている瓜尻(うりじり)遺跡で、古代律令(りつりょう)制下の官衙(かんが)(役所)とみられる建物群が見つかっている。県東部では官衙とみられる遺跡は初確認で、県内9例目。安芸郡の統治に関わった豪族の拠点が周辺に広がっているとみられ、未解明の県東部の古代史を解き明かす遺跡として研究者の注目を集めている。
出土した土器から、建物は7世紀後半から8世紀まで建て替えが続いたと見られているが、土器編年は相対的なもので、四国では編年に50年程度のずれが生ずる場合がある。
島根大学の大橋泰夫教授(考古学)は「寺院に隣接して官衙が見つかった点が重要」「郡衙にしては規模が小さく、郡内に複数設置された郡衙の支所『館(たち)』の可能性がある」などとコメントしている。
実はこれに先立つこと2020年7月には「安芸市に7~10世紀古代寺院の仏塔」との見出しで、統合中学校建設予定地の瓜尻遺跡で白鳳瓦などが出土したことが報じられている。一般的には「豪族の氏寺か」とする見解であるが、安芸市においてもONライン(701年)以前のいわゆる九州王朝時代の古代寺院の存在が浮かび上がってきた。安芸郡奈半利町の古代寺院と推定されていたコゴロク廃寺との関連も気になるところだ。
島根大学の大橋泰夫教授(考古学)は「寺院に隣接して官衙が見つかった点が重要」「郡衙にしては規模が小さく、郡内に複数設置された郡衙の支所『館(たち)』の可能性がある」などとコメントしている。
実はこれに先立つこと2020年7月には「安芸市に7~10世紀古代寺院の仏塔」との見出しで、統合中学校建設予定地の瓜尻遺跡で白鳳瓦などが出土したことが報じられている。一般的には「豪族の氏寺か」とする見解であるが、安芸市においてもONライン(701年)以前のいわゆる九州王朝時代の古代寺院の存在が浮かび上がってきた。安芸郡奈半利町の古代寺院と推定されていたコゴロク廃寺との関連も気になるところだ。
『続日本紀』によると、はじめ讃岐国から伊予国を経由して土佐国府(南国市比江)に達していた古代官道が、阿波国経由の野根山街道に切り替えられたのは718年(養老二年)であり、その後796年(延暦十五年)の北山街道に変わるまでの8世紀の大半は、安芸郡を経由していたことになる。それだけに今回の発見は、古代官道に置かれた駅家を支える安芸郡家の一端を知る手がかりとなりそうだ。
『瓜尻遺跡』(安芸市教育委員会、2005年3月)によると「高知県内で8世紀代を含めて古代に属する掘立柱建物は、香長平野に多く確認されており、南国市の土佐国衙跡、田村遺跡群、白猪田遺跡、野市町の曽我遺跡、深淵遺跡、下ノ坪遺跡、香我美町の十万遺跡などで確認されている。…(中略)…井ノ口周辺には8世紀には集落が存在していることを確認することができた。また近年徐々に調査事例が増え、瓜尻遺跡の南側に所在するジョウマン遺跡では道路拡張に伴う発掘調査が行われ、5世紀代前半の溝跡が検出されており、平野部の利用がこの時期には行われていたことが報告されている」とある。
安芸市は高知県における銅矛出土の最東端でもあり、安芸郡とキ族とのつながりを指摘する研究者もいる。高知県の沿岸部には「~き」とする地名が多く分布しており、ほとんどが風よけの港と対応していることから、言素論的には「天然の港」のような意味と解する説もある。5世紀代前半には安芸川流域の平野部が利用されていたことから、倭の五王時代の前線基地であった可能性すら想像させる。さらなる発掘調査に期待したいところだ。
安芸市は高知県における銅矛出土の最東端でもあり、安芸郡とキ族とのつながりを指摘する研究者もいる。高知県の沿岸部には「~き」とする地名が多く分布しており、ほとんどが風よけの港と対応していることから、言素論的には「天然の港」のような意味と解する説もある。5世紀代前半には安芸川流域の平野部が利用されていたことから、倭の五王時代の前線基地であった可能性すら想像させる。さらなる発掘調査に期待したいところだ。
"『芸西村史』に見る坂本神社の式内社論争"以来、坂本神社の件はずっと解決されない宿題であった。高知県においては、安芸郡奈半利町の延喜式内社である坂本神社の祭神は、通説では建日臣の後裔坂本臣と、その同族たる布師臣が、その祖葛城襲津彦命を祭神として祀ったものとされている。
これは後付けの解釈で、筑後国一宮・高良大社の祭神・高良玉垂命の九躰皇子の一人である坂本命が本来の祭神なのではないかとの仮説を温めできた。実際に九州における坂本神社では坂本命を祭神とするところが多い。
けれども、全国的に見ると祭神はまちまちで、由緒不明の祭神が再解釈されて置き換わった可能性があるかもしれないが、仮説自体の妥当性に疑問が持たれる。
そんな折、『古代東山道の研究』(1961年)などで知られる一志茂樹氏の研究に触れ、新たな視点を与えられた。氏は「大和朝による古代越地方開発の新局面を探し得て(一)―東日本に創置された越後城存在の意義を匡す―」(『信濃』昭和51年10月号か?)の中で、次のように言及している。
高知県には残念ながら坂本郷は存在しないが、坂本神社なら数多くある。冒頭で触れた延喜式内社坂本神社(現在は多気・坂本神社として合祀)については、718年開設の阿波経由の官道で、まさに野根山街道の麓に鎮座している。
他方西の端、愛媛県と接する宿毛市にも坂本神社(宿毛市坂本八ケ森)が存在している。祭神は 阿遅須伎高彦根命、 大己貴神、聖神、豊玉毘古命、大山津見神、須佐之男命、不詳の七座とされ、誰を祀るかよりも、伊予国との国境に祀ることに意義があったようにも感じられる。
他にも県内には①南国市才谷や②吾川郡いの町勝賀瀬、③安芸郡芸西村和食などに坂本神社が鎮座している。
①については坂本龍馬の先祖が祀られている墓所として有名であり、検討対象から外すべきとも考えたが、土佐国府跡の北方に位置し、もしかしたら796年以後の北山越えの古代官道にルーツがあるかもしれないので、要検討としておく。
②の坂本神社は現地調査にも行ったが、どう判断するか決め手に欠ける。近くに庵木瓜紋の家紋を持つ伊藤家の若宮神社が祀られていたので、関連があるかとも思ったが、詳しい話までは聞くことができなかった。
③は金岡山の宇佐八幡宮の境内社である。元は別の場所にあったものが合祀され、式内社論争にもなった神社である。同じく境内社として高良神社があることから考察すると、芸西村の坂本神社は高良玉垂命の九躰皇子・坂本命を祀る九州タイプとするのが妥当であろうか。
県外に目を向けると、坂本神社はすぐに10社以上見つかった。中には延喜式内社もあり、一志博士の指摘通り、古代官道と関連付けられる歴史的な神社もいくつか見られる。
古代官道上にある「みさか」峠と御坂郷、坂本郷と坂本神社、さらには「オオサカ」峠など、多くのヒントを与えられて、古代官道研究がますます面白くなりそうである。
これは後付けの解釈で、筑後国一宮・高良大社の祭神・高良玉垂命の九躰皇子の一人である坂本命が本来の祭神なのではないかとの仮説を温めできた。実際に九州における坂本神社では坂本命を祭神とするところが多い。
けれども、全国的に見ると祭神はまちまちで、由緒不明の祭神が再解釈されて置き換わった可能性があるかもしれないが、仮説自体の妥当性に疑問が持たれる。
そんな折、『古代東山道の研究』(1961年)などで知られる一志茂樹氏の研究に触れ、新たな視点を与えられた。氏は「大和朝による古代越地方開発の新局面を探し得て(一)―東日本に創置された越後城存在の意義を匡す―」(『信濃』昭和51年10月号か?)の中で、次のように言及している。
おそらく、「みさか」の称呼をもつ峠は、全国で30箇処前後はあらうか。なほ、『和名抄』が武蔵国横見郡・備後国神石郡・筑前国穂波郡に御坂郷を載せてゐることは、注目すべきで、これら三郷は、いづれも古代の重要な路線途上の「みさか」の麓に位置してをりそれらが一郡をなしていることは、同抄が載せてゐる坂本郷の所在例(全国で一三郷)と合わせみ、さらに「みさか」の麓の坂本神社の所在例(『延喜式』その他)を勘案して考察したとき、その重要度の比重は容易に理解し得るであらう。古代の重要な路線途上、すなわち古代官道上に「みさか」峠や御坂郷があり、その麓には坂本郷や坂本神社が所在すると指摘しているのだ。『倭名類聚抄』に坂本郷が本当に13郷もあるのか半信半疑であったが、調べてみると確かに存在している。以下にリストを紹介しておく。
これらが古代官道と関連付けられるかどうかは個々に検証していく必要があるが、詳しく調べることによって何がしかの共通点が見出せるかもしれない。日理郡坂本郷(宮城県)碓氷郡坂本郷(群馬県)埴生郡坂本郷(千葉県)恵奈郡坂本郷(岐阜県)浜名郡坂本郷(静岡県)高安郡坂本郷(大阪府)和泉郡坂本郷(大阪府)古市郡坂本郷(大阪府)
気多郡坂本郷(鳥取県)山田郡坂本郷(香川県)
刈田郡坂本郷(香川県)
鵜足郡坂本郷(香川県)
益城郡坂本郷(熊本県)
高知県には残念ながら坂本郷は存在しないが、坂本神社なら数多くある。冒頭で触れた延喜式内社坂本神社(現在は多気・坂本神社として合祀)については、718年開設の阿波経由の官道で、まさに野根山街道の麓に鎮座している。
他方西の端、愛媛県と接する宿毛市にも坂本神社(宿毛市坂本八ケ森)が存在している。祭神は 阿遅須伎高彦根命、 大己貴神、聖神、豊玉毘古命、大山津見神、須佐之男命、不詳の七座とされ、誰を祀るかよりも、伊予国との国境に祀ることに意義があったようにも感じられる。
他にも県内には①南国市才谷や②吾川郡いの町勝賀瀬、③安芸郡芸西村和食などに坂本神社が鎮座している。
①については坂本龍馬の先祖が祀られている墓所として有名であり、検討対象から外すべきとも考えたが、土佐国府跡の北方に位置し、もしかしたら796年以後の北山越えの古代官道にルーツがあるかもしれないので、要検討としておく。
②の坂本神社は現地調査にも行ったが、どう判断するか決め手に欠ける。近くに庵木瓜紋の家紋を持つ伊藤家の若宮神社が祀られていたので、関連があるかとも思ったが、詳しい話までは聞くことができなかった。
③は金岡山の宇佐八幡宮の境内社である。元は別の場所にあったものが合祀され、式内社論争にもなった神社である。同じく境内社として高良神社があることから考察すると、芸西村の坂本神社は高良玉垂命の九躰皇子・坂本命を祀る九州タイプとするのが妥当であろうか。
県外に目を向けると、坂本神社はすぐに10社以上見つかった。中には延喜式内社もあり、一志博士の指摘通り、古代官道と関連付けられる歴史的な神社もいくつか見られる。
古代官道上にある「みさか」峠と御坂郷、坂本郷と坂本神社、さらには「オオサカ」峠など、多くのヒントを与えられて、古代官道研究がますます面白くなりそうである。
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(仁淀川歴史会、2024年7月)
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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